(5)
その夜、キリエは明け方前にふと目が醒めてしまった。何かに呼ばれたような気がして。
キリエとオーランドは、大統領官邸の一角にある、客室をあてがわれていた。
目に眩しいほどに真っ白なリネンの美しい広いベッドと、アンティーク風の調度が整えられ、王侯貴族の屋敷のように豪華な一室だった。
隣では、愛する夫が静かな寝息をたてている。
いつ見ても、見惚れるほどに綺麗だ。もうすぐ三十路だと言うのに、相変わらずの美貌は全く衰えることがない。
もう結婚して二年も経つと言うのに、いまだにキリエはこの人が、自分のことを愛してくれていると言う事実がどうにも不思議でならなかった。
キリエは音を立てないようにそっと部屋を抜け出した。
長い廊下を歩いていく。何かに、手招きされているかのようだった。
キリエは少し肌寒さを感じていた。ガウンを羽織ってきたものの、その下は借り物の薄い絹地の寝間着だ。
導かれるように中庭へ出る。そこには小さな噴水と、それを取り巻く草花が手入れされていて、術によるランプが仄かに辺りを照らしていた。
キリエはギクリとする。
晩餐の席で見た、ライオンのたてがみのような黄金色の髪をなびかせる美丈夫がそこでキリエを待っていた。
「キリエ・セカール……。実に美しい『紺碧』の持ち主だ。一目見た時から気に入っていたんだ」
美しい男は、相変わらず動物のように光る金の虹彩でキリエを舐めるように見ていた。
獲物を狙う獣の目付きだ。
やはり……。キリエは直感で理解した。間違いなくこの男が、我々が探し求めていた紺碧のプレイヤーだ。
「我が名は【調停者アルファトス】。そなたには我が何者か、直感で理解できていることだろう。そなたがこれほど、若く美しい人間であることは、僥倖だな」
美しい獣のような男は口角を上げて薄く笑みを浮かべながら言う。
「どうだ?我と取引をしないか?そなたが我に『身も心も捧げる』と言うならば、我が『紺碧の王』の力をそなたに授けよう」
キリエは鳥肌がたった。
聞いたことのあるセリフだ。褐色の女王が、コカトリス第三小隊の地術士に問うたのと、全く同じセリフだった。
「試みに、体感してみるか?」
男がにじり寄って来る。
キリエは嫌な予感がして後退った。
しかし数歩もしないうちに噴水の外枠の大理石にぶつかる。すぐ後ろで水音がしていた。
キリエは身じろぎも出来なかった。
アルファトスの腕がキリエの首を長い黒髪ごと後ろから掴み、荒々しく引き寄せる。
紺碧のプレイヤーの口唇がキリエの口を塞いだ。
次の瞬間、まるで清水を身体に注がれているような、冷たく心地よい力が、キリエの身体を満たしていくのを感じた。
なんとも言えない全能感。
人間の呪力とは比べ物にもならないぐらいの力が、キリエを満たしているのが分かる。
強すぎるアルコールを急にあおった時の酩酊感のようなものに、目眩がする。
フリンの気持ちがはじめて理解できた。
紺碧の呪力の持ち主であるキリエは、この男に抗うことは出来ないのだ。
この力は、そしてこの男は、キリエにとって、あまりにも魅力的すぎる。
「腰砕けじゃないか……そんなに好かったのか……?」
アルファトスは愉しそうに嗤いながら、噴水の枠に手をついておののくキリエを見下ろしている。
「寄るな……っ!ケダモノ……っ!」
キリエは有りっ丈の声で拒絶した。
叫び声を聞き付けてオーランドが助けに来てくれるかもしれない。
男は薄ら笑いを浮かべたまま腰を屈めてキリエの目の前に迫った。
「そんなに邪険にして構わないのか?お前たちが探し求めた『紺碧』の力が目の前にあると言うのに……?喉から手が出るほど欲しいのではないか……?ひ弱な人間よ……」
悔しさに涙が滲みそうだった。
あまりに卑劣だ。
完全に人間をバカにしている。
コイツらは、ただ単に『面白がっている』だけなのだ。
紺碧のプレイヤーか何か知らないが、目の前のこの卑劣な化物は、目の前にぶら下げられた圧倒的に抗いがたい魅力的な『紺碧』の力……そしてさらに言えば強力すぎるアーティファクトの力と、『愛する人』を天秤に掛けさせられて、苦しむひ弱な人間の姿を嘲笑いたいだけなのだ……!
フリンの時だってそうだったではないか。
あんな、あまりにも酷な選択をさせて……。
「あんたらは、人間を食い物にする怪物だ……!!」
キリエは自らの紺碧の主を罵倒した。
こんなのは、悪魔と取り引きをするのと同じだ。
こんな者たちの力になど、本来、手を出すべきではない。
「ククククク……その高潔な眼差し、ますます気に入った」
アルファトスの金の虹彩は、相変わらず薄ら笑いを浮かべたまま、捕食者のようにキリエを見据えていた。
オリー……おねがい……助けて。私は、どうしたらいいの……?
「明日まで待ってやろう。よくよく考えることだ。これから、本当の意味でのゲームが開始される。そのひ弱な呪力で、いったいそなたに何が出来る……?大切な者を真に守りたいのならば、我と手を組む方が得策だとは思わぬか?」
紺碧のプレイヤーから解放され、部屋に一人戻ったキリエは、愛する人の隣に収まる資格を失った気持ちで、窓際に一人、壁に背を預けて座り込んでいた。
立てた膝の間に顔を埋める。
空が白々と明るくなるまで、キリエは一人考え続けた。
オーランドとキリエはランサー皇帝の命を受けて、紺碧のプレイヤーを探すためにはるばる北方諸国を旅してきた。
何も知らずにベッドで安らかに眠る我が夫は、ランサー帝国軍の小隊長で、ランサーの利益を最優先に考えるべき立場にある。ランサーの勝利を確実にするためには、今日、ここで、カゼスから『紺碧のプレイヤー』を奪い取り、強力な紺碧の呪力と、アーティファクトの力を手に入れておくべきだ。
そんなことは、誰の目にも明らかな結論。
フリンがリッカの生命を救うために、潔くナセルの手を取ったように、私も、自分の気持ちなど押し込めて、アルファトスと手を組むべきだろう。
だが、我が夫オーランドはそれに対し、どのような思いを抱くだろうか。
今すぐ彼を起こして、救いを求めたい衝動に駆られたが、キリエは、自分で決断を下すべきことだと気付いていた。
この人は、損得勘定で動いているように見えて、その実、本当の心根はとことん『善』の人間だ。
それを、キリエは誰よりも知っている。
キリエのことを溺愛している彼が、自らキリエを犠牲にするような決断を口に出来るとは到底思えなかった。
彼は、国の利益とキリエという存在を天秤に掛けさせられて、迷い苦しみ、心を痛めるに違いない。
いかなる時も動じず、スマートで、飄々と難問をクリアしてきた彼の、悩み苦しむ姿など、キリエはけして見たくない。
彼に頼らず、自分一人で決断を下すべきだ。
キリエはベッドの縁に腰掛けて、夫の美しい寝顔を眺める。長い睫毛、人形のように滑らかな肌。
無防備で安らかな寝息。
「なんて、綺麗なひと……愛してる。愛してる……」
どうにもならない愛しさがこみ上げてきて、キリエは知らず、涙を流していた。
この人とはもう、今日ここでお別れかもしれない。
彼の両親の目の前で、命に替えても、この人の陽の光のような暖かさ、そのすべてを守り、支えると誓った言葉が、楔を撃ち込むように胸に鋭い痛みを与えていた。
それでも、元より私は、この人が、この世に生を受けて、ただこうして生きている……それだけで充分に幸せなのだ。
キリエの心は決まっていた。
この人のすべてを守り通すためならば、私は悪魔にでも魂を売ろう。




