後日譚 ― わたしの出逢ったふたり
わたしは今日も隣町の喫茶店に向かっていた。
街はやっと八重桜が咲き始めたばかりだというのに、朝から気温も上がり、初夏を思わせるような陽気になった。
行き交う人々の服装は、気温の上昇とともに、ここ数日で一気に明るい色が増えてきたように感じる。
家から羽織ってきた淡いベージュの上着は、電車に乗る頃にはもう暑くなって脱いでしまった。ずっと持っていた左腕は汗ばみ、着てこなくてもよかったとほんのちょっぴり後悔した。
薄暗い店内は少しひんやりとしていて、ピアノの音楽が聞こえてきた。
今日は開店してまだ間もないせいか、客はまばらで、わたしは窓際の席を見付けて椅子を引いた。
ひと息ついたところで、店主が注文を取りに来た。
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか?」
わたしは身体がまだ火照っていたので、いつもは飲まないアイスコーヒーを頼んだ。
「かしこまりました。少々お待ちください」
窓から太陽の光が差し込み、テーブルは半分だけ明るく照らされ、わたしの身体も半分、心地よい暖かさを感じていた。
『店主はわたしのことを憶えているかしら』
そんなことを考えながら、白いレースのカーテンを少し手でよけて、窓ガラスの外を見た。
まぶしさに目が慣れてくると、レンガ調の塀沿いに作られた花壇に、黄色いフリージアの花がいくつも咲いていた。花の輪郭は太陽の光を浴びてぼんやりとにじんでいるように見え、その甘い香りがわたしのところまで漂ってくるようだった。
隣の席には、四十代後半くらいの男女がふたり、向かい合って座っていた。わたしより少し前に来たところのようで、ちょうど注文したばかりのようだった。
どこかよそよそしい感じのふたり。いったいどんな関係なのだろうと好奇心が抑えられず、わたしは思わず斜向かいの女の様子を盗み見た。
彼女は、髪はショートボブ、薄化粧で色白の肌をしていた。なんだか恥ずかしそうにうつむき、その様子はどこか少女のようだった。
男は手元しか見えなかったが、さすがに横を向いてその顔や風貌を確認するなんていうことははばかられた。
隣の席との間は少し離れているが、声はよく聞こえてくる。わたしは悪いと思いながらも、その会話に聞き耳を立てた。
「皆実くん、ほんとひさしぶりじゃね」
彼女は男の顔と手元を交互に見ながら話しかけているようだった。
「ああ、そうだな」
「前と変わっとらんからびっくりしたよ。いつ以来かねぇ?」
「けいの法事で会ったのが最後じゃなかったっけ」
「そっか……。じゃあ、もう五年経つんじゃね。早いよねぇ」
「五年か……もうそんなに経つんだな」
ふたりが話を始めた時、店主がお盆を手にやってきた。
「お待たせしました。アイスコーヒーとカフェオレです」
店主はグラスを彼女の前に、カップを男の前に静かに置いた。その流れるような一連の所作は、見ていてほれぼれするものだった。
「どうぞごゆっくり」
店主はそう言うと、軽くお辞儀をしてお盆を脇に抱え、カウンターへと帰っていった。
彼女はグラスに入ったアイスコーヒーにミルクを入れ、ストローですこし口に含んだ。細かく砕かれた氷がグラスをカラカラとなでる涼やかな音がした。
男もカップを持ち上げ、そして音をさせないようにゆっくりとソーサーに置いた。カップの底がソーサーのくぼみにカタリとはまった小さな音がした。
「可愛川さんは……」
男がためらいがちに口を開いた。
「いまさら名字はやめてよ。よしのでええよ」
彼女は笑っていた。
「……よしのは、こっちには旅行で来たのか?」
「ん? あ、うん。友達が東京に住んどって、もう何年も前から行こうと思っとったんよ。けどなかなか行けんかったんよね。でね、やっと時間の余裕ができたけん、今しかないと思って来たんよ」
「そうだったんだ。こっちは初めてだったっけ?」
「そうなんよね。それで、皆実くんがどこらへんに住んどるのかわからんかったけど、とりあえず連絡しよう思うて」
「そっか、急に来るって言うから何かあったのかと思ってたんだけど、そういうことだったんだな」
「うん、まあ……そんな感じ。それとも、何かあったと思った?」
グラスの氷をかき混ぜていた彼女は手を止め、上目づかいで男を見た。
「いや、そういうわけじゃないけど……」
「……なーんだ、残念」
彼女はすねたような顔をした。
「ねえ、皆実くんちはここから近いん?」
「まあまあ、かな」
「ふーん、そうなんじゃね……」
「それより、せっかくこっちに来たのに、わざわざ俺なんかに会わなくてもよかったんじゃないか? 友達と遊びに行ったり、ほかに行きたいところもあるんだろ?」
「……予定はいろいろ考えてきとるけど、皆実くんに会うのもそのうちのひとつよ。なんでそんなこと言うん?」
彼女は声をすこしだけ大きくして続けた。
「皆実くんにはけいちゃんの法事にも来てもらっとるし、それに……それに、いつもメールとかじゃけん、久しぶりに会いたかったんよ。それじゃいけん?」
そう彼女は言いながらストローを揺らすと、溶けはじめた氷はグラスの中でザラザラした音を立てた。
「あ……わるかった。会いたくないっていうわけじゃないけど、他にやりたいことがあったらわるいし、それに、俺に会っていいのかっていう気もするし……」
「言いたいことはわかっとるよ。心配してくれるのもわかっとる。けど……そんなこと言わんといて」
「そうだな、わるい」
「今度言ったら許さんけんね」
彼女は優しい口調で言っていた。
ふたりは友達なのか、いとこのような親戚なのか、それともひょっとして夫婦だったのか、それはよくわからないけれど、ふたりのやりとりを聞いていると、よっぽどお互い気のおけない関係なのだろうと思った。
「……なにそれ。ばかにしとるん? そうよね、皆実くんは東京のひとじゃもんね」
男が何を言ったのかよく聞こえなかったが、彼女は少し笑いながら楽しそうに言っていた。
わたしはこんなやりとりができるふたりがうらやましくなった。
「ちがうちがう。ごめん、言い方がわるかった。俺は相変わらず言葉足らずだな……。こっちに住んでると、広島の言葉はぜんぜん聞くことがないし、それに……いや、こうして話してると、昔のことをいろいろ思い出すなと思って」
「昔? そうよね……皆実くんに会うと、やっぱりあの頃のことを思い出すよね。けいちゃんはずっと若いまんまなんよね。それはちょっとうらやましいかもって最近思うようになったんよ」
「それ、わかる気がする。俺にとってあいつは高校生の頃のままだもんな……」
けいというひとは、ふたりにとってとてもたいせつだったにちがいないのだろう。けれどそのひとはたぶんもう亡くなっていて……。だけど、ふたりの冗談ともつかない話を耳にしていると、まるで、そのひとがこの場所にいて、三人で冗談を言いあっているようにも思えてきた。
「よしの、あのさ……」
彼女は男に声を掛けられ、わたしもその言葉に釣られるように彼女を見た。その時、一瞬だけ目が合ったような気がした。その瞳は悲しみの色を宿していながら、けれど決して負けない強さを秘めているような気がした。
「なに?」
「あの……あれはもう落ち着いたのか?」
「……あぁ、うん。まあそれなりに……というより、何となく落ち着いたという感じかな」
「たいへんだったな」
「うん。ありがと」
「俺になにか出来ることがあれば言ってくれ」
「……ありがと」
彼女はそう言って、ストローに口を付けた。グラスの底には溶けた氷が積み重なり、薄まったコーヒーがその間を満たしていた。
「じゃあ、その時になったらお願いするけん、覚悟しときんさいよ」
「なんだ、覚悟しとかないとだめなのか?」
「あたりまえよ。皆実くんに頼むってことは、もう相当にどうしようもなくなった時じゃけんね」
彼女はほんとうに屈託なく楽しそうに笑っていた。
「それは冗談じゃけど、いつまでもくよくよしとっちゃいけんしね」
「それはそうかもしれないけど、たまにはゆっくり想い出に浸るのもいいんじゃないか?」
「だめよ。想い出に絡め取られて、悪い方に引っぱられそうになるけん」
「絡め取られる?」
「そう。過去に縛られるというか、過去のいろんなもんが絡まってきて、身動きできんようになる感じ? じゃけん、後ろは振り向かずに前を向こうと決めたんよ」
「そっか……」
「こんな考え方ができるようになったのも、けいちゃんのおかげかね」
「あいつは病気してた時も、いつも前しか向いてなかったんだもんな」
「そうよ。前向きじゃないとあのこに怒られるけんね。じゃけん、前を向いとかんといけんのよ」
彼女は自分を納得させるかのように言った。
「そういう皆実くんはどうなん? 何かあったりせんの?」
「俺は相変わらずかな」
「ふーん、そうなんじゃね……。それは、いいことなんじゃろうね」
その時、店内に流れてきたピアノの音楽。
「あ、これ『愛の夢』じゃない?」
彼女は音楽の流れてくるカウンターの方を見ながら言った。
「ん?」
「ほら、ちょっとジャズっぽく?アレンジされとるみたいじゃけど、リストの『愛の夢』じゃない? そうよね?」
「……ほんとだ。ずいぶん雰囲気が変わっててわからなかった」
男は聞き耳を立てていたが、理解したようだった。
「わたし、まだ着信はこの曲なんよ」
「着信? ああ、そういえば、昔そんなこと言ってたっけ」
「そうよ。皆実くんが貸してくれたCDからよ。もう何十年同じ曲を使っとるんかって自分でも思うけど、これからもたぶんずっとこれかもしれんね。こうなったら、もう意地じゃね」
「じゃ、俺も付き合ってその曲にしようかな」
男は笑みを浮かべながら言った。
「使わせてあげてもいいよ」
彼女もうれしそうに笑いながら言った。
わたしはふたりの会話を耳にしながらカバンから本を取り出し、しおりに手をかけ読みかけのページをめくった。
『やわらかな日差しが、舞い散る桜の花びらひとつひとつに降り注いだ。桜並木の坂道を登りきった場所にあるその高台からは、遠く瀬戸内海が見渡せ……』
わたしは小さな島々が浮かぶ、たおやかな瀬戸内の春の海を頭に思い描いた。その風景は春霞に覆われ、まるで薄紅色の濃淡だけで描かれた水墨画だった。
それからわたしは本に読みふけった。
「そろそろ行こうか?」
わたしはしばらくして聞こえてきたその声に振り向くと、男は腕時計を見ていた。
「う、うん」
彼女が小さく頷くのを見て、男は立ち上がった。
「ねえ、皆実くん……」
「ん?」
「わたしとけいちゃんに逢って、よかった?」
彼女が呟くように言うのが、わたしには聞こえたが、男の耳には入らなかったようだった。
「ん? なに?」
「……なんでもない」
「まだ行かないほうがよかったか?」
「ううん、大丈夫。行こ」
男はそれを聞いてカウンターへ向かって歩き出した。
彼女は男の後ろ姿を見あげるように見つめ、それから目を伏せて立ち上がった。
男には見せないその整った横顔は、少し寂しそうにも見えた。
「あ、落ちましたよ」
彼女の膝からハンカチが床に落ち、わたしはそれを拾い上げた。
「ありがとうございます」
彼女と目が合った。
その瞳は深く憂いをたたえているようだった。
彼女はやさしくほほえみ、わたしの手からハンカチを受け取ると、カウンターへと歩いていった。
わたしはしばらく彼女のうしろ姿を見つめていた。
彼女の髪は若い頃からずっと短かったのだろうか、それとも長かったのを短く切ったのだろうか。もし長かったら、子供の頃は三つ編みにしていたことがあっただろうか。わたしはなぜかそんなことが気になった。
「このねこちゃん、皆実くんちにいたねこみたいじゃね」
「ほんとだ、似てるな」
カウンターからふたりの声が聞こえてきた。
わたしは椅子に座りなおし、ふたたび本を開いて目を落としたが、ふたりのことが気になり、一文字も頭の中に入らなかった。そして気付くと、同じ段落を何度も何度も読み返していた。まるで波間に漂う桜の花びらのように。
店のドアの閉まる音がした。
窓の外を見ると、ふたりがバス通りへ向かってゆっくり歩いていくのが見えた。
わたしはもう少し店にいようと思っていたが、気が変わって荷物をカバンにしまい込むと、椅子から立ち上がった。
カウンターのレジの横には、紙細工の額縁の中に猫の写真が収まっていた。前に来た時に猫の話をしていたひとがいたっけ。
「ごちそうさま」
店主は「ありがとうございました」と言って軽く頭を下げ、その他には何も口にしなかった。彼の目はやさしかった。
わたしは店の外に出ると、太陽のまぶしさに軽い目眩を覚え、思わず目をつぶってしまった。
手を離したドアが鈴を鳴らして重々しく閉まり、ピアノの音楽の代わりに、バス通りを走り抜ける車の音が聞こえてきた。
次に耳に入ってきたのは、街のざわめきだった。
わたしは目を開けると駆け出したい気持ちを抑え、ふたりのあとを追うように通りに出てみたが、道路のどちらを見ても車の影しかなく、その姿はもうどこにもなかった。