右衛門14-3
「右衛門14-3」
(矢代喜左衛門の娘)
「蘭学医 西洋英様の一番弟子が上京して、菊屋という料亭で滞在しております。聞くところによりますと、矢代様の御息女が原因不明の病に臥せっているとのこと。もしよろしければ、今申しました蘭学医大屋隼人様に、お子様の病状を診察してもらってはいかがでしょうか。ちなみに、西様は大前屋の故店主、宗衛門様が厚く信頼を寄せていた上方では有名な名医でございます。その西様が一番信頼している弟子が大屋様でございます。」
弥吉からの手紙を食い入るように読んでいた矢代喜左衛門が、奥の部屋から大声を張り上げて、家の番頭を呼んだ。
西の名前は、喜左衛門も耳のしたことがある。上方で名医として知られた蘭学医であった。
「お呼びで?」
主人の声で駆けつけた番頭が、息を弾ませそう言った。
「菊屋という料亭へ行って、大屋隼人という医者を呼んできておくれ!わしの娘の病状を診察してくれまいか、と言ってな。この手紙を見せれば、全て分かるからな。」
そう言って、喜左衛門が番頭に今読んだ弥吉の手紙を差し出した。
「早速行ってまいります。」
番頭は菊屋という料亭に覚えがあった。
「番頭さん自らお願いしますよ。」
喜左衛門が、最後にそう言って番頭にくぎを刺した。
菊屋に着いた番頭は、早速、仙太に主人の用件を話した。
仙太が慌てて二階に上がってくる。
「矢代海運の番頭だとおっしゃる方が、このような手紙をもって大屋様に面会を求めておられますが。」
仙太はそう言うと、手に持った手紙を隼人に差し出した。
陽明と隼人は、寝転がって本を読んでいた。仙太の言葉に最初に反応したのは、陽明だった。
「うまくいった!」
陽明はそう言うと、にこりと笑顔を見せた。
「どういうことだ?」
陽明につられるように身を起こした隼人が、きょとんとした顔をして陽明の顔を見る。
「どうやら馬車を用意して来たようだ。よほどお前に期待をかけているようだな。」
窓に近づいて、下を覗いていた陽明が、隼人にそう言った。
「お前の企みか?」
隼人の表情が真剣になる。
「なんてことはない。お前のことを弥吉さんを通じて矢代という豪商に伝えたら、すぐに応答したまでさ。すまんが、矢代喜左衛門の娘の病を診察してきてくれんか?」
陽明は詳し話もしないで、隼人にそう頼んだ。
「私も医者だから、診察を頼まれれば行かぬわけにはいかないが・・。これには何だか陽明の企みの匂いがするな。」
不審そうに、陽明の顔を見る。
「西先生なら、患者の求めがあれば即座に応じるだろうな。先生は困っている人間に詮索などしないお方だから・・。」
陽明はそう言うと、隼人の顔を見てにやりと笑った。
「おい!(不満げな顔をしたが)仕方ない。診察箱をとってくる。」
隼人はそう言うと、陽明にそれ以上説明も求めず、あきらめたように立ち上がった。
彼にとって、陽明たちが企む策略を知ることは、いらぬ厄介を背負いこむ事と同じであった。それより、理由はともかく、困った患者を診察することが余程気楽だったのかもしれない。
矢代という豪商の屋敷は、想像通りの豪邸だった。
「大前屋の別宅によく似ている。豪商と言うのはこんな屋敷を好むのか・・。」番頭に案内されて、矢代の屋敷に入った隼人は、心の中でそんなことを考えていた。
離れ屋がいくつか点在し、その間を丹精に整えられた石庭と低木が風流を醸し出している。ところどころに、小さな池があり井水が流れ込むせせらぎに似た水の音は、何とものどかである。
隼人は一番奥にある離れ屋に案内された。
障子を開けると、色の白い若い女が簡素で清潔そうな布団に臥せっている。彼女の世話をする女中だろうか、布団の脇でじっと娘を見守っている。
「この方は、この屋のご息女ですか?」
隼人は、病人の上品そうな面立ちを確認すると、振り向いて番頭にそう尋ねた。
「矢代喜左衛門様のご息女で菊様と申します。」
番頭が隼人の問いに返答する。
隼人は番頭の紹介を聞くと、改めて菊の顔を見た。目は閉じているが、透き通るように白い肌をしていて、目鼻立ちは整っているようだ。一目で、美形であると認識できた。布団の下の部分がめくれて、細い足が覗いている。その足は、細いだけでなく、病気のせいでむくみを帯び、女中が一日に何度もきれいな布で拭っているのか、肌が透き通っているかのようだった。
隼人は菊の傍に座ると、彼女の腕をとって脈を測るために、自分の手を彼女の手首に押しやった。その時初めて、菊が閉じていた眼を開き、隼人の顔を見る。隼人は、胸のときめきを必死で押さえた。「美しい人だ・・。」素直にそう思った。目は大きく、人を吸い込むような大きく丸い瞳が、きらきら輝いている。
菊は隼人に触れられた手をじっとしたまま、素直に彼の診察に応じている。
「脈に異常はないが・・。」
菊の横で、隼人が独り言のようにつぶやいた。
「お嬢様は、この様な状態で床に臥せって、三月が経ちます。他の医者に診せましたが、病気の原因が分からず、少しずつ体が衰弱していっている様で・・。旦那様のご心痛も並大抵ではございません。菊様は、旦那様にとっては、たった一人のお子様で、目にも入れても痛くないほど可愛がっておられますから・・。」
番頭はそう言いながら、時折涙目になり声を震わせた。
隼人は番頭の言葉を聞きながら、娘のお腹と足を触手しながら病状を探っている。菊は身動きもせず、隼人の触診を黙って受けている。
隼人は、しばらく菊の体を検査した後、考えこむように腕を組んで、じっと患者の病気の原因を考えているようだ。
番頭がたまりかねて、
「どうでしょうか?」
と、診断の結果の判断を促した。
「親御様はおられますか?」
隼人が、番頭の質問を無視してそう聞いた。
「はい。向こうの離れ屋で、あなた様の診察の結果をお待ちです。よろしければ、早速ご案内いたします。」
番頭はそう言うと、その場を立ちあがった。菊は隼人に何の質問もするではなく、再び目を閉じて、じっと横たわっていた。
番頭に案内されて、隼人は矢代喜左衛門の待つ別の離れ屋に案内された。そこには、弥吉が喜左衛門の近くで座っていた。
「ますます、陽明の策謀の匂いがする・・。」隼人はそう思ったが、弥吉の方を向いて頭を下げると、喜左衛門の正面に用意された座布団の上に座って正座した。
「どうでしょうか?病の原因はつかめたでしょうか?」
喜左衛門が、不安そうな表情をして隼人に聞いてきた。
菊の年頃を考えると、もっと若い四十半ばの親を予想していた隼人であったが、どう見ても、考えていた年寄りもかなり年配の初老の男であった。髷はすでになかったが、着ている衣服は昔ながらの大店の主人を思わせる、高価そうな紋付きであった。
「脚気と思います。」
隼人は、かなり自信をもって病名を断定した。
「おお・・。」
喜左衛門が、感動したように声を発した。側でいた弥吉が、誇らしげな笑みを浮かべる。
「病名を突きとめましたか。さすがは、高名な西先生の一番弟子・・。」
喜左衛門の顔に安堵の表情が浮かんだ。
「それで、治る手立ては?」
たたみかけるように、喜左衛門が隼人に聞いてきた。
「脚気の治療方法は、分かっていません。最初は手足がむくみ、次第に体の筋力が失われていく。最後には、心の病で亡くなる患者も少なくない。」
隼人の冷静な説明は、喜左衛門にはどこか突き放されたように聞こえた。
傍で聞いていた弥吉の表情にも今までの満足気な笑みが消え、真剣な顔に豹変した。
「菊は、私どもにとってはただ一人の娘・・。先生のお力で何とか救ってはくれませんか?お礼の方は、いかほどでも用意しますので。」
隼人は喜左衛門の最後の言葉にむっとした。
「私の先生から、報酬で動くような医療はするな、ときつく言われております。(喜左衛門の方を睨みつけた)一応、血の巡りをよくする薬を出しておきました。後は、女中さんの方に、できるだけ患者の体を動かすのを助けるようにお願いしたので・・。今後、陽明とも相談して、手に入りにくい蘭方の薬も試してみようと思います。もちろん、薬代の方は、糸目をつけませんが・・。よろしいでしょうか?」
隼人は一気にそこまで言うと、これ以上用はないと言わんばかりに、立ち上がった。
「隼人さん、私の方からも菊様のこと、お願いします。」
初めて口を開いた弥吉が、その場の雰囲気を察するようにそう言うと、隼人に深々と頭を下げた。それに応じるように、隼人が弥吉に頭を下げて外に向かう。
玄関を出た隼人の脳裏から、菊の人形のように整った白い顔の面影が離れなかった。
(大阪の反乱事件)
奈良で勃発した政府転覆の反乱事件は収まる気配もなく、次第に集団の数は膨れ上がり、二千人に達する勢いであった。反乱軍の指導者はすぐに行動に移すことなく、大阪の警察隊に暗黙のプレッシャーをかけることにより、大阪警察の無血開城を迫ってきた。
反乱軍の大将小栗からの手紙を読んでいた源一郎の手が震え始める。
「ふざけた奴だ!我らに黙って警察署と行政機関を明け渡すよう迫ってきた。」
源一郎はそう言うと、届いた紙を与助に渡した。その紙を志摩が上からのぞき込んでいる。
「もう父上の援軍を待っておれませんぞ。敵は明日には生駒の山中にあるいくつかの寺に陣を移すつもりです。奴らの進軍を阻止するためにも、枚岡(志摩の作戦)に兵を配置せねば・・。大砲を山に設置するにも一日では難しいですぞ。」
与助が源一郎に作戦実行を促す。
「反乱軍は、こちらの出方をうかがっている最中です。早急に守りを固めれば、反ってこちらの手の内が見破られます。源一郎様は、何とか義父の忠成様を説き伏せて、小野道場から門下生を募って、相手の総攻撃に対処せねば・・。」
与助とは対照的に、志摩の説得は冷静だった。
「源一郎様はすでに忠成様に頼んだが、断られた。小野一門が警察に加担することはできんとおっしゃっておられる。無理なことを言うな!」
与助が妻の志摩に注意した。
源一郎は、黙って二人の言い争いを聞いている。
「私に考えがあります。源一郎様は忠成様に何度でも頭を下げるお覚悟を持っていただかねばなりませんが、よろしいでしょうか?この戦は、援軍がなければ負けです!」
志摩はそう言と、源一郎の顔を睨みつけた。彼女の視線には、かつての見能林藩での主従関係は解消され、策略家としての片鱗を覗かせていた。
源一郎は志摩の気迫に圧倒されたように、素直に頷いた。
志摩は小野一龍齋(忠成の父、元小野一刀頭首)に目をつけていた。彼を口説けば、忠成から何らかの譲歩を見つけ出せるのではないかと思ったのである。そのために、源一郎の妻で美桜の助けを借りることになった。一龍齋は孫娘の美桜を溺愛していたからである。
達磨(居酒屋)に、源一郎と志摩が美桜の誘って連れてくるはずの一龍齋を待っている。
しばらくすると、思惑通り、美桜が祖父の一龍齋と共にやってきた。
「美桜がわしに御馳走をすると言っていたが、何やら魂胆があるようだな。」
部屋に座っている志摩と源一郎の顔を見て、一龍齋がにこりと笑った。
「実は、奈良で発生した反乱軍のことについて・・。」
源一郎が重い口を開いたが、途中まで話すと一龍齋が話をさえぎった。
「そのことは、又五郎や忠成から聞いておる。」
一龍齋は詳しい話を中断させるためにそう言うと、志摩が差し出した徳利の酒に盃を差し出して注いでもらった。
「志摩さんが佐那河内きっての策士だということは、右衛門から聞いていたが、今度の反乱軍鎮圧の策を美桜から聞いて、奴が言っていることが間違いでないことを認識させられたぞ。」
一龍齋はそう言うと、徳利を持った志摩の顔を見てにこりと笑った。志摩の作戦は、すでに美桜から一龍齋に伝わっていたのである。
「ただ、この計画には接近戦での強力な対抗策がございません。一龍齋様の方から、忠成様に、援軍を派遣してくれるようお願いしてはくれないでしょうか?」
志摩はそう言うと、一龍齋に応じるように笑みを浮かべた。
「だがのう。忠成の言うように、小野道場の門下生を参戦させるには、それなりの大義がいるからなあ・・。わしらは警察の犬ではない。」
最後の言葉を発した瞬間、一龍齋の表情が引き締まった。その言葉を機に、場が重苦しくなり、誰も発言を避けようとしているようだった。志摩は、美桜の機転に期待していた。
「そこをおじいさまのお力で・・。そうでないと、夫の立場が地に落ちます。そんな源一郎を見たくはないのです。」
期待通り、美桜が一龍齋に泣き脅しをかけた。志摩の企み通りである。
何故か一龍齋は美桜の言葉を予想していたかのように余裕の笑みを浮かべる。
そして、
「源一郎、おぬし、美桜を嫁にもらう時、忠成と竹刀を交えたな。」
一龍齋はそう言うと、源一郎の顔をじっと見る。
「はあ。」
意外な言葉に、戸惑ったように源一郎がそう言ったなり、不思議そうな顔をしている。
「どうだ。今度立ち会えば、勝てそうか?」
一龍齋の言葉に、この場の三人の顔に戸惑いの表情が同時に浮かぶ。
「無理でしょう。義父は我が叔父の右衛門にも互角で戦える剣客。私の腕では・・。」
源一郎の返答は自然であった。
「そうか、無理か・・。」
一龍齋は落胆したようにそう言うと、腕を組んで黙ってしまった。
「でも、どして源一郎が父上と対戦せねばならないのです?」
美桜が真意を祖父に問いただす。
「皆の前で、源一郎が忠成と互角に戦えば、皆もわしの説得に耳を傾けるのだがな・・。」
一龍齋は、美桜の質問にはっきり答えず、そう言ったなり再び源一郎の顔を見た。
「分かりました。もうこれ以上、おじい様を困らせても仕方ありません。」
源一郎は一龍齋への頼みをあきらめた。そして、吹っ切れたように一龍齋の顔を見て笑った。しかし、
「一龍齋様には何か策がおありでは?」
と志摩が尋ねた。
一龍齋の言葉をじっと聞いていた志摩は、彼の考えている秘策を感じ取っていた。
「さすが、志摩さんだ。わしに一案ござってな。」
一龍齋はそう言うと、にこにこ笑いだした。三人は一龍齋の発言をじっと待っている。
「忠成が練習試合をするときには、一つの癖がある。これはここだけの話だぞ。」
一龍齋はそう言うと、再び三人の顔を見る。応じるように、三人が一斉に頷く。
「奴は道場での立ち合いの時、竹刀を正眼に構えて、相手の動きを見切ったら、凄まじい気迫で打ち込んでくる。大抵の相手は一撃で勝負が決まるが、右衛門のような剣豪は忠成の動きに対応できる・・。」
三人の顔は真剣そのものである。その表情を見た一龍齋が笑い出す。
「おじい様、私たちは真剣なんですよ!」
美桜がすごい剣幕で、一龍齋に注意する。
「すまん。(反省したように頭を下げる。)しかし、奴には正眼に構えた時に、隠しきれない癖を出す。それはな、打ち込む瞬間に小指が微かに動くのじゃ・・。この癖は奴が幼いころからの欠点だが、そのことを知っているのはわしだけだ。」
一龍齋はそこまで言うと、前に置かれた盃に自分で酒を満たして、一気にあおった。誰も口をさしはさまず、彼の話の続きをじっと待っている。
「そこでだ。もし、源一郎が忠成と対戦した時、相手の構えに応じて正眼に構え、忠成の小指の動きに集中すれば、必ず奴の動きに反応できる。後は、お前の剣の力に頼るしかない。うまくいけば、互角に持ち込める・・。」
一龍齋はそこまで言って、源一郎の剣の技量に頼った。しばらく、沈黙が続いた後、
「やってみます。」
源一郎が意を決したように、そう呟いた。
(隼人の恋)
白米、きんぴら、たくあん、うめぼし。
これが、今日食した菊の献立だった。そこに記された文字を見ながら、隼人が深くため息をつく。
「もっと滋養のある食べ物を食せねば・・。」
隼人は、戒めにも近い言葉を菊に発する。
「欲しくないのです。」
菊が上半身を持ち上げてそう言うと、恨めしそうに隼人の顔を見ている。
隼人は毎日菊のもとにやってきては、薬を調合し、彼女の体調を観察しては、雑談をする。
「欲しいとか、欲しくないとかの問題ではないのです。無理やり口に入れてでも滋養を取らねば、死んでしまいますよ!」
隼人の言葉は、厳しかった。すると、菊がすすり泣き始める。
「これは言いすぎました。」
菊の様子に驚いた隼人が、慌てて頭を下げて謝った。
すると、その様子を見て、
「いいのです。許してあげます。」
と言うと、菊の顔が笑顔に変わる。
不思議なもので、隼人はそう言われても、菊のことが愛おしくなるのである。「完全に菊に魅せられている・・。」隼人はそう思うのだが、これだけはどうしようもない。理屈ではないのである。
隼人と菊の病床のある部屋の障子を開けて、並んで庭に作られた池の上を飛んでいるトンボを眺めている。
「私は秋が一番好き。」
しばらくの沈黙の後、菊がトンボを眺めながらぽつりと呟いた。
「私も初秋が好きです・・。」
菊の言葉につられるように、隼人が同じようにそう言った。
「隼人さんはどうして江戸へ出てきたのです?」
隼人の方を向いて、菊がそう尋ねる。
「昔の親友に会いに来たんです。名は陽明と言って、イギリスで妻のナタリーと暮らしているんですが、先日、二人で日本に帰国したんです。」
隼人は相変わらず、トンボが水辺を飛びかっているのを眺めている。
「私、知ってます。お父様がおっしゃってた。何でも、日本一の剣豪の右衛門というお方の甥で、イギリスのアダムス商会という貿易商の娘と結婚したって言ってました。」
隼人は菊の言葉に驚いたように、
「やはり、右衛門様はそんなに有名なんだ・・。僕はあの方に憧れているんです。長崎で、示現流最強の薬士様との死闘を見たことがあるだが・・。あの人は、剣においては鬼神です。それでいて、私のような人間とも、普通に付き合って下さる。私が今度生まれてきた時は、あの方のように、一つのことに秀でた天才として生まれてきたいものだ。」
隼人は、いつの間にか、独り言を言っているように話していた。
「私も会ってみたいな。そんな方々と・・。」
菊は半分無理な願望だと思いながら、そう呟いた。
「会わしてあげますよ。右衛門様は難しいかもしれないが、陽明やナタリーならいつでも・・。」
隼人にとっては、身近の友人達だった。
菊が驚いて、隼人の顔をじっと見ながら、
「嘘じゃないでしょうね?」
と、隼人の言葉を確かめるように念を押した。
「いつか、ここへ連れてきてもいいですよ。」
隼人にとって、陽明やナタリーをここへ連れてくるのは、難しいことではなかった。
「約束してください!」
菊はそう言うと、右手の小指を突き立て、隼人の面前に押し出した。隼人の顔が、少し緊張している。それでも、はにかみながら、自分の小指を菊の小指に絡ませた。その瞬間、彼の体内の奥から幸せを感じる血液が湧き出て、体中をかけめくっているかのような錯覚に陥り、至極の喜びを体験したのだった。
「菊の病気を看ながら、自分は菊に恋煩いか・・。」隼人はそんなことを思いながら、菊に見られないように苦笑していた。
(源一郎と忠成の公開試合)
立ち合いの時、忠成の小指が動くというのは、少年の頃の癖であるのは事実であった。ただ、今ではその癖は克服されていた。考えてみれば、小野一刀流の頭首がそのような欠点を修正しないはずはない。源一郎も、一龍齋の言葉をそのまま鵜呑みはしていなかった。
しかし、忠成との公開試合では、必ず、義父はその癖を見せるだろうという確信のようなものがあった。一龍齋と忠成の間で何らかの魂胆があるのは確かだが、源一郎はそのことを詮索しようとは思わない。色々相手の策略の意図を考えるのが、鬱陶しかったのだ。
源一郎と陽明の決定的な違いは、戦略家としての資質の違いである。源一郎の淡泊な性格は、弱点ではあるが、人を引き付ける魅力でもあった。事実、美桜は源一郎の分かりやすい性格に惚れたのである。
たとえ忠成の癖が自分に有利に働いたとしても、小野一刀流龍の頭首と流派の後継者ともささやかれている源一郎の試合で、忠成が八百長めいた試合をすれば、集まった各地の小野派師範が見破らないわけがない。源一郎にとって、義父はどう考えても勝てる相手ではない。しかし、忠成が癖を出したとしたら、かすかな勝機になることは確かであった。
予想通り、忠成は源一郎に正眼の構えで対してきた。もちろん、源一郎もその構えに応じるように正眼に構えて、正面に視線を向けながらも、忠成の右手の小指に注意を集中した。
「動揺がない・・。」忠成は、源一郎の剣の切先を見つめながら、相手の気迫を探っている。道場に詰めかけた、小野派の数十人の師範代と百人余りの門下生たちが、かたずをのんで二人の動きを見つめている。道場は、誰もいないかのように静まり返り、気合いと気合いのぶつかり合いの結果を待っている。その時、源一郎は道場の片隅で自分を真剣に見つめている美桜に気づいた。彼の心に優しい気流が、さっと通り過ぎたような気がした。彼は死闘に臨めば、決して脳裏を無にしようなどとは心掛けない。自分の脳裏に去来する雑念と自然と向き合うのだ。忠成にとって、そんな源一郎の自然体での構えが、不気味でならなかった。彼にとって、剣は心技一帯でこそ勝利を手繰り寄せるものである。ある意味、二人は水と油の考え方を剣に反映させていたのかもしれない。
「動いた!」源一郎が、忠成の小指の変化に気づいた瞬間、忠成の剣は源一郎の頭上に迫っていた。源一郎は、忠成の剣の動きにどう対処しようなど予め考えていなかった。相手の動きに応じて、自分が何も考えず即座に反応する・・。源一郎は、過去に、生死を賭けた戦いで相手の行動と自分の行動が共振したと実感する瞬間があった。その時の無意識の反応の再現に、自分の勝機を賭けた。
「パーン!」
竹刀と竹刀のぶつかる音が道場に響き渡る。源一郎が気づいたとき、忠成の竹刀が源一郎の頭上で、自分の竹刀に受け止められていた。
道場にどよめきが沸き起こり、今までの緊張が支配していた道場の雰囲気が一瞬緩んだ。彼らの目撃したものは、予想もしなかった源一郎の至極の反応だったのだ。
「それまで!」
審判を務めていた一龍齋が、甲高い声で叫んだ。
次の瞬間、
「今の勝負互角!勝敗の行方はわしの預かりとさせてもらう!」
一龍齋の裁定に、異論をはさむものなどいるはずもなかった。
二手に分かれた忠成と源一郎の激しい息づかいが、道場中に伝わってくる。すると間もなく、忠成が集まった小野一門の群衆に向かって、
「今見た通り、源一郎はすでに小野一刀流頭首として、ふさわしい剣の技量を持ち合わせておる!これを機に、わしは頭首の座を源一郎に譲りたいと思うが、依存はないか・・。」
忠成の声は、感激で震えていた。
「父上!」
予想もしない展開に、源一郎がそう叫ぶと、忠成の顔をじっと見た。
「異存などあるはずない!小野一刀流頭首として、源一郎を喜んで受け入れようぞ!」
片隅で息をひそめていた又五郎が、いつの間にか道場の前に出て、そう叫んだ。
どこか芝居めいた小野派頭首移譲の顛末は、忠成や一龍齋、又五郎の思惑通りに進んだようだった。
「これで、警察隊への小野派の参戦は、事実上大義を得ましたな。何せ、小野一刀流の頭首で、大阪警察庁長官が、反乱軍の鎮圧に門下生を招集するのですから・・。」
又五郎の横にいた与助がそう呟くと、お互いに目を見合わせてにやりと笑った。
どうやら、源一郎のいないところで、巧妙に仕掛けられた策略に、彼が乗せられたようである。
「わしも、少しは陽明のように利巧にならねば・・。」又五郎の無防備な言葉をたまたま聴いた源一郎は、何故かそんなことを考えていた。
その日の夜、与助、忠成、又五郎が、居酒屋 達磨に集まった。佐那河内三強と言われた連中が店に顔を見せたことで、達磨のおやじが座敷に顔を出した。
「懐かしい方々が来られましたな。この場に正幸様が揃えば、佐那河内四強が揃いますな。」
達磨の主人は、昔から佐那河内の連中が客として通ってくれることを店の自慢にしていた。
「おやじも年を取ったな。」
又五郎が、おやじの言葉を引き受けるように、そう言ってからかった。
「ところで、右衛門様はどうなされてますか?」
やはり、おやじの一番の関心は右衛門である。
「相変わらず、江戸で人斬りだ。」
親父の驚いた顔を見ながら、忠成と与助が声を出して笑った。
「それではごゆっくり。」
又五郎の言葉が冗談だと気づいたおやじが、二階の座敷を後にして階段を降りて行く。
「この店に顔を出すのも何年ぶりかな・・。」
おやじの去った後、忠成がポツリと言った。
「これからは、自由に何処へでも行けますな。」
与助がそう言うと、忠成に酌をした。
「それにしても、一龍齋様の狸ぶりには恐れ入った。各地の小野派師範代も、何の反対もなく、源一郎の頭首が決まったからな・・。」
又五郎がそう言うと、愉快そうに高笑いをした。
「いや、源一郎の剣の技量を見ては、異議もでまい・・。確かに、わしは癖を出したが、立ち合いは気を抜かなかった。試合前は、源一郎がわしの一撃を受け止められるか半信半疑だったが、悔しいが受け止められた・・。」
忠成が記憶をたどるようにそう言うと、与助と又五郎は真剣な顔になり、腕を組んで同意するように頷いた。場に沈黙が続き、その後、
「小野派から、あっという間に警察鎮圧隊に三百ほどの志願兵が集まった。さらに、ほぼ全員が、警察官就任を希望しているからな・・。志摩さんが、忠成を動かした動機が当たったようだ。」
と言って、又五郎は志摩の策略家としての才能を評価した。
「江戸でも、警察庁長官になった正幸を頼って、多くの柳生流の門下生が警察官に志願したそうだ。今の時代に、道場だけに頼っても食ってはいけないということだ。寂しい話だが・・。」
忠成が、又五郎の言葉に共感するようにそう言った。
「これで、志摩さんの反乱軍鎮圧作戦の条件はすべて満たされた・・。(与助の方を見て)もし、この作戦が成功すれば、志摩さんは与助の上司になるかもしれんな。」
又五郎が、与助をからかうつもりでそう言った。
「まあそうなりますな・・。最も、家庭内では、あいつがすでに上司ですがな・・。」
与助が真顔で、そう答える。その真剣な表情を見ていた忠成と又五郎が、大きな声を出して笑いだした。
「上のお客さんたち、楽しそうですな。」
板前が、達磨のおやじに話しかける。
「忠成様が、あんなに明るいお方だとは知らなんだわ。」
おやじは、二階の座敷の方を見ながら、意外そうな顔をして呟いた。
「与助、源一郎の剣をどう思う。どう考えても、忠成とは対照的だ・・。」
酒を重ねて和んだ場に、又五郎が突然与助に質問した。又五郎は、ずっとそのことが気にかかっていたのである。
「源一郎様の剣は、右衛門流なのです。右衛門様は教えはしないが、それが佐藤家(右衛門の苗字)の血筋を引き継いだ証なのかもしれません。」
盃から湯飲みに代えて酒を飲んでいた与助が、湯飲みの酒をぐっと飲みほし、嬉しそうな顔をしてそう言った。
「右衛門の自在流のことを言っているのか?」
又五郎が、与助の捉えどころのない謎かけに、答えを出そうとした。
「右衛門様には、剣の心技体は必要ないのです。たとえ、生死をかけた死闘に臨んでも、いつも淡々としていられることが理想なのです。だから、右衛門様の頭の中は、極限の緊張の中でも、いつも雑念でいっぱいなのです。」
長年、右衛門と主従関係を長年続けてきた与助だからこそ知りえた右衛門の剣の奥義であった。
「そう言えば、わしは薬士との果し合いの時の心境を右衛門に聞いたことがある。」
二人の会話を聞いていた忠成が、そんなことを言いだした。
「何と言っていた?」
又五郎が、すかさず忠成に尋ねた。
「うん。戦いの最中、朝に陽明と食ったみそ汁が美味かったのを思い出していたそうだ。」
忠成がそう呟いた。三人の沈黙がしばらく続いた後に、一斉に爆笑が沸き起こった。
「わしが右衛門に勝てる訳がないわけだ。それで、納得した。やはり、源一郎の剣の才は、右衛門の血を引く天然なのだ。」
又五郎の最後の言葉に、与助も忠成も納得したよう頷いた。
「ハックション!」
家の窓から、夜空を眺めていた源一郎が大きなくしゃみをした。その音に驚いた美桜が、思わず源一郎の方を向いて、微笑んだ。
「誰かわしの噂している様だ・・。」
源一郎は美桜にそう言うと、彼女と同じように微笑んだ。
(菊と隼人)
隼人は一日も欠かさず、菊の病の様子を見に来る。
「それは熱心に診てくださいます。」
矢代喜左衛門は、番頭の報告に満足げな笑みを浮かべる。
「やはり、弥吉さんの助言通り、隼人さんを紹介してもらってよかった。」
喜左衛門はそう言うと、今日屋敷で饗応する江藤と後藤を迎えに馬車に乗り外出した。
それは菊の恋心から始まった。
隼人が菊の部屋の障子を開けて、鳥のさえずりを聞いている。
「朝の冷気は気持ちがいい。」
隼人がぽつりと呟いた。
「私も縁側で外の空気が吸ってみたいな・・。」
最近、歩行が難しくなった菊が、隼人の背中を見ながらそう言った。
「そうしなさい。私が手伝ってあげます。」
菊の言葉に、隼人が即座に応答する。
「それでは、隼人さんの肩を借りようかしら・・。」
何故か、菊の声が消え入るような小声になった。
菊の方を向いて、笑顔を見せた隼人が、
「いいですよ。」
と、快諾して、菊の方へ近づいてくる。
菊は起き上がり、片膝ついて背を向けた隼人の肩に両手を置いた。
「いいですか?」
隼人が菊に声をかけると同時に、ゆっくりと立ち上がる。菊が、隼人の動作に合わせるように、彼の肩に力を入れて立ち上がろうとする。
「歩けそうですか?」
ここまではうまくいったのを確認して、隼人が菊に声をかける。
「ええ・・。」
菊の声は微かに震えている。
縁側に出た菊が、隼人の肩越しに、鳥のとまっている木の方に目をやって眺めている。
「どうです・・、外の冷気は気持ちいいでしょう。あなたも、時々、女中さんに助けてもらって、ここまでくればいい。」
同じように木を見ている隼人が、菊に向かって、後ろ越しに声をかけた。
すると突然、菊が自分の体を隼人の背中に密着させてくる。驚いた隼人は声も出ずに、必死で菊の体重で重くなった背中を支えている。
それでも、勇気を振り絞って何か言おうとした隼人に、
「シーッ」
と、菊が黙るように合図を送る。その声に、凍り付いたように立ちすくむ隼人・・。菊のやわらかい乳房の感触が背中に伝わり、隼人は軽いめまいを起こしそうだった。
「このまま私を何処かへ連れて行ってほしいな・・。」
菊が隼人の背中で、そっと呟いた。隼人は彼女の甘い香りに陶酔して、朦朧となった意識の中で立ち尽くし、震える足を必死で踏ん張っていた。
午後に入っても、菊は気分がいいのか、隼人との会話中に突然発せられる笑い声が、番頭たちのいる部屋まで聞こえてきた。
「お嬢様の元気な笑い声が聞こえてくるな。あんな笑い声は久しぶりだ・・。」
番頭が、菊の面倒を見ている女中に嬉しそうに話しかける。
「私がお世話していたんですが、隼人様と二人っきりでお話がしたいというので、お嬢様の言う通りにしました。」
女中は、自分が菊の部屋でいない理由を言い訳するように番頭にそう言った。番頭が、嬉しそうな顔をして、彼女の判断を認めるように軽く頷いた。
その時、玄関の方で誰かが訪ねてきたのか、応対を求めている声がした。その声に応じるために、番頭が慌てて玄関へ向かう。
しばらくして、客の来訪を告げるため、番頭が菊の部屋の障子を開けた。
「隼人様のお友達の陽明と言うお方が、お嬢様との面会を求めておられますが・・。」
番頭の報告に驚いて、目を合わす隼人と菊。
「すぐにお連れして・・。」
それでも、戸惑うことなく、菊が番頭に命じた。
菊の部屋の障子が開き、陽明が顔を出す。彼の横で、ナタリーが笑顔で菊に向かって、右手を挙げて左右に振った。つられる様に、菊も右手を振る。
「お前が、菊さんが会いたがっているというから、来てやったぞ。」
開口一番、陽明が隼人にそう言うと、遠慮する気配もなく、菊と隼人の座る近くで胡坐をかいた。
彼に合わせるように、ナタリーが菊を囲むように膝を立てて座った。すると突然、
「叔父上!」
と、いきなり陽明がそう叫んだ。
「右衛門様も来てくれたのか!」
驚いたように、隼人が叫んだ。
外で庭を見ていた右衛門が、にこにこしながら入ってくると、いきなり菊の手首をとって、脈を数え始めた。
「大丈夫、菊さんは隼人が看病すれば、きっとよくなる。」
脈を数え終わると、右衛門が笑顔を絶やさず、菊にそう言って慰めた。
「右衛門様って、あの剣豪の・・?」
菊は来訪者の行動に圧倒され続けていたが、右衛門が腕から手を放して、やっと動揺が落ち着いたのか、そう尋ねた。
「外見は、そう強そうに見えんでしょ。」
陽明が、菊の言葉に冗談交じりでそう答えた。
「ええ、そんなに強そうには・・。」
菊は右衛門の顔をじっと見ながら正直にそう言ったが、慌てて、
「すいません!」
と叫んで、頭を下げた。彼女の反応に、その場の三人(隼人、ナタリー、陽明)が、爆笑する。きまり悪そうに、自分の顎を手でさすりながら右衛門が苦笑している。ただ、菊だけが戸惑った顔をしていたが、次第にみんなの笑いにつられて笑顔になった。
「ナタリーから、隼人の患者が会いたがっているから、どうしても来いと言われて、無理やり引っ張ってこられたが・・。若い連中ばかりの中で浮いてしまったなあ・・。」
右衛門が、言い訳がましく、ここに来た事情を説明した。
「いいえ、私が隼人さんに頼んだのです。まさか来てくださるとは・・。それに、陽明様やナタリー様にも、お礼を言わなくては・・。(涙をいっぱいためて)嬉しい・・。」
菊はそう言うと、上半身体を持ち上げて、深々と頭を下げた。
「隼人が夢中になるわけね・・。綺麗な女性ね。」
ナタリーが、菊の顔を見ながら、陽明に英語でそう言った。陽明が、納得したように頷いて笑った。
「わしは、ナタリーと陽明の会話が分かったぞ。」
右衛門が、陽明の方を向いて、自信たっぷりにそう言った。
「何と言いました?」
陽明がにやりと笑って、右衛門に問いただす。
「隼人が菊さんに惚れた理由が分かった。と言っただろう。」
陽明とナタリーが、驚いたように右衛門を見ている。隼人と菊は、はにかんだようにお互いの顔を見る。
「叔父上は、いつの間に英語を学んだのですか?」
陽明が、追い撃ちをかけるように右衛門に尋ねる。
「英語は分からんが、二人の雰囲気でナタリーの言いたいことが想像できるんだ。いわゆる、察しがつくってところかな・・。ついでに、ナタリーが言ったビューティーって言葉は、美しいっていう意味だろう。」
「それも察しですか?」
陽明が目を丸くして、そう尋ねる。
「その言葉は、昔、西先生から教わったことがあるんだ。」
右衛門が正直に答えると、
「その言葉が分かれば、ナタリーさんの言葉に察しをつけることは、不思議でないですね。」
側で二人の会話を聞いていた隼人が、右衛門の不思議な能力に察しをつけた。
こんな具合に、菊と来訪者の会話は途切れることなく、弾むように続いた。
時には、番頭の部屋まで聞こえるほどの爆笑が何度となく起こり、菊の上機嫌な様子に、番頭や女中にまで、彼らのはずんだ雰囲気が伝わった。
「あの方々はのおかげで、お嬢様の気持ちが明るくなっている様だ。旦那様がおられたら、どんなにお喜びになることか・・。このまま、お嬢様の容態がよくなればいいのだが・・。」
番頭は、嬉しそうにそう呟く。
菊と来訪者の会話の時間は、あっという間に経過した。
「そろそろ行こうか?」
右衛門が、病人の事情も察して、陽明らに談笑の終わりを促す。陽明と隼人が、応じるように頷いた。すっかり菊と打ち解けて、熱心に話をしていたナタリーも、名残惜しそうに右衛門の言葉を受け入れた。
「またいらっしてくださいね。」
菊の言葉には、真に迫るような願いが込められていた。やがて、一人一人が菊に笑顔を見せると、外の廊下に出ていった。
厄介な出来事は、陽明たちが玄関に近づいた時に起こった。
陽明らが玄関に立つと同時に、矢代喜左衛門が江藤や後藤を伴って、帰宅したのである。玄関の板の間で立ち尽くす陽明らと対峙して、喜左衛門が連れてきた江藤ら来訪者・・。運悪く、どちらかが横によけない限り、玄関で二つの集団は立ち往生するのである。
「こちらは、矢代様の大切なお客である政府参与の江藤様と後藤様である。失礼だが、おぬしらの履物を片づけて、先に上がらしてもらうぞ。」
集団の間に立った三人の江藤らの護衛らしき侍が、陽明たちに向かって威圧的な態度をとってきた。
一瞬のにらみ合いの後、陽明の後ろにいたナタリーが、護衛の言葉を聞かなかったように陽明の前に出て、自分の靴を履き始める。
「女!わしの言ったことが分からないのか!」
護衛の激しく叱責する声。その声を無視するかのように、ナタリーは靴を履き終えると、大声を出した侍を睨み返した。
「おい、やめんか!この人は、異国の女性ではないか!もう少し落ち着いて、事の分かるように、連れの連中に説明してやれ!」
後ろにいた江藤が護衛に声をかける。
「いくら説明してもらっても、私の妻は下がらんでしょうな・・。」
江藤の言葉に応じるように、陽明がにやにや笑いながら、江藤に言い返した。
「なに!」
護衛の侍たちが、陽明の言葉に気色ばみ、後ろにいた二人の護衛も前に出て、合わせて五人の侍が陽明に向かって、刀の柄に手をかけた。
彼らにしてみれば、この威圧で、相手が退くとたかをくくっていたのである。ところが、陽明の顔から笑顔は消えず、侍の集団を高みから見ているようで、ナタリーも素知らぬ顔で、すごんだ侍を平然と眺めている。
「おぬしら、西洋では、レディーファーストという言葉があるのを聞いたことがないか?」
後ろの方で、陰に隠れるように、この顛末を見ていた右衛門が初めて口をきいた。
「ほう、面白いことを言う。わしもその西洋の習慣を聞いたことがあるが、ここは日本でな。そのような言葉が、通じるかどうか・・?それにしても、そのような言葉を知っているとは、おぬし何者だ。」
後ろで、騒動が起こりそうな状況を見守っていた後藤が、笑顔を見せて、右衛門に話しかけてきた。この屋敷の主人の田代は、さっきからこの状況を見ながら、なすすべもなく、おどおどするばかりだった。
「あんたが、後藤さんか・・。江藤さんより、少しは気が長いように見えるな。」
右衛門がそう呟くと、後藤の顔から笑顔が消えた。
「おぬし、わしらをからかっているつもりらしいが、相手が悪いのう・・。いい加減に、わしらを通したらどうだ。さもないと、田代さんの屋敷と言えども、この連中が黙っていないぞ!」
後藤は、右衛門が自分たちに恐れ入らない態度に癇癪をおしてそう叫んだ。
「残念だが、どうやらみんな同じ狢らしいですよ、叔父上・・。」
陽明が右衛門にそう言った瞬間、五人の侍が刀を抜いた。
「ナタリー!どいときなさい。」
右衛門はそう言いうと、ナタリーに災いが起こらないように、片隅に追いやった。
ナタリーと言う言葉を聞いて、初めて田代が大声を出した。
「ひょっとして、この女の方は、アダムス商会のアダムス様のお嬢様のナタリー様で・・?(陽明の方を向いて)それでは、あなたが佐藤陽明様・・?そうすると、叔父上とは、あの右衛門様で・・?」
五人の侍たちは、田代の言葉に凍り付いたまま、じっと抜いた刀を握りしめるだけだった。
その様子を見ていた陽明が、
「叔父上と言えども、五対一の斬り合いとなれば、かすり傷ぐらい負うかもしれませんぞ。どうします、叔父上?それに、奴らの死体で玄関が血まみれになる・・。田代様には、災難だ。」
陽明の言葉に、右衛門はにやにや笑っているが、目の輝きだけは殺気を帯びた妖気が漂っているようにも見えた。
「まあ、まあ・・。あなた方の素性が分からず失礼した。」
江藤が、この場を治めるために素早く軟化した。
「お前ら、後ろに引かんか!天下の剣豪と争って、首が飛んでも仕方あるまい。」
後藤が、江藤に合わせるように、冗談を交えて、分が悪くなった苦境を脱しようと試みた。後藤や江藤が、戦乱の中、ここまで生きてこられたのは、彼らの変わり身の早さにあるのかもしれない。
後藤の言葉に、動転したまま慌てて後ろに引き下がる侍たち。呼応するように、その状況をじっと見ていた右衛門の殺気が、す~ッと消されていくような気がした。
「ナタリー、隼人、どうやら決着がついたらしい。」
陽明はそう言うと、さっさと靴を履くなり、前にはだかる集団が脇に寄るのを確認すると、何ごともなかったように突き進んでいった。その後を、ナタリーと隼人が黙ってついていく。
「江藤さん。陽明の顔を覚えておきなさい。いずれ、あなたの前に立ちはだかる厄介者かも知れませんからな。」
右衛門はそう言うと、フフッと笑って、その場を後にした。
「わしも、江藤にいつまでも従う訳にはいかんかもしれんな・・。」その様子を見ていた矢代喜左衛門が、密かにそんなことを思い始めたのだった。
(大阪合戦)
生駒山の反乱軍が、進軍を開始する。
京馬から知らせを受けた大阪警察庁長官の源一郎は、予定通り志摩の計画を実行に移し、大阪枚岡に警察隊の本体を進めた。すでに、志摩の指示により、アームストロング砲は枚岡山に設置されている。
「反乱軍は、二千余りの兵に膨れ上がっています。」
京馬の報告に、源一郎と与助は予想はしていたが、身震いをおさえられなかった。
「マイケルは、将太、哲太を伴って、二百の銃撃隊を率いて、枚岡にすでに到着しているようです。後は、我々本体の兵二百人が、枚岡に集結すれば反乱軍を迎え撃つ準備は整います。」
与助が、源一郎に進軍を促す。
「おやじ殿と又五郎さんの別動隊はどうなっている?」
源一郎にとって、小野派の動向が一番気になる存在だった。
「今、小野道場に伝令を送りました。すでに、三百余りの小野一刀流の連中が道場に集結している模様です。遅滞なく、進軍するのでは・・。」
与助の言葉に、源一郎は安心したようにふっと息を吐いた。
「行こうか?与助さん。」
源一郎はそう言うと、与助に笑顔を見せた。
「おおっ!」
与助が、入れ込んだ馬のように、雄たけびを上げた。
反乱軍大将 小栗平助は、江藤の密約を田中に披露した。
「大阪警察本部を押さえれば、江藤の佐賀藩の有志が必ず大阪へ進軍する。我らは、大阪で、各地に散らばる不満士族を集める基点を作ればいいのだ。もしうまくいけば、第二の戊辰戦争のきっかけを、我らの手で成し遂げることになる・・。」
小栗の気分は高揚していた。
「それにしても、おぬし、江藤から確約はもらったのか?言葉だけでは、命は預けられんからな・・。」
そう言うと、薩摩の人斬り田中平九郎は、疑うような視線を小栗に送った。
「江藤の誓約書はわしの手元にある。しかも、血判も添えてな・・。わしが密かに信頼できる部下に預けているから大丈夫だ。(田中の方を向いて)あの人は本気だ。」
そう断言した小栗の表情には、余裕すらあった。
反乱軍の大軍は、生駒山を超えて、源一郎の迎え撃つ大阪の地に足を踏み入れた。
反乱軍大将 小栗が二千以上の兵に向かって、
「よいか!我らの決起は、第二の関ケ原じゃ!この天下分け目の戦に勝利し、武士を中心とする日本のよき秩序を復活させようではないか!」
小栗の張り裂けんばかりの気合の入った大声に応じるように、反乱兵の怒号にも似た狂気の叫びが、戦場を覆いつくしていった。
一方、枚岡の街道で陣取り、反乱軍の行く手を阻んだ源一郎の警察隊約四百。その内、マイケルが率いる鉄砲隊二百が警察隊の主力であり、勝利するための切り札である。彼らの銃は、敵の火縄銃とは比べものにならない性能を備え、弾丸補填前に二度の発砲を可能にした。
「いよいよですな・・。」
源一郎の側にいた与助が、敵の気合を入れる怒号のような奇声を聞きながら、源一郎の顔を見ながらそう言った。
何故か、源一郎の顔に笑みがこぼれている。
「源一郎様はいつも土壇場になると、嬉しそうな笑顔を見せる・・。」与助は源一郎の表情を見て、戦いへの不安より安心感をもらったような気がした。
「始めるか・・。」
源一郎が、与助の言葉に応じるように、淡々とそう言った。
「突進してくる敵だけに集中して、適格に弾を撃て!無駄な弾は一発もないことを肝に銘じて!」
イギリスの海兵隊仕込みのマイケルの号令が、朝靄のかかった戦場に響き渡った。
すると程なく、靄のかかった前方から敵の突進してくる足音と怒号が、次第に音響を高めて、警察隊の方に向かってきた。
「いよいよ、向かってきたな・・。」
枚岡山の上からは、霧のかかった平地と兵の激突が手に取るように見渡せた。
山の上からアームストロング砲を二発発砲する役目を命じられたのは、火薬の知識がある京馬である。
「よいか、我らの役目は、あの突撃してくる集団のど真ん中に砲撃を打ち込むことだ!砲撃の命中度が、この戦を左右する。わしの命令が出されるまでは、じっと我慢して、大砲の方向を敵の進行に合わせていけ!」
京馬の声は、次第に気合が入り、絶叫になっていた。
木陰に身をひそめていた小野派別動隊も、じっと戦況の行方を見守っている。
「これで、短い間に二度の合戦ですな。右衛門と江戸で、今度は大阪で源一郎と・・。」
又五郎が忠成に向かってそう言うと、苦笑いをした。
「これで終わりにしたいものだ・・。」
忠成の本音である。
彼らのねらいは、街道から外れた枚岡山の近くの木々に潜み、本体の斬り込みの後手として、進軍してくる反乱軍の横っ腹を分断する作戦だった。
「相手の大将は、関ヶ原の東軍のつもりのようだが、我らの奇襲は、小早川の裏切りと同じように、反乱軍の壊滅につながるでしょう・・。そうなると、やはり奴らは石田三成の西軍だ。」
又五郎は、相手の大将の戦の前の大声を耳をじっと済ませて聞いていたようだ。
「屁理屈はいいから、後れを取るな!」
物静かな忠成に似合わず、彼の顔は興奮で赤みを帯びているようだった。
「心得た!」
又五郎がそう言うと、三百人の小野門下生の先頭に立ち、木陰で静かに刀を抜いた。
反乱軍の大将 小栗は奇策を嫌った。二千の兵は、警察隊を圧倒する数である。兵の士気さえ高ければ、勝利は自ずとついてくる。そう思っていた。
「押せ押せ!」
街道の中央を総がかりで、源一郎の陣取る隊に向かって突進したのである。
自軍の火縄銃が、相手の陣に放たれる。命中など期待はしていない。その銃声の大きな音で、相手が怯めばそれでよかった。しかし、小栗の期待は裏切られた。平民で構成された百姓上がりの警察隊にもかかわらず、動揺は見られなかったのである。それどころか、火縄の発砲に応じるように、警察隊の銃撃隊が、小栗軍に向かって一斉に発砲した。
その銃撃の効果は絶大だった。周りを見れば、銃撃に倒れた味方の兵の鮮血が、地面を赤く染めている。
「怯むな!敵の銃撃隊を踏み越えていけ!」
小栗の狂ったような怒声が、兵たちの士気を奮い立たせた。彼にとっても、警察隊の鉄砲隊は脅威と認識していた。だが、多少の犠牲を頭に入れても、二千の武士の突撃は、浜辺に作った砂の楼閣を洗い流していくだろうという計算があった。
ところが、次の瞬間、小栗の戦略に破綻が生じた。
自分たちの軍団のど真ん中に、向こうの枚岡山から大砲の砲弾が飛んできたのである。それも続けて二発の砲弾。隊は乱れに乱れた。或る兵は砲弾で、木の葉のように空中に舞う。辺りは兵の血で真っ赤に染まった。走り続けた突進は、源一郎の本体に至ることなく、戦場で停滞を余儀なくされた。
「進め!進め!」
それでも、勇敢な数人の武士が突進を鼓舞する。
その様子を見ていた源一郎の部隊二百が、彼らに向かって応戦するため走り寄ってくる。戦況は、すでに互角であった。
その戦況を決定的にする兵力が、警察隊に残されていた。それは、小野派一門の三百の兵である。
「志摩の作戦通りになった・・。恐ろしい女だ。」
又五郎は戦況を見ながら、味方の計画通りに運んでいる事実に驚きを隠せなかった。
「女にしておくには惜しいな・・。」
忠成も同じように志摩のことを考えていたようだ。
「特に、与助の女房ではもったいないわ。」
又五郎はそう言うと、からからと笑い始めた。気合を入れて戦況を見ていた小野派斬り込み隊の間にも笑いが沸き起こった。
「あほう。戦は終わっておらんぞ!」
忠成は、味方の気合いを削いだ又五郎を叱責すると、間髪入れず木陰から飛び出して、互いに斬りあう戦場に殴り込みをかけたのだ。そのうしろを、三百の小野派門下が忠成に遅れまいとついていく。
彼らの参戦は、戦況を決定的なものにした。反乱軍は完全に瓦解し、警察隊の完全勝利でこの戦は集結したのだ。
一言付け加えると、勝敗の決した戦況の中、戦場を密かに抜け出すものがいた。
「まさか、小野一刀流が参戦とはな・・。それにしても、佐那河内はしぶとい。」
朝もやが晴れ、累々と戦場に重なった反乱軍の死体を、生駒山中腹で見ながら、田中平九郎は薄笑いを浮かべていた。
大阪警察署本部では、志摩が本部長の部屋で戦況の結果報告を待っている。
部屋の扉が勢いよく開けられると、美桜と小夜(マイケルの妻)が跳ねるように入って来た。
「勝ったそうです!」
美桜が、嬉しそうに笑顔を見せると、淡々とした口調でそう言った。
「そうですか。良かった・・。」
応じた志摩の表情にも、さほど変化がない。
「二人ともおかしいわ。あなた方の旦那様が生死を賭けて戦ったのよ。もっと喜ばなくては・・。」
横で聞いていた小夜が、二人を咎めるようにそう言った。
「源一郎の奴、私も一緒に戦うと言ったのに・・。」
美桜は小野派一刀流の師範に相当する腕前を持っていた。それに、先の長州征伐では、長州のために戦った戦士でもあった。
「私も、司令官として現場に行きたかったのに・・。与助に反対されたのです。大体、この作戦を立案したのは私なのに・・。」
志摩もまた、女であることで、戦う戦場に出られなかったことに不満を持っているようである。
「私は、夫や父(又五郎)が、無事であったことで十分・・。」
小夜は、二人の心境とは違った自分で満足していた。
いずれにせよ、女たちの活躍もあって、大阪反乱軍鎮圧事件は、佐那河内を中心とする警察側の勝利に終わった。そして、この勝利は東京の江藤や後藤の立場に大きく影響することになるのである。
(黒幕達)
伊勢逸郎(東京警察副所長)が大久保の屋敷に呼び出された。
「田中さんではないですか!」
伊勢は、大久保廷の応接間に通されて驚いた。大阪反乱軍の副大将だった田中平九郎が長椅子にワイングラスを片手に持って座っていたのである。向かいには、崎田弥次郎が同じようにグラスをもって座っている。そして、大久保が二人とは少し距離を置いたソファに座って、葉巻をふかしていた。
「戊辰戦争では敵味方であったが、長谷部隊のきれ者には苦労させられたぞ。」
田中が皮肉交じりにそう言うと、愛想のいい笑顔を見せながら、伊勢に声をかけた。
「伊勢さん、この男には気をつけなさい。(田中の方をちらっと見て)大阪の乱では最後まで大将小栗を騙し通したからな・・。」
伊勢は、弥次郎の言葉で初めて、田中が反乱軍にもぐりこんだ大久保のスパイであったことに気づいた。
「そうだったのですか・・。」
伊勢が、複雑な笑みを漏らす。知略家である伊勢にしても、田中が、反乱軍の中に潜伏するなど思いもよらなかった。
「伊勢さんを呼んだのは、この田中の情報をもとに、重大な任務をお願いしようと思ってな・・。田中、説明してくれんか。」
大久保は、重大な情報の説明を田中に任せた。
「大阪の乱では、源一郎率いる警察隊の完勝だったのは、おぬしも知っておると思うが?」
小久保に説明を委ねられた田中はそう言うと、確認するように伊勢の顔を見る。応じるように、伊勢が頷いた。
「大阪進軍の前に、小栗がわしに言ったことがあってな・・。(真剣な目で、伊勢の方をもう一度見る)反乱軍が大阪警察本部を占拠して大阪を制圧したら、佐賀藩は必ず小栗の反乱軍に参加するという、江藤が小栗に渡した誓約書を持っていると言うのだ。」
田中が話し終わると、大久保が伊勢の方を向いて彼の応答を待った。
「しかし、反乱軍が敗戦したのだから、その誓約書も消滅したのでは・・。」
伊勢の口から、予想通りの意見が出される。
「ところが、小栗と共に反乱軍が壊滅した後、小栗の側近が独り、戦場から逃走したのだ。」
大久保が、伊勢の推測を覆す一言を放った。
「要するに、田中の他に、もう一人逃亡者がいたわけだ。」
みんなの話を他人事のように聞いていた弥次郎が、いきなりそう言うと、大声を出して笑った。その声につられるように、伊勢と田中が苦笑する。
「弥次郎、誰が聞き耳を立てているか分からんぞ!」
大久保だけは、弥次郎の高笑いに不快感を示した。
弥次郎は、大久保と陽明の橋渡し役として、大久保の屋敷を頻繁に行き来していたのである。大久保も陽明も、直接の会合は一度もなかった。二人の密接な結びつきは、江藤らの警戒の的になるのは間違いなかったからである。そんな事情もあって、弥次郎の仲介者としての役割は、最適任であったかもしれない。
「小栗の側近の名は、大石文三・・。」
田中がその名を出した途端、伊勢の顔が真顔になった。彼の調べでは、大石は小栗に近いばかりでなく、勝沼恵三を信望している旗本出の武士であった。
「すると、大石はその誓約書を勝沼一派に渡す可能性がありますな・・。」
「やはり、伊勢に言うと話が早い。」大久保はそう思った。大久保が長官の正幸でなく伊勢を頼ったのは、正幸が陰謀を好まないと言う理由もあったが、伊勢の策士としての能力を高く評価していたからだ。
「もし、その誓約書が大久保さんの手に入れば、江藤は政権から完全に手を引くことを余儀なくされる。もちろん、西田さんも・・。」
弥次郎は、敢えて西田の名を口に出して、田中と大久保の顔を見た。予想通り、二人とも渋い顔をした。
「伊勢さん、頼まれてくれるか?」
大久保は、それだけ言ったら、伊勢に何を頼みたいか理解していると確信していた。
「やってみましょう。ただ、うまくいくかは・・。」
大久保の期待通り、伊勢は大久保の依頼を理解し応諾した。
「大石は、程なく江戸に着くと思う。奴が勝沼と会う前の一瞬だけが、誓約書を手に入れる機会になる・・。難しいのはわかっているが、やってみるだけの価値のある仕事だ。」
大久保はそう言うと、伊勢に頭を下げた。
「分かりました。諜報部員を走らせましょう。」
伊勢が応じるようにそう言うと、同じように大久保に頭を下げた。
「しかし、江藤らは、いずれ政権を去ると思うが・・。奴らが下野した後、大阪の反乱で分かったように、第二第三の反乱は必ずやってくる。」
楽天家の田中の口から、意外に真剣な言葉が出た。
「そのためにも、陽明さんの最新武器の海上輸送網を構築せねば・・。弥次郎、矢代海運の方はうまくいっているのか?」
大久保が、次なる一手を弥次郎に打診する。
「矢代は江藤らの権力把握に疑念を抱いているのは確かだ。何かもう一つ、矢代の気持ちをこちらに引き寄せる決め手があればいいのだが・・。」
弥次郎にも矢代を大久保派に引き入れるだけの自信がないようだった。
「頼りないことを言うな!この計画が成立しなければ、いくら江藤らを政権から追い出しても、戦に負ければ元も子もないからな。平民と武士との戦になると、西洋の武器だけが頼りなんだから・・。」
田中の言葉は、弥次郎への訴えにも聞こえた。
「特に、西田さんが薩摩で動けば・・。」
大久保が、みんなが恐れていることを口に出した。次の言葉を続ける者がいなくなり、部屋の中に沈黙が続く。しばらくして、
「それでは、私はこれで・・。」
最後に出た話に無関係な伊勢が、この場の雰囲気に決着を着けるようにそう言うと、彼らに背を向けて、ドアの方に向かった。
(菊と隼人)
菊の容体は次第に悪化していき、今では意識さえもうろうとし始めていた。
菊の病床に、弥吉、女中と番頭、隼人、それに、父の矢代が集まっている。
「うちの娘は、どうなるんです?隼人さん・・。」
矢代の目は血走っていた。すでに、何人かの医者に診せたが、未だに病名さえ言い当てられず、残った隼人に娘の命運を託すしか手だてがなかった。
「私には、脚気と判断するしか言いようがありません。以前にも言った通り、この病には治療方法がないのです。」
隼人は、矢代の悲痛な訴えにそう答えるしかなかった。他の見守る人たちも、ただ黙って俯いているしか術がない。
障子越しに日差しが差し込み、庭で雀がさえずっている。朝の静けさが、この場の静寂と重なって、何故か隼人の心に人の無常の虚しさが忍び寄る。
突然、隼人は俯いていた頭をあげ、矢代の方を真っすぐ見て、
「この病は、別名、江戸の病と呼ばれています。」
真剣な顔でそう言った。弥吉と矢代が、戸惑ったように顔を見合わす。
「いったい何が言いたいので・・?」
たまらず、弥吉が隼人に質問する。
「菊さんを私の故郷に連れて行きたいのですが・・。認めてもらえないでしょうか?」
隼人は、矢代に訴えかけるようにそう言った。
「何を言い出すのですか・・。あなたは娘をどうするつもりですか!」
場違いに思える隼人の提案に、矢代の語気は気色ばんでいた。
「長崎で、菊さんを看病したいのです・・。」
隼人は短くそう言ったなり、矢代の判断を待った。
「つまり、菊を嫁にでも欲しいというのですか・・。(ふんと鼻を鳴らし)気でも違ったのか、この男は・・。」
矢代の怒りを込めた言葉に、隼人の張り詰めた気持ちが、風船の空気が抜けたように萎んでいく。
「いいですか、こんなことを言っては何だが。菊は矢代海運を継承する資格のあるだだ一人の私の娘だ。それと比べて、あなたはただの町医者に過ぎない・・。いくら何でも、厚かましすぎはしませんか!」
矢代の追い打ちをかける罵倒に近い言い方に、隼人は心の底に押さえることのできない怒りが込み上げてくるのを覚えた。
その時、意識が朦朧としているはずの菊が、かすかな声を上げた。そばにいる女中が、慌てて菊の口元に耳を寄せて、彼女の話を聞き取ろうとする。
みんなの注目が菊のささやきに向かう。
「菊は、何て言ったんだ?」
急き立てるように、矢代が女中に問いただす。女中は菊の言葉が聞き取れず、首を左右に振るだけだった。
その時、再び菊が力を振り絞って声を出す。
「わたしは・・・、隼人さんのお嫁さんになりたい・・。」
菊の顔に薄っすら赤みが差し、そのまま力尽きたかのように、再び目を閉じた。
「馬鹿を言いなさい!」
明らかに動転してしまった矢代は、そう言い放つしか仕方がなかった。彼の考えの中では、隼人と菊の結婚など、あってはならない道理のようなものだった。
「矢代殿の言い様は、私を・・、いや、私の家族を余りにも侮辱している言葉に聞こえるる・・。」
突然、隼人の怒りが爆発し、矢代の侮蔑にも似た言葉にくってかかった。
「そもそも、私は武士の生まれ・・。私の父は、出島で長崎通詞をしていた身分。あなたに、私の身分をどうこう言われるような素性の人間ではないと思いますが・・。」
隼人は鋭い視線で矢代を睨み、彼の侮蔑的な自分への非難に反論した。
「確か、この青年の苗字は大家だったな・・。」そう気づいた瞬間、矢代の記憶が、過去のある出来事へフラッシュバックし始める。それと同時に、矢代の不満に満ちた顔が、瞬く間に驚きの表情に変わっていく。
「隼人さんにお聞きしたい・・。あなたの父上の名は、もしかして、大屋吉長様ですか?」
矢代の質問に、隼人が頷いた。
「こんなことがあるんだ・・。この隼人さんが、大屋吉長様の御子息とは・・。」
矢代は、隼人が頷いたの見て独り言のようにそう呟いた。
「隼人さの父上と矢代様の間に何か関係がおありで?」
二人のやり取りを聞いていた弥吉が、矢代の態度の変化に驚いて、思わずそう聞いた。
矢代は数十年前に自分に降りかかった、生涯忘れられない苦境の記憶をたどっていた。
矢代の前を役人が歩いている。彼の蔵にあった荷物の一部が荷車に積まれ、今、出島に向かって運ばれていた。この荷は、矢代が内密に島津藩から依頼され、香港から運ばれた抜け荷であった。その荷が、幕府の役人にばれたのである。
「これは、オランダから運ばれた幕府承認の荷物でございます。すでに、ケッペル船長から公儀に、直接報告書が届けられたと思っていましたが、未だ書類は届いていませんか?」
矢代の苦し紛れの嘘に、役人が苦虫をつぶしたような顔をして頷いた。
「これは、私どもの落ち度・・。改めてお詫び申します。」
矢代はそう言うと、役人に深々と頭を下げた。
「おぬしがそう言うなら、出島までこの荷の一部を運んで、確かにこの荷がオランダ船から運ばれたものか、ケッペル殿に確かねばならぬ。荷を伴なって、我らに付いてまいれ!(横にいた側近に向かって)長崎通詞を、至急、出島へ呼んでまいれ!」
役人の対処は、当然の成り行きであった。
矢代の後ろを、不法に集めた抜け荷の一部が大八車に積まれ、手代たちが汗を流しながら運んでいる。矢代は懐に忍ばせた短刀を手で確かめた。
「役人にこの荷の噓がばれれば、わしは詰問のために拷問にあい、挙句の果てが、打ち首になるのは間違いない・・。」矢代は、手代たちの汗を見ながら、そんなことを考えていた。そうなる前に、嘘が発覚すれば、今自分が触っている匕首で首を切ろうと覚悟を決めていたのである。青空がやけに青く、一つの雲も見当たらない。矢代はその晴れ渡った上空を見上げて、緊張を和らげるように大きく息を吐いた。
「大屋殿、ケッペル殿は何とおっしゃっている?」
役人が、急きょ出島に駆け付けた通詞の大屋吉長に問いただした。
役人の質問に、大屋は笑顔を見せて、
「確かに、ケッペル殿は矢代殿にこの荷を引き渡したと言っておられます。」
そう答えたのである。
矢代が、目を大きく見開いたまま、呆然とした表情で大屋の顔を見つめる。
ケッペル船長は、矢代の放心状態になった表情を見て、
「どうしたんですかこの男は?」
と、オランダ語で大屋に尋ねた。
「何でもないのです。どうやら、他のオランダ船から入手した荷物をあなたから受け取ったと勘違いしたみたいです。日本人には、オランダ人の名前は難しいですからな。」
大屋は、オランダ語で船長にそう言うと、小さな声を出した笑った。つられるように、ケッペルが笑い出す。矢代に嫌疑をかけていた役人が、きまり悪そうに辺りを見渡して、ばつが悪そうに苦笑する。
「しかし、取引した内容の報告書が、まだ我々のもとに届いておらんのは、船長とおぬしの不手際ではなのか!」
さすがに、幕府役人はオランダ船長をり飛ばすわけにはいかず、矢代の方を向いたまま、彼だけを叱責した。
「すぐに矢代殿が対処するでしょう。(矢代の方を向き)よろしいな・・。」
大屋が、言い聞かせるように矢代の方を見て、そう言った。
「はい、すぐにお届けに参ります。(役人の方を向き)申し訳ございません。」
矢代はそう言うと、役人に頭を下げた。
「以後、このようなことがないよう。今度このような不始末があった場合、ただではすまぬぞ!」
役人は矢代を叱りつけることで、自分の体面を保つと、そそくさとこの場を立ち去った。
彼らの後姿を見つけながら、矢代の目から滝のような涙が流れている。
「どうしたのです?この男・・。」
ケッペル船長が、不思議そうな顔をしながら、オランダ語で大屋に尋ねた。
「いいのです。船長にはいらぬ迷惑はかけました。」
大屋はそうオランダ語で話すと、ケッペルに深々と頭を下げた。事情の分からない船長は、大屋の丁重な謝意の態度に戸惑いながらも、右手を上げて答えると、大股で自分の船へと去って行った。
「大屋様・・。」
矢代は、大屋の名前を呼んだまま動揺してしまい、言わねばならない謝意を告げる言葉が口からでなくなる。矢代の目から涙があふれ、目の前の大屋吉長の姿が仏に見えた。
「いいんですよ。あなたの事情は分からないが、人の首が飛ぶのを手助けしたとなると、寝覚めが悪い・・。ただそれだけです。」
大屋はそう言うと、茶目っ気のある笑みを漏らして、矢代の肩を軽くたたいた。
そして、大屋は矢代をその場に残し、くるっと体を反転すると、ゆっくりと彼から離れて行った。矢代は大屋の背中を見ながら、彼の背中に手を合わせていた。
まるであの時の場面が蘇ったかのように、菊の病床で矢代が滝のような涙を流している。
「何という因縁だ・・!そうですか、あなたが大屋様のご子息の隼人さん・・。」
矢代が、独り言のようにそう呟いた。隼人と弥吉が、不思議そうな顔をして、矢代の顔を見つめている。
すると突然、矢代が隼人の前に正座して、両手をついて頭を下げた。戸惑う隼人・・。
「娘のことはよろしくお願いいたします。」
矢代は頭を下げたままそう言うと、なお一層深く頭を下げた。
「矢代様、何か事情がおありなので・・?」
矢代の突然の急変を見ていた弥吉が、彼の言葉に驚いて声をかけた。
「菊の亡くなった母親も、この運命を知ったら、喜んでくれると思います・・。」
矢代は、突然の急変の理由を説明することもなく、ただ感激のあまり、隼人にそう言ったなり、再び涙を流しながら娘の顔を見て嬉しそうに頷くばかりだった。
「隼人さん、お父上の許しが出たんだ。菊さんを私の馬車で・・。」
弥吉は、矢代の決心が変わらないうちに菊を連れ出すことを隼人に訴えた。
弥吉の勧めに答えるように、隼人が菊の前に膝を立てて座ると、寝ている彼女に背を向け、両腕を後ろに回し、彼女が自分の背中におぶさるように促した。
「いくら何でも、お嬢様には難しいかと・・。」
隼人の行動を見ていた番頭が、彼に注意を促す。
すると、次の瞬間、菊が布団をはねのけ、隼人の背中に向かって這い出てきて、隼人の首に自分の両腕を絡めたのである。
「おおっ!」
番頭と女中が、声をそろえて感嘆の声を上げる。
「隼人さんが菊様を長崎にお連れする!すぐに玄関に馬車を回せ!」
弥吉が部屋の外にいる自分の手代に、大声でそう叫んだ。
「品川のわしの船を、いつでも長崎に出向させるように手配するよう番頭に言っておくれ!」
矢継ぎ早に、再び弥吉は手代に命令する。
菊を背に負った隼人が、黙って障子の戸を開け、立ち止まる。
「菊さん、これで後悔しないよね・・。」
隼人が、背中にしがみついた菊にそう尋ねた。
背中の菊が、大きく頷いて隼人に応じる。
「隼人さん、菊を頼みましたよ!」
涙をぬぐった矢代が、やっと後姿の隼人に声をかけた。大きく頷いて答える隼人・・。
「必ず、菊さんを治して見せます。」
隼人の言葉は、自信に満ちていた。
廊下に出た所で、菊が小さな声で、
「これで、やっと私たち一つになれたね・・。」
と、隼人の背中でそう言いうと、「うふっ」と笑った。
隼人は、菊のささやきに、一瞬どきっとして少し頭を後ろに回して、菊の顔を覗こうとしたが、無理だった。ただ、頭を動かそうとする途中、隼人の耳に菊の甘い吐息が怪しく伝わり、自分の気持ちがとろけそうになるのをはっきりと自覚した。
「仮病じゃないよな・・?」隼人は、ふと菊に不信を抱いたが、最後には、それはそれでいいから、菊を背負ったまま時が止まってほしいと、心の底から願っている自分がゆっくり廊下を歩いているのを、もう一人の自分が眺めていた。
(さぶと矢加部斗真の殊勲)
矢加部斗真は、元々鬼塚が警察庁でいたころから警察隊長として、幕府お庭番から警察庁へとうまく組織を変えながら、それなりに昇進を重ねてきた男である。鬼塚を裏切り、正幸が中心の警察内部でも、それなりに自分の地位を守ってきた。美鈴とも長年の恋を実らせ、結婚にこぎつけた。世間では、抜け目のない男として映っているのかもしれない。ただ、今の諜報部では権蔵が実権を握り、彼の息子の三郎と丹波が諜報活動の指揮をとっている以上、矢加部の役目は霞んでしまっていた。
「木を見て、森を見ずか・・。」
美鈴の前で斗真がよくそう言っては、ため息を漏らす。自分では、最良の手を打ったつもりが、時代の大きな変革についていけなかったのかもしれないと自戒する時、よく漏らす言葉である。
そんな斗真が、近頃、友のように付き合っている男がいた。さぶである。どういう訳か、さぶとは気が合った。どちらも、警察部署の亜流で動いているのが原因かもしれない。
「どうだ。見つかったか?」
斗真が、さぶに声をかけて、彼の椅子の横に座った。
「そんなうまくいくはずがないでしょう。見つかれば、恩賞金と昇進がいっぺんに手に入る。あっしの他にも、丹波や三郎も寝る間を惜しんで、探し回っているんですから・・。」
さぶたちが血眼になって探しているのは、伊勢が諜報部の全員に懸賞金と昇進を餌にはっぱをかけた大石文三(小栗の側近)の探索である。もっと具体的に言えば、彼の懐にあるかもしれない江藤の小栗への誓約書であった。
「大石が江戸の町に顔を出すのは、奴が勝沼の屋敷に逃げ込む数日だけ。その間に、奴から密書を奪えというのだ。並大抵の仕業では、うまくいくまい・・。しかも、その大石は、相当の使い手。こちらの命の保証もない。」
斗真は、独り言のようにそう呟くと、ふーっと大きくため息をついて、
「そばとお銚子二本。」
近づいてきた女に、ぶっきらぼうに注文した。注文を受けた女が、愛想のいい笑顔を見せると、帳場に向かって斗真の注文を反復する。
さぶは、すでに机の上に数本の空の調子を並べている。彼は酒は嫌いではないが、仕事中にこれほどの酒を飲むのは珍しい。この蕎麦屋は、西の旅人がしばしば腹ごしらえに利用する所として知られていた。さぶは、持ち前の忍耐強さで、長時間この席に座っている。そんな時、同じようにこの店に当たりをつけた斗真が、たまたま、さぶがこの店に座っているのをみつけたのである。
「しかし、待ち人を待つのは、雲をつかむような話ですな。」
さぶがそう言うと、斗真が同調するように苦笑した。
その時、二人の席の横を、長旅のせいか、着物は誇りまみれ、頭の髪は櫛も入れずぼさぼさで、足取りは重そうな侍が、後ろの椅子に崩れるように座り込んだ。
「おい・・。」
斗真が、こっそりと、後ろの侍を指すように目をやった後、さぶに視線を送った。
その視線に答えるように、さぶが頷く。
「間違いない。」
さぶが、小声で斗真にささやいた。どうやら、二人が待ち望んだ大石文三のようであった。
二人は、すでに大石の似顔絵を記憶に焼き付け、彼の特徴である顔のほくろも確認できたのである。
「どうします・・。二人でおさえますか?」
さぶが、斗真にそう聞いた。
「馬鹿!奴の剣は、そこいらの侍の腕前ではないのは聞いているだろう。」
斗真の声は、さぶが聞きづらいほどだった。
「かと言って、じっとしていれば、何のために張り込んでたのか・・。」
さぶは辛抱強く張り込みを続けていたが、まさか当てがあたるとは想像していなかったのである。そのため、運よく大石を見つけた後、どうやって密書を奪うかまでは考えていなかった。
「まったく間抜けな話だ。」
さぶは独り言のようにそう呟くと、悔しそうに舌打ちをした。
「わしが、奴をこの近くまで誘ってみる。そのすきに、奴の懐をねらってみろ。」
さすがに、斗真は元忍びである。危ない仕事は何度となく経験があり、修羅場に慣れていた。
「よしてくださいよ。あっしは、すりはできますが、刀を差した侍はねらったことがないんです。命は惜しいですからね。」
さぶは、きまり悪そうにそう言うと、胡麻化すように照れ笑いをした。
「役にたたん奴だ。」
斗真は、千載一遇の好機に、何もできないで言い争っている自分が情けなくなった。
ところが、今日の二人は、とことん運がついていた。
突然、二人の前に右衛門が現れたのである。
「何をこそこそ言い合っているんだ?」
右衛門が、にこにこしながら二人に声をかけた。
「だんな!」
右衛門の顔を見るや否や、さぶは泣きそうな顔になる。
「右衛門様がどうしてここに・・?」
それでも、斗真は冷静である。右衛門が現れるなど考えもしなかった斗真は、どうしてもそう聞かずにはいられなかった。
「だんなは、この俺の”だち”のようなもんだからな。」
斗真の質問に、さぶが自慢げにそう返答した。
「まあそんなところだ。それに、ここの蕎麦はよく食べに来るんだ。」
右衛門が、さぶの言葉に合わせるようにそう言った。
斗真はニコッと笑って、さぶの顔を見る。今の斗真にとって、二人がどんな間柄など関心がなかった。
「さぶ、いいな・・!」
斗真が、さぶに覚悟を促す。具体的にどうしろとは言わないが、次にとる斗真の行動が、さぶのすりとしての才覚の見せどころであるのは、はっきりしていた。
幸い、店は客がまばらであった。
「右衛門様、助太刀お願いしますよ!」
斗真は右衛門に向かってそれだけ言うと席を立ち、後ろの大石の方へ向かった。
斗真には、状況を説明する余裕はなく、それだけ言って右衛門の剣に頼るしか時間がなかった。
「大石文三殿!わしは、東京警察の矢加部斗真というものだ。尋ねたいことがあるので、本署まで同道ねがえんか?」
大石の刀の間合いぎりぎりの所で、斗真が大声でそう言った。
「何のことかな?」
大石はそうとぼけると、間髪入れず刀を抜いて、斗真の腹に水平斬りを試みた。斗真が間一髪でトンボをきり、右衛門の横まで来て、刃物を持った両手を顔の前に突き出し、防御の構えをとった。
大石は隙を与えず、刀を上段に構えて斗真に斬りつけようとした。その時、右衛門が大石の手首をとって、振り下ろそうとする刀を押しとどめた。
「何者だ!」
店中に響き渡る大石の怒声。
「この男を斬りたいなら、わしが相手をしよう。」
右衛門はそう言うと、大石の凄まじい殺気をかわすように、声も出さずに笑顔を見せた。
次の瞬間、大石の動きの止まった腹の前をスッと通り過ぎる影があった。さぶである。
彼は、その瞬間に大石の懐から密書をかすめていたのである。
その様子を見ていた斗真が、さぶの後を追って外に出る。
「右衛門様!恩にきますよ!」
斗真の逃げながら叫んだ言葉が、大石の耳に恐怖を引き起こした。
二人の後を、逃げるように店を飛び出す大石。幸い、大石は右衛門からは逃れたが、二人の姿はどこにもなかった。
(決着)
江藤の誓約書は大久保の手に渡り、西田・江藤を中心とする一派は、政権を追われることになった。
矢加部斗真の家で、さぶ、斗真の昇進祝いに右衛門が招かれた。その場に、丹波、三郎とぬいの姿もあった。
「何でわしが、斗真の下に配属されねばならんのだ。」
さっきからもくもくと酒を飲んでいた三郎が、愚痴をこぼす。
斗真は、犯罪捜査部部長、さぶと三郎は副部長に配属された。
「おやじ(権蔵)の考えだろう。諜報部の中心を親子で牛耳れば、周りから不満が出る。お前を斗真の配下に置けば、周辺の批判がかわせるからな・・。」
じっと黙って飲んでいた丹波が、弟の三郎を諭すようにそう言った。
「兄さんから言われれば、仕方ないよね。」
ぬいが、わざと三郎の目を避けるように、美鈴に話しかける。
「政府の体制を変える程の大仕事を、斗真とさぶがやってのけたんだ。ここは、我慢しろ!」
丹波が重ねて三郎を説得すると、三郎はあきらめたように苦笑した。
「それにしても、人の人生とは分らぬものだ。さぶが警察で犯罪を取り締まるのだからな・・。」
右衛門の一言に、その場のみんなが笑いをこらえる。右衛門以外、この言葉は禁句のようになっていたのである。
「自分自身が一番驚いてまさあ。」
さぶが右衛門に答えるようにぽつりと呟くと、始めはその場の一人二人、次第にみんなが笑いをこらえきれずに吹き出した。
その機会をねらっていたかのように、右衛門が立ち上がる。
「右衛門様、まだいいではないですか。」
斗真が、右衛門を仰ぎ見ながらそう言った。
「わしは、それ程酒が好きでもないしな。」
右衛門は周りを見ながら、そう言って苦笑する。
「そうですか。それじゃあ、改めて礼を言います。」
斗真はそう言うと、右衛門に頭を下げた。それに合わせるように、美鈴とさぶが同じように頭を下げる。
外に出た右衛門は、夜空に浮かぶ月を見ながら、戸が絞められた商家の軒並みが並ぶ大通りをふらふらと歩いている。そして、たまたま見つけた「うどん」と書かれた提灯を目当てに進んでいった。
「おやじ、一杯頼む!」
右衛門はそう言うと、ほろ酔い加減のまま、屋台の床几にどっかりと座った。
「だんな、酒はどうします?」
おやじが聞いてくる。右衛門は手を振って断った。
その時、初老の男が屋台に入ってきて、右衛門の隣に座った。
「おやじ、うどんと熱燗。酒はぬるめでいい。」
そうおやじに声をかけると、右衛門の方を向いて微笑んだ。右衛門が、応じるように頭を下げる。
「おぬし、右衛門殿だろう。」
男の言葉に、右衛門は一瞬ビクッとした。
「失礼だが・・。」
右衛門がそこまで言ったとき、
「わしは、勝沼恵三・・。」
そう言うと、相変わらずにこにこ笑っている。
しばらくして、おやじが勝沼にうどんとお燗を出した。
「おやじ、少し席を外してくれんか。」
右衛門はそう言うと、小判を三枚おやじの前に差し出した。
「お客さん、こんなによろしいのですか?」
おやじが目を丸くして、右衛門の差し出したお金を見つめている。右衛門が、軽く頷く。
「よろしいございます。何なら、屋台ごと持って行っていただいてもようがすよ。」
おやじはそう言と、右衛門から金を受け取り、拝むように両手を頭の前に持ち上げて、満面笑顔でその場から立ち去った。
「配慮、恐れ入る。」
その光景を見ていた勝沼が、右衛門に頭を下げた。
「勝沼殿は、この私に何用で・・?」
右衛門は、差し出された盃を手に取ると、勝沼から酒を注いでもらった。
「西田は鹿児島に去り、江藤は大久保との政争に敗れて、故郷へ逃げ帰った・・。(右衛門の顔を真顔で見て)おぬしの仲間の完全勝利だ。」
勝沼はそう言うと、右衛門から目を外し、ふふふと笑った。
「私にそう言われても・・。」
そう言って、右衛門は勝沼の言葉をかわそうとする。
勝沼は、右衛門の言い訳を無視するかのように、
「ただな、右衛門殿にどうしても知っておいてもらいたいと思ってな・・。(盃の酒をぐっと飲みほし)わしは、時代を戻そうなどとは思っていない。ましてや、武士の世界の復活など願ってもいないのだ。確かに、わしの周りには、幕藩体制の復活を夢見て、頭の固い頑固者たちが集まってくる。みんな、誰かを頼りたいのだろう。頼られる私にとってはいい迷惑だが・・。」
そこまで言うと、勝沼はため息をついた。
「西田さんからも似たようなことを聞いたことがありますが・・。」
右衛門は、昔、西田が漏らした言葉を覚えていた。
「立場は違うが、奴も明治維新で取り残された士族の頼るべき象徴なんだろうな・・。それ故に、いずれ奴はその集団の犠牲になるつもりなんだろう・・。かつて、奴は高僧と心中を図ったことがある。そう言う男なんだ、奴は・・。ところが、わしは奴とは違う。できれば、この時代の生き証人になってみたいのだ。要するに、見栄も外聞もない男なのだ。」
勝沼はそう言うと、大きな声で高笑いした。彼の横顔を見ながら、右衛門も苦笑する。
次の瞬間、右衛門の持っていたうどんをすする割りばしが、ぴたりと止まった。
「勝沼さん・・。」
右衛門はそう言うと、勝沼の顔を睨んだ。後ろに殺気を感じたのである。
「後ろの連中も、わしに付きまとう連中だ。おぬし、連中に引導を渡してはくれんか・・?いずれも、凄腕ぞろいだ。(右衛門の顔を見て)もし、おぬしが、この連中を、わしが送った刺客と見なせば、いつでもわしを斬って構わんぞ・・。」
勝沼はそう言うと、再び無表情にうどんをすすり始めた。
相手は三人・・。しかも、右衛門は彼らに後ろ向き・・。右衛門の必殺三人斬りに、相手がはまるとは考えられない。
次の瞬間、右衛門が後ろにせまる一人の刺客にうどんの丼を投げつけた。容器が顔に飛んできた男が、思わず刀でそれを叩き落してしまった。
「しまった!」
男は咄嗟に、自分が隙を作ってしまったことを後悔したが、すでに遅かった。
男に背を向けていた右衛門が、丼を投げると同時に、振り向きざまに刀を抜いて、男の腹を水平斬りにしたのである。
暗闇に、バサッという鈍い音がして、刺客の一人が地面に転がり、うめき声一つ上げず絶命した。横にいた二人目の男が、刀を右衛門に振り下ろすが、一瞬の差で、体を右によじって男の一閃をかわし、たたらを踏んだその刺客の首に、左手に持った小刀を突き立てると同時に、右手の大刀で、残った刺客の振り下ろされた刀を受け止めた。首に差された小刀で、男の首から鮮血が噴水のように吹きあがっている。その光景をしり目に、右衛門は受け止めた刀を押しに押して、残った刺客の態勢を崩すと、さっと体を後ろに引いたかと思うと、そのまま刀を正面から振り下ろした。
「ううう」
正面を真っ二つに斬り降ろされた最後の刺客は、うめき声を一瞬挙げて、そのまま地面に崩れ落ちたのである。
一瞬の不気味な静寂の後、
「まるで鬼神だな・・。西田の言った通りだ。」
勝沼はそう言うと、食べ終えたうどんのはちの上に割りばしを置いた。
さすがに、右衛門は、はずんだ息を整えるのに時間がかかったのか、
「これほどの侍を護衛につけていれば、勝沼殿も安心でしたな・・。」
右衛門が、息をはずませたままそう言うと、最後にふっと息を吐いて、刀を鞘に納めた。右衛門の言葉は、うぬぼれでなく正直な感想だった。
そして、右衛門が、間をおかず勝沼のもとから立ち去ろうとした。
「おい、わしを斬らんのか・・?」
背を向けた右衛門に、勝沼が慌てて声をかけた。
「あなたがおっしゃった言葉を信じることにします。」
右衛門は振り向くことなくそう言うと、さっさとその場を立ち去ったのだった。
(再会)
数年が経った。西田は革命党率いて、政府軍との壮絶な戦いに敗れて自害した。政府軍の勝因は、アダムス商会の最新鋭の武器を弥吉と矢代喜左衛門の海運網が迅速に運搬し、近代戦を展開できたことにあった。
「もはや、武士だけの戦いでは勝てないことを、今回の戦争は証明したようなものだ。もちろん、警察隊の接近戦での刀の死闘の勝利がなければ、勝負はどちらに転んだかわからんがな・・。」
大久保はそう言うと、矢代喜左衛門の顔を見て微笑んだ。西田との戦争に勝った政府は、つかの間の平穏な体制を保っていた。大久保は、今度の戦で政府に味方してくれた矢代の屋敷をよく訪れている。矢代は、元々西田とは昵懇で、彼の性格もよく知っていた。大久保は、西田とは争ったが、心の中では今でも西田を無二の親友と思っていた。それだけに、西田を知る矢代といることで、友に近づけた気がするのかもしれない。
「それにしても、西田は、本当に今の政府を転覆させるつもりだっのかな・・?」
大久保はそう言うと、答えを求めるような目で矢代を見た。
「あの方は、おっきなお方でした。それだけに、時代の流れに邪魔をする難題は、いっぺんに抱え込んで、自分ひとり犠牲になって、死ぬぐらいの胆力はありましたな・・。」
矢代もまた、西田の信望者だったのかもしれない。
矢代の言葉に、大久保は持っていた酒の盃を畳に置いて、腕を組むと、じっと黙ったまま目を閉じた。彼の目じりから涙が伝わる。
その時、玄関で大声を出すものがいた。
「おじいさま!あなたの孫の正則が会いに来ました!」
どうやら、陽明の声である。隼人は、自分が若い頃、実家へ帰った時、陽明が玄関で自分の名を名乗り、出てきた母が気絶したのを思い出して、くすくすと笑い始めた。
廊下を大久保と矢代の座敷に大慌てで走ってくる番頭の足音が鳴り響く。
障子が開き、
「旦那様、大変です!」
番頭の大声が、部屋中に伝わる。
「何事です。大久保様が居られるのですよ。少しは、礼儀をわきまえなさい!」
矢代が番頭に注意した。
「申し訳ございません。ただ、一大事ですので・・。」
廊下に片膝ついて中腰になった番頭は、それでも落ち着く気配がない。
「どうしたのです!」
矢代が重ねて聞いた。
「お嬢様と隼人様、それに、旦那様のお孫様が・・!」
番頭が玄関の方を指さしながら、そう叫んだ。
「ええっ!」
矢代の絶叫。
玄関で四人を迎えた矢代は、菊から赤ん坊を受け取ると、優しく抱きしめて、板の間に座り込んでしまった。
「菊さんもよくなりました。一目孫の顔を見ていただきたくて、東京へ参りました。」
矢代のあまりの感激に圧倒されながら、隼人がやっとそう挨拶をした。
菊の脚気は、長崎に帰って、玄米を食べるようになりみるみる回復した。玄米に含まれるビタミンB1の摂取に成功したのである。
「隼人さんには、何とお礼を言ったらいいか・・。」
矢代はそう言うと、隼人と菊の顔を見ながら涙を流している。
「隼人は菊さんを奪った代わりに、子どもを矢代家の養子として、矢代正則と名づけましたよ。」
横にいた陽明が、矢代に事情を話す。
「この家に、家宝が舞い込んだわ!何と礼を言ったらいいか・・。」
矢代はそう言うと、抱えた赤子に頬刷りをする。
「これで、矢代海運も安泰だな・・。」
遅れて玄関にやってきた大久保が、矢代にそう声をかけて、にこにこ笑っている。
「陽明様にも、なんと感謝すればよいか・・。」
矢代は、こんな時にも、未来の重要人物になるだろう陽明への気配りを忘れなかった。
「さすが商売人だ・・。」陽明は、矢代の言葉にそんなことを思いながら、にやりと笑った。
陽明は次の日、ナタリーと共に、イギリスへ発った。莫大な利益を政府からせしめて・・。
おわり
「右衛門1」~「右衛門14」は、「右衛門シリーズ 全編」に掲載中!