時を遡って三月某日
それからしばらく、吸血鬼は鼠や野鳥を摘まんで暮らしていた。
傷を負ってはいたが未だ彼は他を踏みにじり生きられる程の生命力は持ち合わせていた。逃げるのは屈辱ではあるが、あの宿敵に十全でない状態で立ち向かっても意味は無い。勝てなければ意味がない。だが生きていればなんとでもなる。吸血鬼はそうやってこれまでの十八年暮らして来た。
今は昔の続きでしかない。おおよそ一年ぶりではあったが。重いトレンチコートで身を隠して眠り、何やら大きな――それでも自分よりは小さな、毛皮に包まれたもので腹を満たした後。
彼の言葉を思い出した。宿敵が何を言っていたか。考える暇が出来た。
「ミカジロの家……」
覚えている。驚くべきことに、ここから、歩けば数日で着く。
襤褸靴を履いた足が獣へ変ずる。
いくつもの道路を渡り、土を踏み、たぶんこっちだろうと標識を読みながら進む。
そして目標の一軒家へとたどり着く。来た道は正しかったらしい。インターホンを鳴らす必要はない。吸血鬼の目的とする者は庭にいた。
「お前! 吸血鬼が、何しに来た!」
くるくると咽喉を回して言葉を思い出す。大きな犬が己へ向かって唸っている。
「何もしない。何もしないったら。ただ聞くだけだ。理人がお前の家に行くらしいな。詳しいことは知らないけど……だから聞きに来た。先回りがしたい。殺すつもりはない。あいつが俺に何もしないのなら」
吸血鬼は腹が膨れていたが、己へ向けて唸る犬は不快だった。慎重に言葉を重ね、意味を解する人間に呪いをかけた。
狼と同じ灰色の瞳は、あっけなく吸血鬼にその場所を教えた。道具、日取り、新しい入居者である狩人との打ち合わせ等、向こうに明かすことなく全て。
そして一日、吸血鬼はこの家の犬小屋に入ることを許された。この家の犬は室内で眠っていたから必要ないはずだったが、捨てるタイミングを失い続けたこれがようやく役に立った。
「匿ってくれたことは感謝する。だが家に上げてくれないこと、俺に協力してくれるのは疑問だが」
「一つ、家に上がるとき足を拭くのも拒み、週一でも風呂に入りたがらぬお前を家に上げるのは旦那様に申し訳が立たん。もう一つ、俺としては、うちの呪いにお前がかかって死ぬのは別に構わない。理人に協力してくれるのも、俺としては願ったりかなったりだ」
「理人は、あいつの無事とかはどうなんだよ」
「あいつは――あいつには、何かと必要だからな。家とか。まァ要らんもの押し付けたみたいで気は引けるが……」
「あいつ都会っ子だぞ。あんなクソ山ン中で暮らしていけんのかな」
「きっと大丈夫だろう。軽トラもやった。問題はお前の交通手段だな……」
「俺は歩いて行く。ここまでも歩いてきた。じゃあな」
「いや待て。色々とこちらで事前に持って行く約束をしている。ついでにお前も乗って行けばいい」
そういうわけで種々の物品が揃うまで数日待ち、荷物と共に吸血鬼はかの家に運ばれた。
トラックの助手席に揺られながら、吸血鬼は再三注意を受ける。ここ数日の間にも言われてきたことだったため、吸血鬼はちょっぴりうんざりしていた。
「お前の役割は一つ。理人が来るまで、この家を維持管理すること。お出かけはしていいけど、それ以外のちょっかいは出すな。それは理人の仕事だ」
「もし向こうが攻撃して来たら?」
「家の、家の中だけじゃない敷地の中も、閉鎖されている見るからにヤバそうな空間に入りさえしなければ、向こうから飛び出てくることはない。後で案内する。娯楽が無いからってちょっかいを出すなよ。一応電気も水道もガスも通ってるし、テレビとかゲームとかも持ってきたし、山は駆け回れるくらい広いんだから、夜中退屈することはないと思うが」
「飯はどうする」
「山にはウサギとか猪がいたはずだ。警戒心は強いがまあ、その辺は頑張り次第だ。肉以外のものが食いたくなったら……理人が来るまで待ってくれ。あいつに車とか回してもらって、なんとか仲良くやってくれ」
「自給自足かよ」
「仕方が無いだろうお前は金を持っていないんだ」
「そんな文明っぽいもの……あっポッケの底に百七十円あったわ。やったー儲けた」
「かまととぶるな。一等前にスマホ持ってるくせしてよく言う」
「ありゃ理人がいるって言ったから持ってるんだ。今も持ってるけどさ。電波は通してないし」
「今どきの基地局は優秀だからな。前来たときは通じたんだが。そっちのは違うのか?」
「いーや。通信繋げてないだけ。理人にバレると嫌だし」
「なんで連絡を取らないんだ」
「俺さぁ、サプライズ大好きなんだ。びっくりさせたくて」
「そりゃあびっくりはするだろうが……追い出されたりしないのか? 殺し合っておいて」
「あいつの人の好さ舐めんなよ。俺と一年暮らしたんだ。そうだな、あいつが殺し合いをしたいってーならお前んちで第二ラウンドだわ」
「家を壊すなよ。修理も馬鹿にならんのだぞ」
「そりゃ理人君次第ですなァ」
「ならいい。俺はあいつのお人好しを信用している」
「……ちぇっ」
事前に運び込む家具家電はかつて理人と生活していたアパートにあったものよりもかなり多い。それに加えて吸血鬼の分の荷物。これは錬金術師が理人を言いくるめて荷物を纏めておかせたらしい。後で褒めてやらにゃならんと、遠い地にいる彼を想う。
「いいお家ですね」
「一月ぶりに来たが、ここをいい家と言ったのはお前が初めてだ。一度は捨てた家だが、後を継ぐ人間が居なかったからな。拾っておいてよかったよ。今日は俺も手伝うが、三日に一度は掃除をしろ。広いから手を分けて毎日でもいい。理人には事前に別の人間がここに来ていることを教えておく。そうでないとこちらの管理の甘さを責められる」
「まあ家に誰もいない時点でね、盗人来放題の楽園だよ」
「こんな山奥に来て得られるものは呪いくらいだぞ」
「俺は欲しいな」
「やめてくれ」
そういう会話があり、晴れて吸血鬼は狩人を待つことになった。
「√わたしま~つ~わ いつまでもま~つ~わ ふふふふ~ふん」
「掃除しながら喚くのか?」
「そうだ。悪いか」
「いや悪くはないが……人に聞かれるとちょっとびっくりされるぞ……」
「下手なら下手って言えよ」