日付不明 先生と俺と何よりも大事な人
「なあ、理人」
悪魔が憑いたような声色だった。
「俺に吸血鬼の先生がいたって話、したっけ」
「……聞いて、ないね」
正確には、“吸血鬼の口から直接”は、聞いていない。以前義兄から渡された調査状に、彼が五歳から八歳になるまで別の吸血鬼の下で暮らしていたらしいことが書かれていた。吸血鬼はこの調査状を気に入っていない。せっかくのお喋りしたい気分に水を差すのはよくないと、狩人はシュレッダーにかけた調査状のことは忘れておくことにした。
「ああいや、服飾魔術の話で出たね。その先生のこと?」
「そう、その先生」
よかった、思い出せて。自分が着ていた鎧を嗅いでいた吸血鬼のことを、どうして忘れていたのだろう。確かその時に、彼があまり話したがらない昔の一切れを聞いたのだ。
「今、思い出した。その先生も赤毛だった」
「へえ」
吸血鬼が語った過去の一端、彼がかつて共に暮らした女も赤毛だった。
訥々と雨粒が窓に落ちるように、吸血鬼は話し始めた。
「先生。俺の先生。たぶん吸血鬼だった。酷い目に遭わされた」
「酷い目?」
「思いつく限りありとあらゆる酷いことだよ。吸血鬼にとって。俺は覚えが悪かったから、その身に染みるまで、いろいろやられた。俺は馬鹿なガキだった。先生は酷い人だった」
吸血鬼はぼんやり話していた。静かに、他の音を徹底して排して聞いていなければ、聞き取ることも難しかっただろう。狩人は相槌を出来るだけ控えて、吸血鬼をじっと見ていた。
「それでも先生の生徒よりはマシだった。先生には秩序があった。教えることは一貫していた。一日中ほとんど喋ってたけど、本当に重要なことは席につかせてから言ってくれた」
早口で思考を吐き出し、二度と戻ってくるなと願いを込めるように、吸血鬼は言った。
「俺の先生。冷徹な冬の男。無駄話まで意味があった。厳しさは馬鹿な俺が生きるにはそうするしかなかったからだ。先生から教訓を貰わなければ、俺は今まで生きていなかった」
狩人は話を受け止めていた。吸血鬼が忘れても、その宿敵は忘れない。
話が終わったかと思えるほど長い沈黙の後、吸血鬼は感慨深げに言った。
「いい人だった」
吸血鬼は起き上がったが、すぐに寝転がった。この話を始めてからというもの落ち着きがなかった。
「だからだ。赤毛はいい人だって、先入観があったんだろうな。それで……たぶん、俺、あの人を……」
「君の初恋の人は、悪い人だった?」
「……」
吸血鬼は狩人にくっついた。太腿に頬を寄せ、頭を預けて膝を引き寄せる。甘えた猫がするように、すりすりと顎の下を狩人の膝で掻く。
やわらかく、持つ熱が違うふたつの身体が触れ合う。狩人は吸血鬼に熱を奪われていく。吸血鬼には狩人の、許容を超えた熱が入り込んでいく。
「そうだな。きっと、そうだった」
吸血鬼はすぐに離れた。クーラーが効いていても、夏の暑さには敵わない。自分よりはるかに暑いものには出来るだけ触れていたくない。
「俺、冬のほうが好きだな。冬はうんと寒くて、夏は木陰に入ると涼しいくらいがいい」
日本の夏はめちゃくちゃに蒸し暑かった。吸血鬼がいる居間だけでも、冷房を良く利かせていた。
「熱いのは苦手?」
「この暑さは洒落にならないだろ」
「確かに」
搾り尽くした雑巾からさらに水を切るように、か細い声が吸血鬼の喉から漏れた。
「どうしてお前、俺のこと殺すんだよ……」