(6)
翌朝。オーランドが目覚めると、隣にキリエが居なかった。
「キリエ……?」
誰もいない部屋に、オーランドの言葉が虚しく響く。
ぽっかりと空いた空間に、不吉な予感がした。
部屋から飛び出すと、侍女らしき人間がオーランドを待ち構えていた。
「おはようございます。朝食の準備が整っておりますので、こちらへどうぞ……」
彼女はしずしずとオーランドをダイニングルームへ導いた。
「妻の姿が見えないんだが……?」
「ご心配には及びません。奥さまは一足先に行かれています」
そして、辿り着いたダイニングルームで、昨夜見えたジェラール・ウルタードと、アルファトス、そして、アルファトスの隣に静かに座るキリエの姿があった。
「おはよう、オーランド……」
キリエの声に張りがない。顔色が悪かった。
昨夜よく寝れなかったのだろうか?
アルファトスはくすりと嗤いながら、戸惑うオーランドを見ていた。
「翠緑の手先よ。そなたに一つ、断っておかねばならないことがある。彼女は私との取り引きに応じてくれるそうだ」
アルファトスはこれ見よがしにキリエの細い肩を自らに引き寄せながら言う。
オーランドの眉が上がる。
「『取り引き』だと……?」
「オリー、この人は、私達が探していた紺碧のプレイヤー【調停者アルファトス】なの……」
「知っているよ、キリエ。僕だってここに着いた瞬間に気付いていた」
「私は、この男と取り引きをすることにした。フリンの時と同じだよ。私が、『身も心も捧げる』と約束すれば、彼は私たちに力を貸してくれるそうだ。そして、そうすれば、彼は、そして、強力なアーティファクトを持つカゼスは、ランサー帝国に味方してくれると言っている。ランサーにとって、これ以上の『利益』はないでしょう?」
キリエは一晩考えた答えを、自らの愛する夫に説明した。
「オリー。申し訳ないけど、貴方とは今日限りでお別れです。私は元より、貴方のような軽薄な人に興味はなかったし、貴方ほどの人なら、私なんかよりよほど素敵な令嬢を、いくらでも捕まえることができるでしょうから……」
キリエは感情のこもらない言葉で、淡々と告げる。
「……」
オーランドはしばし沈黙していた。
ピリピリとした重々しい沈黙が、その場を支配する。
「ふーん……随分と、小賢しい真似をするのだな。『紺碧』とは、知識と叡智の色ではなかったのか……?」
キリエは背筋がヒヤリとした。
我が夫のものとは思えない、氷のように冷たい声。
「このような卑劣な真似を、悪びれもせず平気で行うと言うわけか……夫の僕に、何の相談もなく……?」
オーランドは文字通り完全にブチキレていた。
彼は時に冷酷な表情を見せることもあるが、大抵それは、相手を威圧するための演技であり、彼がこのように、これほど本気で怒っている姿はキリエも見たことがなかった。
下手に触れば切れそうなほどに冷たい顔をしている。
「キリエ……」
この上なく冷酷な瞳がキリエをひたと見据える。
「そんなつまらない芝居など僕には通用しないよ。……よもや君は、こんな下らないことを本心から承知したわけではないよね……?もしそうだったとしたら、この場でその首切り落として、地獄の業火にくべてやるところだ……!」
キリエはびくりと身体を震わせた。
『裏切り者』と罵られているかのようだった。
言い訳を口にすることすら憚られる。
この人は本気だ。
下手なことをすれば本当に首を跳ねられる……。
キリエは自分の愚かさを思い知った。
この人の愛情を裏切ることなど、絶対に許されないことなのだ。
我が夫が、これほどに恐ろしい人だったなんて……。
「浅はかだな、キリエ。これは、ランサーにとっての『利益』などでは断じてないよ」
損得勘定を重んじるオーランドは、ランサーへの利益とキリエと言う存在を天秤に掛けて心乱されることだろうと思ったのだが、オーランドの目に一切の迷いはなかった。
「このような卑怯な取引に応じる必要などはない。僕のこれまでの経験上、卑怯な取引をする相手は、平気でこちらを裏切るからね……。このような手合いとは、初めから手を組まないことが得策だ。叡智の紺碧が聞いてあきれる……!」
元よりオーランドは『翠緑』の呪力の持ち主。翠緑は自由奔放、本来は法や契約に縛られず、ありのまま、自然のままに振る舞いたい色だ。
「ご、ごめんなさい、オーランド……。私が、愚かだったわ。お願い……、頭を冷やしてちょうだい」
キリエは心から反省して言った。
「おいおい、アルファトス、お前、いったい何をしでかしたんだ……客人を怒らせるんじゃないよ」
何も知らないジェラールも、思いもよらぬ展開に焦っている。
当のアルファトスは、余裕の笑みを浮かべていた。
「なかなか潔いな、人間の、『翠緑』の術士よ。……悪かった。少しお遊びが過ぎたようだ。この女のことが気に入ったのは本当なのだがな。わが『紺碧』の力を喉から手が出るほど欲しているだろうに、簡単には絆されることのないその高貴な志……最高にそそられる女じゃないか。……くれぐれも大切にしてやってくれよ、『翠緑』の」
オーランドは危うく手が出そうになるのを辛うじて理性で抑制していた。
巧みな挑発だと分かっていても、胸糞悪すぎる。
「そう心配するな、翠緑の手先よ……。もとより我は『紺碧』のプレイヤーだ。我々はそなたらの敵ではない。言うまでもなく『紺碧』と『翠緑』は『純白』の眷族である。我々は『共通の敵』を相手に、あくまで、ともに手を携えて戦う立場にある者同士なのだよ。そなたらの主君が『純白』に与している限り、我々はそなたらの敵ではない」
オーランドとキリエは、思わず顔を見合わせた。『純白』に与している限り……?
では、『共通の敵』とは……?
オーランドは、核心を突かないその言葉に、とても嫌な予感を抱かずには居られなかった。
なぜランサーの皇帝陛下が、長い月日を掛けて虎視眈々と術士を育てているのか。
皇帝の巧みな戦略により、リオンの聖女が帝国最強の闇術士と結ばれた理由とは……?
皇帝陛下は、『いつ、恐ろしいゲームが開始されるか、誰にも分からない』と言っていた。
彼が虎視眈々と準備を進めていることは、ただの『
術士による世界戦争』にむけた準備などではないのかもしれない。




