26話 世話役は夢を抱く
アンはとても幼い頃、とある出来事をきっかけに心を閉ざしてしまった。ギールという男によって世界政府が管轄する捜査部隊に加入させられ、家族や友達と離ればなれになったのだ。
その心が再び開かれたのは、アンがリリアと出逢ってしばらく経った頃。感情の起伏が一切ない彼女だったが、リリアの無邪気な温もりに触れて、かつての純真無垢な心を思い出すことができた。
しかし、それで全てが解決する訳ではなかった。
この時から彼女の中には、二人のアンが混在することになった。"常識的な価値観を持たず、純真無垢で自分の気持ちに正直なアン"と "己の感情の一切を排斥し、与えられた任務を最優先に考えるアン"。
この二つがアンの心の中で幾度となくぶつかり合い、その度にアンは激しい葛藤を強いられた。時には心の収拾がつかず、矛盾した言動をとることもあった。
その中の一つにこんなエピソードがある――。
それはアンが十歳の時の話。当時十一歳のリリアが、父ヘンドルへとある"おねだり"をするところから始まる。
「お父様!!」
「‥‥‥どうしたリリア?」
「私、メイドさんの制服が欲しい!!」
目をキラキラと輝かせて、リリアはそう言ったのである。ヘンドルは呆れ顔になる。
「今度はメイドに興味を持ったというのか‥‥‥」
リリアのおねだりはこれが初めてという訳ではない。アンに勉強を教わるようになり、リリアの好奇心は様々な事物へ向けられるようになった。
"炎を掴んでみたい"、"森の中で暮らしてみたい"、"ドラゴンの子供を育ててみたい"――
ヘンドルへの無茶なおねだりも加速していく。その全てはアンが上手く説得をして落ち着かせているが、王女らしからぬリリアのその態度に、ヘンドルはいよいよ呆れ疲れている。
「リリア、お前は王女なんだ。いい加減にその自覚を持たないか」
「"じかく"って何?」
「自分の立場を弁えるということだ。幼子の如く駄々をこねるのではなく、一国の王女として相応な立ち振舞いをせねば」
「そんなの知らない! 私はメイドさんの制服が欲しいの! メイド服を着ーたーいー」
小さな身体でぴょんぴょんと飛び跳ねながら駄々をこねるリリア。ヘンドルはため息をつく。
「‥‥‥何故メイドの制服が着たいのだ?」
ヘンドルが問うと、リリアは満面の笑みで答えた。
「アンとお揃いが良いから!! アンと一緒にメイドさんの仕事するんだ!」
――二人の会話を、廊下でこっそりと聞いていたアン。彼女には、その時のリリアの笑顔がとても印象的だった。
もしリリアが王女でなく、メイドとして一緒に仕事をすることができたらどれだけ楽しいだろう? アンはふと、そんな想像をしてしまう。
しかしすぐにもう一人の自分がその気持ちを制する。リリアは王女で、自分はメイド。身分を理解して責務を全うしなければならない、と。
* * * * *
勉強の時間。リリアはやはり、アンにも同じ話をした。
「ねぇ、アンもそう思わない? 一緒にメイドさんの仕事をすれば絶対楽しいじゃん」
「貴女様は王女なのだから、そんなことはできません。国民も皆、いずれこの国を治める者として貴女様に期待しているのです」
「大袈裟だってば。国を治めるとか、国民の期待とか‥‥‥。私まだ十一歳なんだよ?」
ペンを鼻と口の間に挟み、怪訝そうな表情のリリア。アンは「何を仰いますか」と首を横に振った。
「"もう"十一歳なのです。いつまでも子供の気分でいないで、王女たる振る舞いを身につけなければなりません」
「私はアンと一緒に仕事がしたいの!!」
リリアは大きな声で言い張るが、アンも負けじと言い返す。
「なりません! ‥‥‥それに、もし仮に貴女様が我々メイドの仕事を引き受けたとて、料理も洗濯も何もできないでしょう?」
ジト目でボソッと言うアンに、リリアは苦虫を噛み潰したような顔色になる。
「それは‥‥‥これから練習してちゃんと覚えるの!!」
「きっと無理ですよ。だって貴女様、今の段階で王女としてやるべきことをほとんどできていないじゃないですか」
「それとこれとは別の話!!」
「いいえ、同じことです!! 長続きせずに飽きてしまうのは目に見えてます」
「やってみないと分かんないじゃん!」
「分かります! 大体、貴女様はいつも――」
――結局その言い争いは日暮れまで続き、この日の勉強はほとんど進まなかったという。最終的にはアンがメイドの壮絶な仕事内容を語り尽くし、それに物怖じしたリリアが諦めることとなったようだ。
* * * * *
その日の晩。リリアが眠りに就き、アンはいつも通り自室で黙々と作業をしていた。
「他に今日中に仕上げなければならないものは‥‥‥」
机上に目まぐるしく広がる大量の資料を整理していると、一枚の紙がアンの目に留まった。
「ああ、これもそろそろ出さなければ」
それはリリアのための衣服の注文用紙だった。
リリアの着る服は、全てアンが国一番の職人に直接発注して仕立ててもらっている。この頃リリアは育ち盛りで、すぐに服のサイズが合わなくなってしまうため、また新しく服を注文しなければならなかった。
必要な記入はおよそ完了している。最後にサイン欄を埋めれば終わり。アンはペンを取り、速やかに記入しようとする。
「‥‥‥」
しかし手が止まった。
アンは、リリアの言葉を思い返していた。
"アンとお揃いが良いから!! アンと一緒にメイドさんの仕事するんだ!"
そしてまた、そんなあり得ない未来を想像してしまう。
頭では分かっている。メイドの自分と王女のリリアとでは身分が全く違う。王女本人は自分を友達だと思ってくれているが、そんなの世間では罷り通らない。王女とメイドが一緒に同じことをするなど、決してあってはならない。
頭では、そうだと分かっているはずなのだ。
それなのに、ペンを持つこの手が言うことを聞かない。ペン先が、書き終えているはずの注文リストの記入欄へと向かっていく。
『やめろ』
心の中で一人の自分が言う。ペンを持つ指先がこれに震える。
『無駄なことをするな。この一生の最期の瞬間まで、そんな絵空事は実現し得ない』
しかし手は止まらない。ついにペン先が紙に触れ、じわっと黒インクの点が染み渡る。
『時間が経てば、いつか叶うかもしれない』
もう一人の自分が、反発している。
『あり得ない』
『いつか、身分なんて気にしなくていい自由な時間が訪れるかもしれない』
『あり得ない』
否定する自分の声を聞かず、ペンはすらすらと紙にインクを落としていく。そして、服の寸法を記入する欄でその手は少し止まった。
その時は、果たしていつ訪れるだろう?
数週間後か、数ヶ月後か、はたまた一年後か。
いや――――。
――とうとうアンは全てを記入し終え、最後のサイン欄まで埋めてしまった。そして残る資料を適当に机の隅にまとめると、席を離れてベッドに飛び込んだ。
アンが注文用紙の記入欄に書き加えたのは、今のリリアではとても着れないような"大きいサイズのメイド服"。
『彼女がもっともっと大きくなったいつの日か。もしかしたらこの夢が叶うかもしれない』
もう一人の自分を完全に無視した、全く根拠のない考え方。それはまるで、聞き分けのない幼子のようであった――。




