【1】
いつもと同じ、光景。
葛西 杏美が教室に入るなり、大声で騒いでいた派手で目立つグループの女子たちが一瞬で静かになった。
入り口を、……杏美の方をあからさまに目だけで窺いながらのヒソヒソ話。
「葛西。おはよー!」
「おはよう、若松」
自分の席に座っていたクラスメイトの若松 亮輔が威勢よく立ち上がり、杏美に声を掛けて来るのに素っ気なく挨拶を返す。
「杏美ちゃん」
友人の小椋 佳映に小声で呼ばれ、杏美はそちらへ向かった。
「佳映。どうかした?」
「あんなの気にしないでね。……ごめん、杏美ちゃん」
呟くような彼女の声に申し訳なささえ感じる。彼女が心を痛める謂われもないのに気に病ませてしまっていた。──だからこそ決して関わらせてはならない。
「してない。あと佳映は絶対何もしちゃダメだからね! 巻き添え食うことない。……別に私のことなんて放っといていいのよ」
「そんなことできるわけないじゃない。でも、結局何もできなくて、私──」
この優しい、そして少し気弱な友人だけは守らなければ。
「あのさあ。私があんなのでショック受けるとでも思ってる? そんなわけないじゃん」
「そ、れは知ってるけど。でもあんなわざとらしいのって」
自分のために憤ってくれる佳映を、杏美はどうにか宥めようとした。
その背後から聞こえる、不愉快な粘ついた声。
「若松ぅ。今日の英語さ、あたし当たるからちゃんとやって来たんだ〜。よかったら見る?」
杏美を敵対視するグループのリーダー的存在である綾野 玖里子が、彼に擦り寄っている。
「いらねえ。英語なら宗が得意だし、いっつもバッチリだしな。なあ?」
先程の杏美に対するものとはまるで違う不機嫌な顰め面で玖里子に吐き捨てた若松は、名の上がった友人に話を振った。
「おお、もちろん! 昼になんかデザート奢ってくれよな」
「よし、交渉成立。プリンでいいか?」
すぐ傍の玖里子を完全に無視して、若松は友人との会話に移行していた。
玖里子が、ひいては彼女の属する集団が杏美を敵視して攻撃しようとする主因はこの若松だ。
彼は杏美が好きらしい。
杏美はむしろ気分屋で自分勝手な彼は嫌いなタイプでさえあるのだが、玖里子にはそんなことは関係がないのだろう。
好きな男が、自分とは違う女に気持ちを向けている。
ただそれだけのことで自分の評判などお構いなしに、場所を選ばず醜悪さを剥き出しにできるその神経がまず信じられなかった。
男のことだけで頭が埋め尽くされた愚かさにただ呆れる
そもそも杏美がいなくても、普段の対応からだけで若松が玖里子に特別な想いを向けることはない気がした。
放課後、教室に忘れ物をして仕方なく戻った杏美は、何故かそこにいた若松と顔を合わせる羽目になった。
「葛西。もう知ってるよな……? 俺、お前が好きなんだ。だから、その。付き合わないか?」
さっさと用を済ませて立ち去ろうとしたのに、空気を読まない若松の告白に内心げんなりする。
「悪いけど……」
喉まで出掛かった声を飲み込ませたのは、脳裏に過る玖里子の顔だった。
容貌はむしろ良い方だろうに、内面がそのまま出たあの下卑た表情がすべてを台無しにしている。
「……いいよ。でも私、まだ若松のこと好きとか、そこまで思えないんだ。だから付き合うって言っても、学校で話したり駅まで一緒に帰ったりとかその程度だけど。それでもよければ」
この男に合わせる気はなかった。
たかが「玖里子に思い知らせるため」だけに余計な時間や労力を費やすなど無駄でしかない。
佳映とは同じ中学出身とはいえ、少し家が離れていて彼女はバス通学だった。そのため電車利用の杏美は登下校はもともと一人で、予定を変える煩わしさも感じずに済む。
「いい! 葛西は俺のこともよく知らないと思うから、少しずつ好きになってくれたらそれでいいんだ!」
これから部活の練習があるという彼は、声を上擦らせてそれだけ言い置くと教室を出て行った。
杏美の承諾に全身で喜びを表す若松ではなく、このことを知った玖里子の反応だけが楽しみだった。
◇ ◇ ◇
「葛西、今日昼メシ一緒に食わねえ?」
「ごめん、昼は先約あるんだ」
告白を受け入れた翌日、登校した杏美を待ち構えていた若松に誘いを掛けられた。
「あ、そっか。いやいいよ。急に言った俺が悪いんだし」
食い下がられたら面倒だな、と眉を顰めそうになった杏美は理由を問い質すこともなく引く彼に驚きつつも安心する。
「杏美ちゃん、あの、……若松くんと……?」
「ああ、まあね。『付き合ってくれ』って言われたから。私のどこがいいのかわかんないけど」
佳映の問いに答えながら、同時に露骨に聞き耳を立てているのがわかる玖里子へも確実に届けるために、声を抑えることもしなかった。
「クーコ……!」
誰かが椅子を蹴倒す勢いで走り去る音と気配を背中に感じながら、杏美はそちらを振り返ることさえせずに佳映との会話を続ける。
「そうなんだ、全然知らなかったからびっくりしちゃった。杏美ちゃんはそういうの興味ないと思ってたし」
「私も一応は女子高生の端くれだしね。あ、佳映。お昼は今まで通り一緒に食べよ! それでさ、昨日話してたあれ──」
実際に興味などないのだが、わざわざここで口にすることではないと話題を変えた。
「若松、ちょっといい?」
「え!? 何?」
食事を終えた昼休み、杏美は佳映に断って若松を誘い教室を出た。
「私が佳映と仲良いの知ってるよね? 昼もいつも二人で食べてるから、もし私が若松と食べたらあの子一人になっちゃう。まあそれは気にしないと思うけど、……佳映にとばっちり行ったら困るの。意味わかる?」
無言で彼を先導して歩き、人気のない廊下の端で足を止めて切り出す。
「ああ、そういうことか。わかる。綾野だろ」
杏美が玖里子に執拗に悪意を向けられていることは周知の事実だ。
当の杏美が平然としているため誰も間に入ろうとはしないが、不快感を覚えているクラスメイトは多いのだろうか。
「……佳映は中学の時ちょっと虐められてた時期あったみたいなんだ。陰でやりやがるから私も知らなかった。もう二度とそんな目に合わせたくない。だから絶対巻き込みたくないんだよ!」
思わず声に力を込めた杏美に、目の前の彼は真剣な面持ちになった。
「俺も宗とか河野に気ィつけてもらうように言っとく!」
「余計なことはしなくていいからね。もしものときはせめて私に教えてくれたら助かる」
杏美に頼られたことが嬉しいのか、若松は「任しとけ!」と胸を張った。
「葛西、友達思いだよな」
「普通よ、こんなの。若松は違うの?」
真顔の杏美に、彼は納得したように「違わねえ」と返して来る。
「なあ、今日一緒に帰れる……? 駅まででいいから」
「うん。でも若松、部活は?」
「今日はオフ! 練習ない日だけでも一緒に帰ろ?」
いいよ、と返した杏美に、若松は嬉しそうに頷いた。
玖里子に「若松が杏美と付き合い出した」ことを知らせ、唯一の不安である佳映の安全にも一応は備えた。
あとは向こうの出方待ちか。
結局、その日のうちに早速行動に出た玖里子に、杏美は餌に引かれて罠に掛かる獲物を重ねていた。
「……あー」
若松と連れ立って帰るために辿り着いた昇降口。
杏美の靴箱は紙くずや菓子の包装ごみで溢れていた。
「なっ! なんだよこれ。葛西、そんな平気な顔で……。もしかしてずっとこんなことされてたのか!?」
「毎日じゃないけどね」
事実をそのまま告げる。
こういうことは誇張しない方がかえって効果的だ。杏美の自作自演だとでもいうのならともかく、間違いなく玖里子の仕業だろう。
教室でのあからさまな態度は鳴りを潜め、入れ替わるように陰湿な顔を見せない嫌がらせが始まっていた。
いま杏美に「直接」なにかすれば、若松が黙っていないのは明白だからだ。同様に、佳映に対する理不尽な仕打ちもない。
「なんで言わないんだよ! こんな、卑怯だろ!」
「汚れ物じゃないし、捨てればいいから。たいしたことないわ」
万が一にも笑みが漏れないよう俯いたのを、彼は傷ついているせいだと捉えたらしい。
基本何にも動じない、気が強くはっきりした杏美の普段にない様子に、若松の方が怒りを抑えられないようだった。
「──なあ、これ綾野だよな? 葛西、ずっとイジメられてたじゃん!」
「わかんないわ。誰がやったのか見たことないし。他に心当たりなんてないけど、勝手に決めつけるの嫌だよ」
明言はしないものの「玖里子の仕業だと思っている」というのは伝わった筈だ。
「だからってさあ! 俺、こういうの許せねえ! ガツンと言ってやんねえと……」
「あのさ、『もし』そうだったらまたエスカレートしたら困るから。若松も今までのこと知ってるでしょ? 私はどうでもいいけど、佳映に向いたらどうしてくれんの? 証拠でもあるならともかく」
黙り込んで考えを巡らせているらしい若松に、どうやらいい方向に行きそうだ、と杏美は顔には出さずに笑った。
嫌な奴だとしか感じてはいなかった。
この一週間共に過ごす時間が増えてはいても、特別な感情などはまだない。それでも彼が、二人でいるときに杏美の意向を確かめつつ楽しませようと努めているのは伝わっていた。
もっと独善的で「黙って言いなりになっていればいい」というタイプに見えていたのに。
思ったよりも「いい男」らしい暫定恋人。
「なあ、葛西。今日は寄り道できる? お家の方は?」
「あー、今日は何も言って来てないから。明日ならお茶くらい大丈夫だよ」
杏美の言葉に、彼はまるで飼い主に尻尾を振る犬のように満面の笑みで「だったら明日はカフェ行こう!」と明るい声を上げた。
きっと若松は、このまま見過ごすことはしないだろう。
どちらにしても、玖里子の末路を見届けられればそれでよかった。