4/21(月) 吸血鬼、狩人の義兄と朝食を取る
吸血鬼が起きた時、狩人は既に学校に行っていた。寝起きには重い引き戸を開いて外に降りると、居間に見慣れない寝袋があった。
そういえば客が来ていたのだった。狩人の義兄上がどういうわけなんだか昨日の殺し合い記念日に押しかけて来たのだ。吸血鬼は不用意に横たわる巨大な蓑虫の口を覗いた。
大きく見開いた鋼色の目がこちらを見ていた。
「うわっ!」
「おはよう。今目が覚めたとこ」
眠りが浅いからさっき押し入れ開けた音で目が覚めたの、と言い訳してルチエはいやにてきぱきと起きてきた。
「リヒトは?」
「学校行ったよ」
「へえ、学校かァ。あいつも学校ねえ。ちょっと安心したわ」
「あいつ学校行ったこと無かったんだって? お宅はどういう家庭だったの?」
「あー。行ったことはあるんだが、馴染めなかったみたいでな。結局家で自己学習だった。ところでこの辺で朝飯美味しいところある?」
寝袋を開きにして干すところを探しているが見つからなかったらしい。狩人の寝床に広げるだけ広げて、乾いた下着を畳んでいる。変態に貰った服とフード付きの上着はまだ乾いていないらしい。
「ここの大家がやってる喫茶店がある。それ外干しとく?」
他にもモーニングはあるが、今からすきっ腹を抱えて歩ける範囲の場所はそこくらいしか知らない。
「外のほうがよく乾く? このまま中に干しといた方がいいと思うけど、外聞的に」
「色落ちもあるしな。俺も一緒に行った方がいい?」
「そりゃもちろんいい、けど……」
ルチエは手を止めて言った。
「そういえば君、普通の飯も食うんだな。昨日もそうだけど」
「そりゃ、人の腹から生まれてるから。普通の吸血鬼って飯食わないの?」
「あー……そうか。食え食え。どんどん食え。弟と同い年なら成長期なんだろ。好きなもの食え」
「奢ってくれよお兄様」
「おう任せろ。何のために日本に来たと思ってるんだ。これ仕舞ったら行くから準備しといて」
少なくとも吸血鬼に朝食を奢るためではあるまい。
ルチエは洗濯物をバックパックに仕舞い、財布をポケットに入れた。
「ちゃんと日本円入ってる?」
「入ってるとも。このタヌキだって日本円で買ったんだぜ」
「こいつ、ちゃんと持って帰ってよね。玄関の半分占有してるんだけど」
「うーん、さすがにデカ過ぎたな。可愛いと思ったんだけど。サンダル借りていい?」
戸締まりをして、吸血鬼はルチエを喫茶ソロモンに案内した。
この喫茶店はすっかり吸血鬼に応接間扱いされていた。そしてこの喫茶店はだいたいそういった扱いに耐えうる造りをしていた。吸血鬼以外にも応接間扱いをする客は多くいた。それゆえ多少長い時間座席を占有しても問題ない値段設定になっていた。
「空いてるお席にどうぞ。あっ、お久しぶり! 名前決まった?」
「モーニング二つで」
初めて店に来たときぶりに本物のマスターの顔を見た。他に客がいるというのに、椅子を持ってきて、話をするつもりらしい。
「契約書の更新はしないぞ」
「あっ、じゃあ決まったんだ。よかったよかった」
「店長、こっち来てください。意地悪で言ってるんじゃないですよ」
赤毛の店員がモーニングの用意をしろとせかす。はいと言って店長が従うついでに他の席の皿を片付ける。相変わらずふざけた店だ。
「あの人いつもあんな感じなの?」
「マニアなんだ。しかも魔法使いらしいし」
「へえ。比喩的な意味で?」
「いや」
「だろうねぇ」
ルチエはメニュー表を眺めていた。どうやら彼は日本語が読めるらしい。それから何やら指折り数えている。
「何見てんの?」
「こういう所来たら読みたくなるじゃん?。今日は君がおススメのやつを頼んでくれたみたいだけど。へー、ペペロンチーノあるんだ。今度リヒトと来たら頼もうかな」
「足りなかったら今からでも頼めば?」
「いいの? 苦手じゃない?」
「シェアしないならこっちとしては何の問題も無いよ。あんまり顔近付けてほしくはないな」
「あっ、パフェある。デザートに食べようかな」
「あんた大食いなの?」
運ばれてきたモーニングセットを見てから、ルチエはメニュー表をもう一巡めくって言った。
「チキンサンドとチョコレートパフェ追加で」
「はい。チキンサンドとチョコレートパフェですね」
注文を運び終えて椅子に座ろうとしていた店長はそそくさとキッチンに戻っていった。
「マジでメチャ食うんだな」
「食える時には食っておきたいから。食べるの好きだし」
モーニングセットは前食べた時のメニューとおおむね変わらない。今日のジャムはブルーベリーと何らかの隠し味らしい。舐めると少し舌が痺れた。
「そうだ。リヒトの腹は空かせてないだろうな?」
「当然。今はこの俺の名に懸けて三食ちゃんと立派な飯を食わしてやってる。三月二十日以前は保障外だけど」
「それは……よかった。あいつとはこれからもうまくやってけそう?」
「さあ。向こう次第」
「ああ、そうか。向こうは問題ないだろう。同居を申し出たのはリヒトなんだろ? あいつ、だいぶ君のことを好きみたいだぜ。よっぽどのことが無い限りは大丈夫だろ。身内の贔屓目かもしれないけどさ。それよりも君の心のほうが重要だ。あいつの――五年も別れて居た僕がリヒトについて喋るのも変かもしれないけど。リヒトと暮らしてて嫌なことは無いか? リヒトのこと好きになれそうか? それから一番大事なのが、生まれ持った性質に耐えられるか? 俺としては出来ることならあいつと君で末永く幸せに暮らしてほしいんだけど」
「……生まれ持った性質って?」
「君の天敵であるという一点だよ。そこだけだ。それさえ耐えられたら今の時代どうとでもなる。あとは君の心次第。君は――あいつが怖くないのか?」
ハンターが怖くて吸血鬼をやってられるか。人間もそうだろう。死ぬのが怖くて生きてられるか。あいつとは十年十日の付き合いしかなかったが、ここ一か月の付き合いで何を考えているかわからなくて怖いということは……けっこうある。そもそも発端がそうだ。
たとえ自分の死神と同居してても、死を怖がって生きてられるもんか。やってられねえよ。吸血鬼はトーストにジャムとクロテッドクリームをやみくもに塗りたくった。
「別に。お義兄様は理人のこと怖がったり――脅威に思ったりしたの?」
「……別に?」
ルチエはモーニングを会話の隙間に平らげてしまい、残すはコーヒーとプリン、それから少量のクリームとジャムだけになった。お義兄様はクリームを指で舐め取るような無作法はしないらしい。
「ジャムいらないならちょうだい」
「いいよ」
吸血鬼は無作法をする側の人間だったが、今はパンが余っていた。トーストを千切り、残りのジャムとクリームをこそげ取る。
「お義兄様はさ、俺と理人の同居に反対とかしないの?」
「お義兄様としては、全然。びっくりはしたけど。あいつも十八だし、自分でやりたいことは自分でわかってるだろうし。こっちはどうこう言って止められる立場にないし。反対する理由は無い。バンパイアハンターとしては、ぶっ殺したほうがいいとは思ってる。でもそれを決めるのは俺じゃない。リヒトがやることだ」
「えー、じゃあお義父様は? 反対しそう?」
「死んだ人間の言うことなんて気にするものじゃないと思うけどね。君はそんなに世間体を大事にするのか? 君に世間があるのかは知らないが」
「気にする世間は確かに無いけど。失礼だろ」
「断る理由が欲しかったりしてる?」
チキンサンドが運ばれてきた。食パンに挟まれたささみとタルタルソースが傾斜を伴い半分にされて、パセリと串切りにされたレモンが添えられている。パセリとレモンを除けた後、チキンサンドにかぶりつく。
「いや? 別に。俺養われるの好きだから。今の生活に不満は無いよ」
「本当? 末永くお付き合いできる?」
「それはどうかな。正直明後日先のこともわからないのに」
「……何か困ったことがあったら、いつでもお義兄様に相談するんだぞ」
「そっち経由で情報漏れたりしたら嫌」
「それはない。僕な、実はあいつとあんまり仲良くないんだ。気軽にお喋りする仲にはなれなかったな」
「うわ。相談する甲斐なさそう」
「年の功はあるし、家業を継いだのは僕だから。お喋りしたい気分の時は遠慮なく頼って」
チキンサンドを一切れ食べ終えた後、レモンの身を剥いて食べてしまう。もしゃもしゃパセリの葉を口の中で遊ばせながら、いずれ来るチョコレートパフェを待っていた。
吸血鬼はようやく皿の上を片付けた。ようやくプリンに手を伸ばす。確かに美味いが、月に三度は贅沢すぎる。今後はきっとこんなに頻繁に食べることは無いだろう。
「あんたちゃんと噛んで食べてる?」
「食べてる食べてる。そっちこそ足りてなかったりしない? チキンサンドいる? それか追加で注文する?」
「いい。これで十分」
「マジで~~? 僕の前で遠慮しないで?」
「お義兄様が人よりたくさん食べるだけでしょ」
このペースならばデザートを持ってきても構わないだろうと少々勇み足だったか、店長と共にチョコレートパフェが来た。他に客もいない。全ての場は整ったと言いたいらしい。
「失礼、お皿片付けてくださる?」
「はい」
ルチエは店長にコーヒーを降ろしてチキンサンドが乗っていた皿を載せた盆を突き出した。片手に持つチキンサンドはもうあと一口で食べられてしまうだろう。なかなか話をする機会が巡ってこないがそこは客商売、不満げな顔一つ見せず下がる。
「砂糖入れ過ぎじゃない?」
「これくらい入れないと飲めない」
「コーヒー飲むの向いてないよ」
「砂糖とコーヒーの組み合わせが美味いの」
「そういうもんか……」
「お義兄様はコーヒーにこだわりあるの?」
「……よく考えたら無いな。ちょっと砂糖入れる量にびっくりしただけ」
チョコレートパフェを食べるペースはこの上なく遅かった。冷たいものは苦手なのかもしれない。コーヒーと共に流し込んでいる。
「大丈夫そう?」
「ん、思ってたよりチョコが重い」
「あんた自分の腹具合を調節できないタイプの人?」
「いや、食える。あ、下の方グレープフルーツが入ってる。爽やか」
それでも苦しそうだったので一口貰って、吸血鬼は決して一人ではチョコレートパフェを頼まないことを決心した。上方に冷えたチョコレートソースが大量にかかったミルクソフトクリームを緑色のナッツとプレッツェルが飾り、その下には細身のグラスにぎっちり詰まったチョコレートアイスとわずかばかりのシリアルによく染みたチョコレートソース、最後にはチョコレートソースだかアイスクリームが解けたのなんだかわからない中にグレープフルーツが二切れ埋もれている。いかに空腹でも吸血鬼の腹には収まらない。チョコレートが好きな人にはたまらないだろうか。冷え切った死体の腹にはあまりにも寒く感じられる。
「美味かった。ご馳走様でした」
「話が聞こえていたのですが。理人くんのお兄さんですか、私この喫茶店の店長で、アパートの管理人もしております」
「……ええ、そうです。リヒトがお世話になってます。あっ、プリンあるよ。土産に買って行こうか」
「わーい」
レジでも上手く店長との会話を逃れて、プリン二つを持ってアパートに戻った。
「名乗りもしない魔法使いなんかを信用しちゃいけないよ」
「俺は? 信用してない?」
「弟と仲良くしてやってくれるなら、僕の信用なんて欲しがってないだろ」
プリンは二つとも冷蔵庫の中に納まった。お土産のつもりらしい。
「持って帰れないからな。リヒトもこれ好きかな?」
「さあ?」
結局前回一緒にモーニングを食べた時に買ったプリンは二人で食べたが、彼にとって美味しいかは聞いていなかった。
広げていた寝袋に干していた服、ありとあらゆるものをバックパックに仕舞い、ルチエがいた証拠は記憶と減った洗剤、排水溝に詰まっていたゴミ、冷蔵庫の中のプリン、安価なオナホールのみになる。
「俺が言うのも何だけど、理人はいい奴だよ」
「そうだろうとも」
それじゃあな、リヒトをよろしくと言ってルチエは彼が行きがけに履いていたブーツを履いた。ドアを蹴飛ばしても足が痛まないようなデザインだ。
「たぬき持った?」
「忘れてた」
信楽焼を抱えて、今度こそルチエは去っていった。