10/3(金) このコーヒーチケットはたぶん二冊目
ある昼のことだった。吸血鬼がそろそろこの引き出しの整理をしなけりゃならんと、記憶と家計簿と数多のレシートの奥底に埋もれていたコーヒーチケットを拾い上げた。
[今から喫茶ソロモン行く][暇?]
この書類はいるこのレシートは写して捨てるこれはお伺いを立ててから、といったこまごました作業をしていると、気を散らしにホムンクルスの薪麿からメッセージが来た。どうやら薪麿は学校をサボるつもりらしい。
[行く][いいね]
このままではきっと作業もはかどらない。腹も減ってきた、気がする。吸血鬼は外行きの服に着替え、埋もれていたコーヒーチケットをコートの右ポケットに、もう片方のポケットに財布と家の鍵を入れ、喫茶ソロモンに向かった。
薪麿は既に席についていた。一番奥の席で、空いた器を脇に置き、何やら書き物をしていた。
「お久~。元気してた?」
「……おかげさまで」
最近覚えたジョークを使いたい年頃らしい。吸血鬼と薪麿はここ半年くらい直接顔を合わせてはいないはずだ。
吸血鬼はコーヒーとフルーツサンドイッチ、薪麿はノートを閉じてクリームソーダを頼む。
「二杯目か」
「そうだ」
「別の頼めばいいのに」
「好きにさせてくれ」
風変わりなスカートを穿いた今のところワンオペで店を回しているらしい店員の赤彦を目で追いながら、吸血鬼は薪麿と世間話を続けようと試みる。
「クリームソーダ好きなの?」
「ここに来たときしか食べられないから。お前はコーヒーが好きなのか?」
「いんや、別に。前使い切っちゃってからまたコーヒーチケット買っちゃったし。消費したいのが一番だな」
「ならフルーツサンドは?」
「あー……どうだろ。あんまり食うもんじゃないし。レア度目当て?」
「そうか」
いまいち話が続かない。吸血鬼は店員の赤彦の風変わりなスカートを思い返していた。色や素材も様々の布を接ぎ合わせた、千色皮のようなスカートだった。
「永遠の命の進捗はどう?」
「いいや。さっぱりだ。やはりお前に頼んだ方がいいのかもしれない」
「おう、マジで行き詰まったら俺んとこ来いよ。二度と太陽の光を拝めなくしてやる」
「……ああ、いや。もう少し努力しよう。次に日の光を浴びるのが百年後、というのは、少し困る」
「園芸趣味だったっけ?」
「ま、あ。少しは」
「錬金術師のたしなみ程度?」
「……まあ。キュウリとか、枝豆とか、ナスとか」
「夏野菜ばっかじゃねえか」
「だからもう収穫は終わった。しかもうちで食べる分にも足りない。俺に太陽が必要かどうかは……」
「ひまわりは育てたか?」
「いや、育ててないが……太陽の花だろう、ゴッホの絵でも有名だな。それがどうかしたか」
「いんや、別に。聞いただけだ」
「向日葵が好きなのか?」
「いやぁ。太陽の花だろ? 縁遠いなってさ」
「太陽の花、ということなら。ヘリオトロープもある。小さい花の集合で、甘い香りがする。向日葵と比べて大きくも無く、育てやすいだろう。小さい向日葵もあるが」
「ふーん。そっちは育ててんの?」
「いや。知識として持っているだけだ。香りは香水にもなっている。花の色は白か紫だ」
こんな感じ、と薪麿はスマホの画面を見せる。
「うーん。うわ。花は可愛いんだけどね。うちじゃ育てないかな」
「色が気にくわないか。ベランダが狭いのか」
「うん。俺甲斐性なしだし。色なら赤が好き」
「そうか。そうだろうとも……ああ、理人から聞いた」
「あいつそんなことまで喋ってんの?」
「ああ。お前の話となると、饒舌なことこの上ない」
「いやあうちの者がご迷惑をおかけしております」
「いいや。普段見ない顔をするから、見ていて面白い」
「普段って、あいつ普段どうなのよ?」
「優秀なタンク要員だ」
「タンク?」
足音が聞こえる。店員がお盆に、色々を乗せてやってくる。
「お待たせしましたー、フルーツサンドとコーヒー、クリームソーダです」
店員の赤彦が品物を運んできた。
コーヒーとクリームソーダはいつも通り。クリームソーダにはシロップ漬けの真っ赤なサクランボが乗っている。フルーツサンドは以前見たチキンのサンドイッチと同じような風体で、お洒落な台形の二切れに切られている。二枚の薄切り食パンの間、半身に切られた皮付き葡萄と蜜柑の合間に、ホイップクリームがたっぷり詰まっていた。フォトジェニックに寄らず、ひたすら食べやすさないし伝統に則ったらしい。
これを腹に入れる前に、吸血鬼は赤彦に一つ気になっていたことを聞く。
「そのスカート可愛いね、どこで買ったの?」
「えへーっ、そうお?」
店員の赤彦はまず照れた。吸血鬼はここ半年喫茶ソロモンにそれなりに通ってきたが、こんなに嬉しそうな声は初めて聴いたように思う。
「自分で作ったの。一点物だよ」
あのアパートは防音がしっかりしているので、夜じゅうミシンを動かしていても外に音が漏れないと聞いたが、実際にやってみたらしい。確かにあのアパートに暮らしていてミシンを動かすガタガタという音は聞いたことがない。
「へえ!」
「私のサイズでロングスカートはなかなか無いから、自分で作ってるんだ。あっ、今度フリーマーケットで喫茶ソロモンもコーヒーとか出すから、よかったら見に来てね」
コーヒーの抽出を待つ間、カウンターからふたたびこちらに来た赤彦が持ってきたのはA4サイズのわら半紙である。大通り沿いにあるなんちゃら宗の寺付きの保育園でフリーマーケットを行うという告知である。こういうものは余所者に配ってもいいのかな。ひとしきり読んだ後、吸血鬼は畳んでコートのポケットに仕舞う。
「スカートも売るのか。フリーマーケットで」
「そうだよ。作るのも着るのもは好きなんだけど、箪笥から溢れちゃうから。他のところでも古着売ってるし、許可も貰ってるからね。早い者勝ちだよぉ」
「今穿いてるやつは?」
「これは余り布で作ったやつだから。出さないよ」
「残念だ」
「まあ来るだけ来なよ、面白いものあるかもしれないしさ」
話は弾みそうだったが、喫茶ソロモンに来客があった。オープン中の喫茶店であるから当然ではあるが。
「ご歓談中失礼します、シャンジュ様。映画のタダ券を貰ったのですが、お受け取りいただけませんか」
来客はこの店のアルバイトの克海だった。カウベルを鳴らしてカバンやら紙袋やら大荷物をバサバサ言わせながら入ってきた。それから急いだ様子で吸血鬼の責の前にやってきて、半分くらい飲んだコーヒーのソーサーの下に、ミシン目で繋がった二枚の券を差し込んだ。
「お前が自分で使えばいいじゃないか」
「ペアチケットなんですけど、私の友達、怪獣か巨大ロボットが出てくる映画しか見ないんで……私も今見に行きたいものないし……」
「片寄ってんなー……」
吸血鬼は押し付けられたこのペアチケットを友好的に活用してやることにした。
話を終えたら早々に、克海はまたカバンやら紙袋やらをバサバサ言わせながら店を出て行った。このためだけに寄ったらしい。忙しい奴だ。
チケットの裏を見れば三駅向こうのミニシアターで一本無料で映画が見られるという。思えばここに住み始めてから映画というものをあまり見る機会がなかった。得ようとしていなかったともいう。図書館でDVDを借りて管理人にテレビを借りた『リトルマーメイド』あの一回きりだ。
「どうする、今から行くか? 徒歩で行ける範囲だけど」
「いいや。君に渡されたものだ。理人と行くといい」
「あいつと映画ァ? なんで」
「君は彼と知り合いのようだが、私は初対面だ。これから私がどのように動くか、彼女の予測には入っていないだろう。それを踏まえて、君にはこのチケットを確実に使うあてがあることを知っている。理人と同居、それも映画を一緒に見に行くぐらい親しくしていることも知っている」
「別に俺に渡されたんだからさ、お前と使ったっていいだろ。名探偵面するな」
「申し訳ないが、私は映画館には行かない方だ。名探偵でもない。単に暗いと眠ってしまうから。十二分に楽しめない」
「ちぇっ、そうかよ」
「すまないが……」
そうなるとやはり理人と行くべきだろう。克海にとっては名前も知らない目の前にいる奴と見ることを想定していないのなら、吸血鬼が二人分のチケットを使うあてとして克海が期待しているのは、薪麿の言う通り、狩人ということになる。
「あいつ、映画好きなのかな」
吸血鬼は映画は人並みに好きだという自負がある。しかしながら隣でテレビ画面を見ていた狩人が楽しそうな様子だった、という記憶はない。埃っぽい狭い部屋と吹き抜けの大画面じゃ天地程度の差があるから、だいぶ気分は変わるかもしれないが。ポップコーンもあるし。
「奴と映画を見に行ったことはないのか?」
「この映画館は行ったことないな。昔はそこそこ。あいつとは一回もない。そもそもあいつ映画とか、テレビとかもあんまり見ないタイプみたいだし。現代っ子にあるまじき輩だろ。……映画好きかな? あいつ」
「こちらに聞かれても困る。彼とは学友とはいえ、必要以上には……あまり関わりが無い」
「それもそうか」
明日は土曜日だし、きっとあいつも休みだ。果たして誘ったら乗ってくれるだろうか。
「あいつ誘って行くわ」
「それがいい」
吸血鬼は映画のタダ券を外套のポケットに仕舞った。
「あいつと映画見に行ったことある?」
「ある。校外学習だから、二人きりというわけではないが。私はその時は寝ていたから、あれが楽しそうにしていたかは記憶にない」
「ふーん。お前さんは映画を楽しまないタイプね」
「いい音楽が流れていたからな。冗長な場面だと、どうにも……」
喫茶ソロモンに滞在する一時間未満、彼らは一切の有意義と言える会話をしなかった。
家に帰り、吸血鬼は狩人が帰って来るのを待ちつつ、家事をこなしたり、明日明後日にやっている映画を映画館の公式ホームページで調べたりする。
狩人が帰って来た後。吸血鬼は出来るだけ楽しい気分になれるように、言葉を選んで話を始めた。
「今度の土日のどっちかデート行かね?」
「デート」
狩人はまじめくさって復唱したのち、あまりにも動揺した様子で、中身を整理していた学校用のカバンを取り落した。
楽しい気分になるように気を使った言葉で、理人がこれほど動揺するとは。それとも俺がデートと言って誘ったからこんなに動揺しているのか。どっちでもいいからまたカタカタ震えながら「デート」と復唱しているこいつの正気をさっさと取り戻してやらなければならない。吸血鬼は慌てて克海から貰った映画のタダ券をヒラヒラ振って見せつつ、これまでの事情を簡単に説明してやる。
「映画のタダ券を手に入れたから、消費に付き合え」
「ああ、商店街の抽選会で……」
「俺が引いたんじゃなくって、引いたやつから貰ったんだ」
「……脅して?」
「そんなわけあるかよ。押し付けられたんだ。一緒に見に行く友達が居ねえんだと」
狩人は少し考えて、いくつか浮かび上がった疑問を吸血鬼にぶつける。
「その、貰った人と、君が行けばよかったんじゃなかったの?」
「いや。あいつとタイミング合わせるの難しいからな」
たいていの場合、一般的な文系大学生の克海の予定はアルバイトと大学の課題で埋まっている。体よく断られているだけかもしれないが、遊びに誘った回数も片手で数えられる程度だ。吸血鬼は全くの偶然だと思っている。実際全くの偶然であったり、克海が「嫌だな」と思った用事は直接断っている。彼女の名誉のための長ったらしい言い訳であったが、つまり一般的な程度に陰険な人間である、ということだ。
加えて、克海やその友人は誰と見るかではなく何を見るかを優先しているタイプの人間だ。吸血鬼には理解が遠いが、見たい映画を見たいという彼女の気持ちは尊重しなければならない。
彼女が自分と理人の仲を応援しているのだ、という現状も、尊重してやらなければならない。
「そういうわけだから、どう?」
映画のタダ券をちゃぶ台に置いて、狩人のほうを向く。カバンのチャックを締めた後、顔を赤くして固まっている。なんてベタにウブな奴だ。めちゃくちゃに揶揄いがいがある。このまま続けるなら、もうちょっと近くに行った方がいい。
「うん。予定は大丈夫だけど。デート……」
「いけないかな? デート」
「いや。いけなくはない。いいよ。どういう言葉選びをしようと、それは君の自由だ。わかってる。わかってるけど……」
頬を赤くして照れた様子の狩人を、揶揄うように吸血鬼は顔を寄せる。
「理人さぁ、デートって、初めて?」
「……初めてだよ。他人とこういう、恋愛みたいな、お付き合いするのも初めてだ。でも、思っていたのと、順序が違う……」
「順序って? ……ああ」
先月の終わり頃に彼と性行為をしたことを思い出す。忘れるはずもない。彼が言っているのは、多分その件に関してだろう。
恋愛以外でもデートって使うことあるんだけど。クソ真面目な理人にゃ刺激が強かったか。現代っ子にあるまじき初心さだ。吸血鬼はにっこり笑って、さらに彼のお望み通り恋人っぽくいちゃついてやることにした。
「そんなことかよ。ちょっとずつでいいから取り戻していこうぜ~。な?」
ゆっくりと、畳に置いた分厚い手の甲に細い指を這わせ、骨ばった手のひらを押し付ける。それから顔を覗き込む。赤ら顔に目が潤んでいる。ちょっと揶揄い過ぎたかもしれない、だからと言って吸血鬼は揶揄うのを止める気がない。もう少し暇つぶしに付き合ってもらう。どうせ飯の用意はあとは焼くだけまで済ませたし、ご飯が炊けるまでは暇だ。遊ぶんなら携帯の画面よりも、人間相手の方が面白い。ちょっとアホ臭いやりとりだと思いつつ、吸血鬼は狩人が拒否するまで煽り続ける。
「最初が同居、いや殺し合いだった俺達だ。何から取り戻してったって、構いやしないだろ?」
「……君はっ、僕と、どうなりたいんだ!?」
「あ?」
唐突に語気を荒げた狩人に、吸血鬼は呆けた声を返す。吸血鬼の頭にあるのは、あれまァ、思ったよりも持たなかったな、ということだけだ。狩人が何を言っているかはまったく気にならなかった。飯の時間まで最低限の暇つぶしになる程度で、すぐに爆発してしまったことを惜しんだだけだった。
「セックスしたいって言ったりデートに誘ったり、君は何がしたいんだ? 僕とどうなりたいの?」
さっき手前で恋愛っつってただろてめえこの野郎、お前に殺されないためなら関係の名前なんて何だっていいんだよ。
素直にそう言ってやるべきだったか――吸血鬼は秒針が三度鳴るくらい固まって、触れ合っていた手の甲を擽りながら、返答を考えた。
「出来るだけ、仲良くなりたいなって思ってるよ。理人が嫌って言わない限りは。俺としては死がふたりを分かつまで、一緒に居てもいいと思ってるけど。どう?」
先に死ぬのはお前だけど。吸血鬼は出来るだけ本音を押し殺し、狩人に囁く。狩人はそれを拒否しない。
「僕は……」
「お前は俺とどうなりたいと思ってる?」
「ごめん、もうちょっと考えさせて……」
「それを許すのはお前が俺の何よりも大事な奴だからなんだわ。そーやってあまり甘えてると後で酷い目見るぜ」
吸血鬼は身を引き続ける狩人に、半分くらい押し倒してのしかかって囁く。
畳にぶん投げられてもおかしくない。前の夜のことを思い出せば、これ以上進んで酷い目に遭うのはこちらのほうだ。ここらで煽るのを止めなければならないと思いながらも、吸血鬼は止まれない。
「考える時間はあっただろ。この前子供が欲しいって言ってたな。自分のものになってほしい、って。そういう関係になりたいんじゃないのか? 俺と」
「……わかった。シャンジュ。結婚すればいいんだな」
「は? えー……」
あまりにも調子はずれな、しかし真っ当な気もする狩人の返答に、さしもの吸血鬼もなんと返したらいいものか、一瞬だけ言葉に詰まった。
「俺戸籍とか無いよ。持つ気もないし。だから結婚は無理だな」
「ええ……なら僕はどうすればいいんだ」
炊飯器がピーと鳴り、吸血鬼はこれ幸いと狩人から離れる。この何とも言えない時間は強制的に終わりを迎えた。狩人は自分がただいじめられていることに気が付かず、この生温い尋問を終えた。
「で、結局明日デート、行く?」
「……行く」




