(5)
時間が少しだけ遡ります。
フリンが、褐色の女王ナセルとともに、故郷ウルスラッドを訪れた時の逸話です。
(魔王コールに会いに、シノン城を訪れる前のお話です)
挟む場所がなかったため、こちらに挟みます。
「フリン、忘れていない?イヴにも会っていきなさいね。彼女、今仕事を休んでウルスラッドに帰ってきているはずだから……彼女、随分長いこと貴方が帰ってくるのを待っていたわよ」
母親に言われるまでもなく、フリンはイヴに会いに行くつもりだった。
フリンは彼女に会うためにウルスラッドに立ち寄ったのだから。
フリンは、気が挫けぬうちにと、ナセルを連れて徒歩数分の幼馴染みの家を訪れた。
「私もともに行ってかまわないのか?……恋人に、会いに行くのだろう?」
ナセルは何を思ったか、面白そうな顔をして言った。
「いいんです。彼女は別に、恋人でも何でもありませんから……。幼馴染みと言うやつですよ」
六年ぶりだった。
優柔不断なフリンは、地底世界から無事帰ったら会いに行くと約束をしながら、その約束を反故にして、一度もイヴに会っていなかった。
それは一重に、何があろうともあなたを裏切りません、と口にしたナセル陛下との約束があったからだった。
今日こそは堂々と、彼女の前に立てる気がしている。想定外ではあったが、ナセルが一緒にいることが、優柔不断なフリンに勇気を与えていた。
フリンが戸を叩くと、イヴは彼らを玄関先で出迎えた。
「フリン……」
イヴは瞳をわずかに潤ませて、六年振りに会うフリンのことを静かに見上げていた。
「なんか、ちょっと変わった……?ずっと、学生みたいなノリが消えない人だなって思ってたけど……もう、すっかり大人の男の人だね」
てっきり口汚く罵られると思ったのに、彼女はびっくりするほど落ち着いていた。
「そりゃ、六年も経てばね……」
フリンは墓穴を掘ってるだろうか、と思いながら恐る恐る言った。
そう言うイヴも、すっかり大人の女性になっていた。
六年経って、二人はもう二十七歳になっていた。
奇しくも、フリンがコカトリス第三小隊に入隊した時の、コール隊長と同じ年齢だった。
イヴのトレードマークだった明るい褐色のお下げは、一本の三つ編みになって、左の肩から優雅に流されていた。
色気だな。フリンは思った。
イヴがいきなり美人になったりはしないが、以前会った時にはなかった、色気のようなものを身に付けている。
「フリン……」
「イヴ……」
二人は同時にお互いの名を呼んだ。
「あっ……ごめん……」
イヴが照れたように言う。
「私ね……」
イヴが続きを話す前に、奥の部屋から幼子の泣き声が聞こえてきた。
イヴは慌てたように顔色を変える。
「ち、ちょっと……待ってて」
イヴはバタバタと走っていった。
「フリン……久しぶりじゃないの……!」
イヴの母親と、イヴと、その腕の中に赤ん坊が抱かれていた。
「お久しぶりです、ウォルターさん」
フリンは律儀にイヴの母親に頭を下げる。
「ごめんね……連絡もしないで。私、結婚したの……昨年、子どもも出来て、もうすぐ、七ヶ月」
イヴは母親の顔で腕の中の子どもを示しながら言った。
「そ、そうなんだ……それは、おめでとう、男の子かな……?」
「うん……」
イヴは頷く。
「フリン、よく無事だったわねえ、いま、軍部の方は大変でしょう?術士であれば、前線に送られてると……」
イヴの母の言葉が、一切頭に入って来なかった。
「上がっていきなさいよ……」
イヴの母の申し出を、フリンは断った。
「今日は、実家に泊まるので……」
ナセルのことを紹介することすら忘れて、逃げるようにその場を辞した。
僕は、イヴに別れを告げるために帰ってきたと言うのに……。そんな必要はなかったらしい。
だけど……こんなことって……。
せめて、連絡ぐらいくれてもいいじゃないか。
結婚して、子どもも出来たなんて……。
祝福すらさせてもらえないとは……。
フリンは、自分にそんなことを言う資格はないことは重々承知だった。
「フリン……」
馬鹿みたいだ。なぜ、こんなにもショックを受けているんだ、自分は……。
理屈が合わないぞまったく。
理性と感情が、ちぐはぐで、まったく噛み合っていない。
僕は別に、イヴのこと、何とも思っていなかったはずなのに。
むしろ、いつまでも馬鹿みたいにこんな、どうしようもない自分のことを待ち続けるイヴのことを、迷惑に思っていたぐらいじゃないか。
「フリン……っ!」
自分の名を呼ぶ人が傍にいることに気付いて、フリンははっとした。
「フリン、どこへ行く?そちらはそなたの家ではないだろう?」
ナセルがこの上なく優しい口調で言った。
フリンは、人っ子一人いないゴーストタウンの目抜き通りの真ん中に佇んでいた。
立ち止まったまま沈黙して何も言わないフリンに、ナセルが声を掛ける。
「そなたほどの男に、恋人がいない訳はないとは思ったが……失恋したんだな、かわいそうに」
ナセルは面白がるように言った。
実際、ナセルは面白がっていた。
「憐れまないでください……!彼女は別に、恋人でもなんでもありませんでしたから……っ僕は、失恋なんか、してないんですよ……!」
ナセルは怒ったように言う人間の術士を見て、ニヤニヤと笑っていた。
「『八つ当たり』と言うやつだな、フリン……。以前会った時には、人間には珍しい、なんと心根のまっすぐな、聖人君子のような男かと思ったものだが、」
ナセルは心底嬉しそうに言うのだった。
「そなたも人間だな……。実に人間くさい……!それでこそ人間だ……!」
そして嬉しそうにくすくす笑う。
「何がそんなに可笑しいんですか!?笑わないでください……!」
「いや、とても好ましいぞ……なんとも、魅力的である」
ナセルはフリンの手を取って言った。
「私でよければ、いくらでも、そなたの気晴らしに付き合ってやるぞ……!何せ私はヒマだからなあ……」
ナセルはなおも楽しそうに笑いながら言った。
「あなた、人間嘗めくさってるでしょう……」
フリンは怒る気も失せて言った。
「嘗めてなどいないぞ。必然だ。こちらの立場に立って考えてもみい。なにせ、こちとら千年以上も寿命があるのだぞ。そなたら人間の一生など、たった一瞬だ。たった一瞬だぞ。恋も遊びも、真面目にやらなければ、あっという間に老いぼれて死ぬ。大切に生きろ、毎日、毎日を……!」
地底世界の女王の言葉は、短い生を生きる人間への愛と、憧れに満ちていた。
そして、間もなく陽の暮れる、黄昏の光の中で、人外の女王はフリンをひたと目据えて言った。
「フリンよ、私はこれからとても重要なことを言うぞ」
女王の目に笑いはもう無かった。
輝くような白い虹彩が、フリン射すくめるようにじっと見据えている。
「私が、短き生を生きる人間を好ましく思うのと同じように、漆黒のプレイヤーである、イグレットの魔女もまた、人間を好み、異常に執着している女だ。悠久の時を生きる我らに、そなたら人間の理屈など通用しないことを、よくよく肝に銘じておくことだ。なぜ?何のために?などという、筋道通った理屈などは存在しない。言うなれば、ただ楽しいからだ。子どもの遊びと同じだよ」
女王はフリンの手を握ったまま静かな口調で続ける。
「それゆえ私は、そなたら人間を魔の手から救いたい。たとえ褐色が、漆黒の眷族であろうとも、私は魔女の手先にはならない。よいな、フリン・ミラー」




