(3)
「私の知らぬ間に、とんだ客人が紛れ込んで無礼を働いたようだな……」
フリンが、女王を引き連れて戻ってきた。
「へ、陛下!大変なんです……!」
キリエが必死で、この国の王に訴える。
「うむ、瀕死だな。だがまだ生きている。このまま放っておくと、数刻もしないうちに死ぬがね……」
女王はきっぱりと言った。
「交換条件としよう。フリン、お前が、『私のものになる』と言うのなら、その女、助けてやる。漆黒のプレイヤーも、純白のプレイヤーも、地上で好き勝手やっているんだから、私が人間の男を一人捕まえたぐらいで、咎め立てられることはなかろう」
フリンは怯えた。
「陛下……『貴方のものになる』とは、具体的にどのような意味ですか……?」
「言葉そのものの意味だ。【アガルトの女王ナセル】に、身も心も捧げる覚悟はあるか、と聞いている」
あまりのことに、その場の全員が凍りついた。
地底世界の女王だぞ。人外の存在に身も心も捧げるなんて、いったいどんな運命なんだ……。
フリンは、にわかに、究極の二択を迫られていた。
だが、フリンがぐずぐずと躊躇っているうちに、リッカの生命は刻一刻と死に近づいている。
フリンは、褐色の呪力の持ち主だった。褐色の呪力は利他主義。他者の利益や幸福のために、自分の身を犠牲にすることのできる人種だった。
イヴ、本当に申し訳ないけど、約束は果たせそうにない……。
「分かりました。陛下。他に、選択肢はありません」
フリンの決断は早かった。
「立派な心掛けだな、フリン・ミラー。ますます気に入った」
女王ナセルは、フリンの顎に手を掛けて言う。
「さて、……どうしようかね。君たちは少し、来るのが早すぎたんだ。『人間の王』は、ずいぶん気が短いと見える」
女王はいいことを思い付いた、とでも言うように、にこりと笑って、自分の首に掛かっていた、金細工の首飾りを外して、フリンの首に掛けた。ペンダントトップは複雑な装飾のされた五芒星だった。
「私は地底を離れることが出来ないからな。これで『お別れ』と言うのはあまりにも淋しいもの。今日はお試しだ。一回分だけ、このペンタグラムに呪力を込めた。使ってみるといい」
フリンがペンダントに触れると、今まで、自分が扱ってきた呪力の力とは、比べ物にならないくらいの、圧倒的な力が、身体に注がれるのを感じた。
なんだ、この全能感は……!
「一度だけだぞ。そこの瀕死の女を、回復させることができるだろう。術名はそうだな……褐色らしく、『大地の滋養』とでもするか」
「回復呪文……?そんなものが、存在するのですか?」
コールが驚きの声をあげる。
「そう。地上では、回復呪文はとっくに滅びたがな。回復呪文があるというだけで、パワーバランスが乱れるからだ。せっかく術士同士が血で血を洗う戦いをしても、地術士が一人いるだけで無傷に戻るなんて、なんとも味気ない話じゃないか……?」
地底世界の女王はにやりとしながら説明した。
「だから、特別に、たった一人、お前にだけその力を与えてやろう。さあ、躊躇っている暇はないぞ。そうこうするうちにも彼女の生命力は尽きようとしているのに……」
フリンはペンタグラムに手を当てたまま、リッカの傍らに跪いた。
今なら、何でもできそうだった。
「〝大地の滋養〟」
リッカの身体にかざしたフリンの右手から、大地の力そのものといった、柔らかく淡い光を放つ褐色の呪力が燦々と降り注がれる。
苦しげで浅かったリッカの呼吸が、穏やかになる。
見守っていたメンバー全員が、安堵のため息をついた。
「フリン・ミラー、と言ったか。褐色の呪力を持つ誠実な人間よ。試すようなことをして悪かった」
地底の女王はどこか寂しげな微笑を浮かべて言った。
「『身も心も捧げよ』と言ったのは、『言葉の綾』だ。まさか私も、たった数十年しかない人間の人生を自分のために縛り付けるつもりはない」
悠久の時を生きるミングルの女王は、慈愛に満ちた表情で続ける。
「そのペンタグラムはそなたにやろう。加護の力も込めてある。地上世界と地下世界を結ぶ洞窟で、そなたらを魔物から守ってくれることだろう。
見返りは必要ない。私はそなたの覚悟が見たかっただけなのだ。『身も心も捧げる』と、確かな覚悟を示していただいただけで充分だ」
フリンは知らず、女王の面前にひれ伏していた。『褐色の王』は、寛大で、慈悲深い心を持つ方だった。
「……陛下、私はもう、あなたに身も心も捧げると誓い、貴方の贈り物を受け取った身。私は何があろうとも、貴方を裏切りません」
胸に手を当てて女王を真っ直ぐに見上げる人間の術士を見下ろして、彼女は一瞬だけ、少女のように顔を綻ばせた。
「やめよ、人間の術士。ますます別れが惜しくなるではないか。地底世界は味気なくつまらない場所だ。この数百年、毎日毎日同じことの繰り返しだった。そなた達が訪れたという事実だけで、私の心は充分に潤ったよ。ひとつだけ、私からそなたに願いたいことがあるとするならば、……どうかそなたは、『漆黒のアバター』の傍を離れないでほしい。その男の傍には、そなたのような人物が必要だ」
謎かけのような女王の言葉に、思わずフリンはコールの顔を見た。静かな表情でフリンを見返す隊長と目が合う。
そして、アガルトの女王ナセルは、最後にゆるりと微笑んで言った。
「また会おう、人間の術士よ。近い将来、お前は必ず、再び私の力を求める時が来ることになるだろう。十年後……いや、もしかしたら、もう少し早いかもしれない。もう一度、この地を訪れるがいい。その時、本当の力を、お前に与えよう」
こうして、コカトリス第三小隊は、人間の王、ランサー帝国皇帝からの、最難関のクエストを見事クリアすることに成功した。
フリンが再びこのアガルトの地を訪れることになるのは、その数年後のことである。




