右衛門14-1
「右衛門1」~「右衛門14」は、「右衛門シリーズ 全編」に掲載中!
「右衛門14-1」
大久保万蔵を筆頭に岩倉公麿等は、欧州視察で日本を離れて数か月が経った。明治政府をあずかる西田義厚、江藤慎太郎、後藤清八ら政府高官は、大久保らの日本不在にもかかわらず、徴兵制度、廃藩置県などの国を左右する重要案件を成立させていった。中でも、佐賀藩出身の江藤慎太郎は、西田の威勢を借りて、国の改革を躊躇なく断行した。その影響は、江戸時代以来、中央から独立した自治体を形成していた小さな村である佐那河内の連中にもおよんでいったのである。
(佐那河内解体)
「丘の上の屋敷が燃えとるな・・。」
権蔵が呆然とした表情で、佐那河内に立ち上る白い煙を見ながら、京馬と双栄に向かって呟いた。
その屋敷は、正幸(佐那河内四強)、源一郎(右衛門甥)らが住む佐那河内の中心部に位置し、村の司令塔の役割を果たしていた。江藤(政府指導者)の政府改革は、佐那河内のような小さな自治区も容認しない中央集権国家体制を目指していたのである。
数か月前から、徐々に四国に送り込んだ警察隊は二千人近くに膨れ上がり、一斉に佐那河内になだれ込んだ。結果、源一郎、与助(四強)、正幸は、捕縛に抵抗せずに応じる。同じく伊勢逸郎逮捕。その他にも、佐那河内の忍び三郎、丹波捕縛。佐那河内狙撃手マイケル(小夜の夫)、猟師の哲太、将太、更に辰雄(春の弟)など、主だった佐那河内のメンバーは、岡山の収容所に送られたのである。ただ、双栄、京馬、権蔵は、何とか危機一髪で、周到に計画された警察隊の佐那河内掃討作戦から逃れた。
「これからどうする?」
双栄が、年上の権蔵にこれからの判断を仰ぐ。
「まずは、この地から逃げねば・・。」
京馬が、双栄の悠長な言葉にあきれながら、そう言った。
「わしは、裏山に小さな小舟を隠している。それで何とか、この地を脱せねばな・・。」
二人は、権蔵の用心深い準備に忍びの手本を見るようだった。
「じゃが、何処へ?(権蔵の顔を覗き込み)右衛門様のおられる江戸か・・?」
そう言って、双栄はじっと権蔵の顔を見ている。
「右衛門様も無傷ではおられまい。助かったとしても、江戸でおられるか・・。」
京馬の判断は適格だった。佐那河内を潰しにかかれば、警察は、その前に右衛門を狙うはずである。
「大阪の小野道場に行って、忠成様(四強)を頼るか・・。」
双栄の無知な言葉に、京馬が舌打ちを打った。
「佐那河内に関係のある道場付近には、警察の密偵がうようよしておるぞ。奴らも馬鹿ではない。」
権蔵は京馬の言葉にも余り反応せずに、さっきからじっと考え込んでいる。
「あの右衛門様だ。奴らの陰謀には、やすやすとひっかかるはずがない。わしはそう思う。そうなると、右衛門様が何処に逃れるかじゃが・・。」
権蔵の言葉に、三人はそれぞれ右衛門の行き先を考え始めた。
「慎吾様の所へ・・?酒田なら警察の目も届くまい。」
京馬はそう言うと、二人の顔を見た。二人は彼の言葉に賛同していないようだった。
「やはり江戸だろう。もし、無事なら反撃の機会をうかがうはず。政府の近くに潜まねば、奇襲はできまい・・。」
今度は、京馬も納得したように首を縦に振った。
「一か八か賭けてみるか・・?」
権蔵の言葉に、二人は納得したように頷いた。そして、佐那河内を脱した三人は、江戸へ向かって出発したのである。
(右衛門襲撃)
「山岡半蔵と名乗るお方が来られましたが、お会いなさいますか?」
春の経営する菊屋の番頭の仙太が、二階の座敷で書物を読んでいる右衛門のところにやってきて、そう告げた。最近、右衛門は西先生から貸してもらった西洋医学の本を読むのに夢中である。「本当に医者になる気なの?」そんな右衛門の日常を見ている春が、時折からかうように、笑顔でそう尋ねるのであった。
「山岡・・?知らんな。」
右衛門にはそんな名前の人物と会った記憶がなかった。
「以前、柴田先生の事件で、右衛門様と関わった警察官だそうですが。」
仙太にそう言われて、初めて右衛門は山岡を思い出した。
「あの山岡さんか。薄情なものだ、もう忘れてしまっていた。すぐにお通ししてくれ。」
右衛門はそう言うと、読んでいた書籍を大事そうに棚に置いた。
山岡は、ただならぬ形相で入ってきた。
「山岡さんか。お久しぶりです。」
右衛門は、通り一辺倒の挨拶をかわそうとしたが、途中で表情を変えた。山岡の緊迫した気配を感じたからである。
「右衛門殿、お逃げくだされ!追手が迫っております。」
山岡はいきなりそう切り出したのだ。
「追手と言われても、わたしには心当たりがないが・・。」
それでも、右衛門の表情には、まだ余裕があった。
「政府の江藤の指示で、警察隊の副長官である鬼塚が、国家騒乱罪の容疑であなたを捕まえるために動いています。奴は、大久保さんから江藤に寝返ったのです。」
山岡が忌々しそうにそう言った。
「ほお。すると、わしは佐那河内の首領として罪を問われる訳か・・。」
右衛門は、江藤が全国の特権的自治区を殲滅しているという噂を耳にしていた。そんなことを知らない山岡は、右衛門の勘の良さに驚いた。
「だが、なんで山岡さんが私に味方を・・?」
右衛門にはそのことが理解できなかった。この男、意外と納得しないと行動に移さない。
「わしは薩摩の侍です。江藤(肥後)や鬼塚(幕府)のために警察官になったんじゃないですから・・。それに、前の一件(柴田の事件)以来、今度何かあったら、右衛門殿に味方しようと決めておりましたからな・・。」
山岡は語気を強めてそう言うと、にやりと笑った。
その言葉で、右衛門はやっと立ち上がり、近くにたてかけた名刀正国を手元に引き寄せた。
「仙太!わしは姿を消すから、春にそう言ってくれ!」
右衛門は仙太に伝言を託すと、料亭ののれんを払って山岡と共に外に出た。
飲み屋の薄明りで、ぼんやり照らされた通路の向こうに、侍が数人立っている。
「しまった。もう嗅ぎつけたか!」
山岡がそう言って、舌打ちをする。
「お前の裏切りは、とっくにつかんでおった。山岡!お前もただではすまんからな!」
鬼塚の声が路地に響き渡り、道を歩いていた数人の人影が逃げるように消え去った。
右衛門は、鬼塚の威嚇する声を気に留めることなく、辺りの様子を窺っている。
「奴らは、五人でわしを捕えに来たのか・・。」
右衛門は、山岡にだけ聞こえるように小声でそう言うと、顔に薄笑いを浮かべた。
「気をつけくてだされ。五人と言えども、あれが鬼塚五人集です。奴らが、幕府や明治政府に逆らう裏の猛者たちを倒してきた無敵の殺戮集団です・・。右衛門様とて、油断は禁物ですぞ!」
山岡は、右衛門の剣の才での慢心を戒めるつもりで、少し言葉を誇張した。なにしろ、右衛門が倒されれば、自分の死に直結するのである。
だが、山岡の杞憂は取り越し苦労になった。
鬼塚配下の侍たちが剣を抜いて、大声を上げ、気合をみなぎらせて右衛門に立ち向かってくる。その気迫に押されるように、山岡が右衛門の後ろに下がり、彼の行動に合わせるように、右衛門が一歩前に出た。
そして、軍団の侍たちが、右衛門に襲い掛かる間合いに入った瞬間、右衛門の正国が暗闇に三筋の閃光を放った。次の瞬間、三つの死体が地に沈んみ、おびただしい血を流していた。死闘の勝負は、余りにもあっけなく決着したのだ。
「これが右衛門の三体斬りか・・。」
余りの白刃の速さに、山岡の視覚は右衛門の剣裁きの軌跡を追うことすらできず、ただ、地に横たわ三体の骸から今何が起きたか確認するのがやっとであった。
それでも、山岡は足の震えが止まらないにもかかわらず、恐る恐ると前方見た。
すると、右衛門の剣の切っ先が、四人目の侍の首のあたりぴたりと止まり、あと一突きもすれば、動きをおさえられた男の命は、たちどころに絶えるしかない状態になっていた。
「五人でわしを捕まえに来るとは・・。鬼塚とやら、余りわしを見くびらん方がいいぞ!おかげで、わしは助かったがな・・。」
右衛門は鬼塚に向かってそう言うと、何の凄みも漂わせすに、無邪気にからからと笑い始めた。
そして、刀の切っ先を喉に突きつけた侍に向かって、
「おぬしは、三人の仲間の後手を取っただけで、命拾いをしたわけだ・・。この日の幸運を大切にしろよ。」
右衛門はそう言うと、男との間合いから離れるために、跳ねるように一歩退くと、自分の刀を鞘に納めた。
その後、男の喚き声と鬼塚の逃げ足だけが、山岡の記憶の中にしっかりと焼き付いた。
「山岡さん。逃げるぞ!」
右衛門の快活な声に促されるように、山岡は彼の後姿を追って駆け出した。
(江藤慎太郎)
江藤は薩長出身ではない。同じく、江藤の横に座る後藤清八も土佐で家老を務めた士族であった。大久保、岩倉らが欧州視察に出かける機会を利用して、西田の部下として政府内で台頭し、西田の威光を借りて、政権の実権を握るまでになった二人であった。中でも、江藤は急進的改革派で、次々に旧来の体制を破壊していった。ところで、政府の中心人物で、官僚にも信頼があった西田義厚は、江藤らの政治に一定の理解は示していたが、大久保らを無視して、次々に断行する改革に後ろめたさも少しはあった。特に、今回、江藤が画策した佐那河内壊滅作戦は、西田の彼らに対する不審を一層強いものにした。
「幕府御庭番を一挙に束ねていた切れ者の鬼塚も、焼きがまわったな・・。」
江藤の目の前で、頭を垂れてじっと立ちつくす鬼塚に向かって、後藤の容赦のない言葉が彼のプライドをずたずたにする。
確かに、鬼塚には油断があった。自分たち五人集の武力を過信していたのである。百人程の警察を指揮して、右衛門の通う料亭を取り囲んでじっくりっ攻めれば、このような失態を招かずに済んだかもしれなかった。
「それほど強いのか、右衛門は・・。」
江藤が、鬼塚の横で立っている侍の方を向いてそう聞いた。
「私はあれほどの剣客を見たことがない・・。奴は化け物です。」
男がそう言った瞬間、後藤が舌打ちをした。
「佐那河内の源一郎や正幸は、すでに岡山の収容所に送られ、あの地は政府の支配が及ぶ結果になった。その意味では、我らの作戦は成功と言える。ただ、事実上の首領である右衛門をとり逃がしたとなると・・。」
江藤はそこまで言うと、鬼塚の様子を上目づかいで窺った。
「今回はしくじったが、私が何とかします。」
鬼塚は顔を上げると、江藤をの方をまっすぐ見てそう豪語した。
「おぬしの警視総監昇進の件は、棚上げにさせてもらう。右衛門がどうなるか、その結果次第でな・・。」
江藤の顔に、鬼塚を嘲笑するような笑みがこぼれる。
「右衛門を侮るな。おぬしは、知略においては奴より上手のように思っているかもしれんが、噂によると、奴は剣に劣らず策士だそうだぞ。」
後藤はしばらく前から貧乏ゆすりが止まらない。余程、鬼塚が右衛門をとり逃がしたことが不満らしい。
すると突然、
「もう行っていい!」
と、江藤が鬼塚らをこの場から追い出ように、語気を強めた。一礼して、すごすご退室する鬼塚の屈辱感は、相当なものだった。
二人が部屋を出ると、
「鬼塚様、右衛門らを捕らえる策でも・・。」
五人集で一人生き残った配下の矢部五郎が、不安そうな顔をして尋ねた。
「生かして捕縛など、もとより考えておらん。お前も見ただろう、奴の剣を・・。我らの手に負える男ではないわ。やるなら、飛び道具で仕留めるしか策はない。」
鬼塚は矢部にそう言うと、歩調を速めて矢部を振りきるように外に出た。
(陽明)
イギリスに到着した欧州視察団は、首相官邸での歓迎パーティに招かれた。
すでに、フランス、アメリカなど列強の訪問を終えようとしている大久保や岩隈は、欧州の要人との会話にも慣れ、冗談を言う余裕すら見せていた。
「さすがイギリスやな・・。迎賓館の調度品も豪華なもんや。」
岩隈はさっきからしきりと、迎賓館に並べられた家具や花瓶に目をやっている。
「岩隈さんは貴族だから、ここに置かれた物にも関心がおありのようだが、わしのような山猿にはさっぱり物の価値など分かりませんな。」
大久保はそう言って、皮肉交じりの苦笑をした。
彼が広間に集められた招待者の様子を見ていると、客たちの集団から一人ぽつんと離れて、まるでこの場の雰囲気に関心がなさそうに、椅子に座って本を読んでいる男がいた。
「あれは日本人ようやが・・。」
岩隈もその人物が気になっているらしい。
すると、手にシャンパンのグラスを持っている通訳の地井が二人の方へ近づいてきた。
「お二人はご存じないですか?あの日本人・・。」
地井の言葉に、大久保が彼の顔を念入りに見る。そして、
「アダムス卿の義理の息子で・・。」
地井がそっこまで言った時、
「ああ!あれが・・。」
大久保が、周りが注目するほどの大声を出した。大久保は陽明の存在をすっかり忘れていたのである。
大久保が、本を読む青年の方に近づいて行き、
「大久保です。」
と、はずんだ声を出して自分の名を言って、深々と頭を下げた。
岩隈が、大久保の後を追うように陽明の方に近づいて来る。
「そんな大声で名乗らなくても知ってますよ。あなたは有名な政治家なんだから・・。
もっとも、僕が薩摩で見た時は久光様の横で影のようにおられたが・・。」
陽明はそう言うと、皮肉交じりの笑みを漏らした。
やっと追いついた岩隈が、陽明に軽く会釈をする。
「ほう、京の貴族ともなると、何となく品がある。岩隈さんは・・。」
陽明は心にも思っていないことを、お世辞のつもりで言ってみた。
ところが、岩隈は陽明の言葉をまともに取った。
「えらいことをおっしゃるわ。このぼんは・・。あんたはんこそ、アダムス卿の息子はんなら、れっきとした貴族・・。わたしにおとりまへんで・・。」
そう言うと、「ほほほ」っと声を出して笑い始めた。
陽明はこれほど単純な人種が存在することに、驚きを禁じ得なかった。
「陽明君は、本をお持ちだが。どのような・・。」
大久保は、二人の会話を聞いていて、陽明の考えていることを読み取ったのか、急いで会話を変えた。
「これですか・・。フーリエという学者が書いたフーリエ関数という本です。悪いが、あなたに話しても通じないでしょう。」
陽明の木で鼻をくくったような言葉に、大久保は一瞬むっとした。
「そこを何とか、かいつまんでお話願えないか・・?われら、欧州の知識を学ぶために、はるばる日本からやって来たのですから・・。」
笑顔を見せているが、口元がひきつっている。
「波の方程式です。波にもいろいろあるが、面白いことにその一つ一つが重ね合わさっていろいろな物理現象が波の公式で表現できるのです。」
大久保がぽかんと陽明の顔を見ている。その顔を見て、陽明がにやりと笑った。
「ところで、最近の叔父のことはご存じですか?」
陽明は、日本について唯一、叔父(右衛門)のことだけ関心があった。
「あの方は自分の望まないにもかかわらず、世の中にどんどん大きな影響を及ぼしていく・・。ただ剣の達人というだけではない,、何か人にはない能力があると私は思っているんです。」
大久保は、右衛門の人へ影響を及ぼす不思議な力に、嫉妬のような感情を抱いていた。
今の会話は、そんな大久保の正直な独白のような言葉であった。
陽明は、大久保の或る意味、無邪気な感想が気に入った。自分も同じよう思いがあったのである。
「影響力と言えば、西田さんは日本で留守番ですか?」
陽明は、大久保よりむしろ西田の方に、人としての魅力があったことを思い出した。
「ほお、陽明君は西田のことをご存じで・・?」
大久保が意外な顔をした。
「一応、わが義父は、日本に係っている貿易商ですから・・。最も、私は商売に関心がない。それが父の悩みの種のようですが・・。」
陽明はそう言うと、苦笑した。
「ここへ来たのも、アダムス卿に頼まれていやいやですか?」
大久保の言葉は図星であった。
「陽明殿の叔父さんて、どなたですか?」
二人の会話を聞いていた岩隈が、いきなり聞いてきた。
「岩隈様は知らなかったんですか?」
大久保が、岩隈の顔を見ながら驚いたようにそう言った。
「あんたが、剣の達人て言ってましたけど、まさか・・。」
岩隈はそう言うと、改めて陽明の顔を見て、思い当たる人物と似ているところを探している。
「そのまさかですよ。陽明君の叔父は、あの右衛門殿ですよ。」
大久保がそう言うと、
「やっぱり・・。名のある剣豪を何人も斬ったことがある、あの右衛門の甥御さんですか。」
岩隈はそう言うと、改めて、陽明の顔をまじまじと見た。
「はい。その人斬りの甥です。」
陽明はそう言うと、誇らしげな顔をして嬉しそうに笑った。
「ところで、陽明君は近々帰国のご予定は?」
大久保は、何の意図もなくそう尋ねた。
「日本に滞在してる我が社のホッジスから、日本の情報を最近入手しましてね・・。近々、帰るつもりです。大久保さんとも日本で再会するのではないですかね。これは予感ですが。(大久保の顔をちらっとうかがって。)西田さんのこと・・。気を付けたほうがいいのでは・・。」
陽明はそう言うと、また、にやりと笑った。
「日本で何かありましたか?」
どうも大久保たちは、日本の情報が入ってきていないらしい。大久保たちに日本の現状を隠したい、江藤のさしがねかもしれなかった。
「そんな遠回しなこと言わんと、教えてえーな。」
岩隈が二人の会話に入ってくる。
陽明は、その言葉を無視するかのように二人に一礼すると、さっさとその場から立ち去った。
「けったいな男やな・・。」
岩隈は、陽明の背中を見送りながら、陽明が自分の最後の質問を無視した態度に、後味悪そうにそう言った。
(逃亡生活)
西岡と右衛門は、江戸の市中で警察の目から逃れるように、目立たぬ生活を送り始めた。
「ほう、江藤と伊地知(元警察庁長官)は、意見が違ったか・・。」
右衛門は、西岡の話に興味を引いた。
昼間は、安宿の二階にくすぶって、二人は表に出ない。右衛門は、二階の出窓の障子を少し開けて、下の通りを見ながら、西岡の話を聞いている。西岡は、煙草盆を前に置き、ゆっくりと煙管のたばこをくゆらしながら、右衛門にぽつりぽつりと警察の内情を話し始めた。
「伊地知さんは、元々、江藤や後藤が政府の実権を握ることに不満があったんです。なにせ、あの人は薩摩出身ですからね。西田さんが、実権を江藤に任せたから仕方なく彼らに従っていた。ただ、佐那河内殲滅作戦に至って、伊地知さんと江藤は真っ向からぶつかった。早急な改革を嫌ったんです。何より、右衛門殿と西田さんの関係に亀裂が入る・・。西田さんは、あなたが好きですからね。伊地知さんはそのことを気にしていたんです。」
西田の言葉に、右衛門が怪訝そうに笑った。
「ひょっとして、西岡さんは、伊地知さんの命を受けて私を助けたのかな・・?」
右衛門が西岡の表情を探ろうと、彼の顔に視線を移した。
「まあ、そんなところもあります。ただ、直接命令は受けてないが・・。伊地知さんが、突然、警察庁長官をやめた時、管内は大きく動揺した・・。鬼塚に不満を持つ警察官は多かったですからね。まるで幕臣の復活が警察内に舞い戻ってきたようですからね。特に、薩長出身者にとって面白くない。」
西岡はそう言うと、肺にいれていた煙草の煙を大きく吐き出した。
この話を聞いた右衛門の脳裏に、ある策がゆっくりと動き始めたのは確かである。
逃亡生活が続いても腹だけは減る。右衛門と山岡は、駕籠かきや大工等が利用する飯屋や居酒屋で空腹を満たし、安宿をねぐらに、次にとる方針を見定めようとしている。
二人は今夜も、汗臭い客に囲まれた居酒屋の一角に座って、銚子を二本ばかり頼んで、飯と魚を交互に口にはこんでは、時折みそ汁を啜っていた。
逃亡生活も数週間が経っている。
「今日のねぐらですが・・。ここから遠くない所で、この通りをまっすぐ行けば、行商人らがよく利用する宿があるみたいですけど、そこに決めますか?」
山岡が飯を口に頬張ったまま、右衛門に打診する。
「どうやら、警察も我らの足取りを見失ったようだ。そろそろ、反撃に移るか。」
右衛門はそう言うと、山岡の顔を見てにやりと笑った。
「この男が笑うと、何故か信用したくなる。」右衛門の顔を見ながら、山岡は彼の次の一手に期待していた。
その時、店の引き戸が空けられ、やくざ風の男たちが十人ほど入ってきた。
いきなり、初めに入ってきた男が誰かを探すかのように、居酒屋にいる客をひとりひとり見回し始めた。そして、
「この野郎、いやがった!」
そう言うと、後ろにいた連中に目で合図する。
すると、長椅子に座って酒を飲んでいた男が、やくざ者の一人に、着物の襟をつかまれ引きずられ始めた。
男の姿はやくざ者の連中に囲まれ、居酒屋の中央でうずもれてしまい、その後、激しい殴打の音がその場の空気を震わし始める。
右衛門は、まるでその騒ぎに関心を示さず、箸でおかずと飯を交互に口にはこんでいる。
暴行は次第に激しくなって、やくざの一人が腰に差してる刀を抜いた。すると、
「こんなところで刀を抜けば、死人の血がわしにかかるかもしれんぞ。」
右衛門が、暴漢達には目もくれず、淡々と飯を食いながらそう呟いた。
横にいた西岡が、にこにこ笑っている。
「こら!さんぴん・・。随分なめた口を利くじゃねえか。このご時世では、侍だってただの人間だ。怪我をしたくなけりゃ、黙って飯を食ってろ!」
右衛門に啖呵を切った男の威勢は、留まることを知らず、右衛門を睨みつけながら刀を抜いたまま彼に近づいた。
次の瞬間、右衛門が机に立てかけていた刀を抜いたような気がした。と言うのは、その場にいた連中には、右衛門の抜刀は、空気をつんざく白刃の振動を感じさせが、視覚では捉えられなかったのである。ただ、右衛門が白刃を鞘に納める「カチッ」っという音だけははっきりと聞こえた。
右衛門の抜刀をまともにくらった男は、まだ自分に何が起こっているか自覚もなく、自分の小指に血が滴っているのを、ぼんやりと見ている。次の瞬間、
「わああ!」
男の絶叫が、居酒屋の中に大きく響き渡った。
「小指が・・・。」
男はそう言ったなり、地面にへたり込んだ。小指が第一関節から斬り落とされていたのである。
「今なら拾ってつければ、つくかもしれんぞ・・。」
右衛門は、へたり込んだ男を嘲笑いながらそう言った。
「助けてくれ!」
男は正気に戻ってに立ち上がると、子分に目もくれず外へ消え去った。
その後、男を追っかけるように我先にと、入ってきたやくざたちが逆流するように
居酒屋から逃げて消え失せた。やがて、
「喧嘩は人を見てせんとな・・。」
右衛門の横で一部始終を見ていた西岡が、「くくく・・。」と笑いながら、騒動の顛末を総括するようにそう言った。
居酒屋の客は、今の騒動を見て、誰一人声も出さず、うつ向いたまま外に出るという目立った行動もできず、ただ座ったまま静まり返っている。
やくざの犠牲になって殺されそうになった男さえ、床にへたり込んだまま、右衛門の一挙氏一同をじっと見守るばかりだった。
その時、部屋の片隅で黙って酒を飲んでいた男が、この場の沈黙を破った。
「わしは、柳生も小野も示現流の連中も、誰一人倒せなかった男を知っている・・。」
その声は、静寂の中に響き渡った。
驚いた右衛門が、その男の方に目をやる。
次の瞬間、急に右衛門の表情が明るくなった。
「弥次郎!」
右衛門は、思わず我を忘れて大声を出した。
「お久しぶりです。」
右衛門の大きな声に答えるように、元土佐藩士 崎田弥次郎が、右衛門の方に向き直り、笑顔を見せながら、照れたよう頭をかいた。
弥次郎は、討幕運動で長州と薩摩を駆けずり回り、幕府滅亡を成功させた重要人物と言っても過言ではない。ただ、彼は明治政府樹立にはまったく興味を示さず、政治の表舞台からひっそりと姿を消した。右衛門にとって旧友ともいえる弥次郎が、突然、右衛門の前に現れたのである。しかも、思いもよらぬ大衆居酒屋で・・。
弥次郎の出現で、居酒屋の空気が変わり始めた。右衛門はその変化を利用して、
「ここにいるみんなには、迷惑をかけた。これからはわしの奢りだ。みんな好きに飲んでくれ!」
と、黙っていた客に向かって声をかけると、店主の方に向かって懐から出した五枚の小判を放り投げた。
店主は驚きながらも、慌てて小判に駆け寄って拾い始め、満面の笑顔を右衛門の方に向けながら、何度も頭を下げた。それを合図に周りから歓声が沸き起こり、居酒屋はお祭り騒ぎになったのである。その騒ぎをしり目に、右衛門、山岡、弥次郎が、混乱に紛れるように居酒屋をあとにした。
三人が暗い路地を歩いている跡を、右衛門に死にかけたところを助けてもらった、居酒屋でいた男がついてくる。
「どこまでついてくるんだ!」
振り返った山岡が、男を叱責するように怒鳴った。
男は答えることなく、山岡に頭を下げて立ち止まったかと思うと、三人が歩き出すとまたついてくる。
「名は何と言うんだ?」
今度は、右衛門が振り向いてそう尋ねる。
「さぶって言いやす。旦那は命の恩人だ。何でも言ってくれれば、やりますぜ・・。」
そう言って、男は笑顔を見せた。
「どんな生業で、飯を食ってんだ?」
さぶの言葉につられるように、右衛門が笑顔を見せてそう聞いた。
「人に言えるようなことはしてませんがね。(しばらくためらって)すりでさ。」
これには、弥次郎が興味を示した。
「名のあるすりか?」
弥次郎の顔にも笑顔が見える。
「自分で言うのもなんですが、通りで人に衝突すれば、相手の財布は貰ったようなものでさ。人はあっしのことを、”懐盗人さぶ”って呼んでますがね・・。」
さぶは、ずいぶん誇らしげに公言した。
「ほお・・。」
右衛門と弥次郎が、同時に同じように声を発した。どうやら二人とも、さぶに興味を持ったらしい。ただ、山岡だけはさぶの顔を一瞥すると、「ふん」と鼻を鳴らして、嘲笑するように笑った。
「こういうたぐいの男は、関わらないのが一番です。今の騒動の原因も、博打のいかさまかなんかでしょう。」
山岡の推測は、図星であった。
「まあ、ついてきたいと言うんだ。何にも起こりそうもないが、好きにしろ!」
右衛門はそう言うと、さぶに笑顔を見せた。
「へい!」
許しをもらったさぶが、闇夜につんざくような大きな声でそう叫んだ。
(忍びのぬい江戸へ)
時はさかのぼる。
「何の罪もない女まで捕縛するのか!」
佐那河内になだれ込んできた警察隊は、三郎の家に侵入すると、あっという間に彼に縄をかけ、隊長が傍にいた妻のぬいの手首を掴んでいる。
三郎の放った言葉に、隊長の矢加部は一瞬たじろいだ。
「久しぶりだな、三郎・・。親父の権蔵さんはどこに行ったんだ?」
矢加部斗真と三郎は、幕府お庭番として、共に幕府の忍びで働いたことがある。
「言うはずなかろう。おぬしも忍びの心得があるなら、くだらん質問をするな!」
三郎が矢加部を叱責するように、言葉を吐き捨ててた。
すると、矢加部はぬいの手首をねじり上げ、自由に身動きできないように彼女の手を持ち上げた。
「ぬいも、久しぶりだな。鬼塚様が、お前が諜報員をやめたことをがっかりしてたぞ。まあ、惚れた男のためなら自分の仕事などどうでもいいか・・。」
彼女の手を力ずくで押さえたまま、俯き加減になった彼女を覗き込むようにして、矢加部がにやりと笑った。
「そういうことかも・・。美鈴もお前が頼めば、忍びをやめるかもしれないね・・。」
ぬいはそう言うと、矢加部をにらみ返した。ぬいと忍び仲間の美鈴は、矢加部斗真と長年秘かに思いを募らせる恋仲であった。
彼女の鋭い視線と、痛いところを突かれた矢加部が一瞬たじろぎ、彼女の手を掴む力がほんの少し緩んだ。ぬいはそのすきを見逃さない。彼女は、矢加部の股間をけり上げると、悶絶をうっている彼から手を放し、空中に大きくトンボをきった。その動きに驚いて、彼女を呆然と眺める部下の警察官は、金縛りにあったように立ちつくしている。そのわずかな混乱に乗じて、ぬいは警察官の間を縫うようにして外に逃げ出した。そして、追ってくる男どもをしり目に、あっという間に姿をくらましたのである。
佐那河内を抜け出したぬいが、再び姿を現したのは江戸(東京)であった。
「右衛門様さえ警察から逃れてくれれば、三郎たちを救ってくれる・・。」そう信じて、まっすぐ江戸に向かったのである。
一方、権蔵、双栄、京馬等の佐那河内の忍びも、ぬいと同じ思いで江戸に出て、右衛門の行方を探していた。
ぬいは江戸に出て、数週間がたっていた。右衛門の姿がいつもの居場所から消えたことは、すでに掴んでいたが、春に迷惑がかかるのを恐れて彼女との接触を避けていた。
「見つかったかい?あんたの探している人は・・。」
ぬいの体がビクッと反応する。彼女には、その声に聞き覚えがあった。
「久しぶりだね、美鈴・・。」
ぬいは、それでも、なるべく動揺を見せないように、笑みを漏らして美鈴の方を向く。
ぬいは地味な小袖に、髪を後ろに束ね、どこかの使用人のような恰好をしていた。
美鈴はというと、日本髪を結っていたが、身なりは美鈴と変わらなかった。ただ、少し派手な赤い前掛けを付けていた。
「ここの団子、おいしいでしょ。」
そう言って、美鈴が、毛氈が敷かれている床几に座っているぬいの隣に座る。
「斗真に聞いたのかい?私のこと・・。」
ぬいはそう言うと、美鈴の顔をちらっと見た。
「ぬい、勘違いしないで・・。私はあんたの敵ではないから。」
ぬいは彼女の言葉に意外な顔をして、改めて美鈴の表情を探る。
「右衛門様は、鬼塚の軍団を赤子の手をひねるように叩き潰して逃走したよ。まるで、蠅が自分の周りを飛んでるのを叩き落すようにね・・。」
美鈴はそう言うと、正面を向いたまま通りを行きかう人に目をやりながら、冷笑した。
そして、
「わたしにも、お茶と団子お願いね。」
と、奥にいる茶屋の婆さんに声をかけた。
右衛門と鬼塚の軍団の死闘(そう言えるかどうか?)の結末は、美鈴から聞く前に、ぬいの耳にも入っていた。
ぬいと美鈴の出会いより数日前、美鈴と斗真、それに警察官の仲間が雑談をかわしている。
「右衛門を逃がしたのだから、江藤様や鬼塚様もただでは済むまい・・。奴には、小野道場や各地に散らばる仲間がいる。それに、今は欧州を視察中の大久保様も右衛門とは交流を持っているというしな・・。それにしても、鬼塚の軍団も右衛門の剣とこれほどの力の差があったとはな・・。鬼塚様自身驚いているだろう。やはり、右衛門は鬼なのかも知れん。」
忍びから警察官になった斗真が、友人の話をじっと聞いている。
「四国まで行かされて、忍び仲間の三郎を捕縛したが、奴に恨みを抱かせないほうがよかったかもしれん。(美鈴の方を向いて)ぬい(三郎の妻)は江戸に来てると思うのだが、美鈴、探ってはくれんか。お前、ぬいとは親友だっただろう?」
斗真に打算(鬼塚一派を裏切る)が働き、今では将来を約束をしあった美鈴を頼って、右衛門一派に近づく手段を探っていたのである。
新政府の警察官と言っても、幕府時代には、お庭番や裏の仕事をしていた隠密たちが多かった。それだけに、彼らは決して今の組織に忠実とは言い難い。江藤が牛耳っている今の体制が揺らぎ始めれば、自分たちの行く末も懸命に探らなければならない。この時代の警察組織は、脆弱な基盤の上に成り立っていたのである。
場面はぬいと美鈴の再会に戻る。
茶屋のばあさんが、美鈴にお茶と団子を持ってくる。美鈴が、ばあさんに笑顔を見せて、軽く頭を下げた。
「斗真がね・・。(少し躊躇をして、ぬいの表情を確かめる。)ぬいに会ったら、三郎を捕まえたことを謝っておいてくれって・・。警察官である以上、上からの命令には逆らえなかったのよ。」
美鈴の声が、だんだん小さくなっている。
「あんた、斗真とできたようね。」
ぬいはにやりと笑って、意味深なことを言った。
美鈴は、彼女の言葉に何の反応も示さず、再び通りの行きかう人を眺めている。
「私は斗真のことを恨んでないよ。それに、あんたの頼みだもん・・。」
ぬいがそう言うと、美鈴の顔がぱっと明るくなり、ぬいの方を向いて笑顔を見せた。
そして、意を決したかのように、自分の持っている右衛門の情報をぬいに打ち明けだした。
「右衛門様は、元警察官の山岡と言う男と一緒にいるはず。(少しためらって)それに、崎田弥次郎という人物と合流したみたい。この男、政界の重要人物と知り合いで、討幕の時代には、政治情勢を動かしたこともあったみたい。これは、私が調べた極秘情報よ。上司にも報告していないから・・。」
美鈴はぬいに核心的情報を与えたつもりだったが、ぬいにとっては右衛門の居場所が知りたかっただけで、彼女の話には余り関心を示さなかった。
「右衛門様の居場所は分からないの?」
ぬいも美鈴を信頼して、彼女が調べた情報の提供を求めた。
美鈴が首を横に振る。
「江藤様は、賞金を懸けて右衛門様を必死で追ってるのは確か・・。生死に関係なく捕まえようと・・。」
美鈴の話には嘘はなかった。ぬいは、彼女の情報に少しがっかりしたが、美鈴が味方になれば心強かった。それに、警察組織自体揺れていることを知って、将来の見通しが明るくなった。そして、「右衛門様なら何とかしてくれる・・。」と、一層希望を抱くようになったのである。
「生死の心配をしなくっちゃいけないのは、右衛門様を狙ってる連中じゃないかしら・・。」
ぬいは、美鈴に言って聞かせるようにそう言うと、顔に不敵な笑みを浮かべた。
(右衛門の隠れ家)
右衛門は、山岡を大阪の両替商を営む佐吉のもとに向かわせた。理由は、山岡の保護、それに資金調達だった。
「佐吉に会ったら、見能林に住む内田清五郎の助けが必要だと言ってくれんか。」
右衛門は、わらじを履いて出かけようとしている山岡にそう声をかけた。
「何者ですか、その清五郎とやらは・・?」
振り向いた山岡が、怪訝そうにそう尋ねた。
「わしの元家臣で、銃の名手だ。」
衛門はそう言うと、にこりと笑った。
「承知。」
山岡が納得したように、返答した。「右衛門殿は何か策を考えてるな。」と思ったのである。
「それにしても、いつまでこんなところに?」
山岡はそう言うと、薄暗いさぶの長屋の部屋を見渡した。
「”こんなところ”とは、ずいぶんだな。」
傍で聞いていたさぶが、苦笑しながら、山岡の言葉にくってかかった。
「人の目を胡麻化すには、最適の場所だ。それに、結構気に入ってる。なあ、さぶ・・。」
右衛門がそう言って、さぶに微笑みかける。
さぶが嬉しそうに、頭をぺこりと下げた。今では、さぶは右衛門を無条件で尊敬していた。
幼いころから、親もなく、喧嘩の絶えなかった彼にとって、右衛門の剣は無敵のように見えて、憧れに近い感情を抱いていたのである。
「右衛門様のためなら何でもしますぜ。」
この言葉が、さぶの口癖だった。
山岡が、さぶの言葉を聞いて、いつものように鼻で笑った。
「それでは・・。」
山岡はそう言って、右衛門に一礼すると、背中をぴんと張って、大阪への長旅の一歩を踏みしめたのだった。
右衛門はそんな山岡の背中を見送っていたが、彼が長屋の角を曲がって姿が見えなくなるのを見届けると、さぶの方に視線を向けた。
「腹が減ったな。さぶ、豆腐を買ってこい!それと、お前に酒もな・・。」
そう言って、笑顔を見せた。
「へい!」
さぶは嬉しそうに、高い声を張り上げた。
(鬼塚・江藤の計画)
佐那河内は、少なくとも一時的には、計画通り政府の統治下に置くことができた。江藤の志す明治政府を絶対中央集権国家に移行させようとするための、小さな実例を示すことができたのである。ただ、自治区の創設者である右衛門を捕縛できなかったことは、江藤と鬼塚の大失敗だったことに間違いはない。
西田は、彼らの失敗を決して大目に見てはいなかった。折しも、大久保、木場、岩倉等の欧州使節団が、数週間前に帰国していた。今のところ、彼らは内政に関して沈黙を保っているが、内心、江藤を中心とする新政府のメンバーに不満を抱いているのは間違いなかった。もし、西田、江藤らの執政に顕著なほころびが生じれば、大久保らが西田の政治に異を唱えるのは火を見るより明らかだった。
ただし、大久保らも、西田のバックについている薩摩を中心とする武士団や西田との親交が噂されている勝沼恵三(旧幕府残党の裏で権力を持っている重要人物)の旧幕府武士団の武装蜂起に対抗するだけの武装能力は備えていなかった。それだけに、今のところ、西田の威勢の基で、江藤らの実権は揺らいではいなかった。その意味で、大久保らの本当の脅威は、西田を中心とする旧幕府体制の武士団であったのかもしれない。
「江藤の政治での失策を待つしかあるまい。ただ、仮に江藤が失政して、わしらが政治の実権を握ったとしても、それですべてうまくいくとも限らない・・。全国の天狗党(勝沼が首領)の奴らが、わしらに牙を向け、西田さんが薩摩に帰り、薩摩武士をまとめて武装蜂起でもしたら、わしらは一巻の終わりだ・・。」
大久保は、江藤らの実権掌握に不満を募らせている木場を説き伏せるために、そう言った。
「大久保さんが言ってることは、わしらが政治に関わるなと言っているのと同じではないか!この新政府を作り上げたのは、わしら薩長なのだぞ。それを江藤なんぞに・・。」
木場が悔しそうに、声を押し殺して、うなるようにそう言う。
「何も手がないとは言っておらん。おぬし、佐那河内の一件を知っておるだろう。」
大久保が木場の顔を見て、不敵な笑みを漏らした。大久保がこんな笑みを漏らすときは、何か陰謀の匂いがする。
「右衛門が姿をくらましてるそうだが・・。(はっとした顔をして)そう言えば、わしの留守中に、崎田弥次郎が草津(木場の親友。長州)と共に会いに来たそうだが・・。ひょっとして、右衛門のことで・・。」
まだ余り佐那河内の事件に関心のなかった木場が、怪訝そうな顔をしてそう呟いた。
「木場はんは、鼻が利きまへんなあ。さっそく事情を確かめに、草津はんに使いを出しなはれ!」
傍で聞いていた岩倉が、初めて口をきいた。彼も右衛門の事件に重大な関心を持っていたのである。その意味では、公家であるにもかかわらず、木場より政治的感覚は優れていたのかもしれない。
「右衛門を侮っては痛い目にあう・・。木場さんもそのことはよく知ってるはずだ。」
大久保は、岩倉の言葉に加担するようにそう言うと、木場に失望したように深いため息をついた。
大久保らが談合を行っている頃、同じように、鬼塚、江藤、西田が集まって、右衛門の対策について話し合っていた。
「鬼塚の計画を聞かしてもらおう。」
江藤が鬼塚の顔を睨んで、詰め寄った。
西田は、床の間を背に胡坐をかいて、腕を組み、目を閉じたまま、黙って二人のやり取りを聞いている。三人は料亭の奥の間に、談合のために秘かに集まった。座敷の外では、数人の護衛が周辺を固めている。
「右衛門の潜伏先が分かれば、二百人余りの特別部隊の警察官でやつを囲むつもりです。もちろん、狙撃部隊二十人ほども、別途準備しています。」
鬼塚が淡々と右衛門捕縛計画を二人に説明する。
「初めからそうすればよいものを・・。」
江藤の悔しさが、言葉ににじんだ。
「それで、右衛門殿の隠れ家のめどはたっておりますか?」
初めて、西田が口を開く。
「今必死に探しているところでして・・。いずれ近いうちには見つけ出します。奴が江戸に居るのは確かですから。」
鬼塚の表情に少しだけ自信が戻っっている。「今度こそ」と言う意気込みが戻り始めたのである。少し前まで、鬼塚は、右衛門捕縛失敗に対する再三再四の叱責で、江藤の言葉には辟易としていた。「度量の小さい人間だ。」内心、江藤にそう思っていたが、大久保を裏切った以上、江藤を頼らざる得なかった。
「江藤さん、ここは鬼塚さんを信頼して・・。(江藤に向かって笑顔を見せ)結果は、私が責任を取ります。」
江藤とは対照的に、西田の動じない風格に、鬼塚はある種の感銘を受けた。「やはり、時代を転換させるだけの胆力を備えている。」鬼塚の心に、西田への信頼が芽生え始めた。
「鬼塚さん、右衛門殿の知略には計り知れないものがある・・。日本一の剣豪で、希代の策士と言ってもいいと思います。あの人は、天が二物を与えたような天才です。無用の忠告とは思うが、油断は禁物・・。」
西田の最後の言葉に、何故か鬼塚は右衛門への嫉妬を感じた。恐らく、自分こそが最高の知略と武力の二つを備えた男だと自負を持っていたからかもしれない。ただ、その自信は、すでに右衛門によって、いとも簡単に打ち砕かれたのだが・・。
(動き始めた大久保一派)
右衛門の住む長屋に弥次郎と、その後ろを編み笠をかぶった着物姿の侍二人がついてくる。明治初期は不思議な時代であった。長屋などに住む庶民の生活習慣は、江戸時代からの文化を抜け出せてはおらず、侍、町人が幕府時代のままの衣服を身に着け、変化のない暮らしを続けている一方で、新しく西洋から入ってきた文化を抵抗感なく受け入れている。だから、右衛門のように、比類のない剣豪が髷を切って日本刀を差していても、何の違和感もないのである。ちなみに、弥次郎はいつも西洋風の靴を履いているが、誰も不思議がる連中もいない。これは、現状を素直に認めていくという日本人特有のメンタリティなのかもしれない。
「くまさん、わしの知り合い・・、さぶの所にいるかな?」
弥次郎が、長屋の住人に笑顔で声をかけた。
ふり向いて、弥次郎の顔を確認したくまが、ぺこりと頭を下げて笑顔になる。
「右衛門様ですかい?おいでになりますよ。昨日の晩は、さぶの奴と博打に出かけて、朝方帰って来たようですがね。(にやりとまた笑い)いいご身分だ。さぶの奴、金の生る木でも手に入れたように、毎日、あの方を連れまわしていますよ。大きな声では言えないが、右衛門様が賭場で、さぶの用心棒のようにへばっているんで、さぶの奴、花札博打で大儲けしているようですよ。なにせ、賭場を仕切っている奴らも、あの方を気味悪がって、さぶのいかさまに文句が言えないようで・・。」
くまは、弥次郎の顔を見ると、話したくてうずうずしていた話題をまくしたてた。
弥次郎には、人に警戒を与えない人なつっこさのようなものがある。それは、恐らくどんな身分の人間にも、分け隔てなく付き合っていける包容力からくる人徳のようなものだろう。
「弥次郎は、昔と同じだ・・。」編み笠をかぶった木場が、二人のやり取りを聞きながら、笑みを漏らした。
「これは角の酒屋で買った酒だ。」
弥次郎はそう言うと、くまの前にとっくりを差し出した。
「いつもすいませんね。」
くまが満面の笑顔で、酒を受け取った。どうやら、弥次郎は長屋の連中を手懐けているようだった。ただ、くまの目線は、弥次郎との会話の最中でも、後ろの侍達にしばしば向けられている。今夜、長屋の連中が集まった時、くまが今見ている侍のことで、長屋の連中の話が盛り上がるのは確実だった。彼らにとって、噂話は日常の娯楽のようなものだ。
木場、弥次郎、草津、右衛門が、ちゃぶ台を囲むように座っている。いきなり自分の長屋を訪れた客に、さぶはどうやって対応していいか分からず、ただ部屋の片隅で膝に手を当てたまま、きょろきょろと木場と草津に視線を送る。
「さぶ、場を外してくれんか?」
この空気になじめず、おどおどしているさぶを見かねて、弥次郎が声をかける。
「へい。」
弥次郎の言葉で解放されたように、さぶは立ち上がると、きしむ戸を開けて外へ逃げるように飛び出した。
「さて、お久しぶりですな。」
さぶがいなくなるのを確認した木場が、改めて右衛門に挨拶した。
「欧州はどうでしたか?」
右衛門は政治に関心がなさそうなふりをしているが、時代の流れには敏感であり、主に佐吉や弥吉等の商人、時には貿易商アダムスが日本で駐在させるホッジスから情報を集めていた。(話は違うが、このホッジスはイギリスに住む陽明と右衛門との情報交換の仲介役として、しばしば右衛門と接していた。)
「ほう、右衛門殿から意外な言葉を聞きましたな。政治の動向には関心がないと思っておりましたが・・。」
木場が、右衛門の意外な一面を知って驚いた。
「能ある鷹は爪隠すでしょう。そこいらで、やたらと政情を論議する輩には、ろくな考えは浮かばない。いい例が、西田さんだ。あの人は、人を信頼して政治を動かすが、自分で目立って積極的に動かない。ただし、信頼した人間が失敗したら、その責任は自分で負う・・。右衛門殿とどこか共通点がある・・。」
弥次郎は、西田を尊敬している訳ではなかった。ただ、自分の持つ人物評を正直に述べただけだ。
「えらい西田さんを褒めますな。側で聞いていて、何だか耳が痛い。」
草津はそう言うと、苦笑いをした。
「どこかの、汚職で政治から遠ざけられた人物には、弥次郎殿の言葉はおもはゆいだろう。」
木場は、いまだに草津の不始末を忌々しく思っている。もし、草津が自分たちの留守の間、西田の政治に目を光らせていたら、江藤の台頭は許さなかっただろうと思っているのだ。
急に場が沈み、草津はうつ向いたまま黙ってしまった。
「そうですか。草津さんにはそんな失点があったんですか。そこまで私の耳にははいってこなかった・・。」
右衛門は、草津に対する気遣いはせず、遠慮もなくそう呟いた。
「まあ、まあ。もうその話は木場さんからさんざん聞いたきに・・。」
草津を気遣ったのは、弥次郎だった。「木場には人を許してやる包容力というものがない。」内心そう思った。弥次郎は木場の性格の欠点を明確に見抜いている。
木場は、草津への不満をようやく吹っ切るように、
「どうです、右衛門殿、草津の屋敷に居所を変えませんか?草津の屋敷なら警察も手が出せますまい。」
と、自分らが会いに来た理由を切り出した。
やっと話題が本題に移って、草津の顔に安どの表情が浮かぶ。余程、大久保たち欧州組に絞られたのだろう。
「やめときましょう。あなた方に迷惑はかけたくない。そのことが発覚したら、木場さんや大久保さんが、西田さんと決定的な対立関係になる。木場さん、それでも西田さんに勝てる自信がありますか?元士族たちは、西田さんの武装蜂起をかたずをのんで待っているのでは・・。」
右衛門はそう言うと、木場の顔を見て、にやりと笑った。
「痛いところを突かれたのう、木場さん・・。やはり、右衛門殿はただの剣豪ではない。」
そう言って、弥次郎が大きな声で笑った。
「ただ・・。」
右衛門はそう言うと、一瞬言うのをためらった。
木場と草津が、右衛門が言おうとする言葉に耳を研ぎ澄ました。彼らは、右衛門が江戸にいる限り、警察に捕縛された佐那河内の連中を解放するために、何かの策謀があると期待していたのである。
「あのような形で、佐那河内を潰しにかかるなら、黙って見過ごすわけにはいかぬ・・。」
右衛門の顔に、一瞬、怒りの表情が浮かんだが、すぐにその感情を隠すように、
「わたしは、いずれ佐那河内は、あの地に住む百姓たちだけの村にした方がいいと思っていた。」
と、自分の思いを自分自身で確認するように呟き、二人に怒りを悟られまいと、わざと笑顔を作った。
「わしらは、右衛門殿の味方だ!あなたに策があるなら、それを応援するつもりです。」
木場は、敢えて、右衛門の策略の中身を聞かなかった。聞けば、自分の下心が見抜かれるように思ったのである。ただ、八方ふさがりになっている今の現状に、ほのかな光りが見えてきたような気がした。
右衛門は、木場の言葉に素直に頭を下げて、謝意を示した。
その時、屋根に小さな小石が投げられる音がした。
「権蔵か?」
右衛門が、神棚の上をちらりと見た。すると、屋根の板が小さく開けられ、外の光が部屋の中に差し込んでくる。
「どうやら、嗅ぎつけたようで・・。」
権蔵が、何者かの襲撃を右衛門に知らせる。
「何人だ?」
右衛門が、権蔵に尋ねた。
「忍びが三人。浪人らしき侍が五人。(間をおいて)忍びは、双栄と京馬と私で何とかします。ただ、侍は、私の見るところ相当腕の立つようで・・。」
権蔵と双栄、それに京馬は、大阪にいる両替商の佐吉から右衛門の居場所を知り、数日前から、右衛門への警察の捜索に対応するため、長屋周辺に宿を取り、辺りを警戒しているのである。
「ほう、佐那河内の残党はもう動き出していたか・・。」
弥次郎が、権蔵の方を見ながら、そう呟いた。
「浪人は、わしが始末しよう。わしらの跡をつけてきたのだろう。右衛門殿には迷惑はかけられん。」
草津はそう言うと、刀を右手に持ち、膝を立てて立ち上がった。草津の剣の腕前は、かつて長州では、五本の指に数えられていた。草津を追うように、木場が出口に向かう。二人は、修羅場には慣れていた。
右衛門を狙った忍びは、激しい戦闘の末、京馬と双栄、権蔵たちに退けられた。
長屋の戸が小さく開けられ、住人たちが固唾をのんで、表で繰り広げられる死闘の様子をうかがっている。この界隈では、しばしばやくざ同士が命を懸けた出入りがあるが、侍と忍者の死闘を見るのは初めてだった。
長屋の板塀の通路のには、三人の忍びの死体がころがっている。五人の侍は、その遺体に目もくれず、長屋の奥に立ちはだかる草津と木場の方へ、刀を抜いてゆっくりと向かってくる。
「刀を抜くのも久しぶりだな。」
草津は木場にそう声をかけると、ゆっくりと刀を抜いた。それに合わせるように、木場が刀を抜く。すると、右衛門が戸を開けて、前で立っている二人の隙間をぬうようにすり抜けて、ゆっくり進んでくる浪人たちに向かって、刀を抜いて突進していった。
右衛門が五人の間合いに入った瞬間、薄暗闇の空間に、白刃の交わる打音が数回鳴った。そのまま、右衛門の突進する足の速度は止まらず、五人の侍を残して突っ切った瞬間、足を踏ん張て体を反転し、今戦った五人の結末を確かめるように前方を見つめた。右衛門の目の前には、刀を抜いたまま真っ赤な血を流して、地に沈んだ五人の死体が、規則正しく点在していた。
「あれが、右衛門の剣か・・。」
死闘では百戦錬磨の草津にとっても、五人の侍の立場が自分だったらと想像しただけで、恐怖が先に立ち、震えだした刀を持つ手を、左手で掴んで押さえるほどだった。
「後始末は、我らにお任せを・・。」
右衛門の剣をすでに見たことがある木場が、彼に向かって声をかけた。
右衛門は刀を鞘に納めながら、木場に向かって一礼した。
秘かに、この死闘を見ていた長屋の連中は、余りに凄まじい右衛門の剣に、ただ呆然と家の中で立ちすくんでいるだけだった。
「今日の右衛門殿の剣はいつもに増して冴えわたって、鬼神のごとくじゃ。余程、今度の一件で怒りを堪えているんだろう・・。」
最後に出てきた弥次郎が、呟くようにそう言うと、笑顔で右手を鼻の下に持っていき、人差し指で鼻の下をこすった。
(奇襲)
矢加部斗真が、鬼塚の警察を裏切った。右衛門の住む長屋を警察隊が襲撃する日を、美鈴を通してぬいに密告したのである。右衛門の対応は早かった。江戸に集結した右衛門の仲間に、警察隊襲撃阻止の応援を頼んだのである。
春の料亭に佐吉、又五郎、内田清五郎(狙撃の名手。見能林藩)それに忠成が集まっている。四人の前には右衛門の住む長屋周辺の地図が置かれ、碁石が地図の上に置かれている。
「清五郎殿の鉄砲隊二十名は、警察襲撃となれば、この土蔵の屋根に潜んでくれるか。」
忠成が指示を出す。
「承知。」
清五郎が即座に返答する。
「この家と土蔵(長屋の背後に位置する)は、すでに私が買い取りました。幸い、この店は商いが傾きかけて、私が買い取る提案に、二つ返事で応じてくれました。私も江戸に二つ目の店を出したかったもんで、一石二鳥です。」
佐吉の説明を聞いていた又五郎が、
「佐吉もすっかり商人になったな・・。無駄金は使わんか。」
と言って、「はははっ!」と豪快に笑った。一方、彼の変わらない豪快な性格に、佐吉と清五郎が笑顔を見せた。ただ、忠成だけは、じっと前の地図を見つめて、又五郎の言葉に何の反応も示さない。
「ぬいの知らせでは、敵の鉄砲隊は二十名ほど・・。我が方と同数じゃ。」
又五郎はそう言うと、忠成の方を向いて、彼の顔を見た。
「鉄砲は問題ないだろう。何せ、清五郎殿の鉄砲隊だ。最新鋭の銃を弥吉から提供されているし、腕前も奴らとは比較にならん。問題は、長屋に突撃する警察の斬りこみ隊だが・・。」
忠成はそこまで言って、作戦をどうたてるてるか決めあぐねているのか、顎に手を当て黙ってしまった。
「なに、奴らの横っ腹を突けば、蹴散らせる。」
相変わらず、又五郎は楽天的だ。厄介なことに、さぶの長屋は広い通りの奥にあり、出入口の門を突き破れば、大勢の人数で攻め入ることが可能であった。
「そうは言っても、百人は下らない斬りこみ隊を数人で崩すのは無理でしょう。それに、傭兵を雇うにも、政府相手じゃ、れっきとしたおたずねものになってまで、志願する者もそうそういないでしょうな。」
佐吉が又五郎の意見に水を差す。
「おぬしは、何でも金で解決しようとする。」
又五郎が、佐吉に嫌味を言った。
佐吉は、又五郎の言葉にも、苦笑して反論しない。「もう武士の時代ではないのだ。」佐吉はそう言いたかったのかもしれない。ただ、矛盾するかもしれないが、右衛門からの頼みであれば、自ら命を懸けても、右衛門のために応ぜざるを得なかった。佐吉にも「忠義」という、自分の考えと相反する思想が心の中に同居しているのである。
「仕方ない。権蔵や双栄、京馬にも頭を下げて、我らの加勢を頼むしか仕方があるまい。奴らには、危ない橋を渡らすが・・。」
正直言うと、忠成は、自分の心の中に、忍びと一緒に戦うことに抵抗があるのも事実であった。その意味では、忠成は右衛門と違って、江戸時代以来の根っからの剣豪と言ってもいいのかもしれない。
一方、右衛門にとって、警察襲撃の際に、長屋の連中をどうやって退去させるかが、悩みであった。あらかじめ彼らを移動させれば、警察に計画が漏れたことを察知されることになる。かといって、長屋の連中を巻き添えにすることは出来なかった。
「お安いごようでさ。」
右衛門から依頼を受けたくまの返事は早かった。
「みんな右衛門様を自慢に思ってますよ。こんなぼろ長屋に、日の本一の剣豪が住んでるんですから・・。そのことだけで、あっしらの誇りなんですよ。その剣豪が頼んできたんだ。断るわけないでしょ。」
くまはそう言うと、右衛門に笑顔を見せた。長屋の連中は、右衛門と五人の武士の死闘を目撃して以来、すっかり右衛門に夢中になっていた。人は英雄に自己投影することで、自分がヒーローになったような気になれる。何でもない日常に、とんでもない剣豪が近くに舞い降りたのである。彼らの気持ちの高揚は、自然の成り行きだったのかもしれない。
「後ろの商家と土蔵は、私の知り合いが最近買い取った家だ。すまんが、一日だけ長屋の連中を非難させてはくれんか。」
右衛門はそう言うと、くまに深々と頭を下げた。
「もったいない。(応ずるように頭を下げる)右衛門様の頼みだ、いやという人間は一人もいませんよ。何せ、あっしらにとっては、あなた様は英雄なんですから・・。」
くまは、嬉しそうにそう言うと、右衛門の顔を見てにこりと笑った。横で聞いていたさぶも、くまにつられるように笑顔を見せる。右衛門は、くまの返事にほっとしたように、ふうっと息を吐いて、彼らと同じように微笑んだ。結果的に、長屋の連中から右衛門の依頼が漏れることは一切なかった。
(奇襲失敗)
鬼塚にとって、右衛門奇襲は名誉挽回の最後の機会であった。当初、斬り込み隊を二百と見積もっていたのだが、大久保らの執拗な監視の目をかわすには、余り表立った動きを見せるのは得策でないと判断し、奇襲攻撃の警察の数を絞らざるを得なかった。このことが、致命的敗因になるとは、鬼塚は想像もしていなかった。
奇襲は、明け方に決行された。予め動きを察知していた右衛門たちは、夜明け前秘かに、長屋の連中数十人を、裏の商家に移動させ、長屋には右衛門がぽつんと一人、名刀正国を肩で支えて、柱にもたれて座っている。
外では、警察の鉄砲隊が長屋の射程距離にずらりと並び、右衛門を家の中からあぶり出し、一挙に仕留めようと、銃口をさぶの家に定めて、鬼塚の命令をじっと待っている。
鬼塚の顔に思わず笑みが漏れた。
「弾丸を一斉に右衛門の寝床に打ち込めば、奴も飛び出してくるしか仕方あるまい。後ろは商家の土蔵と密接していて脱出することはできず、じっとしていれば、いずれは銃弾で蜂の巣になる・・。お前ならどうする?」
言うまでもない‥という表情をした矢部五郎(鬼塚軍団の生き残り)が、鬼塚に応じるように、にやりと笑う。
「万が一、弾丸が当たらず、奴が飛び出したら、斬りこみ隊の先頭に立って、この私が先日の失敗の借りを返します。」
矢部の顔に、気力がみなぎった表情が浮かんだ。同じ時、部屋の奥で座っている右衛門が、眠気を振り払うように、大きな欠伸をする。
「撃ち方はじめ!」
鬼塚の甲高い声が、夜明けの引き締まった空間に響き渡った。同時に、矢部が小走りに斬りこみ隊の先頭に立ち、静かに刀を抜いた。
鬼塚の手が振り下ろされようとした時、長屋の隣の土蔵の屋根から凄まじい銃声と共に、まるで雷のような火花が走った。次の瞬間、鬼塚率いる鉄砲隊がなぎ倒され、その場に前屈みに倒れたのである。
その凄まじい銃声を唖然と聞いていた斬りこみ隊は、右衛門に襲い掛かろうとする気迫をいっぺんに失い、抑えきれない恐怖を抱き始めた。隊員の心は、池に投げ込まれた石の波紋のように、動揺を隠しきれず激しく波打っていた。
「怯むな!」
鬼塚の絶叫が、長屋を奇襲しようとする連中の心の動揺を押しとどめる決死の叫びとなって、隊の連中の耳をつんざいた。その時、夜明けの朝日の光が、ぱっと辺りの状況を鮮明に映し出し始めたのである。
二十名の銃撃隊は、見事に殲滅。横並びに列をなしていた狙撃手たちは、全員前のめりに倒れ、真っ赤な鮮血を大地にしみこませていた。この光景を見て、狂気と化した斬りこみ隊は、鬼塚の命令に無我夢中で従って、右衛門のいる長屋に向けて突進し始めた。
すると再び、
「バーン バーン バーン!」
上空からの二回目の銃声の凄まじい音と共に、撃たれた斬り込み兵が、あちこちで倒れていく。
「怯むな!前へ突っ込め!」
再度発した鬼塚の声は、野獣の雄たけびと化していた。しかし、いったん動揺してしまった隊員たちに、統率力を再び要求するのは不可能に近かった。
隊を沸騰する水の分子に例えると、均等に配分できず不規則に密集したエネルギーは、秩序を失った蒸気のように拡散していったのである。隊の配列が乱れ、さながらパニックに陥った群衆のように、四方八方に飛び散り始める。
路地に潜んでいた忠成は、この機をのがさなかった。
「又五郎、打って出るぞ!」
太刀を抜いて、忠成の横にいた又五郎が、彼の言葉に応じて、
「おおお!」
と、凄まじい雄たけびをあげる。
「権蔵、双栄、京馬、後ろの援護頼む!」
忠成の血走ったまなこが、後ろに控えていた三人の忍びに向けられる。
「承知!」
合わせたように、三人の忍びが声をそろえる。
数秒後、斬り込み隊に突っ込む忠成と又五郎、二人に続いて、二人の背後を固める三人の忍び。
五人の直線は、稲穂を刈り取る刃物のように、警察隊の一群を刈り取っていく。土蔵の上の鉄砲で動揺しきった警察隊は、わずか数名の横からの奇襲に、態勢を整える余裕もなく、面白いように崩れていった。
するとようやく長屋の戸が開き、右衛門が姿を現した。彼の顔には不気味な笑顔が漏れている。右衛門の正面は、忠成らに完全に突き崩され、後ろで指揮をとる鬼塚の姿がくっきりと見えていた。
「鬼塚殿、勝負をつけようではないか!」
右衛門の空をつんざく大きな声が、辺りを圧倒する。
その声を機に、広い通りの片隅に逃れようとする警察隊。その集団に、右衛門の行動を邪魔をさせまいと牽制する忠成と又五郎の剣。そして、動揺する警察隊の予想できない行動に、にらみを利かす三人の忍び・・。
この戦いの形勢は、わずか数名の右衛門一派と土蔵の屋根の上の銃撃隊が支配していた。
右衛門の挑戦に即座に応じた矢部が、ゆっくり右衛門に近づいていく。それに合わせるように、鬼塚が剣を抜き、二対一の挑戦に持ち込むべく小走りで矢部の後を追う。今まで争っていた敵味方は、いつの間にかこの死闘の傍観者になっていた。
相手が右衛門と言えども、矢部と鬼塚は五人の軍団(三人はすでに倒されたが)の精鋭である。右衛門に、たやすく敗れるはずはないという自信があった。
やがて、二人の塊となった鬼塚と矢部が、あんうんの呼吸で息を合わせて、右衛門に襲い掛かった。しかし、勝負はあっけなかった。右衛門の体が、二人の白刃を難なくかわしたのだ。そして、彼の刀の切っ先が朝日の光できらりと光ったかと思った次の瞬間、鬼塚と矢部の体は、もんどりうって地面に転がったのである。
その死闘をじっと見ていた両軍から、驚きのざわめきが辺り一帯に伝わった。、やがて戦場は不思議な平穏で包まれていく。戦意を失った警察隊は、右衛門たちがこれ以上自分たちを叩きのめすことはないだろうという確信を持ち始めた。右衛門たちの顔が、穏やかな表情に変わっていたのである。警察官たちは、相手が殺気を消したのを読み取ったかのように、逃走とは言えないような静かな撤退を始めた。隊の連中の中には、右衛門や忠成らに一礼して、慌てることなく歩いてこの場を去る者もいた。
この争いの結末は、大久保と西田の静かな争いへと連動することになるのである。