右衛門14-2
「右衛門14-2」
(西田との談判)
鬼塚率いる警察隊と右衛門と仲間の戦い後、次に何が起こるのか見通せない、不気味な平穏がしばらく続いた。右衛門等の勝利の知らせが見能林に届くと、元見能林藩から増援の鉄砲隊が再編成され、東京へ上京する準備が進められた。一方、旧幕臣たちの天狗党も、頭首の勝沼恵三の方針を待たずして、右衛門暗殺の機運が高まり始めた。
右衛門の住む長屋周辺は、両者の再衝突のあおりを回避しようとする住民の移動で、騒然としていた。ただ、何故か長屋の住人は、政府の報復を恐れることなく、引っ越しをする連中はいなかった。そんな状況の中で、右衛門は思いもよらぬ行動に出た。
「どうだ、これから敵の大将の西田義厚に会いに行こうと思うんだが・・。一緒に来るか?」
右衛門が、忠成と又五郎にそうもちかけた。二人は、驚いたように顔を見合わせる。
「西田と何を話すつもりだ?」
忠成が、当然そう聞いた。
「忠成には喜一郎、又五郎にはアダムスという娘婿が、岡山の収容所に捕らわれている。西田の命なら釈放できる。それに、佐那河内の連中をこのままにしておくわけにもいかんしな。警察隊に打撃を与えた今なら、西田もわしらと会ったほうが得策と思うかもしれんぞ。」
右衛門はそう言うと、机に肘をつけて頬に手を当て、何か考え込むように黙ってしまった。
「面白い!わしは右衛門についていく。」
又五郎は、右衛門の提案を素直に受け入れた。
「二人がそうするなら、わしも断る訳には行くまい。」
迷っていた忠成が、覚悟を決めたように右衛門に同意した。
西田も上京したころは、右衛門がいるような長屋で生活していたが、さすがに一国のリーダーになった今はそうもいかず、閑静な住宅の立ち並ぶ、緑の木々で覆いつくされた一画の豪邸に住んでいた。
「このまま、右衛門を放置すれば政府の威信にかかわる。再度、軍の力も借りて、数百の追討軍で奴らの要塞を殲滅せねば・・。」
後藤は、警察隊が敗れて以来、西田と江藤の前で力による制圧を主張していた。
「後藤さんは、右衛門殿の住み家を要塞というが、ただの長屋と土蔵のある商家にすぎないと聞いたが・・。」
西田は、後藤の大袈裟な言いようをからかうようにそう言った。
江藤は、二人の議論に始終黙っている。そもそも、鬼塚の二度にわたる右衛門捕縛失敗は、彼の命令からなされたものである。この場で、自分の意見をあれこれ言えば、どこかで自分の失敗を突かれるような気がしていたのである。
一方、西田は、真剣な議論の最中も、右衛門と一緒に企んだ長州征伐軍司令官だった会津藩家老折田周明の暗殺事件を思い出していた。
「あの人と争うのは気がすすまん・・。」
西田が、独り言のようにぽつりと呟いた。
後藤と江藤は、西田の言葉の意味が分からず、思わず顔を見合わせる。すると、西田は、更に話を続ける。
「あれは鬼神だ・・。獲物をしとめる鷹のように、少しも動揺することなく淡々と狙った相手を仕留める。しかも、稲妻のような白刃の閃光の直後に、赤い鮮血が辺りを染め上げる・・。(二人の顔をじろっと見て)右衛門が相手を狙えば、化け物になる・・。後藤さんは、奴の殺人剣を見たことがないから、気軽にそんなことが言えるんじゃなか。」
豪胆な西田の戒めとも思える言葉に、二人は息をのんだ。
ちょうどその時、廊下を大きな足音を立てて駆けてくる家の者がいた。
「よろしいですか?」
彼の声がうわずっている。
「どうした?入りなさい。」
西田が、即座に入室の許可を出す。
すると、扉が勢いよく開けられ、
「佐藤右衛門殿、小野忠成殿、安住又五郎殿が玄関に・・・!」
家の者は余程慌てていたのだろう、彼らの要件を言うこともできず、来訪者の名前を列挙するのがやっとであった。
「ほう・・。」
三人の名前を聞いた西田が、にやりと笑った。これとは対照的に、側にいた後藤と江藤は、顔面蒼白になって、体の震えを抑えるのに必死になっていた。
右衛門たちが案内されて洋間に入った時、西田がテーブルの傍らで立って彼らを出迎えた。
「お久しぶりです。右衛門殿。」
西田はそう言うと、愛想のいい笑顔を見せた。彼の機嫌のよさに、又五郎と忠成は、目を見合わせて怪訝そうな顔になる。
「いつ会っても、西田さんは変わらない。その笑顔に、人はあなたを信頼するのかもしれませんな。」
右衛門は、お世辞ではなく本音でそう思っている。
その時、部屋の外で、かなりの数の西田の配下の者が、慌ただしく動く気配がした。恐らく、右衛門らの行動を危惧した家の者達の護衛行動であろう。
すると突然、西田が扉の方に目をやって、
「やめんか!お前たちが十人集まって、わしを守るために斬り込んできても、この三人には、ものの数ではない!戻りなさい!」
と、大声で叫んだ。その声を聴いて、ぞろぞろと廊下を退く集団。
「これが西田か・・。」忠成は、初めて会う西田に、侠客の大物の匂いを感じた。
右衛門は、西田の大声を聞かなかったように、用意された席に座って、椅子をちょうどいい位置にずらした。それを見た残りの三人が、合わせたように席に着く。
「まずは、勝者のご意見をうかがおうとしますか・・。」
席に着いた西田は、冗談とも真剣ともとれる会話で、交渉を切り出した。
隣の部屋では、後藤と江藤が息をひそめて聞いている。又五郎は、西田との会談で、彼をからかう言葉(大久保との友情の破綻、勝沼恵三との関係など)をいくつか考えていた。
しかし、この場での目に見えない西田の威圧は、又五郎の企みを封殺してしまった。
「得体のしれぬ男だ・・。」又五郎は、心の中で何度もそう呟いた。
「私はあなたが苦手だ・・。私がいくら計略を考えても、あなたの・・何というか・・。」
そこまで言って、右衛門はにこりと笑って口ごもってしまった。
「私も、右衛門殿が苦手です。あなたの動じた態度を見たことがない。あの会津藩家老折田周明を暗殺した時も・・。」
応酬するように、西田はそう言うと、にやりと笑った。
「どうだろう、西田殿・・。この辺で争いはやめにしませんか。」
そう切り出したのは、忠成であった。
「はい。小野派一刀流頭首 小野忠成殿がそうおっしゃるのなら、当方としても逆らうわけにはいきますまい。」
西田は、忠成をたてて、彼の提案に即応した。忠成は、お世辞でも、西田の言葉に自分の自尊心をくすぐられた。
「わしらとの和解の見返りに、岡山に収容したわしらの仲間を釈放してもらえる、と受けとってもいいのですかな?」
忠成に後れまいと、又五郎がすかさず西田に問いただした。
その問いに、西田は又五郎の方を向き、深々と頭を下げ、同意の意を示した。又五郎の顔に笑みがこぼれる。
「ただし、佐那河内はお返しできません。」
西田はきっぱりそう言うと、忠成と又五郎を見返した。二人の顔から、安堵の表情が消え、右衛門の方に目をやる。
「それで構いません。西田殿の顔も立てねば、交渉にはなりませんからな・・。忠成、佐那河内の連中の当分の面倒を見てやってくれんか?」
右衛門はそう言うと、横に座る忠成の方を向いて頭を下げた。
「それは構わんが・・。佐那河内は、おぬしが作った理想郷ではないのか。」
忠成の質問に、又五郎が同調したように頷いた。
「もうそんな時代ではないだろう。あの地は、元々、猟師と農民の村だったんだ。彼らにお返しするのが筋だろう・・。なあ、西田さん。」
この時初めて、右衛門はくつろいだ笑顔を西田に見せた。
「お礼を申す。これで我らの面子もたちます。」
西田はそう言うと、改めて右衛門に頭を下げた。
「このことは、江藤さんや後藤さんも承知と見なしていいんでしょうな・・。」
右衛門はそう念を押すと、二人が潜む隣の部屋を睨んだ。
「わしが、承諾したんじゃ・・。誰にも文句は言わさん!」
西田の気迫のこもった言葉に、「やはり、大物の侠客だ・・。」改めて、忠成はそう思った。
(陽明帰国)
右衛門は久しぶりに、春のいる料亭に戻った。
又五郎、忠成、清五郎、佐吉等が、春の経営する料亭に集まっている。警察隊との戦闘に勝利し、佐那河内の連中も解放される方向になった安堵感もあって、座敷の雰囲気は久しぶりに弾んでいた。又五郎が高笑いし、忠成はさっきから盃を重ねている。清五郎も、勧められた盃を断ることなく、始終笑顔を絶やさない。佐吉はすっかり商人らしくなり、政府とどう交渉するかで、右衛門と話し合っている。夕方の花街は、次第に活気を帯び始め、二階から見下ろした通行人の浮かれた会話が雑踏に打ち消されながら、飲み屋街の風景に溶け込んでいく。そんな光景をぼんやり見ながら、三味線をつま弾く春の姿は、どことなく、女の色気を醸し出していた。
「春さんは、いつも艶があるのう。それに比べて、早苗(又五郎の妻)は、わしを叱ることしか知らん鬼婆じゃ。」
酒の助けを借りた又五郎が、酒宴に笑いを誘おうと、過剰な軽口をいう。
「あら、今の言葉、早苗さんに告げ口しようかしら。」
又五郎の冗談に応じるように、春がそう言った。又五郎は、春の言葉に慌てて、彼女に近づき両手を合わせて、
「それだけは、ご勘弁を・・。」
とおどけて見せた。その場に、笑いが起こり、酒の席は活況を帯びてくる。
その時、階段を駆け上がる音がして、仙太が慌てた様子で部屋の障子を開けた。
「目の青い娘さんと陽明とおっしゃる西洋風の服を着た若いお方、それに、ホッジスとおっしゃるエゲレス人がおみえです。」
仙太は、言いたいことを一挙にまくしたてると、安堵したようにふっと息を吐いた。
「おおお!」
右衛門以外、その場の全員が、同じように声を上げる。
右衛門が彼らを迎えるために立ち上がり、玄関に向かおうとした時、三人の客はすでに階段を上がってきていた。
すると、廊下に出た右衛門を見つけたナタリーが、
「右衛門!」
と叫んで、彼に抱きついてきたのである。その光景を見て、苦笑するホッジス。何の反応もせず、ただボーっと眺めている陽明。口をあんぐり開けて、じっと見つめている忠成や清五郎。春と佐吉は、笑みを浮かべて楽しそうに二人を見ている。一番驚いているのは、又五郎のようである。立ったまま、盃を片手に持ったまま、呆然と二人の抱擁を眺めていた。
ホッジスと陽明は、右衛門、忠成、佐吉、又五郎、清五郎の輪に加わり、運ばれてきた料理に箸をつけている。ナタリーは春の横に座って、春の三味線を彼女から教わった通り爪弾いては、嬉しそうに歓声を上げる。
「叔父上が、西田さんと手打ちをしたのは、私たちが計画した筋書には幸いでした。最も、僕は大久保さんのところへ行くとばかり思っていたが・・。」
陽明は、膳に出され金時豆が余程気に入ったのか、さっきからその豆ばかりつついて口に運んでいる。右衛門は、彼の子供のころの面影を思い出しながら苦笑した。
「陽明は何を企んでいるんだ?」
又五郎が、すかさず問いただす。その質問に反応するように、陽明がホッジスと顔を見合わせ、にやりと笑った。
「我々は、弥次郎さんを通じて、大久保さんと交渉しているのです。」
ホッジスが流暢な日本語でそう答える。具体的内容を聞くために、忠成と又五郎が陽明の言葉をじっと待つ。
「大久保さんたちに政権の実権を取ってもらうんですよ。そのために、我々が動いている。
もちろん、大久保さんのために動いてるんじゃない。ホッジスは、アダムス商会の利益のため。僕は、・・。」
そこまで言って、陽明は黙ってしまった。
「なんだ、何のためか分からず日本に帰って来たのか?」
今まで関心なさそうに、料理に箸をつけていた右衛門が、陽明の顔を見ながら箸を止めてからかった。
「僕も佐那河内で育った人間ですからね。その点では、叔父上と変わらない・・。正直言うと、佐那河内が解散させられたとホッジスからの知らせが入った時、もっと冷静に聞いていられると思っていたんです。でも、そうではなかった・・。源一郎や正幸様、与助さんやアダムスのことが頭に浮かんで・・。いつの間にか佐那河内の人間に戻っていた。因果なもんです。」
この言葉に、忠成と又五郎は陽明という人間の認識を少し変えなければならないと、密かに思った。要するに、陽明を見直したのである。
「とまあ、そんなきれいごとを言ってもいいんですが・・。叔父上は僕がそんなことを言っても信じるはずがない。」
陽明がそう言って、右衛門の顔を見ると、案の定、彼は陽明の言葉を信じていない様子で、彼の言葉を馬鹿にしたように聞き流し、にやにや笑っていた。
「お前なあ、陽明。もっと真面目に話さんか。わしも忠成も真剣に聞いてるんだぞ!馬鹿者が!」
又五郎が陽明の話に思わず切れた。忠成は、陽明にあきれたのか、その場の雰囲気から逃れるように、障子越しの外の夕焼けをじっと眺めている。
「大久保さんや政府の連中にのませる警察刷新の人事です。」
真顔になった陽明は、ポケットから紙を出すと、右衛門たちの前の畳に広げた。
その内容は、正幸が警察庁長官、その側近に、ずらり岡山に収容されている佐那河内の連中の伊勢、源一郎、辰雄、それに与助、マイケル等の名前も連ねられていた。
「警察庁を乗っ取るつもりか?」
又五郎が紙を見た後、顔を上げて、目を丸くして陽明の顔を見ながらそう叫んだ。
「乗っ取るなど人聞きが悪い。(笑みがこぼれている)政府も佐那河内の人材を使わない手はないでしょ。彼らは、武力においても知略においても誰にも引けはとらないのだから・・。
少なくとも、叔父上にあっけなく潰された鬼塚とやら言う幕府御庭番の親玉を雇うくらいなら、佐那河内の連中が敵に回れば、余程叔父上には厄介だったのに・・。」
陽明はそう言うと、右衛門の顔を見てにやりと笑う。
「しかし、西田が政府でいる限り、大久保にはその人事をもちかけてもどうにもなるまい。」
外を見ていた忠成が、口を開いた。
「政府の中枢から退いてもらえばいいだけのことです。江藤さんや西田さんは、叔父上との一件で、すでに退くに十分な失態を犯しているのだから・・。」
陽明の簡潔な言葉の裏に、綿密な計算が秘められていることを知っているホッジスは、さっきから一言も言わず、この場を客観的に眺めている。
「ホッジスさんの意見も聞きたいが・・。」
ホッジスの沈黙に気づいていた右衛門がそう切り出した。陽明が、目でホッジスの発言を促す。ホッジスは、仕方ないというように肩をすくめ、
「今、弥次郎さんが大久保さんたちと交渉をしています。右衛門さんが、西田さんと争いの後始末に合意したことで、彼らはかなり焦っている。我々が用意している追加の条件を提示すれば、交渉は成功するのではないでしょうか・・。もちろん、西田さんが政府から退けばですが、そのこともちゃんと策は打ってます。」
ホッジスの日本語は流暢だったが、それ以上に彼の説明は簡潔で説得力があった。
「追加の条件とは?」
右衛門が、すかさず問いただす。
「清五郎さん、旧見能林藩の鉄砲隊百名、警察に入ってくれませんか?」
陽明が、いきなり清五郎に話しかけた。今まで、ここで話していることを他人事のように聞いていた清五郎が、驚いたように陽明の顔を見る。
「それは、私が声をかければ、すぐに集まると思いますが・・。若様は我々に何をしろと?」
清五郎は、陽明の意図が呑み込めず戸惑っている。
「清五郎達鉄砲隊が警察に入ることになれば、あの組織にとって大変な武力になる・・。それが目的なんだよ、陽明は・・。つまり、追加の条件とは、清五郎達鉄砲隊が政府警察隊に所属することなんだろう。」
右衛門が、清五郎の質問に推測を交えて予想する。
それを聞いた陽明が、満足げに頭を縦に振った。
「念を押すようだが、ホッジスさんが言ったように、西田を政権から退かせて本当に大丈夫なのか?西田の背後にいる薩摩の武士団が、黙っちゃいまい。」
忠成はあくまでもそのことが聞きたかった。
「忠成様の質問の答えは、陽明がイギリスから運ばせている大量の武器です。大久保さん達が政権に着けば、徴兵で集めた軍隊が自由に使える・・。その兵隊に最新鋭の武器を持たせれば、西田さんを支持するの武士団にも対抗できる。そのことを提案して、今、弥次郎さんが大久保さんたちを説得しているのです。つまり、大久保さんたちは、西田さんに拮抗する武力を持つことで、安心して西田さんを政権から追い出すことができる・・。」
ホッジスの口調は、淡々としていた。
「最新鋭の武器を持った町人と旧式の武器と刀で武装した武士団の戦いになる。叔父上はどちらが強いと思います?」
陽明はそう言うと、右衛門の顔を見て、自信ありげな笑みを浮かべる。
「お前が日本に帰ってきた本当の目的は何なんだ?この国をどうしたいんだ?」
右衛門は、陽明に幾分不信を抱き始めていた。
陽明は右衛門の疑問に答えることなく、にこにこ笑っているだけだった。
「大久保さんたちが西洋で学んだことをこの地で実践するなら、日本はきっといい方向に向かうと思います。」
陽明に代わって、ホッジスが右衛門の問いに答えるように、ぽつりと呟いた。
「僕は人徳がある人間より、頭のいい人間が好きだしね。」
陽明が、ホッジスの言葉に付け加えるようにそう言った。
最後に右衛門が、
「西田さんは、佐那河内の連中を警察に受け入れることに反対しないかもしれないな・・。
江藤さんや後藤さんとは、違った考えがあると思うんだが・・。いずれにせよ、源一郎や正幸が、警察庁に就任するのは、そんな根回しをしなくても、存外、うまくいくかもしれんな・・。」
と、独り言を言うようにそう言った。右衛門は、内心、自分の策と陽明らの考えが同じ方向だったことを驚いていた。
(陽明の周辺)
ナタリーは春の家で滞在し、陽明は春の料亭の小さな一部屋を借りて、東京の拠点にした。
右衛門は、西田と対立する大久保と交渉する陽明と一緒にいるわけにもいかず、さぶの長屋をねぐらと決めた。裏の商家には清五郎たち鉄砲隊が、警察部隊に再編されてからも住居にしていた。佐那河内の連中の警察就任は、大久保と江藤の駆け引きもあり難航したが、右衛門の言った通り、西田の黙認もあって、正幸の警察庁長官、伊勢の長官補佐の就任で決着した。そして、源一郎は大坂の長官、与助は彼の補佐に落ち着いた。源一郎は与助にとって見能林藩での主従関係に当たることもあって、うまい人事と言えるのかもしれないが、これには江藤が東京に佐那河内の勢力を集中させたくないという意図もあったのである。細かい人事でも、新しく警察庁長官に就任した正幸の権限を借りて、権蔵配下の忍びは、東京の諜報部に就かせた。京馬は元々、彦根藩の家臣でもあり、源一郎の下に置いた。佐那河内の人事で一番喜んだのは、双栄だった。彼は、元々会津藩の忍びだったこともあって、仙台の警察所長に抜擢されたのである。
「権蔵さん、わしはやっぱり主人を裏切り、あんたについてきてよかった。」
権蔵の家にやってきて、別れの挨拶をしたときの嬉しそうな双栄の顔を、権蔵は今でも忘れない。
弥次郎、弥吉、陽明が、春の料亭に集まっている。
「春さん、弟の辰雄さんは高知の警察署の警察補佐に就任させたが、もうちょっと箔をつけさせたほうが良かったかいな?」
いつものように、ナタリーに三味線を教えている春に、弥次郎が声をかけた。
「辰雄も浪江ちゃん(弥次郎の妹、辰雄の妻)も、高知に帰れて喜んでいたわ。弥次郎さんが裏で動いてくれたんでしょ。ありがとう・・。」
春は弥次郎にお礼を言った。弥次郎は嬉しそうな顔をして、手を頭にやり、にこりと笑って彼女に頭を下げた。
「何だか、熱心に佐那河内の連中の就職活動を手伝ったみたいだけど・・。しかし、これからが本番ですからね。大久保さんたちが政府の中枢に戻って、我々の影響が政治に及ばなくては、イギリスからわざわざ日本に帰った意味がない。少なくとも、義父は日本に送った武器を巨万の富に変えなくては、私に合格点を出してはくれないだろうから・・。」
弥次郎は、この言葉に陽明の本音を垣間見た。
「金儲けはいいが、日本をイギリスに売るような真似をするなら、わしは手を引くからな。」
弥次郎が怖い顔をして、陽明を睨んだ。
「近代日本になるには、西洋も知らない連中に日本の舵を取らせる訳にはいかんでしょ。」
陽明にはこういう正論と本音を使い分ける癖がある。ただ、彼は、正論を方便に使うような男ではない。つまり、彼が言った正論は、信念でもあったのだ。
「それならいいが・・。(真意を確かめるように陽明の目を見る)それにしても、西田さんは、もう少し潔く政府から退くと思ったが・・。」
弥次郎は、西田の性格を知っているだけに、西田が大久保と争いながら、政府の中枢に居続けるのが意外であった。
「江藤や後藤が退かないのだから、引くに引けないんですよ。」
陽明はそう言うと、小さくため息をついた。彼もまた、西田の行動が予想外だったのかもしれない。
「大久保様や木場様に任せるしかないのでは・・。焦りは禁物です。」
じっと黙っていた弥吉が、落ち着いた声で呟いた。
「ところで、アダムス卿の輸送した最新鋭の武器は何処に保管しているので・・?」
弥次郎が、陽明の方を見て、そう聞いた。
「香港に・・。」
陽明はぽつりとそう言うと、黙ってしまった。
「日本に運ばれれば、私どもが指示される通りに、何処へでも届けます。」
弥吉はそう言うと、自分の実力を匂わせた。ただ、弥吉にも不安があった。九州の船の航路網には、何の影響力も持っていなかった。ただ、陽明の前ではその弱点を言う訳にはいかなかったのだ。弥吉にとって、この商談は絶好の好機であった。
「弥吉さんにも損はさせませんから・・。」
陽明が、弥吉を安心させるようにそう言った。弥吉が、思わずぶるっと身を震わせる。さすがに、弥吉もこれほどの商いを、政府相手にした事がなかったのである。
「これで、弥吉も政商の仲間入りじゃな。」
弥次郎が、弥吉の心をくすぐるような言葉を言った。
(警察本部)
権蔵が、正幸と伊勢逸郎に、最近所沢に集結した浪人の集団が不穏な動きをしていると聞きつけ、調査した結果を報告するために警察署に出向いてきた。
「確かに、騒乱を狙っているようです。集まった浪人は百人に迫る勢いで、後ろで勝沼恵三の側近が操っているのでは・・。」
警察の制服を着た権蔵は、どう見ても忍びとは思えなかった。今では、秘密警察のように、あらゆる犯罪の情報を集める裏のまとめ役であった。
「となると、江藤や後藤と歩調を合わせて、大久保たちの政府改革派に揺さぶりをかけていると考えていいかもしれんな・・。」
大きな窓を背にして、机に座る正幸が権蔵の知らせに推測をたてた。
「ところで、見張り役は?」
応接用のソファに座っている伊勢が、権蔵に尋ねた。
「警察官としては古参の西岡と矢加部斗真を近くの民家に忍ばせています。彼らなら、適切に対応してくれるものと・・。」
「あの鬼塚を裏切った矢加部か・・。西岡は筋金入りの薩摩武士だし、右衛門殿との関りがあるので大丈夫と思うが、矢加部は信用できるのかな・・?」
伊勢はそう言うと、薄笑いを浮かべた。
おそらく、ぬいと矢加部の妻の美鈴が旧友と知っていて、権蔵(ぬいの義父)の感情を揺さぶったのかもしれない。伊勢は、きれ者と言われる一方、人の忠誠心を常に疑うところがあった。その意味で、死んだ鬼塚に共通点があるのかもしれない。
案の定、権蔵の顔色が変わった。正幸はそれを見逃さなかった。
「おいおい、仲間割れをするようなことを言っては困る。美鈴はぬいの親友じゃないか。その美鈴の夫を疑えば、権蔵の息子の妻のぬいまで疑うことになるではないか・・。あまり、権蔵の気持ちを逆なでするな。」
正幸が、権蔵の表情を横目で見ながら、伊勢をたしなめた。もしかしたら、正幸が権蔵をかばうのも計算ずくで、伊勢は権蔵を刺激したのかもしれない。思った通り、権蔵は正幸に親しみの笑顔を見せた。
「すまん。何せわしらは警察を任されて期間が浅い。警察官の人心掌握が肝心の時期だけに、過敏になって・・。権蔵の事情も考えず失礼した。」
伊勢はそう言うと、素直に謝った。
権蔵は、伊勢の言葉ににこりと笑って、機嫌を直した。
「奴らの中に踏み込みますか?」
権蔵が本題に戻った。
正幸が、伊勢の顔を見る。肝心の計画は、伊勢に任せているのだ。戊辰戦争以来、共に戦ってきた副官である。伊勢を全面的に信頼し、自分より優れた知略家であると認めている。
伊勢もまた、正幸を長谷部家頭首として、彼に忠誠を誓っていた。この二人の関係こそが、正幸の警察署所長の重責を維持する原動力になっていた。
さらに、正幸は所長になるとすぐに、戊辰戦争を共に戦った家臣を警察に呼び寄せた。あの戦争で苦境を潜り抜けた戦友達の家臣団だからこそ、最強の警察軍団を編成することができたのである。
「清五郎率いる鉄砲隊20名で屋敷に発砲、驚いて出てきた浪人に私が率いる突撃隊が応戦する。恐らく、膠着状態になれば、大将の青山要が出てきて、総がかりで応戦するのでは・・。ひょっとすると、その時、正幸様の出番があるかもしれませんな・・。」
伊勢はそう言うと、正幸の顔を見た。
突然、権蔵が笑い出す。
「私はその作戦に似た一戦に参加したことがありますよ。」
権蔵はそう言うと、また笑い始めた。
「右衛門と鬼塚の死闘か?」
正幸が権蔵の方を向いて、確かめるようにそう言った。応じるように、権蔵が大きく頷く。
伊勢もそのことを知っていながら、この作戦を立てたのである。
「ただ、奴らにとって相手が同じではない。我らの軍団は、鬼塚の率いた元警察隊より強い。更に、もし、正幸様と青山の一騎打ちになれば、しめたもの・・。奴が、以前の戦を知っていれば、あるいは正幸様に一騎打ちを挑むかもしれません・・。」
伊勢は右衛門と鬼塚の死闘を計算に入れたうえで、この作戦を立案したのである。
「やはり、切れ者の伊勢様ですなあ!」
権蔵の顔からは笑顔が消え、伊勢の策に感心した様子だった。
「ただ、青山要と言えば、千葉道場の神童と言われた相当の使い手と知らせが入っておりますが・・。正幸様は柳生流の師範代であられたはず、青山のことはご存じで?」
権蔵に尋ねられた正幸が、首を横に振って、
「恐らく、かなり若い侍だろう。わしにはそのような名前覚えがない。」
と、きっぱりと言った。
「作戦を変えましょうか?」
伊勢が正幸を気遣った。
「柳生新陰流が千葉道場の小童に臆病風をふかしたなどと、義親様(柳生流頭首)の耳に入ってみろ!わしは柳生道場で腹を切らねばならぬ!」
正幸は、余程伊勢の言葉に憤慨していたのか、冷静さを失い呼吸が乱れていた。これも伊勢の狙いだったのかもしれない。
(踏み込み)
朝もやが立ち込める中、けたたましい銃声が青山率いる反乱分子の屋敷にこだました。
しばらくすると、伊勢の作戦通り、数十人の侍が剣を抜き、屋敷の門をくぐって外に出てきた。二発目の銃を警戒して、彼らは外に出ると蜘蛛の巣のように放射状に散らばる。清五郎たち鉄砲隊も、相手の侍を狙い撃ちするには霧が立ち込めすぎていた。このまま再び銃撃すれば、返って自分たちの居場所を知らせて襲い掛かられる危険があった。
「退却!」
清五郎の声に、銃撃退が後ろに退いていく。
すると、その様子を見ていた伊勢が大声で、
「突撃!」
と、あらん限りの声を出して警察突撃隊に指示を出す。
一番に駆け出す伊勢に後を、権蔵、丹波、三郎が続く。しばらくして、霧の中、両者の死闘が続いていたが、やはり予想通り、警察官の長谷部隊が優勢になり、屋敷から味方を援護するべく青山率いる主力部隊が戦に加わり始めた。やがて霧が晴れ、両者の形勢は一進一退になる。しかし、それでも正幸は、後方で互いの死闘を眺めている。
すると、
「おぬしが警察庁長官の長谷部正幸殿か!この際、わしとの勝負で決着をつけようではないか!佐那河内の四強と言われた正幸殿なら、わしの挑戦に背を向けるわけにはいくまい!」
青山はこの機会を待っていたかのように、大声で正幸に声をかけた。
その言葉に応じるように、正幸が剣を抜いて、青山の方に向かって行く。
「後退!」
伊勢の甲高い声に、警察隊が後ろに後退し、合わせるように、反乱軍も屋敷の方に引き下がる。いつの間にか、戦場の真ん中に正幸と青山が対峙し、互いに正眼に刀を構え、斬り込む間合いを測っている。
しばらくすると、辺りの空気が緊張と静寂に包まれ、両軍が二人の死闘を見つめている。それでもなお、二人はお互いの間合いを測って、仕掛けない。数分経っただろうか、お互い合図をしたかのように、正幸は下段、青山は上段に構えた。遠くで見守る連中からは、二つの体が接近し、そのまますれちがうように交差して通過し、互いに背を向けるまで歩を進めるように見えた。次の瞬間、二つの体がぴたりと止まり、数秒間静止した後、青山は自分の体を支えきれないかのように地に転がると、赤い鮮血を噴水のように散布した。
一瞬の沈黙の後、警察側から歓声が上がり、反乱軍の浪人たちは、降伏を認めるかのように、地に膝をついて頭を垂れた。
「やはり四強だ・・。」
その有様を見つめていた伊勢が、薄笑いを浮かべながら,、ぽつりと言った。
(陽明の友、隼人)
いつものように、ナタリーは、春の傍で裁縫の仕方を教えてもらっている。彼女は、日本にいる間に、この国の文化を学び、習慣を知ろうとしていた。春は、彼女の意欲を満足させてくれる最適の相手だったのかもしれない。
陽明は、昨夜ホッジスと弥吉との話し合いで疲れたのか、春とナタリーがいるいつもの料亭の二階の部屋で、本を枕にして爆睡している。
その時、一階から聞きなれた、仙太の階段を軽快に上がってくる足音が聞こえた。
「陽明様にお客がまいってますが・・。」
仙太の声に、陽明が眠そうな目をして、上半身を持ち上げた。
「客?珍しいな・・。」
陽明はそう言うと、両腕を大きく伸ばし、あくびをした。
「大屋隼人様とおっしゃる方で・・。」
仙太が名前を告げるや否や、陽明は勢いよく立ち上がると、仙太の横を通り過ぎ、大急ぎで階段を降りていった。
一階の玄関には、隼人が旅姿で座っている。大きな荷物を横に置き、大通りを行き交う人の足元を、暖簾の下から眺めていた。
「隼人!」
隼人がたたずむ姿を見つけた陽明が、快活な声を張り上げ彼の名前を呼んだ。
陽明の方に振り向いた隼人が、にこりと微笑む。
陽明は嬉しさのあまり、立ち上がった隼人の体を抱きしめた。びっくりして、目を丸くしている隼人。二階から、その光景を見ているナタリーと春が、驚いたように顔を見合わせた。陽明のこんな素直な喜びの表現は、彼女たちにとって、意外な彼の一面の発見だった。
二階の同じ部屋に、陽明と隼人が並んで座っている。膳を挟んで向かいには、ナタリーと春が、仲のいい二人をほほえましそうに眺めている。膳の上には、酒と料理が並べられ、隼人は長旅で空腹だったのか、ひっきりなしに箸を動かしては、料理を口にはこんでいる。
「ここの料理はうまいです。僕は大阪の西先生の療養所で働いていますが、そこのまかないの婆さんは、煮っころがしや漬物しか出さず、大いに難儀をしていたので・・。」
隼人はそう言うと、春の顔を見て笑顔を見せた。
「隼人さんは、ずいぶん正直ね。だから陽明と親友になったのかもしれないね・・。
性格が対照的な友人が、一番親しくなれるらしいわよ。」
隼人の言っていることが分かったのか、ナタリーが陽明に英語でそう言った。
陽明は、ナタリーの顔を見て苦笑をする。
「ナタリーさんは、何と言ったのですか?」
隼人が、彼女が言ったことが理解できず、陽明に通訳を求めた。
「隼人はいい人だってさ・・。」
陽明が、適当に胡麻化した。
「いやあ・・。(嬉しそうに笑顔になり)それにしても、ナタリーさんは美しい。陽明は果報者だな・・。」
隼人は心底そう思っている。すると、ナタリーが隼人を引き寄せ、彼の頬にキスをした。ナタリーは、隼人の言ってることが分かったのかもしれない。
隼人の顔がリンゴのように真っ赤になり、その顔を見ていた陽明と春が大声で笑い出す。
帳場にいた仙太と料理長が、その笑い声を聞いて、
「おかみさんとお客たちは随分楽しそうだな。」
と、料理長がぽつりと言うと、顔を見合わせて薄笑いを浮かべた。
「あんたが作った料理が、余程美味いんだろう。」
仙太が料理長をおだてる。
「馬鹿言うな・・。」
料理長が仙太にそう言った。彼の顔に、まんざらでない満足げな表情が浮かんでいた。
夜も更け、花街の灯りが消え始める。家路を急ぐ客たちの雑踏も消え、騒々しいい街にも静けさが目立ち始める。それでもなお、遠くの方で三味線を爪弾く音がかすかに聞こえ、最後の熾火に灯がともっているようだ。
ナタリーと春は自宅に帰り、料亭で働く人たちも家に帰った料亭の小さな部屋に、隼人と陽明の寝床が作られた。
陽明は隼人の再会の嬉しさもあって、いつもより深酒をしてしまった。
行燈の火が消された部屋で、二人が並んで寝ている。
「隼人はまだ嫁さんがいないのか?」
陽明が、暗闇で隼人に話しかける。
「ああ、医者の修行でそんな余裕もなかった。お前みたいに美しい嫁さんが出来れば、修行もそっちのけになったかもしれないがな・・。」
そう言って、くくくと笑った。陽明は、隼人の言葉に反応しない。
「西先生は、お元気でおられのか?」
陽明が、話題を変えた。
「あの人は、医者になるべくして生まれてきたような人だ。あれだけ毎日たくさんの患者を診られているのに、愚痴ひとつ言ったことがない。」
隼人は、西を心底尊敬していた。
「相変わらず、金儲けには無関心でおられるようだな・・。」
陽明はそう言うと、ふふふと笑った。
「金儲けと言えば、お前は金儲けのために帰国したのか?私には、そうも思えんが・・。」
陽明の性格を知っている隼人にとって、彼が貿易商として一生懸命活動するとは思えなかったのである。陽明は、西先生と同じように金には無頓着なところがあった。
隼人は、世の中には、金に執着する人間と、そうでない人間に区分されると思っている。その性格の違いは、持って生まれた性根のようなものだと解釈していた。
「まあ、義父のせいで随分考え方が商人に近くなったのかもしれない。彼の考えでは、商売と政治は世の中の裏表の関係らしい・・。今度帰国して、政治の裏側に係ってみると、義父の言ってることにも道理があるように思えてくる。それに、世の中を動かすのは、思っていた以上に面白い。」
隼人は、陽明の言葉に、彼が自分からどんどん遠ざかっていってるように感じた。
「そんなもんなんだ・・。」
隼人が、自分に言い聞かせるようにぽつりと言った。
「ただ、今こうやって政治の裏で暗躍してるのは、それだけでもないんだけどな。」
隼人は、陽明の言葉を聞いて、寝ていた上半身を持ち上げた。合わせるように、陽明も上半身起き上がる。二人とも眠れそうにないのである。
「もう一杯やるか。」
陽明が、酒の飲みなおしを提案する。
「ああ。」
隼人がその提案に応じた。行燈に灯が入り、陽明が酒を取りに帳場に向かった。
寝間に徳利が並び、二人が酒を湯呑で飲み始める。
「俺は昔、フランスへ行った際、喧嘩をしてパリの収容所に入れられたことがあったんだ。」
陽明が再び話し始める。親友の隼人には気兼ねをする必要がないのか、陽明の表情は、隼人があったころの少年のような面影を残していた。
「そこで、十代の青年と監獄が同じになって、数週間一緒に過ごしたことがあるんだ。彼の名前はガロワ・・。途方もない頭のいい青年だった。いつも他の囚人にからかわれては、必死で応戦していて、僕の目から見ていても、軽薄な青二才に見えたんだ。はじめのうちは、奴と話すのも億劫で、お互い同じ監獄で無視しあっていたんだが・・。或る時、ガロワが、僕が本を読んでいるのを横目で見て、”コーシー(読んでいる本の著者)には論文を送ったのだが、返事もよこさない”と言ったんだ。」
隼人は、陽明の架空のような話に、次第に引き込まれていった。
「コーシーは、フランスきっての大数学者なんだ。いや、彼の複素数論なんかは、必ず時代を超えて数学の金字塔となるはずの論文なんだ。(湯呑に注がれた酒を一気にあおる)もちろん、最初は僕をからかっていると思ったから、相手にもしなかった。ところが、可笑しなもので、僕もガロワも数学という同じ専門の話題があったせいで、次第に打ち解けて話すようになったんだ。」
陽明は、その時の出来事を懐かしそうに話している。
「ガロワか・・。聞いたことがないけど・・。関孝和先生より頭がいいのかい?」
隼人がそう聞いてきた。
「二人は、時代も環境も違うから比較はできない。ただ、関先生は日本のすぐれた学者にすぎない。しかし、ガロワは時代を超えて数学に大変革を起こすはずだ。少なくとも僕はそう思う。彼が収容所で、僕に見せてくれた五次以上の関数は、解の公式化ができないという理論は、希代の天才でしか考えつかない理論なんだ。その論文を読んだ時の僕の感動を想像してみてくれ!僕は、時を超えて不変の真理を創造した人間と、同じ時間と空間を共有していたんだと思うと、今でも体の震えるを覚える・・。」
隼人は、いつの間にか興奮して、息が荒くなっている陽明を見て、昔の彼を思い出していた。
「それで、そのガロワという男、その後どうなったんだろうね?」
独り自分の思い出に浸って語っている陽明をこの場に戻すかのように、隼人が質問した。
「二十歳のとき、女性問題の争いで決闘になり、銃で撃たれて死んだそうだ・・。僕は、その話を聞いたとき、政府の誰かの罠にかかって殺されたと、直観で理解したがな・・。ガロワは、数学以外に自分の命を懸けられる信念があったんだ。」
また、陽明の記憶は、次第にこの場から遊離し始める。
「それは何だったんだ?」
隼人は、それでも、ガロワのことでいっぱいになった陽明の記憶の世界についていこうと、遠慮がちにそう質問した。
「共和主義さ・・。彼の時代に復活した封建主義を再び打破しようと、狂気とも思える体制への反抗を続けていたんだ。数学の世界で有名になり始めたガロワが、体制派の政治を批判すれば、それを抹殺しようと誰かが動いてもっ不思議じゃない・・。」
陽明は一挙にそこまで言うと、酒の入った湯呑を飲み干した。
「そうか、だからお前は日本の政治に関わっているのか。ガロワの生き様に憧れて・・。」
隼人が、勝手に陽明の心情を読み解いた。
「どうかな・・。ガロワの話はできるが、自分がやっていることがうまく説明できないよ。だって、義父のアダムスの期待に沿いたいというのも、僕の本音だしな。」
陽明はそう言うと、隼人の顔を見て、はにかみながら笑顔を見せた。
隼人は、ガロワの話を聞いて、「やっぱり陽明だ。変わっちゃいない。」と心の中でそう思って、幸福感を味わっていた。
(右衛門と正幸)
正幸は、警察署勤務以外は、着物を着て日本刀を差す。要するに、武士としてのたたずまいを簡単には捨てきれないタイプの男であった。ただ、明治初期には、正幸のような武士が大半であったが。
「右衛門はいるかな?」
長屋のさぶの家を訪ねた正幸が、家の中にいるさぶに尋ねる。
「旦那、からかってはいけないよ。御覧の通り、あっしの家はここに部屋一つっきりだ。大将(右衛門)が、居るか居ないか分からなかったら、どうかしてますぜ。」
さぶは、正幸の方を見ながら、馬鹿にしたようにそう言った。
「なるほど。お前の言う通りだ。(にやりと笑い)仕方ない、出直してくるか。」
正幸はそう言うと、戸を閉めかけた。
「ちょっと、ちょっと。」
さぶが、呼び止める。戸を閉めかけた正幸が、改めてさぶの顔を見る。
「大将のお客人をただで帰したんじゃあ、あっしのメンツが立たねえ。大将は、ちょいとそこまで出かけただけでさ。じき帰ります。きたねえ所ですが、お上がりになって、茶でも飲んでお待ちになってはいかがですか?」
さぶはそう言うと、にこりと笑って軽く頭を下げた。
正幸は少し迷ったが、さぶの言いぐさが面白かったのか、再び中に入って座敷に腰を落ち着けた。
「お前、右衛門のことを大将と呼んでいるが、どうしてだ?」
さぶは、正幸の横で湯飲みを洗いなおして、急須から出がらしの入ったお茶葉を捨てると、水屋にしまっていた取っておきの茶葉を袋から取り出し、急須に入れると、湯飲みにゆっくり注ぎ始める。
「あっしは、警察には何度となくお世話になったけちなすりですがね・・。(顔をあげて、正幸の顔を見て、照れたように笑う。)今まで、代官所や警察が、誰かに叩き潰されるなんて思ってもみなかった・・。それがどうです、右衛門様とそのお仲間は、あっしが思ってもみなかったことをやってのけたんだ。だから、あっしは右衛門様を神様と呼んで、両手を合わせようと思ったんだが、右衛門様にとめられたんでさ。そこで、せめて大将と呼ばせてくださいって、頼んだんでさ。」
正成は、さぶが冗談を言ってるのかと、彼の表情をうかがったが、真面目にそう言っているのが分かって、何だか彼が異邦人のように思えた。
「へい。」
さぶはそう言うと、入れたての茶を正幸の前に置いた。
正幸が軽く頭を下げて、湯飲みを口に運ぶ。
「うまい。」
お世辞でなく、さぶの茶はうまかった。さぶが嬉しそうに、手で頭を掻く。
その時、家の戸が開いた。
「おお!正幸殿。警察庁長官がじきじき汚い長屋に御越しとは、いったい何用で?」
そう声をかけたのは、弥次郎だった。弥次郎の後を、右衛門が続いて入ってくる。
「正幸が来たんだ・・。さぶ!酒を買ってきてくれんか。」
右衛門が、畳に座りながら、さぶに声をかける。しかし、返事がない。
不思議に思った右衛門が、部屋の片隅で身を縮めるように正座をして、なるべくこの場から自分の存在を消し去ろうとしているさぶがいた。
「おい!」
弥次郎が、さぶを促すように声をかける。その声で、我に返ったさぶが、
「へーい。」
と、かすれるような声を出したかと思うと、家からまっしぐらに飛び出した。
「何だあいつ・・。」
不思議そうに、その行動をいぶかる弥次郎と右衛門。正幸だけは、茶を飲みながらくすくす笑っていた。
三人になると、話が始まった。
「どうやら、大阪で暴徒が集まっているようだ。」
正幸は、権蔵や京馬から、上方の異変を耳にしていた。
「裏で勝沼さんが操っていると言う情報は?」
すかさず、弥次郎が正幸に確かめた。
「わからん。ただ、勝沼の側近と江藤は何度か談合を重ねている。」
正幸は、権蔵たちに勝沼たちの動きを探らせていた。
「おぬしも変わったな・・。すっかり警察庁長官だ。」
二人の話には入ってこなかった右衛門が、正幸の言動を聞きながら感心したようにそう言った。
「わしの周りには、戊辰戦争を共に戦った長谷部隊が共にいるんだ。これからは、奴らに苦汁はなめさせられない。地獄を潜り抜けてきた仲間だからな・・。(少し考えこんで)ただ、今の自分が、あの新選組の立場のように思えてならない時がある・・。」
正幸はそう言うと、寂しそうな笑みを浮かべた。
「今や、警察隊は大久保さんたちが一番頼りにしている組織だ。裏返して言えば、後藤や江藤にとって目の上のたん瘤だがな・・。所沢の騒乱鎮圧以来、政府の会議はいつも大久保さんらが押し気味らしい。江藤の失脚もそう遠くないだろう。」
弥次郎は、右衛門とは少し立場が違って、大久保や陽明たちと同じ一派であった。それだけに、正幸の弱気な言動は気にくわなかった。一方、右衛門は、西田と大久保のどちらにも組する意図は少しもなかった。
「わしはわしの役目を果たすまで・・。大久保の駒になるつもりはない。」
正幸は、どうやら弥次郎の言葉に不快感を覚えたらしい。
「まあ、そう言わずに・・。わしとて、日本のためになると思うからこそ、大久保と陽明の間を取り持っているんじゃ。分かってくれんかのう。」
弥次郎はそう言うと、声を出して笑った。
彼の憎めない笑い声を聞きながら、正幸と右衛門が、自然と笑みを漏らす。「弥次郎は、一流の公証人だ・・。」右衛門はそう思いながら、弥次郎の顔をちらっと見た。
「ついでに、図々しいようじゃが、正幸殿。大阪で企てられている騒乱のことだが・・。
江藤が騒動に一枚かんでいる証拠が手に入れば、わしらの目論みである江藤追放は達せられるんじゃが・・。探ってはくれんか?」
弥次郎はそう言うと、手を畳に着けて頭を下げた。
「やってはみるが、できるかどうか。」
渋い顔をして、正幸が応じる。
「ありがたい!」
あくまで、弥次郎は正幸の前で、平身低頭に徹した態度をとった。横で見ている右衛門が、他人事のようににやにや笑っている。
その時、
「買ってまいりやした!」
大きな声を出して、さぶが勢いよく入ってきた。
さぶは酒を板の間に置き、湯飲みを用意すると、再び部屋の片隅にかしこまった。しかし、さっきのさぶと正幸の話が持ち出され、三人の笑いが絶えない。
「そうか、さぶは正幸殿の前で、警察の悪口を言ったか。どおりで、わしらが入ってきたとき、さぶの様子がおかしと思った。」
弥次郎は、正幸とさぶの会話の内容を聞いて、もう一度大笑いをした。横で聞いていた右衛門の顔にも笑みがこぼれる。
「せっかく、正幸とさぶが顔合わせをしたんだ。一つ、正幸に頼みがあるんだが・・。」
右衛門がいきなり、正幸に頼みを持ち込んだ。
「うん。」
正幸が右衛門の方を見て、応じる態度を示す。
「このさぶのことだが・・。こいつ、未だに仕事にもつかず、世間の中でふらついている。おかげで、いい年をして嫁ももらえん。」
右衛門がそう言って、さぶの顔を見る。
「嫁がもらえないんでなくて、嫁をもらいたくないのでさ。」
右衛門に逆らうように、さぶが文句を言った。
「そういきがるな。(にやりと笑い)こいつも、丹波や三郎と同じ年頃だ。物は相談だが、こいつを警察で雇ってはくれんか?」
右衛門はそう言うと、正幸に頭を下げた。
「これは驚いた。すりが警察官になるのかえ。」
すかさず、弥次郎がからかうようにそう言った。
「あっしが警察官なんて・・。天地がひっくり返りまさ。」
さぶも弥次郎の言葉に同調するようにそう言った。ただ、正幸だけは真剣な顔をしている。
「それは面白い。さぶのすりの腕は確かなのか?」
正幸が妙な質問を右衛門に投げかけた。
「恐らく、奴の右に出る同業の輩はいまい。わしは、何度か賭場でさぶの早業を見させてもらった。あれは神業だ。(正幸の方を見て)今の話は、館内では内密にな。」
右衛門の冗談とも真剣ともつかない話に、さぶと弥次郎はどう反応していいか戸惑っている。ただ、正幸だけは、さっきから右衛門の言葉を真剣に受け止めていた。
「面白い!さぶ、明日わしに会いに警察署へ来い!その場で、お前を採用するから・・。」
正幸は右衛門の提案を、即座に受け入れた。彼にはそれなりの目論みがあったのかもしれない。
「旦那、そいつは・・。」
さぶが正幸の言葉に反抗しようとする。
「四の五の言うな!わしが正幸に頼んだ提案だ。もし、お前が、わしに恥をかかすなら、この刀にかけて、言うことをきかせるからな!」
右衛門の言葉は、さぶにとって強引だったが、断ることができない迫力があった。
「大将が、そうおっしゃるなら・・。」
さぶのその言葉で、さぶの警察入りは決着した。
「さぶの就職祝いをしなくてはな・・。」
弥次郎は、さぶをからかうようにそう言った。
(矢代海運会社)
「どうした。三人で何の相談だ?」
春の料亭で隼人に会いに来た右衛門は、当てが外れた。春とナタリーそれに隼人は、歌舞伎見物に出かけていたのである。
いつもの二階の部屋にいたのは、陽明、弥吉、それに草津であった。
「叔父上か、しばらくご無沙汰です。」
陽明が右衛門の顔を見て、ありきたりの言葉をかける。弥吉と草津が、右衛門に対して警戒心を見せる。「どうやら、西田派への対抗策でも相談していたな・・。」右衛門はそう思った。右衛門は大久保派でも西田派でもない中立の立場で、彼らには手の内を知られたくない存在だったのかもしれない。
「話を進めましょう。」
右衛門への警戒している二人の雰囲気を感じ取った陽明が、敢えてその場の警戒心を無視するかのようにそう言った。
「また、三人で西田派への悪だくみでも考えているのか・・。心配するな、わしはおぬし等には加担はしないが、西田さんに肩入れする程の恩はない。ここで語られることは、決して漏らさんから、安心しろ。」
右衛門は、二人の警戒心を突き放すようにそう言った。
「叔父上に遠慮することもないでしょう。少なくとも、叔父上は佐那河内の連中の迷惑になるような行動はとりませんよ。それに、いずれ我々のために動いてもらわねばならん時が来るかもしれんし・・。」
陽明はそう言うと、右衛門の顔を見てにこりと笑った。陽明の言葉で、三人の密談は、右衛門の前で再会した。
「矢代海運を味方につければ、予想される最悪の戦いに勝機はあります。」
弥吉の言葉にしては、大袈裟だった。恐らく、右衛門の存在を意識した発言だったのだろう。弥吉にとっても、右衛門が自分たちの行動を全面的に支持してくれないのは不安であった。
ところで、矢代海運とは、矢代喜左衛門が興した九州一帯の船舶輸送を一手に引き受ける巨大な海運業者である。特に、佐賀藩、薩摩藩、熊本藩それにオランダ貿易の平戸など、どちらかと言えば、西田や江藤を支持する士族を中心とする、旧藩主との交流を中心に、商売の基盤を形作っていた。
「それは難しな・・。矢代喜左衛門の商売を支えてきたのは、九州の雄藩の藩主たちだからな。それらの藩主は、ことごとく西田、江藤一派に共感的だ・・。」
草津がそう言うと、弥吉が同感するように頷いた。
「しかし、これからの世の中を商売で泳いでいくには、新しい考えを持つ指導者と歩まねば・・。矢代程の経営者なら、柔軟な考えを持たねば、会社経営は立ちいかないことは感じ取っていると思うんだがな・・。」
陽明が、それなりに理屈の通った話を展開した。
「それは、陽明のような、世界で最初に産業革命を興したイギリスで暮らしている人間だからこそ、発想できる考え方だ。今の日本で、そこまで先を読んで行動する商売人が何人いるか・・。」
予想外にも、右衛門が三人の話に入ってきた。
「私は、叔父上をただの剣豪だと固定観念で見ているきらいがある。しかし、その考えを変えないと、叔父上の行動を見誤ってしまうかもしれないな。用心、用心・・。」
陽明にとって、右衛門だけは、何を考えているのかつかみきれない不思議な存在だった。
一方、右衛門は陽明の意味深な言葉に、苦笑して取り合わなかった。ましてや、横で二人の会話を聞いていた草津と弥吉は、右衛門と陽明のやり取りを深く理解することすらできない様子であった。
「ただ、矢代喜左衛門には弱点がありまして・・。」
弥吉が話を本題に戻した。
「何ですか?」
陽明が、弥吉の言葉に身を乗り出した。
「矢代には、後継者がいないのです。自分の子供と言えば、娘の菊様だけ・・。そのお子様も病がちで、最近かなり深刻な病気にかかり、部屋で臥せっているとか・・。」
弥吉は、草津と陽明が真剣な顔で自分の話に聞き入っているのに気付いた。
「いや、この情報は、我々の話に役に立つかどうかわかりませんが・・。」
弥吉は、自分の言葉が適切だったか迷っている。しかし、この言葉は、陽明に一つのアイデアをもたらした。
「とにかく、矢代海運が我々の協力してくれれば、弥吉の船が九州まで武器や物資を運び、矢代海運に受け継げば、九州で何か起こっても、武器供給を含めた平坦には心配がなくなる。これが、我らの勝利の最低条件だろうな・・。何せ、平民が武士の集団に戦を仕掛けるのだからな。この様なことは、前代未聞だ。余程綿密な計画を立てねば、勝利など程遠い・・。」
草津が口走った言葉に、右衛門は驚いた。
「おぬしたちは、西田を追い出すばかりか、その先の反乱まで見込んで策略を練っているのか・・。」
右衛門は、陽明と大久保の描いた陰謀のもとで、とんでもない計画が走り出していることを認識したのである。
三人の策謀の話も終わり、右衛門も含めた四人は、仙太が運ばせた料理と酒を楽しみながら、雑談が始まった。昼間の通りは行きかう人もまばらで、彼らの笑い声が時折窓から外へとこぼれる。
「叔父上、この仕込み刀、私にくれませんか?」
右衛門は、時折、脇差をささない。外に出るときは、仕込みの刀を手に持ち、背中の後ろの帯に小刀を差していることがある。恐らく、駒の夫の龍のやり方を真似たのだろう。
「この仕込みは、わしが大金をはたいて名工に作らせた刀だ。ピストルを持ち歩く陽明には無用の長物だろう。」
右衛門は、仕込み刀を手放したくなかった。
「それでは、このピストルと交換に・・。あいにく、弾は一発しか入っていませんが、後で、数百発持ってきますから・・。この銃は、三連発製です。今の日本でこのような武器を持っている人間はいないでしょう。」
陽明はそう言うと、ピストルを懐から取り出して、右衛門の前に差し出した。
「まあ、考えとく。」
右衛門は、陽明の頼みをやんわり断ったつもりだった。
「それでは、先にこの銃を叔父上に進呈しときます。刀は、考えた後で頂きます。」
陽明は仕込みが余程ほしかったのか、強引に交換を成立させた。
「おい!」
右衛門は陽明の言葉に抵抗しようとしたが、彼の強引な言葉が気に入ったのか、その後、言葉を続けようとせず、あきらめたように苦笑を漏らした。
草津は相当酒を飲んで、畳の上に大の字で寝ている。弥吉は、右衛門と陽明のやり取りを面白そうに眺めて、時折、手酌で酒を口元に運んだ。
その時、仙太が階段を勢いよく上がってきた。
「陽明様にアダムス商会から使いが参っていますが、どういたしましょう?」
障子を開けた仙太は、そう言って陽明の顔を見る。
「私に?」
陽明の顔に不審そうな表情が浮かぶ。
「どういたしましょう?」
仙太が重ねて聞いた。陽明は、少し考えた様だったが、おもむろに立ち上がると、仙太の言葉に促されるように、玄関に向かって歩き出した。
右衛門は、自分の前を通り過ぎる陽明を何も言わずにやり過ごし、箸をとって、前に置かれた皿の卵焼きに箸をつけた。
「少し酔われているようだ・・。私もご一緒に?」
弥吉が、足取りがフラつた陽明に声をかける。陽明は、弥吉の申し出を拒むように、右手を突き出した。
玄関に出た陽明が辺りを見る。彼に会いに来たという使いが居ないのである。
陽明はそれでも、様子を見に、家の外へ出て周辺を見渡す。数人の通行人が、通っているだけで、使いらしき姿は見られない。
その時、二階の座敷にいた右衛門の箸が止まった。
「来る!」
右衛門はそう言うと、陽明が置いていった銃を手に取り、勢いよく半開きの窓の障子を開けて、銃を向かいの宿の窓に向けた。
「バーン!」
一発の銃声の音。それは右衛門が狙いを定めた向かいの窓から放たれた。放たれた銃弾が、陽明の顔をかすめる。陽明は動揺することなく、銃が放たれた向かいの二階の窓を眺めている。
「バーン!」
二発目の銃声は、右衛門が向かいの窓に打ち込んだ一発だった。
次の瞬間、その窓から鉄砲を持った男が、屋根の瓦を転がりながら落ちていったかと思うと、戸井まで達して、下の通路に真っ逆さまに転げ落ちた。右衛門の銃が、彼の頭を貫いていたのである。
すると今度は、陽明の近くを歩いていた編み笠をかぶった浪人が、刀を抜いて陽明に襲い掛かってくる。
「陽明!」
右衛門が、下でたたずむ陽明に声をかける。応じるように、陽明が上を向く。すると、右衛門は、片手に持った仕込み刀を陽明めがけて投げつけた。
受け取った陽明が、上段から斬りつけようとした浪人の腹を、刀を抜きざま白刃で払った。
血しぶきが飛び、陽明を狙った刺客が、道に崩れ落ちる。同時に、陽明の後ろから、二人目の刺客が、陽明の背をめがけて刀を振り下ろそうとする。次の瞬間、
「バサッ!」
凄まじい音がした。
「右衛門様!」
二階から、弥吉の絶叫が響く。一瞬の静寂・・・。
陽明が状況を理解しようと、振り返ったとき、
彼のすぐそばに、右衛門と陽明への第二の刺客が折り重なっていた。
「叔父上!」
陽明が驚いて声をかけた瞬間、右衛門が折り重なった死体から身を離し、ふっと息を吐いた。刺客の首には右衛門が刺したと思われる小刀が首に刺さっていた。
「叔父上、二階から飛び降りたのですか?」
陽明のあきれたような声に、右衛門は彼の方を向いてにやりと笑った。二階から、草津が階段を転げるように降りてくる。
「右衛門殿、陽明・・!」
草津は、余りに驚いたのか、そう言ったなり言葉が出ない。一瞬の沈黙の後、
「草津さん、死体の始末は任せたぞ。」
あわをくっている草津に、右衛門が笑顔で声をかけた。
「叔父上、この刀もらいますよ。」
陽明は右衛門にそう言うと、嬉しそうに白刃を鞘におさめた。
そばにいた通行人が、路上に残された三つの死体からあふれ出る血に驚いて、呆然と突っ立ている。その場が騒然とし始めた。
やがて、警官が騒ぎを聞きつけ集まり始める。
「わしは、内閣参与の草津源九郎だ。警察署の山岡半蔵を呼んで来い!」
すっかり、落ち着きを取り戻した草津の声が、通りに響き渡った。
(大阪)
江藤と後藤は、西田との信頼関係を疑い始めていた。政府会議において、政権運営での大久保の追及に対して、西田は反論もせず、ただ押し黙ったまま彼らの治安維持に関する提案にも反論しなかった。
今や、警察組織は完全に佐那河内の連中と大久保一派の支配下に入ってしまい、江藤たちの立ち入る組織ではなくなっていた。
「右衛門との談合の時、わしは佐那河内の連中を釈放することに反対だったのだ。それを西田さんが押し切った・・。これでは、我らと気脈を通じる武士たちの行動は反政府の違法行為でしかないではないか。」
江藤が後藤の前で、不満をぶちまける。後藤もまた江藤の不満に同調するだけで、二人の会話は、ヒートアップするばかりであった。自制のきかない議論は、大抵過激にはしる。
「大阪の反乱は、順調に進んでいるのか?」
後藤が江藤を確かめるように、真剣な顔でじっと彼の目を見る。その視線に促されるように、江藤が頷き、辺りを見回す。大阪での反乱は、彼が大久保一派との形勢を逆転する最後の切り札であった。ただ、反乱の計画の失敗は、江藤らの政権離脱の決定打になりかねない。
「昨日、西田さんに大阪の計画を話したら、強く反対された。」
江藤が悔しそうに、打ち明ける。
「こうなれば、勝沼殿の方が余程信頼できる。」
後藤が、江藤に同調するようにそう言った。江藤は、自宅での二人の密談にもかかわらず、天井に目をやり、警察の傍聴を警戒している様だった。江藤の誤算は、東京警察本部が予想以上の優れた組織に生まれ変わっていることだった。
「佐那河内の連中は、油断がならない。」
最後に、江藤が自戒するようにそう呟いた。
「ところで、陽明の件は失敗したのか?」
後藤が江藤に問いただす。その質問に答えるように、江藤が頭を縦に振る。
「勝沼殿の配下たちも、その程度か。」
後藤はそう言うと、深く溜息をついた。
「右衛門のいた所で、事件を起こしたらしい。何もよりによって・・。」
江藤が悔しそうな顔をして、吐き捨てるようにそう言った。
「どうも、なすことすべて運に見放されているようだな。」
後藤の自虐的な言葉には、悔しさがにじんでいた。
(反乱軍)
一方その頃、大阪では事件が起きた。
一団の反乱軍が、奈良で晴天にふってわいた入道雲のように次第に大きな塊になり、大阪へ向けて前進し始めるだろうという知らせが入ったのである。
「どのぐらいの数か把握できたのか?」
源一郎が京馬に尋ねる。
「千五百程と知らせが届いていますが。人数はまだ増加していて、二千人に膨れ上がれば、動き出すのでは・・。」
京馬の返答に、与助が思わず持っていた湯飲みの茶をこぼしてしまう。
「なんと!大阪の警察官の人数より余程多いではないか!」
テーブルにこぼしたお茶を、近くに置いてあった布巾でふきながら、与助がぼそっと言った。大阪の警察隊は、マイケル、哲太、将太を中心とする鉄砲隊の組織が際立って武力を備えていたが、それでも二百人程度である。さらに、接近戦に対応できる元侍出身の警察官は、五十人余り。あとは、民間から募った百姓を中心とする平民ばかり三百人余りである。
大きな長テーブルを囲んで座ているのは、マイケル、与助、源一郎、京馬、それに東京からやってきたホッジス、さらに唯一の女性で、大阪本部長秘書として志摩(与助の妻)の姿が見られた。志摩が警察庁に所属しいるのは、陽明の強い推薦があった。
「大阪には、伊勢さんのような戦略を描ける人物がいない。女性ではあるが、志摩さんの知略家としての手腕が必要だ。」
陽明の強い主張で、源一郎や与助の反対を押し切って採用されたのである。
「みんなの策を聞こうか?」
源一郎はそう言うと、集まったみんなの顔を見渡した。策も何も、物理的に兵力の差を考えると、反乱軍を押さえられるはずがなかった。
誰も発言するものが出てこない。
「奴らは、生駒の山を越えて大阪になだれ込んでくる。そこで、生駒の山の山道で迎え撃ってはどうだろうか?山道なら、大軍でも総攻撃は不可能だ。それに、我らには、最新銃を備えた自慢の鉄砲隊がいる。ここは、鉄砲隊の火力で圧倒しては・・。」
意見がないのを見計らって、数日前からずっとあっためていた策を、聞き役の源一郎自ら披露した。
「その案はには、欠点があります。」
始めて口を開いた志摩(与助の妻)の発言に、全員驚いたように彼女の顔を見る。
「お前は黙っとれ!」
夫の与助が、志摩を叱責する。
「志摩さんは、警察本部長秘書だが、戦略家として、陽明が強引に就任させたお方だ・・。意見を述べられるのは当然だと思う。」
そう言って、志摩の意見を尊重しようとしたのはマイケルであった。彼の意見に同調するように、与助以外全員が志摩の策に耳を傾けようとする。
「マイケルがそう言うなら、仕方ない。」
与助が、言い訳するようにぽつりと呟いた。
「生駒の山道はいくつもの道に分かれています。敵は兵力を二手に分けるだけの余力があるので、別動隊を迂回させて、我々の背後をついて挟み撃ちにすれば、勝負はあっけなくついてしまいますよ。」
志摩はそう言うと、源一郎の方を見た。彼女の意見に反論する者はいなかった。
「それでは、どうすればいいのか・・?志摩さんの意見を聞かせてほしい。」
自分の策の欠点を指摘された源一郎が、少し不満のくすぶるなかで、志摩に詰め寄った。
志摩の顔に、笑みがこぼれる。そう言われるのを予想していたのである。
彼女は持っていた指示棒で、テーブルに置かれていた大阪の地図の枚岡という地名の所に棒を突き立てる。
「ここで迎え撃てばいいのでは・・。反乱軍が生駒山から大阪に入るには、必ずこの枚岡を通過しなければならない・・。」
彼女はそう言うと、地図の方にむけた視線をあげて、同じように地図に食い入っていた全員の顔を見渡す。
「確かに、道は広いが、所長の策とどう違うのですか?」
京馬が、疑問をさしはさむ。
「道近くに枚岡山という小山があります。この山の展望からは、反乱軍の進軍がはっきり見渡せる。ここに予め陣取って、アームストロング砲を二門設置すれば、確実に敵に命中する。」
志摩の発言を聞いていた全員が、ホッジスの方を向く。
「しかし、すぐには用意できないと思います。」
ホッジスが、みんなの視線に戸惑いながら言い訳をする。
「弥吉さんから、可能だと確認をとっています。弥吉さんの大阪の倉庫に保管していると聞いているのですが・・。」
志摩は、すでに自分の計画を推し進めていたのである。
「しかし、アームストロング砲は高価な武器なので・・。陽明がゴーのサインを出すかどうか・・。」
ホッジスには、さすがにアームストロング砲だけは容易に許可を出せなかった。他の武器と比べ物にならない高価な商品だったのだ。
「わしの所へ知らせが入ったのだが・・。先日、陽明さんが襲われたそうだ。(ホッジスの方に向いて、笑みを漏らし)顔を弾丸がかすめたが、右衛門様の機転で、無事だったらしい。」
京馬の突然の報告に、ホッジスは動揺が隠し切れなかった。もし、陽明に何かあったら、アダムス商会での自分の地位は吹き飛んでしまうのである。
「仕方ない・・。」
ホッジスはそう言うと、両手をあげて、あきらめたように苦笑いをした。
「もし、敵が二手に分かれて挟み撃ちをすれば、我らは枚岡山に逃げ込み、大砲と銃で迎え撃てばいいのです。」
志摩は、ホッジスの反応を確認すると、自分の計画を展開し続ける。彼女の戦略家としての情熱に火がついてしまったようだ。
「しかし、奴らが総攻撃をかけて接近戦に持ち込めば、敵の人数からいって、マイケルの銃撃隊だけで撃退できるだろうか?」
与助が、始めて意見を言った。これには、志摩も驚いた。彼の疑問は適切だったのだ。
「源一郎様、その封じ手として、小野道場の父上を頼ってみては・・。」
志摩の言葉に黙って腕を組んで、彼女の策を聞いていた源一郎が、驚いたように彼女の顔を見た。