(2)
会いたい人間か……。隊長がわざわざそんなことを言うからには、生きて戻れるか分からないクエストだと言うことだ。
キリエは、心底嫌だけど、実家に帰ることにした。ランサー城とは目と鼻の先なのに、キリエはこの十四年間、一度もその敷居をまたいだことはなかった。
今年たしか五十五になる父は、とっくに現役を引退し、ランサー城下で手広く行っているカイル家の事業で成功を納めていた。紺碧の呪力の持ち主は、知的好奇心が旺盛で、頭の良い人間が多い。お陰で昔から、カイル家は、下手な貴族よりも金持ちで、豪勢な邸宅を所持していた。
キリエは、十歳になる年まで生まれ育った実家の門前で立ち止まり、進むことも退くことも、どうにもできずに佇んでいた。
いい思い出など一つもない。扉の前に立つだけで、吐き気がしてくる。
キリエは、完璧に磨き上げられた真っ白な皿の上に載せられた、固いパンの味を思い出していた。
キリエは大抵いつも、お腹を透かせていた。
命じられたことが上手く出来ない時には、懲罰として、地べたに正座させられて、たった一つのパンを齧っていた。
エリンワルドなら、お前の年頃には、こんなことは簡単に出来ていたのに……!と、罵られながら。
物心付いた時には、兄は学院の寮に入っていて、たまにしか会う機会はなかったが、兄は家に帰ってくる度に、お腹いっぱいご馳走を与えられていた。
兄は別に、キリエのことを誉めも貶しもしなかった。その超然とした態度が余計、キリエを苛立たせた。
それでもキリエだって、初めは母親の期待に応えようと、一生懸命やっていたんだ。いつかは自分のことを認めて、頭を撫でてくれる日が来るはずだと。
食事を抜かれようが、手を上げられようが、地べたに這いつくばりながら、負けじと食らいついていたのだ。
「キリエさん……ですか?」
庭先に佇んで、小さな男の子が、こちらを見ていた。
大嫌いなエリンワルドに――つまり自分にも、そっくりな面差し。サラサラとした黒髪を肩の上で切り揃えている。幼い頃の、自分を見ているかのようだった。
「あ、足がすくんで……入れないんだ……」
キリエは情けない顔で笑った。
「父によく似た呪力を持つ人が近付いてくるな、とは、思ってたんです。だからこうして、お待ちしていたんですが……」
キリエは目を見開いた。
「あ、貴方も、才能に、恵まれてるんだね……」
キリエは、なぜか、涙が溢れ出して、止められなかった。
別に、この子の才能が羨ましいとか、そう言う話ではない。キリエが、嫌で嫌で、放り出して逃げ出したものを、この子がきちんと受け止めて、健気に頑張っていることに、なんだか申し訳なさのような、情けなさのような、懐かしさのような、どうにもならないごちゃ混ぜの感情が押し寄せてきて、堰を切って止まらなくなったのだ。
戸惑う少年を前に、キリエは涙を流し続ける。
数分もしないうちに、がちゃりと扉が開いて、中から一人の女が出てきた。やはり、黒髪を長く伸ばした、五十代とは思えない、飾り気はないがすっきりとした美しさを保つ術士風の女だった。
「お帰り、キリエ。我が一族の長い歴史の中で、最も不出来な水術士の帰還だな……」
低く響く母の言葉は、容赦なかった。
「お前が、学院に行っても、使い物にもならない落ちこぼれになってしまったら、それこそ一族の恥さらしだと思っていたが、なかなかどうして、きちんと『風術士』をやっているそうじゃないか。実に、勿体無い話だ。それだけの『才能』を持ちながら……」
キリエは、母の言葉に、沸々と静かな怒りが込み上げてくるのを感じた。
「誰のせいで、そうなったと思ってるんですか……っ!私が、いったいどんな思いで、水術を棄てたと……!?」
十歳で家を出るまでの、虫ケラのように蔑まれ続けた毎日が、昨日のことのように蘇る。十年以上昔のことなのに……。この身に刻まれているのだ。この家の者たちは、自分のことを、人間扱いすらしていなかった。
「私は、生まれつき青い呪力を持つ人間ですよ、それも、他ならぬカイル家という優秀な血統の……っ!水術が、嫌いなわけがないじゃないですか……!水術のことが、好きで好きで堪らなかったはずなのに、あんたらカイル家の人間たちのせいで、私は、大好きな水術を、無理矢理棄てさせられたんだよ……っ」
大嫌いな家族の前で、無様な姿など見せたくはないのに、キリエは涙が溢れて止まらなかった。キリエは身体をくの字に折って嗚咽した。
今まで、誰かにぶつけたくても、けしてぶつけることの出来なかった、キリエの身体の内側に溜まりにたまった十数年分の恨み辛みだった。
情けなくも涙を流し続ける自分に、母は、謝ったり、同情したりなどは一切しなかった。ただ冷たく見下しているだけ。
自分に非があるなどとは、思いもしないのだ。虫けらのように扱われて、そこから逃げ出すような弱い人間などは、取るに足らない存在としか思っていない。コイツらは、昔からそう言う人種だった。
子どもの頃は、母親の言うことが満足に出来ない、出来損ないの自分が異常なのだと思い込んでいたものだが、大人になった今ならば分かった。
異常なのはコイツらの方だ。
風術士として一人前になった今ならば……と、何かを期待した自分がバカだった。
「キリエ……帰るよ。君を認めて、受け容れてくれる人達が、今の君の周りにはたくさん居るでしょう?」
キリエははっとして顔を上げた。
ここにいるはずのない人が、そこに立っていた。
そして、彼はそっと身を屈めて、嗚咽するキリエの肩に手をやった。
「な、なんで……貴方が、こんなところに……?」
深い緑色の瞳がいたずらっ子のように光っている。
「ここに来れば、君の可愛い泣き顔が見られるかな、と思ったんだけど、やっぱり、僕の思った通りだったね……?」
ラマン・オーランドは、キリエが泣きじゃくっているにも関わらず、いつものように茶化すように言った。




