(3)
グラスにお酒を注ぐために身を乗り出したコールの身体から、ふわりとスイカズラの香りが漂う。
「あれ、この匂い……」キリエは勘づいた。
「お揃いですね……!クアナ姫と同じ香りです」
キリエは歓声を上げた。
「う、うん……一緒に買ったんだ、よね……」
クアナは、恥ずかしそうに顔を赤らめている。
「ふふ……相変わらずロマンチストだね、コールは……!」
オーランドがここぞとばかりに嬉しそうに言う。
「『マーキング』って言うんだよ、こういうの」
「口を慎めと言っただろうが、今日は本当に疲れてるんだ……申し訳ないがお前らの戯れ言に付き合える元気がない……」
コールは悲しそうに言った。
「新生コカトリス第三小隊はどう?オーランド隊長!」
疲労困憊のコールの代わりに、クアナが朗らかに言う。
「なかなか、前途多難ですよ……。クアナさんの代わりに新しくやってきた聖術士がなかなか、一筋縄ではいかない人材で……。しかも、今までにない物凄いあざと系の美女なので、オーランドもデレデレしてるし……」
キリエがプンプンしながら言う。
「違うんだよ、キリエ……」
オーランドは喋りたくて仕方がないと言うように、含み笑いしながら切り出した。
「ここにいるメンバーに明かしたところで、何の問題も起こらないと思うから、暴露させてよ……僕一人で抱え込むには、重すぎる秘密だからさ……」
オーランドはにやにやしながら話し始める。
「なになに、なんの話よ……?」
何も知らないキリエは嫌な予感を抱えながら聞き返す。
「アリシアって、オーギュスト二世の妹君なんだって!」
「え、ええーーーーーー!?」
キリエが悲鳴をあげる。
「聞いてないわよ……!わたし、粗相してないかしら……」
急に不安になるキリエ。
「粗相どころか、罵倒してたんじゃないか……?」
オーランドは嬉しげににやつきながら言う。
「彼女はあくまで隠し子だから、これまでも、これからも公表はしないし、アリシア自身にも知らせない方がいいだろうと陛下はお考えだ。まあそもそも、前皇帝陛下はとっくに亡くなっている訳だし、今さら彼女を陛下の妹だと証明する手立てはないんだけどね……」
「うう……っ。しかし、たしかに彼女は、一見ビッチのように見えて……そう言われてみると、物凄く高貴な人のようにも思えてくる……底が知れないところがあるというか……たぶん、トンでもなく賢い人なのよね……」
「それは、たしかにとてつもなく恐ろしい話だな……」
コールも思わず呟く。
あんな恐ろしいお方の妹なんて、いったいどんな悪どい人間か、分かったものではない。
「連れてきてくれたら良かったのに……!私も会ってみたかったよ」
クアナの無邪気な言葉にオーランドは頷いた。
「次は必ず連れてくるよ!クアナ姫とは仲良くなれそうだ」
キリエも思った。
あの女子力の高そうなおねえさまが、クアナをおままごとのお人形のように愛でている姿が充分想像できる。
「リッカは元気なの?私は久しぶりに、あの竹を割ったような戦乙女の、小気味いい物言いも聞きたくなってきたよ……」
「うう……それが、大変なんですよぅ……もう、コカトリス第三小隊は波乱万丈で……リッカとアリシアは、物凄ーく仲が悪いんです。アリシアが皇妹だなんてことが分かってしまったら、私はどうやってあの二人と付き合っていけばいいのか……」
「キリエもそう思うでしょ?だから君には明かしたわけ。僕一人でこの秘密を抱え込むのはムリだ……」
オーランドはケロッとした顔で言う。
「意地悪……知らない方が幸せだった……!」
キリエは嘆くように言った。
「それよりも、僕は、カゼスへの旅の方が不安でならないんだよ……」
オーランドは閑話休題して言った。
「カゼス……?」
コールが聞き捨てならないと言うように言った。
「コール、僕はついに噂の『皇帝陛下のお茶会』に呼んでもらったよ」
オーランドは数ヶ月前の恐ろしい一幕を思い出しながら言った。
「陛下は本当に、コールにご執心なんだね……!コールと僕が仲良しなんで、機嫌が悪かったよ……」
オーランドはクスクス笑っている。
「いったい何の話だ……」
コールはオーランドの悪い冗談に憮然とした顔をする。
「陛下は、春になって雪が溶けたら、紺碧のプレイヤーを探して、僕達にカゼスまで行けと言うんだよ……。コールが居なくなったら、僕達も『特命係』は返上かと思ってたのに……相変わらずこき使おうとしてくるんだから……」
カゼスとは、ニーベルンよりもさらに北にある、いわゆる『北部連合』の中枢だ。
誰一人、行ったこともない遠い遠い異国である。
「ねえコール、お願いだからなんとか、一ヶ月か二ヶ月か、城を空けて一緒に来てもらうことは出来ないものかな……うちの新しいチームは精鋭なんだけど、君が居るのと居ないのとでは、安定感が段違いだよ……。何せうちのチームには皇妹殿下に、フィリップ殿下の婚約者までいるんだから、もの凄いプレッシャーだとは思わない?彼女たちのどちらかにでも何かがあったら、僕の首が飛ぶことになる……」
オーランドが珍しく、本気でコールを頼るようなことを言っている。
「己れの仕事だろうが。自分でなんとかしろ。俺だってつまらない事務仕事をしてるよりは、現場に赴きたい気持ちは山々だが、俺が二月もシノンを空けられるわけがないだろう……?」
そして、疲れた声のままその先を続ける。
「何よりも、クアナが大変な時に、傍を離れる気にはとてもなれない」
「わっ、私は全然、大変でもなんでもないぞ!つわりも軽かったし、オーランドがどうしてもと言うならば、一月や二月ぐらい……」
クアナは急なコールの優しさに触れて、心底嬉しそうに頬を赤らめながら言った。
「無理しないでくださいクアナ姫。相変わらずあなたは、利他的ですね……。新婚なんだから、離ればなれなんて、可哀想です。オーランド、貴方も隊長になったんだから、そんな甘ったれたこと言ってないで、私達だけで何とかしますよ……!」
コールが、「俺は忙しいから、お前らと遊んでる暇はないぞ」と言うので、翌日、オーランドとキリエは、クアナに案内されて、領内を散策していた。
「なんでコールはそんなに忙しいのさ?コールは部下に恵まれていないのかな……?」
オーランドの言葉に、クアナはとんでもない、と首を横に振る。
クアナさまー!クアナさまだー!今日もお可愛らしい……っ!
すれ違う領民たちがこぞって手を振る。お人形のような優しきシノン公夫人は領民たちからは崇拝する偶像のように大人気らしかった。
クアナはにこやかに手を振って応えている。
「領地の役人たちは、優秀な人ばかりだよ。皇帝陛下や、ノエルさんが手を尽くして優秀な人材を集めてくれたんだろう。コールはね、……潔癖なんだよ。部下に任せておけばいいのに……戸籍の整備方法から租税の仕方、集めた税の使い道を決めるところから、それが決められた通りに使われているか確認するところまで、全て自分の目を通さないと気が済まないんだ。手の抜き方を覚えないと、あのままでは過労死してしまうと思うんだけど……」
オーランドは感心した。
前言撤回だ。コールは領地経営にはたしかに向いてなさそうだけど、それは細かすぎて手を抜けないタイプだから、と言えそうだ。
「でもね、領地の経営って、物凄くやりがいのある仕事だよ……!」
クアナが使命感に燃えるように言った。
「元からある領地を引き継ぐならば、旧き悪習とか、面倒臭いお目付け役とかが居て、苦労するところだと思うんだけど……シノンは全てが更からなんだ。一つ一つのやり方を、自分達で決めていくことが出来るんだもの。大変だけど、これほど遣り甲斐のある仕事もないよ。……だからね、私達は心に決めてるんだ。一人も飢えることのない、皆が平等に、豊かになれる地を作り上げようと」
クアナの言葉は、この上なく純白の主らしい考えを映したものだった。唯我独尊であるはずの魔王コールも、彼女の美しい理想に導かれているに違いない。
「……素敵な理想ですね。あなたたち二人が主である領民たちは、どんなに幸せでしょうか」
キリエは羨ましがるように言った。
「領民たちも、本当に勤勉な人達だらけだしね。それもまた、陛下やノエルさんが、心を尽くして、やる気のある開拓民たちを全国から集めてきてくれたんだろう……。シノンの冬は、雪深くて厳しいんだけど、実直で頑張り屋さんな人達ばかりだよ」
クアナの言う通り、通りは綺麗に雪掻きされていて、目にする家々は、窓ガラスまで丁寧に磨かれているような、きちんと手入れのされた家ばかりだった。




