3/20(木・祝) 吸血鬼との暮らしを始める
ある春の夜のことだった。
昼と夜の時間が等しくなる日のことだった。
年にたった一度の、吸血鬼と狩人が出会う夜だった。
そして、彼らに定められた運命の日だった。
先に運命を見止めたのは吸血鬼のほうだった。彼は黒い装束に身を包み、夜闇の中を滑るように、狩人に近付いた。雪のように白い髪、紙のように白い頬、白い装束。狩人の装束は、夜には目立つ恰好だ。
己の咽喉を掻き切らんとするワタリガラスの爪に気付き、彼は鶏に身を変えて蹴飛ばし避けた。
羽が舞う。慣れぬ土地の、鼻をくすぐるような土埃の匂いがする。それが今夜のはじまりだった。
狩人が白い牡牛に身を変え額の角を突き出す。吸血鬼も応えて黒い牡牛が頭を突く。大気は震え、地は揺らぐ。空を這う電線は大気と共に震え、地を覆うアスファルトは揺らぎに耐え切れず弾け飛ぶ。近所のコウモリや虫たちも騒ぎを聞きつけ、この決闘の終わり、夜が来るのを待っている。
黒い牡牛の額が割れる。吸血鬼は黒い狼に身を変え、鼻面に噛みつこうとする。
牙は白い牡牛の鼻を掠め、狩人は白い馬に身を変えて、狼を蹴飛ばそうとする。
蹄が腹を蹴り上げ、狼は唸りながら黒い猪へと変ずる。猪の突進を馬は飛び越え躱し、後ろ足で蹴飛ばそうとする。足は空を蹴り、振り返って来た猪の突進が馬を転ばす。もう一度と突進してきた猪を馬は蹴り上げ、己は白い豚に身を変え、猪が起き上がるのを待ち構える。
一瞬だけ元の姿に戻った吸血鬼は喉よりも奥で咆え、再び牡牛へ身を変える。鼻息荒く猛然と白い獣に突進する。
待ち構える豚は牡牛に身を変え、黒い獣を受け止める。かと思えば鶏に身を変えて飛び、黒い牡牛の背を裂く。
吸血鬼は黒い熊に身を変じ、月に腹を向けて鶏を掴む。狩人は白い熊に身を変えて馬乗りになり、頬に殴りかかる。吸血鬼は黒い蛇に変身し抜け出し、白い熊の首に絡みつく。狩人も対応して白い蛇に変身し、黒い蛇の肌の上を滑る。
白と黒の嵐は決して交わらず、街の狭間を吹き荒れる。嵐は嵐にのみ注視し、周囲になど目もくれない。古くひび割れた地面はもとの姿を現し、廃墟の脆い壁は崩れる。草木は彼らのために道を開け、街の獣は嵐の後に続く。彼らの間に巻き込まれないように祈り、夜は嵐が過ぎるのを待つ。
死闘は数時間続き、どちらもが今宵の終わりを悟った。火の匂いがする。朝が近い証拠である。
――このままこれの相手をしていれば、俺は今度こそ死ぬ。
己の敗北を悟った吸血鬼は、猪に身を変えて逃走を図る。
狩人は逃がすまいと豚に身を変えて猪を追う。その背に飛びつき、狩人は人の姿に身を戻し、サンザシの杭を取り出し、肩に突き立てた。
堪えきれずに悲鳴を上げ、吸血鬼も元の姿に戻る。
狩人は吸血鬼に馬乗りに、吸血鬼は狩人を見上げる。今日初めて目が合った。今日初めて言葉を交わす。一息ついて、狩人が聞いた。
「一年だ。そろそろ朝が来る。これから一年、一緒に暮らさないか?」
「何言ってんだお前!」
私闘の末の言葉にはふさわしくないだろう。だが狩人にはどうしても聞いておきたいことだった。そして叶うのなら、この提案が成就してほしかった。
吸血鬼は逃げ損ねた。今までの戦いではありえないくらい、日の出が近づいているのが見える。だくだくと肩から溢れる己の血と意図不明瞭な狩人の言葉に、この上なく焦っていた。
「何言ってんだお前」
「よく考えたら、僕たちは互いの名前すら知らないわけだし。どうして殺し合ってるのか、確かめたくないか?」
何かをしようと身じろぎした吸血鬼の腕を捻り上げ、地面に押さえつけて左腕に持った杭を抜く。
「俺の……住居事情とか、考慮してくれないわけ!?」
「今はどこに住んでるの? 解決したら一緒に住んでくれる?」
狩人は平常心で質問を続けながら、十字架の付いた編み縄を巻き付け、己で付けた傷の始末――止血をした。
「い、いや……住んでる場所くらいあるわ」
「具体的には?」
「……地球……」
「なら僕の家も地球にある。今から行こう」
虫の息の吸血鬼を引き摺って、朝日から逃げるように狩人は自分の家に帰る。今年は定住する予定でよかった。
しかしこの吸血鬼は臭った。宿敵ゆえの嫌な気配ではない。さっき流した血の臭いでもない。何日も、いやひょっとしたら何か月も身体を洗っていない人間の臭いだ。
「連れ込み? 困るよォ」
「すみません、大事な人なんです」
「無茶な言い分だ。夜までに挨拶しに来なかったら警察呼ぶからね」
まだ日も登り切らないというのにサングラスをかけて掃除をしているアパートの管理人を無視して、エレベーターに乗り込む。三階のボタンを押し、宿敵を担いで家の鍵を開ける。それにしても臭い。
「俺が、お前を殺すとか、考えないわけ?」
「その時は一緒に一階に落ちるよ。君が下だ」
互いにその程度で死ぬとは思っていなかった。こんな軽口も言い合える仲だとも、数時間前までは考えてもいなかった。
「服を脱いで」
「冗談だろ!」
「風呂に入るんだよ。後で歯も磨いてもらう」
狩人は抵抗する外套を剥ぎ取り、靴も靴下もズボンも脱がす。恐るべき吸血鬼の回復力のおかげか、狩人が付けた傷はとうに塞がり薄く皮膚が張っていた。気を付けて洗わなければすぐ破けるだろう。雑に洗ってもいいくらい回復してくれれば助かるんだけど。
次は雑にシャツを脱がす。おそらくこの世に存在するありとあらゆる汚れを吸ってパリパリになったシャツを、新しいのあげるから捨てさせようかと悩みながらうまく脱がすことはできず、カピカピの糸にはじけ飛んだボタン、ありとあらゆる縫い目折り目から破れていった。悩まずに済んだ。早いうちに新しいものを買ってやることにした。
「やめろ!」
ろくな抵抗もできないくせに口ばかりは達者だ。手ごわい相手になりそうだった。
「流石にそれは捨てないよ。君には大事なものだから」
半ば奪い取るように、彼の脇の下から乾いた皮膚片を取り上げる。吸血鬼狩人には重要なものだ。彼もそれをわかっている。だが一緒に風呂には入れられない。
「後で返すから」
大事なものを取り上げたらしおらしくなると思ったが、口だけは変わらず元気だった。
「ほら、目閉じて」
「おまえッ!」
さっきまで虫の息だった吸血鬼は、あっという間に流水と泡に浸されて、死に体になっていた。これで生きているのが不思議だが、生きてもらわなければ困る。一緒に生活できない。
服を脱がされ、羊膜も取り上げられ、腕を縛られていては、風呂桶の中で溶けて本当に死にかねない。
「君、臭いんだよ。何日風呂に入ってないか知らないけど、こんな状態で家に上げるわけには行かない」
「なんで家に上げるんだよ。殺すぞ」
「こんな状態の君にやられるほど落ちぶれちゃいない。口閉じてな、苦いよ」
吸血鬼の髪は長く手入れをされておらず、黒々とした太い毛が鳥の巣のように絡まっていた。ぷちぷちと抵抗なく途切れたり、元から抜けていたらしい毛がごっそり手指に絡まる。酷いもんだ。先にブラッシングすべきだったか。しかしながら宿敵相手にそんなことを言っていられる余裕は、彼と一晩戦った狩人にはない。
「なんで手慣れてるんだよ」
「喋るな。知り合いに犬を洗うように頼まれたりするんだ。それで慣れた」
口の中に泡が入ったようで、吸血鬼はぺっぺっおえっ、と唾を吐いた。
「酷いな。洗っても洗っても汚れが出てくる」
何日か前に新しく下ろした垢すりは吸血鬼の骨のような身体にこびりついた垢をよく落とし、強く擦られた体はところどころ赤くなっていた。水で流すとヒリヒリ痛むのは、吸血鬼という種族の性だけではない。
「絶ッ対に許さん……」
「それはお互い様だろ。僕だって死にかけた」
もう彼にこれの必要はないだろう、と腕に付けた縄を取り上げる。これは祈りの時に使う御守りだったが、弱った吸血鬼にとってはどんな拘束よりも効いた。
風呂場の排水溝に毛と垢が詰まり、水が流れ出るのをせき止めていた。わずかに流れ出て行く水にこれは後で取ればいいと判断して、狩人は吸血鬼の世話を続ける。
吸血鬼はぐったりした身体をタオルで拭かれ、水を吸ってごわごわの髪をドライヤーの熱風で乾燥させられる。
「あっつ!!」
「我慢して」
介護も手慣れた様相だった。自分の仕度は後回しに、狩人は吸血鬼を寝かせてもいいように整えていく。
すでに朝日が昇っている。こんな状態で日を浴びればどんな偉大な血族であろうと死にかねない。ああ今日が最期の日だったか、と吸血鬼は半ばあきらめかけていた。人間らしい綺麗な体にしていただいて、宿敵とはいえ奴には敬意を表してもいい。くそったれが、と吸血鬼は心の中で毒づく。
「服は洗っとくよ。今日はとりあえずここ使って」
狩人は吸血鬼を一緒に暮らすつもりで連れて来たのだから、彼の心境など知る由もなかった。押し入れから布団を引っ張り出して、すのこの上に毛布を敷く。
「あ?」
「うちにはここしか日の当たらないところは無いんだ」
狩人は自分の下着を貸し与えて、これ着といてと言った。当然のようにサイズは合わないが、何も着ないよりましだろうという、狩人なりの配慮だった。
「僕も、これからちょっと寝るから。夜までおやすみ」
――さっきまで殺し合いしてた奴にそんなこと言う!?
しかし弱った吸血鬼は文句を言うことも出来ず、睡魔にも抗えず。日の差さない真っ暗な押し入れの中で、どこからか聞こえる母の胎のような水音を聞きながら、眠りに落ちた。