4/3(木) モーニングを食べに行こう
「俺様完全復活! って感じだ!」
「……それじゃあ、このモーニングの割引券使いに行こうか」
珍しく朝早くに起きていた吸血鬼を見て、今日は外で食事をとろう、ということになった。
狩人が吸血鬼と暮らしはじめて二週間が経っていた。吸血鬼はおおむね夜行性であるが寝るタイミングは気まぐれで、昼間に起きることもあれば、夜狩人がそろそろ寝ようかという時間になってから起きることもあり、今のところその気まぐれに周期性は見られなかった。
しかし今日は初めて起きるタイミングが合った。昨日は夜まで何かしていたようだったが、本当に雑に寝起きしているようだった。布団を押し入れにしまうときに機嫌よく狩人に顔を向けて、先の台詞を言った。普段は布団を仕舞う方に足を向けて寝るようにさせていたので、押し入れを開けて布団を仕舞うとき、いきなり頭に触れられて驚いた。
「手首痣になってんだけど」
「もう黄色いんだな」
「直りが早いからいいけどさ。あの強さで掴むのはちょっとした暴力だぜ」
「いきなり頭触られたらああもなるよ」
三月中に古着屋で買った日除けのストローハットを被り、お気に入りのコートの下はアパート下の服屋で買った普段着である。これが魔法使いに会いに行くときの、彼なりの正装らしい。
「たのもう!」
カランコロンとカウベルが鳴る。
「いらっしゃいませ、開いてるお席にどうぞ」
ゴン、と鈍い音を立てて、振り返りざまに赤毛の店員が上の棚に頭をぶつけた。キッチンが狭いのか、彼の背が高いのか。大丈夫か。
朝早いためかいつも通りか、店内には客が一人もいなかった。先に入った吸血鬼は一番奥の、出来るだけ窓が遠く日が当たらない場所を選んで座った。
額をさんざん擦った後、赤毛の店員は水とおしぼりを持って席に注文を取りにきた。
「モーニングセット二つお願いします、この券使えます?」
「ああっ、少々お待ちくださいね。店長! 例の人来ましたよ!」
勢いよく振り返り、後ろに下げた長いみつあみが翻って水のカップにぶつかりそうになった。さてはドジだな。
「店長! 寝てるんですか!?」
「寝てない! 今行く!」
アットホームな喫茶店だ。
店長が店の奥から出て来た。アパートの管理人と同じ顔をしている。椅子を動かして吸血鬼の進路を塞ぐようにして座る。バリアフリーに一切の配慮をしない道幅は椅子一つで十分塞げる。霧に変身すれば行けないこともないが、朝早くからそんな面倒くさいことはしたくない。
「朝早くから来ていただいてありがとうございます。先日はうちの使い魔が失礼しました」
「コーヒーチケットとやらがあったな、あれを寄越せ。それで手を打とう」
レジ横に色褪せたポップが置いてあった。六千円十三枚綴り、一杯お得なチケットだが、こんな寂れた様子の喫茶店で、買う人がいるものか。狩人は水を一口飲んだ。
「えーそんなに来ていただけるんですか、嬉しいなあ。赤彦くん、コーヒーチケット持ってきて」
「店長の給料から天引きしておきますね」
「はーい」
飛ぶ右手が赤毛の店員に渡されて、チケットらしいものを運んでくる。あからさまに魔法使いっぽいことをしてくる。普段からこうなのか。
「普段からこうじゃないんですよ。魔法使いだって知ってる人の前でしかやりません」
店長は地の文を読んで答えた。
手作り感に溢れている、薄い茶色の画用紙で出来た蛇腹折りのチケットだ。裏には番号が振られており、切り離し無効と書いてある。
「理人、受け取っておけ」
「君が欲しいって言ったんだから取っときなよ」
「俺ポッケないから」
嘘だった。コートにもズボンにもポケットは付いていた。理人はこの雑な嘘にむっとしながら、ズボンのポケットに仕舞った。
「ところで吸血鬼さん、お名前は?」
「あれに書いただろ。ダスク。ダスクのクドラクだ」
「個体名のほうを聞きたくって。あれ家名でしょ? 確かにそちらの名前で十分な拘束力はあったんですけど、なんで書かなかったんだろうなって思って」
「十分ならいいだろォ? 追求しないで」
狩人が口を付けていたコップの水面がにわかに揺れた。
「どうした、理人」
「そうだったんですか?」
「何が?」
「ダスクが君の名前じゃないって話」
「名前だけど……」
「個人名のほうでしょ。そこの彼、暁理人なら理人のほう。彼が言ってるのは苗字、暁のほう。君は暁のほうしか持ってない。そういう話」
実は暁の方は自分の家名でもなんでもないが、狩人はそれを指摘するとさらに話がややこしくなるだろうと思って黙っておいた。
「ひょっとして無かったりする? 君の固有名」
「さっきから表記ブレ酷いですよ」
「赤彦くんは手を動かすの!」
つう、とコップの縁を指でなぞって音を出す。水を飲んで音を調整し、やっと好みの音色が出たらしい。吸血鬼は口を開く。
「……そうかも」
「それで今まで不便じゃなかったってことでしょ。どんな人生送ってきたのかなって思って。彼と会うまでどうやって暮らしてきたの?」
「ああ。よく考えれば不便だな。理人、名前つけろ」
謎に包まれた吸血鬼の過去。早速聞けるのか、聞いたのが自分でないことに狩人は少々の嫉妬を覚えたが、うまくかわしてくれたようでよかった。それにしても名前、名前ね。心の中で独り言つ。
「は、僕?」
「そりゃ俺を狩るのはお前しかいないし。お前しか呼ぶやついないし」
「えー、ちょっと待ってー、そもそも二人はどういう関係なの?」
店長の問いかけに応えず、狩人は絞り出すように言った。
「……保留で……」
「ダッサ」
「だって、名前は大事だろ……そう簡単に決められないよ」
吸血鬼は満足そうににっこり笑った。
「こんなところで付けられないか。じゃあ二人きりの時に聞いてやるよ」
「モーニングセットお二つです。店長、どいてください」
赤毛の店員がセット二つ分持って来た。店長は身体を斜めに避けて、セットが乗ったお盆を二つ受け取って、客二人の前に置いた。
コーヒーと、メインの皿には半分に切った食パンが三枚と、レタスが数枚の上にハムエッグ。仕切りのある小皿にはクリームと酸っぱいジャムが入っている。持ち手の無いカップは……茶碗蒸しか? 吸血鬼はにおいを嗅いだ。玉子と牛乳の甘い匂いがする。
「それじゃあ、吸血鬼くんの真名は保留で。二人はどうやって出会ったの? 血腥かったし、そこの通りに足跡付いてたし……今直してるけど。あの春分の日の夜に何が起きたの?」
「これ何?」
「プリンだね。うちで作ってるミルクプリン。持ち帰りもあるよ。話をしてもらえると嬉しいんだけど……」
「僕と彼が戦って、僕が彼を連れて帰りました」
「へえ。その辺一帯にあった動物の足跡との関係は?」
「僕たちが変身しました」
「へえ! じゃあ君は本当にクルースニクなんだ」
店長は狩人を手のひらで指す。
「ダスクの君はクドラクって言ってたし、二人は宿敵なんだね。えっ、なんでそれで一緒に暮らしてるの?」
「なんでだろな。このハムエッグ上手いな。ふわふわなのに形を保ってる。このクリーム何? 牛乳? めちゃ美味いんだけど」
「ありがと。クロテッドクリームだよ、うちで作ってるの」
「僕が一緒に暮らしたいって言ったんです。彼のことをよく知りたいと思って。それでその日の夜に彼が逃げないうちに一緒に暮らそうって言ったら、快く応えてくれました」
「快くはない。あんたこの前の朝何見たんだ。サングラスか? サングラスが悪いんだな。かっこつけやがってよォ」
「面白いね。でも宿敵ってあんまり知り合わないもんじゃないの? 殺した後で気付くっていうか」
「実感ですか? 店長さんにも宿敵がいたんですか?」
「いんや。普通の人間ってあんまり君らみたいな宿敵とかいないんだよ」
「ねえ店員さん、このジャムって何使ってるの?」
「苺と赤ワインだって。魔女のパン屋からだね。でもあのお店不定期休業多いから気を付けて」
「へー。おい理人、使わないならくれ」
「まだ食べてないから駄目。そんなに美味しいの?」
「美味しいから言ってんだろぉ」
「話を……」
彼らは店長と話に来たのではなく、モーニングを食べに来たのだった。
「んまぁ、今んとこ平和に暮らしてるから、殺し合いとかはしないかな」
「僕としては望むところなんだけど、原因になるものが無いからな……」
「そりゃこちらアパートの管理人としては望むところだけど。大丈夫なの?」
「大丈夫じゃないですね」
「俺は大丈夫。戦うのとか得意じゃないし」
吸血鬼は先に皿の上のものを食べ終え、プリンに手を伸ばした。
「美味しい! 理人の貰っていい?」
「駄目」
「持ち帰りは一個五百円だよ」
「へえ! 値段聞いたらますます美味いな」
カランコロンとカウベルが鳴り、客が来たことを告げる。
「こんちはー」
「こんにちは、モーニング一つで」
入ってきたのは常連らしい二人だ。楽器ケースを背負った猫背の男と、学生服を着た金毛の少年。連れ合いではないらしい。二人は一つ間に席を空けてカウンターに座った。金毛のほうはいやにニコニコしている。
「あれ珍しいな、店長出てるんだ」
楽器ケースを背負った男がこちらを振り返って言う。
「ご安心を、もう引っ込むよ。ごゆっくり」
別に追い出したかったわけじゃないんだけど、と去り行く店長の背を眺めながら付け加える。
椅子を元に戻して、店長は他の客も来たしこれ以上の話は出来そうにない、と吸血鬼と狩人に手を振る。どうやら常連の彼ら、少なくともどちらか一人は店長が魔法使いであることを知らないようだ。
「あの人普段何やってんだろ」
「ああ見えて裏でいろいろ働いてるんだよ」
「フーン」
コーヒーの味はわからなかった。吸血鬼はミルクを表面張力が働くだけ入れて、ズズーと行儀悪く啜る。狩人はお盆の上のものを作業的に平らげた。
「割引入れて、千二百円です」
「プリンも買って」
「プリン一つお願いします」
「いや、二つだ」
「はい。二千二百円になります」
赤毛の店員はプリンが二つ入った紙袋を手渡して、また来てくださいね、と笑顔でいう。
「もしかして、あんた目当ての客がいる?」
「何てこと聞いてるんだ」
「けっこういるよ。そこの彼とか」
「……はい」
猫背の男が俯いて手を挙げる。長い耳の縁が赤い。うわガチのファンじゃん。金毛の少年が振り返って見ている。
赤毛の店員もおそらく魔法使いだろうが、特に客に魔術をかけている様子はない。しかし近寄ってみてわかったが、化生のにおいがぷんぷんしている。
「丁度いただきました、レシートいりますか」
「いります」
他にも聞きたいことができたが、余計なこと聞いてないで行くぞ、と狩人が引っ張ったので、吸血鬼はまた今度来ることにした。
「お前だってあれ、気になっただろ?」
「また行けばいいだろ。悪い気配はないし、あそこで話し込んでても邪魔だろ」
狩人も同じことを考えていたらしい。吸血鬼は口をとがらせて話を変えた。
「でもさ、なんでプリン一個でいいって言ったんだよ」
「君が食べる分だけだと思った」
「お前も食べるんだよ」
狩人は自分は別に食べなくてもいいと思っていた。自分にはあのプリンの美味しさはわからないし、プリンだって美味しさのわかる人とか、美味しそうに食べる人に食べてほしいだろう。ダスク、いやダスクじゃないのか。名前も考えなきゃ。彼はあのミルクプリンをいたく気に入っていたみたいだし。
「食べたくなったら君が食べていいよ」
名前を考えなきゃ。