(3)
その夜、宵闇の中、篝火の下で、見張りの兵士は、微睡み掛けて大きな欠伸をしていた。
戦争が始まったとは言え、前線はずっと北の、山を越えたさらに向こうだ。
こんなところまで敵兵が押し掛けてくる訳もなく、城の見張りの必要性など、あって無いようなものだった。
コルネイフ城は、戦時下においても平常運転。
城の警備も、平時と変わらない最低限の兵士しか詰めてはいなかった。
「おい、起きろ……何か、見えないか?」
ペアで見張りの役を担っていた相棒の兵士に小突かれる。
「んん……?」
男は首を傾げて目を凝らした。
暗くてよく見えない。が、城壁に程近い闇の中に、翼を持った巨大な生き物が空中停止しているのが見えた。
それに気付くことが出来たのは、暗い色彩の翼を持った生き物の背に、唯一光を反射する、真っ白な衣服に身を包んだ女性が乗せられていたからだ。
一瞬のことだった。
隣に立っていたはずの兵士が前触れなくどっと倒れた。俯きに倒れて、ピクリともしない。
何かの攻撃を受けたのか?
まったく見えなかった。
いつの間に……?
「あ、悪魔……っ!」
男の背後に、巨大な闇色の鎌を携えた悪魔が立っていた。
それが、悪魔と分かったのは、真っ赤な虹彩と、三日月形に引き裂かれたような口、尖った耳、山羊の角を額に生やしていたからだ。
男は震え上がった。
兵士が持っていた槍などでは相手にならなかった。ぴたりと首筋に闇色の鎌が当てられる。
「そこのお前、案内してくれないか?この城の主はどこにいる……?」
闇の中から現れた男が静かな口調で言う。
「な……」
あまりのことに何も言葉が出てこなかった。
本能に訴え掛けられるような恐怖が込み上げてくる。
闇の中から現れた男は、見る者の心を凍り付かせるような圧倒的な負のオーラに包まれた、凄みのある美男子だった。
そして、奇妙なことに、その男の腕には、真っ白なローブに身を包んだ小さな女性が抱かれていた。
聖女のように可憐な女性の手首には、金属の手錠が嵌められている。囚われの姫だ。
「さっさとした方がいいぞ。こちらは別に、お前でなくともかまわないのだから。……悪魔の鎌に、喉元を突き破られたいのか?」
「う……っ」
本来ならば、喉元を突き破られようとも、見張りの兵士は抵抗すべきだったのだろうが、平和惚けしたコルネイフの警備兵に、そんなことの出来る勇気も、国家への忠誠心もなかった。
男は、他にどうすることも出来ず、すごすごと城内へ悪魔の化身のような男を招き入れた。
男を先導に、奇妙な一行が城内を練り歩く。
白い姫を抱いた魔王の後ろからは、褐色の髪の木訥そうな焔術士とあどけない少年のような水術士が続く。
静まり返った夜のコルネイフ城に、四人の足音が響き渡った。
兵士の首筋には、相変わらず帝国最強の闇術士が使役する悪魔の鎌が当てられたままだった。
城内の警備をしていた兵士達がその様を見咎めたが、悪魔の姿を見ておののき、手を出す勇気のある者は誰一人として居なかった。
「た、大変です、国王陛下……!」
事情を知った国王の侍従の一人が、先んじて国王の寝室へ駆け込み、国王と王妃を起こした。
「こんな夜中にいったい何の騒ぎですか……っ?」
初老の王妃は、声を荒げる。
「そ、それが……」
何と説明していいものやら分からない。
「ランサー帝国の闇術士とおぼしき者が、城に攻め込んで来た模様で……」
「闇術士だと……?敵国の闇術士など……魔王コール以外にはいないではないか……!奴はランサー帝国北部の国境で、カゼスを初めとする北部連合と戦をしているのではないのか……!?」
白髪に白い髭を蓄えたコルネイフの国王は、怒鳴るように言った。
「見張りの兵士はいったい何をやっているのだ……!?警備兵がいるだろう?」
「そ、それが……、魔王が引き連れてきた闇の魔物により、完全に制圧されてしまっているのです……!」
侍従は必死に訴えた。
「へ、陛下……!後ろに……っ!」
侍従は悲鳴を上げた。
悪夢のような光景だった。
見張りの兵士を人質に、世にも恐ろしい姿の悪魔と悪魔に魂を売った魔王、そして鎖に繋がれた美しい姫が、国王の寝室へ雪崩れ込んで来たのだから。
「国家の滅亡の日に、夫婦仲良く眠りこけているとは、なんとも間抜けだな、コルネイフの王よ」
現れた男は不遜な態度で言う。
「お初にお目に掛かる、国王陛下。私はランサー帝国シノン領が領主。地上で行われている天使と悪魔のゲームに置ける、【漆黒のプレイヤー】の『アバター』だ。あなた方はよほど、勇敢な方々のようだ。漆黒のアバターたる『魔王』に楯突くということがどう言うことか、理解していらっしゃらないらしい」
コールはこの上なく冷酷な口調でそう言うと、これ見よがしに死神をもう一体喚び出し、ベッドの上で震えている王妃の首筋に漆黒の鎌を突き立てさせた。
「命が惜しくば、投降し、城を明け渡すがいい。言っておくが、こちらには、無限に悪魔を喚び寄せられる用意がある。抵抗するつもりなら、城内の人間、コルネイフ国内の人民、全てを皆殺しにするつもりだ」
「た、たすけて……!い、生命だけは……どうか……!」
王妃は怯えきった声で言う。
王も王妃も、魔王に楯突くと言うことがどういうことか、目の前にはっきりと突き付けられた思いだった。
「国王陛下……どうか、投降ください……!」
手枷を嵌められた聖女が、怒りに奮える声で言った。
彼女は魔王のあまりの横暴さに怒りを抱いていた。
金髪の美姫はコルネイフの王に向かって頭を下げる。
「この者は、本気です。コルネイフ王国が、魔王への恭順を示さない限り、陛下と王妃様のお生命はありません……どうか、お願いです……!ご自愛くださいませ……!」
クアナは必死だった。
彼女は、コールが目の前で、罪もない王と王妃を殺める姿など絶対に見たくはなかったし、出来ることならば、一人でも多くの人間の生命を救いたかったからだ。
こんな、下らないゲームのために、人間の生命が蔑ろにされるなど、あってはならないことだ。
「どうか……どうか、お願いですから……!」
斯くして、南方諸国同盟の要であったコルネイフ王国は、あっけなく陥落した。
コルネイフ王国の国王以下王族達は、ことごとく鎖に繋がれ、牢獄に閉じ込められた。
彼らの傍では常に悪魔達が目を光らせており、地獄の魔物達の、世にも恐ろしい姿を目の前に晒されたこの国の王族も軍隊も、抵抗する気持ちを完全に喪失させられていた。




