3/22(土) 体調不良の吸血鬼と服を買いに行く
朝起きてすぐ、狩人は頭を触られていることに気が付いた。あまり気分のいい感覚ではない。舐められている感じがする。むっとした気持ちはすぐに吹き飛ぶことになった。
布団からはみ出る場所で吸血鬼が寝ていることに程なくして気が付いたのだから、自分のプライドどうこうとは言っていられなくなった。同居を初めてすぐに同居人が死ぬなんて、目の前にこうして現されると冗談でも面白くない。
「ウワーッ!」
「喋るんじゃねえ頭に響く……」
自分が上半身裸である事には何の疑問も持たず、狩人は吸血鬼をカーテン越しの日があまり当たっていないうちに早急に押し入れの中に詰める。夜の血族である以上に、明らかに顔色が悪い。
「頭痛いって言ってたけど、バファリンいる?」
「いる……」
コップに水を入れて隙間に入れる。薬箱から頭痛薬を持って渡す。
「手出して。水は全部飲んで」
間違えて包装ごと呑むといけない。差し出された手のひらに錠剤を出してやる。
「お前のせいだ、お前の血なんて飲むから……」
「あれ夢じゃなかったんだ……」
ごくごくと水を飲む音が聞こえて、コップが押し入れから追い出された。
吸血鬼の恨み言を聞いて、狩人は刺されたあたりを手で触れる。触ったらまた痒くなってしまった。膨らんだ傷口に薬を塗り直す。
「でもさ、君が飲みたいって言ったからじゃなかったっけ?」
「うるさい」
嫌味にも元気がない。可哀想なやつだが、こちらも痒い思いをしている。同情はしてやれない。
「なんか食べる?」
「いらない」
狩人はもう話しかけない方が良さそうだと判断して、一人で朝食を取って出掛けた。
一人残された吸血鬼は、夕方になって起き出した。薬の効力も切れ、まだ頭が痛いが、今朝ほどじゃない。吐き気を堪えつつのどの痛みを耐えつつ、物音がしたので押し入れをカリカリと指先を立てて開ける。
「料理の教本と、キャベジン買ってきたよ」
「おまえ、俺を放っぽってどこ行ってたの……」
押し入れの下から這い出て、吸血鬼は未だ青い空を眺めた。夜が来れば、きっと気分も良くなる。
「昨日の夜は何も食べなかったんだろ。お腹空いてるんじゃないのか?」
昨夜一口でも血を呑まれたというのに、狩人は平和ボケした提案をした。
――聖者の肉は魔物に永遠の命を与えるとも、毒であるともいわれる。体調の悪い時に食べれば、食うはずの肉に食われる。ああ、見下ろす薄紫のなんと憎たらしい。
「血だ。血が欲しい」
「それは……」
「じゃあミルクでいい。牛乳。レンジで弱火、三分くらいチンしろ」
一週間もあればすっかり体力も戻ると思っていたが、これじゃ振り出し以下だ、と腹の中で愚痴る。
「管理人さんに献血してもらえるか聞いてこようかと思ったんだけど、どう?」
「あの人形か? それとも本体か……」
「……どっちでもいいだろ。喫茶店のメニューには、さすがに無いと思うけど。誰か吸血鬼にならない程度に協力してもらうとか……」
「どっちにしろいやだ」
吸血鬼には血の保管方法にこだわりがあるわけではなかった。直接吸うほうが、肌の触れ合い、針を指す痛みを麻痺させる睦言があって、楽しくていいと思っていた。こんな調子では人前に出ることすら憚られるが、同居してるのがよりによって宿敵とか。ふざけてんのか。受け入れてしまった吸血鬼が悪い。
狩人があったまったミルクを持ってきた。人間の体温より少し高く、温く生臭い。冷たいよりはましだと、ちゃぶ台に寄りかかって飲む。
「うん。いい感じ」
「たくさん飲むなら、これからは倍買ってこないと……」
吸血鬼の意識はホットミルクのおかげもあって、霧がかかったように曖昧だった。
「昨日から服替えてないみたいだけど、替えは……僕のは使えないし……下の服屋は確か八時まで開いてたから……行ったことないけど……それ飲み終わったら、今から行く?」
「うん」
吸血鬼に毎日服を替える習慣は無かった。汚れは己の魔力の蓄積にもなるから、洗わない方が戦うぶんには有利だが、人の世の中でやっていくには必要ない。普段は他人に指摘されれば替える程度だ。
これから人間らしく狩人と生きるなら、最低でも三着は必要になるか。いつまでも借り物のだるだるしたTシャツでいるわけにはいかない。狩人の金で買う服だけど。
「どう、体調良くなった?」
「全然。まだ頭痛いし」
「僕のせいで……先に言っておけばよかったかもな」
狩人は押し入れと部屋境の襖と格闘しつつ喋っていた。彼は完全な思い付きで動いていた。
「俺が飲みたいって言った。理人はそれを叶えた。それだけだろ。それより何だ、俺が初めてじゃないの?」
「死にかけの吸血鬼に最後の抵抗で吸われたことがあって。そいつはすぐ死んじゃったけど……」
「……なァんだ」
だんだんと意識がはっきりしてきた。吸血鬼はホットではなくなりつつあるミルクをホットと呼べるうちに飲み切った。
「どうして弱ってるのに、君は死ななかったんだろう」
「その辺の木端吸血鬼と一緒にすんなよ。ところで何やってんの?」
「こっちの襖と押し入れのと入れ替えてる。サイズ同じみたいだしこっちは裏表あるから、内側からも開けられるよ」
「あーなるほどォ、ありがと」
取っ手の位置は低く、上の段からは届きそうにない。まあ重力に従って隙間から手を伸ばせば届くか。たぶん問題になる位置ではないだろう。よし。狩人にそれを確かめるすべはない。彼が上の段に乗ったら、きっと底が抜ける。
「牛乳飲み終わった。コップ洗っといて」
「ゴム手袋買ったから、それ使って」
上手く嵌らないのか、ガタンガタンと音を立て襖と格闘している。
「ゴム手って、どこ置いたの?」
「キャベジンと一緒に入ってるよ」
薬局のビニール袋に、いくつかの物品と共にゴム手袋が置いてあった。俺が水洗いを避けると思って皿を洗わせるためにこいつを買って来たのか、と少しむっとする。一体この瓶入りの薬品は一体何に使うのか、と思ってとりあえず置いておく。キャベジンは胃痛・もたれ・むかつきに効くが、今の吸血鬼には知る由もない。
使った後、これをどこかにぶら下げておくためのフックが欲しいな、と思った。着いた水を切れるように。乾燥棚のふちに引っ掛けておいたら、何かの拍子に落ちてしまいかねない。とりあえず今日は流しの横に置いておく。
「おい理人、後でゴム手をぶら下げるフックを工面しろ」
「わかった」
襖との戦いを終えた狩人は、携帯電話のメモにゴム手袋を下げるフックと書いた。
「それで覚えておけるのか?」
「忘れた時の保険だから。待ち受けに書いておけばすぐ見られるし」
「ふーん。なんて書いてあるの?」
吸血鬼は狩人の読み上げと画面の文字とをじっとりと見比べた。吸血鬼には日本語が読めない。去年か一昨年のこの時期は沖縄にいたが、記号と口語の暗唱の繰り返しでなんとか誤魔化してきた。携帯電話は文字の塊だ、奴が手元に来る前に、少しでも読めるようになっておかなければ。
「行こう」
そうして家を出て、階下にある暗い雰囲気の服屋に入った。
狩人も吸血鬼もお洒落とは決して言えない人種だった。狩人はサイズの合う服で着心地が良ければ気に入って着た。だからこそ衣替えの必要も無いくらい衣服は少なく、箪笥の一段と鴨居に収まっていた。
吸血鬼も似たようなものだった。鏡は見えないから自分の姿を把握できない。こだわりといえば今はクリーニングに出されてしまった重いトレンチコートくらいだった。あとは狩人と似たようなものだった。ズボンだって気に入っているが誰かからかっぱらって着ているものだし、靴や靴下は誰ぞに貰ったものだ。レディースやらメンズやらの違いなどわからないから問題にならない。どうしたものか。
「何を着てほしい?」
「別に、何って言われてもな。僕は服には詳しくないし……」
狩人相手に着せ替え人形になる作戦は使えないとわかると、大人しく店長に意見を伺いに行った。吸血鬼はアパート下の服屋で店長にどうこう言われつつ気に入るものを見繕い、普段着にできそうな数着を買わせた。こだわりのない者が入ることはないような、こだわりのある店だった。
「……このパンツ、どうやって洗うの?」
「手洗いでお願いします」
「……洗濯ネットでも大丈夫ですかね?」
「手洗いで」
このような少々の口論の後、ゴム手袋を下げるフックは洗面所にある分と二つ買うことになり、下着だけは吸血鬼が洗うことになった。
「今度は一式着てるとこ見してくださいね。ところでうちでモデルやりません?」
「俺吸血鬼だから写真映らないんだー。服だけ映すとか都合のいいことにはならないし。無理」
鏡にも映らなかったが、案外わからないものらしい。アルバイトとして働かないかという提案も雑に断って、家に戻った。狩人は吸血鬼がどう働こうが苦にはしなかった。あの店主血は美味しそうな匂いしないし、給料もこの国の最低賃金にちょっと色が付いたくらいだし、と吸血鬼は拗ねていた。
「この俺をお安く扱おうとは。あの店主も見る目が無いな」
「あのパンツどうなってんの?」
「穿いてみるか?」
「絶望的にサイズが合わないよ。僕が穿いたら爆発する」
「アッハハ」
そうして、押し入れの中の箪笥の一段が埋まってしまった。あと一段はまだ空いているが、いずれ吸血鬼の服で埋まるだろう、と狩人は予測を立てていた。二か月も後には夏の服を買いに行くだろうし、半年後には冬の服が要る。