1/1(木・祝) 初夢
朝も早くから郵便局のバイクが町中を飛び回っている。赤いところと何かに乗っているところはサンタクロースに似ていると思った。しかしながら乗り物のほうが赤いし、乗っている人は過剰に太ってもいない。何よりの違いは大量に存在していることだ。サンタクロースはそれほど多くはない、と吸血鬼は信じていた。
アパート下にもやってきて、三〇六号室のポストにも輪ゴムで留めたひとまとまりを入れていく。だいたい十枚かそこらか。出した数と同じかそれより少ないくらいだ。
階下へ降り、ポストから年賀状と何らかのチラシを出す。
「やあ、あけましておめでとう」
「……あけおめ」
吸血鬼にサングラスをかけた管理人が話しかける。
「朝早いね」
「郵便屋さんに言ってやれよ、正月も早くからご苦労さんって。あとあんたも、ご苦労さん」
「彼らは仕事だから。人形に休みは無いよ」
「俺は吸血鬼だ。これから寝る」
もう日は昇っていた。吸血鬼が寝るには少し遅い時間だ。
「おやすみ。そうか、吸血鬼には今日が初夢になるんだな」
「初夢……」
正月を迎えてから初めての夜に見る夢で一年を占うものらしい。夢占いは昔少し齧ったことがあったが、めぼしいものは全部忘れた。
「一富士二鷹三茄子、だったっけ?」
「そう。縁起がいいと言われてる夢だね。宝船の絵を枕に敷いて寝るといい夢が見られるって」
「宝船……」
年賀状の裏面、絵が描いてあるほうをいくつかぱらぱら見る。そのうちの一枚、なんてことはないテンプレートデザインの一つらしい、七人の縁起の良さそうな人が乗った船の帆に、でかでかと『宝』と書かれている。
「これか?」
「そうそう」
人の隙間、後ろのほうには米俵や珊瑚、金銀財宝が乗っかっている。なるほどなー通りで宝船だ。宝とも書かれているし。乗っているのは誰だろう。
「乗ってるのは七福神って言って、あー……世界の神様で特に縁起がいい神様を詰めた、日本のアベンジャーズ的なひと達だよ」
「ふーん」
聞かずともお喋りは応えてくれる。指差しながら誰が誰だと言ってくれる。もう名前は頭の中でぐちゃぐちゃになってしまった。誰が誰だか覚えていない。
「でもこれを敷くのは良くないんじゃないかなぁ。見せてからにしたら?」
「見せてたらいつ寝られるかわかんないだろ」
「それもそうだ」
吸血鬼は三〇六号室に戻り、押し入れを閉める。すのこと壁の隙間に年賀状を立てて眠りにつく。果たしていい夢は見られるのだろうか。
この同居を九か月ほど続けた狩人は、いちいち物音で起きることはなくなっていた。薄っすら浮上した意識の中、吸血鬼が外に出て帰ってきて何やらごそごそして押し入れに入ったことくらいはわかっていた。そして起きた時にそれが事実か夢かを確認する。毎朝のルーティーンだった。
朝も早めの時間に狩人は起きた。押し入れが閉じているのを見てから、まず普段と違う様子はちゃぶ台の上の年賀状だった。使わないチラシに一枚借りていると吸血鬼の筆跡で書いてある。どういう訳だか知らないが吸血鬼は眠る間に年賀状を必要とするらしい。まあいい。彼の眠っている間は邪魔をしないのがこの同居の決まり事だ。だから、気にしない。
誰から届いたのかを確認する。自分が年賀状を出した相手に漏れが無いことにほっとする。裏面は後でじっくり見させてもらうことにしよう。顔を洗って着替えて洗濯ものを洗濯機に任せて着替えて、それから朝食にする。今日は最寄りの神社に初詣に行こう。吸血鬼が起きてきたら、彼も一緒に。
鍋が置いてある。中には何も入っていない。空っぽだ。吸血鬼は時折、このようにコンロの上に食事を作り置きすることがあった。今回は何も入っていないが。何か作ろうと思って、鍋を下の棚から引っ張り出したところで飽きてしまったのかもしれない。多分何も食べていない。もしかしたら彼は今日は起きないかもしれない。それは、ちょっと、寂しい。
自分はこの九ヶ月でだいぶ寂しがりな人間になってしまった。幾度となく一人の寂しさを感じて来た。人と暮らしているとそうなってしまうのか。おせち料理は一緒に食べたいから置いておく。雑煮用に買ってきた切り餅に電子レンジで火を通し、ぜんざい用に買ってきた餡子一キロを――狩人はどうして吸血鬼がこんなものを買ってきてしまったのか皆目見当が付かなかったが、こうして食べたりパンに付けたりできるのだから買ってよかったのだと思うことにした――タッパーに移したものから必要な分だけ取って食べる。朝食は餅二つで足りる。これにたくあんを付ければ味のバランスはいい。栄養は知らない。今は腹を満たすことだけを考える。
餡子や餅で汚さないように、届いた年賀状を眺める。果たして吸血鬼が取っていった一枚は何なのか。彼にとって何か特別な――いや。
彼には年賀状を貰う相手はいない。いないと言っていたが実はいたのかもしれない。自分の持ち物は身に付けるものだけと、あの箪笥の二段に収まる彼が。それも服だけだ。ここで買った。ここに彼を留め置くものは何もない。シャンジュという名前を付けて押し入れの中で飼っているだけで。
「ごちそうさまでした」
狩人は手をぺチンと合わせ、押し入れのほうに目配せする。一切の動きが無い。
年賀状を取りに行ったということは、さっき眠ったばかりなのだろう。起きるのは当分先だ。それなら――もし一日中起きなかったら、お節はどうしようか。一人で食べきりサイズのパックを開ける気分には、とても、なれない。
正月、ハレの日に相応しくはない不安が、狩人に纏わりついていた。
「シャンジュ?」
声を掛けても返事が無い。眠っているのだから当然だ。心臓の鼓動や、呼吸すら止めている。聞こえるはずはない。死体のように眠っているのだから。不思議な――神通力みたいな、吸血鬼の不思議な力で死んでいる間にも他人の声が聞こえているなら、多分今は笑っている。笑われている。
皿を洗い、歯を磨いた後、もしかしたら自分がいない間に起きるかもしれないので、書き置きを残しておく。それからコートのポケットに五円玉と鍵だけを入れて家を出る。
最寄りの神社には管理人は常駐していないらしい。閑静な住宅地の角、一見祠のようなものの前に賽銭箱があり、鳥居があることから辛うじて神社であることがわかる。周りは鎮守の森とは決して言えないただの草が生い茂っており、隣は老朽化で使用が禁止されたブランコが解体されないまま残った公園と、町内会の集会場がある。そんな有様ではあるが神は確かに存在している。
「理人か」
「こんにちは」
「こないだは悪かったね。あの小さいお友達にもよろしくね」
賽銭箱の後ろに座り喋りかけてくる、冴えない晴れ着の男がこの神社にいる神である。インチキおじさんに見えるが気まぐれに何の先ぶれも無く姿を現すところを見るとただのインチキおじさんではない。悪戯にしては手が凝り過ぎている。
いつもは投げないお賽銭を今日は箱に投げ入れる。こういう時のお賽銭は五円玉だと相場が決まっているから、狩人もその風習に従う。
「最近は銀行で手数料を取られるとかいうから、五百円とかだとありがたいんだけど」
「すみません、今日はこれしか持ち合わせが無くって」
呑気に賽銭箱の後ろを漁る晴れ着の男の姿は、事情を知らないならば大胆な賽銭泥棒に見えるだろう。
「何か欲しいものがあるんですか」
「ラーメン」
今日はすぐ隣の町内会の集会場に気心の知れた人がいるらしい。集会場の戸をガラッと開けてにらみを利かせる人に、神はチッと舌打ちして賽銭を元に戻す。管理を怠たられた祟る神がよくもこうまで丸くなったものだ。果たしてここは本当に神社なのか。帰ろうとする狩人を引き留めるように、あー、と声を出す。
「うん、そうだ。最近同居の子とは上手く行ってるのかな」
「はい。夜行性なんで今は寝てます」
「一度会ってみたいもんだねェ」
「起きたら連れて来ますよ」
「早いうちに頼むよ」
神はおおきな欠伸をして姿をかき消す。あまり長い時間実体は保っていられない。祟るときは厄介であるのに、こうなると何の頼りにならない。
狩人は集会場にいた人に一言挨拶してから、町内を一周散歩して自宅に戻る。町には未だに朝の冷たさが残る。いやこれは冬の冷たさか。すっかり冷えた頬をポケットに突っ込んだ手で温める。
家に帰ったら暖房を付けた。寒さは耐えられるかもしれないが、出来るだけ耐えたくはない。便利なものがあるのに使わないのはもったいない。一人で寒さに耐えるのはつらい。吸血鬼がいたところで寒くなる一方であるというのは、このさい無視する。
吸血鬼が起きて来たのは三時ごろになった。思ったよりも早い起床で、狩人も長く寂しい思いをせずに済んだ。目ヤニを付けた吸血鬼は葉書片手に押し入れから降りて来る。
「おはよう」
「返す」
メモの宣言通りに、吸血鬼は年賀状を一枚返した。特別に変わったところがあるかどうか。狩人にはわからなかった。それ故素直に理由を聞いた。彼の美点だった。
「なんでこれを……?」
「宝船の絵を敷いて寝ると良い夢見られるって聞いたから。管理人にだ。でもありゃガセだな、何の夢も見なかったよ」
「なあんだ」
「お前一体何だと……俺に年賀状送ってくる奴はいないよ。悪かった」
どういうわけかほっとした様子の狩人に、くあぁ、とあくびをして臭い息を吐く。悪臭に眉を顰めた狩人に、吸血鬼は機嫌良さげににっこりと微笑んで見せる。
「何? 歯磨いてきたら?」
「やだねッ」
何か飯を食いたいらしい、台所に向かって冷蔵庫を訪ねる。
「理人、もう昼飯食った?」
「食べたよ」
電子レンジでご飯をチンして食べた。一人ならこれにおかずがあれば十分だと主張している。食欲旺盛なはずのティーンエイジャーにあるまじき発言だ。
「お前なー、せっかくおせち買ってきたんだから」
「一緒に食べたかったから……」
「フーン。かわいこぶりやがって」
「ぶってないから。君が僕を可愛いと思ってるだけだ。勘違いしないで」
「なんだとぉ?」
吸血鬼は切り餅を一つだけ出す。爪を立て、一息に真っ二つに割る。
「理人、食べる? ぜんざい。おしるこ? どっちだっけ」
「食べる」
「餅いくつ?」
「一つ」
じゃあこれ以上切り餅を出す必要はない。もう一度しゃがむのすら面倒臭くなった吸血鬼は、電子レンジに餅に火を通してもらう。狩人が朝食に食べた粒あんはここでようやく本来の役目を果たすことになった。餡子を水で伸ばし、へらでかき混ぜながら煮立つのを待つ。餅が温まったら器に入れて、でろでろになった粒あんをかけて完成。
「できたぞ」
「ありがとう」
狩人は器を受け取る。箸でつまんで伸びた餅を怪訝な顔で見る。
「餅、小さくない?」
「こんなもんだろ」
狩人の所望する品は半分にした餅一つではなかったらしい。知ったこっちゃねえや確実に欲しけりゃちゃんと餅を持って来るべきだ。吸血鬼は掌でお椀を冷やしながら、ずぞぞと音を立ててぜんざいをすする。まだ熱い。
「それ食べたらさ、神社にお参り行こう。初詣」
「お前クリスチャンじゃなかったっけ? いいの?」
「いいの。僕だって元は日本生まれなわけだし。ここの神様は、何だって受け入れてくれるよ。……たぶん」
年一の礼拝で加護ってくれるんならお安い神様だ。吸血鬼は狩人の誘い通り最寄りの近所にお参りに行くことにした。
「お節、一緒に夜に食べよう」
「あー……重箱とかは用意してないな」
「知ってるよ」
重箱は買っていないからうちにはない。当然だ。今から買いには行けない。年末年始にはありとあらゆる店が閉まっているからだ。吸血鬼がこの家に来てから、調理器具はかなり増えたが、食器はあまり増えていない。
はふはふと熱を飛ばしながら、時間をかけて食べる。暖房の利いた部屋では、寒空の下ほど熱気は勝手に飛んで行かない。
「なあ理人。世間ではお年玉という風習があるそうだぞ」
「そうらしいね。僕も日本に来て初めて貰ったよ」
「あの錬金術師から?」
「そう。でも成人したから、今年からは無しだって」
あてが外れた。狩人からも錬金術師からもお年玉は貰えないらしい。次会った時にでも強請ってみるか。ごねればごねるだけ得ってもんだ。けーっ。吸血鬼は貰う側にしては異様に態度が大きかった。
「この国じゃあ、酒も飲めねえのに成人か?」
「そうだね。二十歳からだ」
「全く嫌になるね」
吸血鬼は酒を飲んだことがあるらしい。狩人は無い。何か非人道的かつ非倫理的な手段で呑まされたことがあるらしいが、狩人はその話を聞いていない。こちらが聞いても吸血鬼が話したがらないので仕方がない。
「ああ、でも甘酒は飲めるよ」
「甘酒?」
「今度買おうか。それか出掛けるついでに」
「別に酒が好きってわけじゃねえんだけどな」
吸血鬼はすかさず手元の機械で調べる。手が温まったにもかかわらずお汁粉が温か過ぎたので暇を持て余していた。
「買うなら米麹のほうかな」
「種類があるの?」
「酒粕と米麹。酒粕のほうはちょっとアルコール入ってる」
「へ~」
長く日本に暮らしていても知らないことがあるらしい。何が何でも料理をしたくないだけのことはある。食べ物に関するこだわりが無い。
「甘酒、飲んだことあるの?」
「付き合いではあるけど、自分から買うことはないかな」
冬の自販機のラインナップはコーンポタージュとおしるこやココア、定番のコーヒーに圧され三番手以下か。吸血鬼は脳内に自販機を置いて簡単なシミュレーションをする。
「食べ終わった? 洗ってくる」
「ちょっと待ってェ」
吸血鬼は餅を無くしたぜんざいを一気に飲み干した。温かさが死体のような腹に染み渡った。そしてぎゅるぎゅる腹が鳴る。他の何より生の実感がある。
「ほら、そんなところに寝転がってないで」
食器を洗い終えた狩人が戻ってきて、怠惰にもごろごろ寝転がる吸血鬼の足を軽く蹴る。
「出掛ける準備しよう」
「日が沈んでからでいいだろ。あと二時間待て」
「日が沈んだら人は帰るんだよ。新年の挨拶できないだろ」
「俺はご挨拶なんてしたくない。人じゃないしな」
吸血鬼はとことん怠惰になっていた。本来ならば日が出ている間は眠っているべき時間帯だ。起きるのが少し早すぎたか、と毒づく。
「人じゃなくったって、僕と生活してるんだから行くんだよ。君が犬だったとしても僕は連れて行くからな」
「俺はペットかよ」
「物の例えだ。ペットは料理をしない」
「お前もしない」
「……ちょっとはする」
「米を炊いたりとかな。立派な料理だ」
「どれ着る? リクエストが無いなら上から出すけど」
このままでは起きてから着たままの寝間着を引っぺがされると気付いて、吸血鬼は狩人をからかうのを止めた。あまりからかい過ぎると強硬手段に出る男だ。どこまでが冗談でどこまでが本気か、もしかしたらすべてが本気なのかもしれない。
狩人は本日二度目の初詣に行く。吸血鬼はしょぼくれながらついていく。
「なあ理人よ。お前はそんなに俺が嫌いかね」
「嫌いなわけないだろ、あんなに美味しいご飯作るのに」
「そうやってお前は美味しいご飯につられて睡眠薬入りの飯を食うし、俺のもとから去っていくんだ」
「いやそんなことは……」
「少なくとも睡眠薬のほうには前科がある」
「前科って……」
咎を負ったのは睡眠薬を盛った方ではあるが、吸血鬼はあえてこのような言い方をした。強い言い方をすれば狩人の木を引けると思ったからだ。そしてその目論見は外れた。
神社にたどり着く。鳥居があり、奥に賽銭箱があるので、吸血鬼にもここが神社であることがわかる。
「五円ぽっち現代日本で何しろってんだ」
「君にじゃない。お賽銭だ。あそこに投げる。そしたら二礼二拍手一礼」
吸血鬼は五円玉を賽銭箱に向けて投げる。狙いは大きく外れて、一段高い場所に置かれた小さな本殿の脇、雑草の生えた茂みに落ちる。
「冗談だろう」
「わざとじゃないんだよ」
信じられないものを見る目で狩人は吸血鬼を見る。拾いに行こうとした吸血鬼を止める。
「ちゃんと投げたんだよ、俺は。あいつが動いたんだよ」
「賽銭箱は動かない」
「地球の自転とか公転とか、そういうやつで……」
「よしんばそうだったとしても君も一緒に動いてるだろ。負けを認めろ」
神の姿は見えなかった。今日は気力を使い果たしてしまったらしい。町内会の人も先に帰っていたらしいため、誰にも挨拶は出来なかった。
帰りに商店街の通りにある自動販売機に向かう。世間一般の自動販売機というものは年中無休で働いているらしい。ちょっとかわいそうだ。吸血鬼は健気な無機物に同情した。
「これ麹のかな」
「さぁ……」
あたたかい甘酒が一種類ある。寒空の下これ以上自動販売機を探し回る気力は無い。調べたところ酒粕らしい。
「コンビニ寄ってく?」
「マジで? 嫌だぁ」
「すぐそこだよ」
「ああいや、そうじゃなくって。コンビニってマジに年中無休なんだなって、同情しただけ。行こう。多分そっちにあるならコンビニの方が安いし」
年末年始に物を求めようとする方が悪いのだ。
「思い出した。イオンも開いてる」
「じゃあそっち行く?」
「そうしよう」
いくら非人道的だと思っていても、便利なものを使うのは止められないものだ。吸血鬼はケラケラ笑って狩人に肩をぶつけながら歩いた。狩人はびくともしなかったが、眉根にしわを寄せてやめてほしそうにしていた。