6/8(日) 鬼の味噌漬け
吸血鬼が暇していたある日付が変わったばかりの夜に、インターホンの音が響いた。はいはい誰だよこんな夜中に非常識だな、と思いながら不用心にドアを開けた。
開いたが早いかルチエが氷漬けのジップロックをいきなり押し付けて、早口でまくし立てた。
「これ例の味噌漬けだから、保管は冷蔵庫、早めに焼いて食べて。じゃあ、僕飛行機乗らなきゃならんから。よろしく!」
そして上がる間もなくだかだかトランクの車輪の音を立てて帰っていく。忙しい人だ。
押し付けられた冷たいジップロックには、言った通り味噌漬けの肉が入っていた。焼いたら少し縮むから、二人で食べきれるか、育ち盛りの男の子には少し足りないくらいの量だ。ここまで凍らせたまま運んで来たのか。とても税関で通りそうにないものなと押し付けたわけを推測する。
「何それ?」
「この間結婚式で話してただろ、鬼の味噌漬け」
へえ、と布団に入りかけてこれから寝る予定の狩人が生返事をする。
「じゃ、明日――いやもう今日か。晩飯にでも出すか」
日本で言う鬼が自分のような吸血鬼と変わりないのならば、これはほぼほぼ人肉食だ。こんな西洋文明社会に染まり切った日本にまだそんな文化がまだ残ってたんだな。それとも最近始まったのか。人間も熊も工夫して食べれば美味しいタンパク質であることには変わりないから、これはエコだというべきか。それともあれか、強大な力を持つ者の肉を食うことでその力を得る、お呪い的なあれか。残った毛皮とかどうしたんだろ。そもそもこれ本当に鬼の肉なの? 熊とか鹿とかじゃないだろうね。そっちのほうが心置きなく食べられるので嬉しい。
「後でお兄様に詳しい話を聞かないとな……」
これを造ったワタナベさんのお宅の連絡先は知らないが、ルチエに聞けばもう少し詳細がわかるだろう。何の味噌漬けなのかわかったものではない。ルチエがいつ気付いてもいいように冷凍肉の詳細を聞くメッセージを書き送り、肉は冷凍庫へ仕舞った。
[鬼の肉だよ。処理に困って食べ始めたのがきっかけだって。肉は食べて骨はスープに、皮は敷物とか剥製に。内臓も何ぞ漬けたりソーセージにして、捨てるところが無いとさ。今は滅多に作ってないって]
そりゃこんなものしょっちゅう作ってたら恐ろしくて吸血鬼界隈で日本に渡航する者はいなくなるよ。いない方が人間様には都合がいいけど。
俺の死体は残るだろうか。吸血鬼はそう考えていた。魂は霧消し、死んだらたぶん溶けた血の塊になる。とても食えたものではない。ああいや……ブラッドプティングにすればなんとかいけるかも。
なんで自分の調理法を考えてるんだよ。自分に呆れて歯ぎしりをし、吸血鬼は狩人の安眠のために明かりを落とした。暗い中でも料理の研究は出来る。
宣言通り、今日の夕飯は鬼の味噌漬けを焼いたものを出した。あとは付け合わせの野菜と、常備菜を幾つか。汁物は無い。何時間も前に沸かしたお茶。
「美味いかな?」
「君が焼いたのになんで聞くんだよ……」
「今日つまみ食いとかしてないし」
作った者、いやあの兄から受け取ってしまいさらに食卓に乗せる決定をしフライパンに乗せた者の責として、吸血鬼は先んじてそれを口に入れた。
「味噌の味がする。よく叩かれてるのか味噌が染みてんのか俺の前歯で噛み千切れる程度の硬さだ。肉そのものの味はわからないが、わからないほうがいいんだろうな。食感は豚肉と変わりねえよ」
「……わかった」
狩人は一切れ口に入れて、その後は無言で米と共にそれを咀嚼し、嚥下した。
「どうよ?」
「美味しいね」
「本当に思ってる?」
そう自分に言い聞かせているだけかもしれない。
「ご飯に合う」
「味噌だからな」
狩人の判断基準はご飯に合うかだけだ、と吸血鬼は推察していた。人生の多くをモチモチした米のない海外で過ごしたにもかかわらず、彼の味覚は実に典型的な日本人じみて醤油と味噌好きだった。
狩人は顔を上げ、吸血鬼のことを澄んだすみれ色の目で見て言う。
「君も美味しいのかな」
「食ってみろよ。味噌にも醤油にも漬けずに、生でな。どんな味になるか知れたもんじゃない」
「……まずそうだ」
「お前の肉は美味いんだろうな」
「死ぬほどね。一説には不老不死を得られるって」
穢れた死体には聖人の肉は清すぎる、ということか。宗教を持った生物らしい冗談だ。面白くもないジョークを笑い飛ばせるほど、吸血鬼にとってこの食卓の空気は軽くなかった。
「生で食べて、って。ちょっとエッチだね」
「お前それどういう感情で言ってんの?」
肉を一切れ咀嚼する狩人の無表情が、吸血鬼に妙に寒々しい恐ろしさを感じさせた。それとも狩人は一切の気まずさを感じていないのか。やっぱり宿敵のことなんてわかんないもんだわ。吸血鬼は戸惑った。
「お前そういう冗談言うんだ……」
この咀嚼音のみが響く気まずい静寂に、吸血鬼はそう言うことしか出来なかった。
「言うよ。童貞だからね」
「へぇ……」
会話続けるのか。吸血鬼は狩人の頓珍漢というか思いもかけず下品な返答にどう答えたらいいのか、狩人の持つ生まれながらの聖性のせいか、声に呪いなんぞ籠っていないのに、いやに動揺していた。
「君ならそう言って揶揄うかと思ってた」
「は、俺が?」
「僕を揶揄うためならどういう誹りもすると思ってたよ。違う?」
どうやら狩人はこの吸血鬼が無駄な挑発をすると思っているらしい。楽しければするけどさ。図星だこの野郎。
「したと思うね、君の推察通り。……実際どうなわけ? あんたはまだ清らな体?」
「そうだよ。幸運なことにね。君は?」
「俺はありとあらゆる悪徳の王、サタンの息子だ。七つ首の竜であり、上に乗る大淫婦だぜ? 生まれた時から非童貞だし、雌豚に変身して俺の信者の男とヤったこともある。馬に変身して牝馬ともヤったし、牡牛に種を付けてもらって搾乳されたことだってある。ああ、蛇はまだ試してないな」
先の口上は言い過ぎだった。生まれた時からそうであるわけがない。今は確かに彼の言う通り清らな体ではないし、人生の半分以上を清らな体で過ごしてもいない。
狩人は噛みかけの肉を頬に詰め、むっとした表情を作っていた。
「飯時に言うことじゃなかったわ。すまん」
「君さえ話したければ続きを聞くよ。他には?」
おや、意外と乗り気だ。吸血鬼は意外に思って、頬杖をついてにやにや笑った。
「へェ~~。お前こういうこと興味あるんだ。どうだ、この後一緒に蛇になっちゃう?」
「いいや。告解の真似事だ。僕は蛇には変身できない」
聖なるあれのごっこ遊びに付き合わされるのはいささか不愉快だったが、吸血鬼は童貞の同居人のリクエストに応え、人生の十八年で行ってきた性行為、拷問の数々の中で、狩人が引きそうなものを話して聞かせた。よく考えたら、本当に飯時にする話ではない。
「あっ、今思い出したけど俺自分の尻の孔に突っ込まれたこと無いわ。突っ込んだことも無いし」
「サタンの息子って言う割に、意外と悪徳を極めてないんだな」
「やかましい。まだ俺は十八なんだぜ」
しかも貴重な青春の一年を聖人と過ごそうとしている。
「……俺が話しておいてアレだけどさ。飯の味わかる?」
「わかるよ。焼いた味噌の味がする」
狩人はご飯のお代わりを注いだ。焼いた味噌味の肉は問題なく美味いらしい。




