第五話 ダイナミックダンパー
■1937年(昭和十二年)5月 米国 プラット&ホイットニー本社
3年ぶりに深尾はコネチカット州ハートフォードのP&W本社を訪れていた。
「ようこそミスター深尾。お待ちしておりました」
「どうもミスターウォード、予定より遅くなって申し訳ありません」
やる事が無い割に本社の命令で欧州滞在が長引いてしまい、深尾が渡米できたのは予定より遅く5月になってからだった。
もっとも、その間に深尾とウォードは何度も手紙のやり取りをしていたため、やるべき事の段取りは全て付いている。
深尾はP&W社の最新工場の見学と、それをモデルにした新工場の設計依頼、そしてそこへ設置する工作機械の手配を滞りなく終えた。
一通りの目的が果たせたため二人はP&W社の技術者も交えて技術談義に興じていた。
「これが現在我が社で開発中の複列14気筒のエンジンです」
そう言って深尾はA8cの写真を見せ、簡単に要目や構造を説明する。
「なるほど……基本構造は我が社のサイクロンを踏襲してますね」
「やはり分かりますか」
深尾の表情に不安がよぎる。
「もちろん。ああご安心ください。ライセンス契約していますから目くじらは立てませんよ」
ウォードがほほ笑む。
「カムは前に集中配置。構造は簡単になりますが高回転にすると少し心配ですね……それより燃料噴射装置、なんと筒内噴射ですか!これには驚きました」
「ええ、当社自慢の新技術です」
模倣だけでないと示すことが出来て深尾もまんざらでない顔をした。
「確かにメリットも多いですがコストアップになりますね。このエンジンのサイズではメリットが少ないような……なるほど!本来はもっと大きなエンジンのためですね?」
「ご明察です。前回R-1860のライセンス契約も結んだでしょう?あの大径ボアで出力アップを狙うにはキャブレターでは難しいのです」
「おそらくノッキングが多発。無理をすればデトネーションでエンジンが破壊されますか……噴射装置は我が社も開発はしていますが今のところはキャブレターで用が足りますからね……」
「このポンプとノズルは特に精密加工が必要です。そこで追加でそういった加工もできる機械も発注したいのですが」
深尾は手の内を明かして工作機械の追加発注を依頼した。
「うちはそういう機械も扱っています。お任せください」
ウォードは二つ返事で了承すると、技術者に資料を持ってこさせた。
ウォードは精密工作機械の資料だけでなく何枚かの写真も持ってこさせていた。それはエンジンの写真だった。
「この写真は?」
「客に新技術を見せられるだけでは我が社としても面目が立たないですからね。そちらと同じく、現在我が社が開発中の新エンジンです」
ウォードがウィンクする。それは深尾も初めて見る18気筒エンジンだった。
「R-2800。我々はダブルワスプと呼んでいます。名前の通り基本的にはワスプエンジンを複列化したものです」
三菱や中島はまだ14気筒エンジンの実用化が精一杯である。だが米国はすでに18気筒エンジンの開発に着手している。日米の技術力の差を深尾は改めて実感した。
「カムは前後独立……常識的な構成ですが18気筒だからヘッド間隔がその分せまくなってますね……後列の冷却に問題はありませんか?」
せめて一矢報いようと深尾が尋ねる。
「もちろん対策中です」
技術者が少しだけ目を逸らしたのを深尾は見逃さなかった。18気筒エンジンは冷却に注意。深尾は心のメモにそう書き留めた。
「しかし先ほども言いましたが構成自体は普通に見えます。なにか新技術を使っているのですか?」
9気筒単列エンジンを二つ繋げるだけなら、いずれ自分たちも出来る。わざわざこの写真を見せたP&W社の意図に深尾は興味がもった。
「我々の新技術はこれです」
そう言ってウォードが見せたのはR-2800のクランクシャフトの写真だった。
「前後のつなぎ方はツインワスプと同じですね……ん?この部品は?これはもしかしてPendulous Absober!?」
それは一見すれば先日購入したR-1830 ツインワスプエンジンのものに似ていた。だがよく見るとカウンターウェイト部に見慣れないパーツが付いていた。
「気づきましたか。さすがはミスター深尾ですね。我々はそれをダイナミックダンパーと呼んでいます」
「いや気づけたのは偶々です。つい最近、テイラーの論文を読んだもので」
欧州滞在中、深尾が集めた論文の中に一つ気になるものがあった。
それは、『Eliminating Crankshaft Torsional Vibration in Radial Aircraft Engines』 (星型エンジンのクランクシャフト捩れ振動の解消)という論文だった。
昨年にエドワード・S・テイラーが発表したばかりの新しい論文である。
星型エンジンは奇数の気筒が一つおきに爆発するため対向する気筒で振動が打ち消される事がない。また主コンロッドに副コンロッドが接続される構造からクランクシャフトは常に複雑な捩れを受ける。さらに複列となれば前後列の振動が合わさって更に複雑な振動となる。
この捩れ振動問題はエンジンの高出力化、多気筒化とともに顕著となっていた。三菱の十試空冷800馬力発動機でもその傾向が既に出ている。これを元に開発中のA10では大きな問題となる可能性があった。
それを解消する方法をテイラーはその論文で示していたのである。
謎の部品の正体は分かった。だがまだ疑問があった。
「確かテイラーの論文では、ウェイトは振り子の様にぶら下げる形だったはずですが……これは少し違いますね?」
「それについては、色々とありまして……」
ウォードによれば、テイラーの構造そのままでは強度的・寸法的に問題があり、それを解決する簡単で効果的な構造は既にライバルのライト社に特許を取られてしまったのだと言う。
このためP&W社が編み出したのがカウンターウェイトの穴の中にダンパーとなるパックを収める方法だった。摩擦もあり重量も限られるため効率はライト社のものに劣る。それでも振動はかなり改善されるとP&W社の技術者は力説した。
その後、深尾とウォードらは振動対策について話の花が咲いた。その中で深尾はR-2800には二次振動を抑えるバランサーシャフトも備えられる事も知った。
R-2800の振動対策はA10にも使える。そう直観した深尾は、あとで絵を添えて日本に手紙を送ろうと心に留め置いた。
だが深尾にはそれより気になる事があった。ライト社がダイナミックダンパーの特許を押さえたという事は、中島にもその技術が流れる可能性が高い。このままでは再び中島の後塵を拝することになる。深尾はダメもとで尋ねた。
「お願いが有るのですが……このダイナミックダンパーのライセンス契約も追加できないでしょうか?我が社の燃料噴射装置の技術とクロスライセンスで如何でしょうか?」
「良いでしょう。では正式な書類を用意させましょう」
意外にもウォードは快諾した。
もちろんウォードもお人好しではない。今のダイナミックダンパーは効率が悪くいずれ改良する予定だった。それに深尾がテイラーの論文を知っているなら遅かれ早かれ自前でダイナミックダンパーを開発するだろうとも考えていた。
一方深尾もガソリンエンジンが普及している米国ならば、より高度な噴射装置がいずれ開発されるだろうと思っていた。
つまり両社とも相手に示した新技術を大したことの無いものだと思っていた訳である。
こうして大馬力の空冷星型エンジンでは必須となる振動対策技術を三菱は入手できたのだった。
史実で深尾が金星エンジン情報の見返りに見せられたのは、R-2180-Aツインホーネットエンジンでした。別に駄作では無いですが平凡でパッとしないエンジンです。なのであまり売れませんでした。
本作ではP&W社との関係が非常に良好な上に燃料噴射装置というカードもあったため、あの名機R-2800ダブルワスプエンジンの情報を教えてもらいます。これで火星エンジンでは避けて通れない振動問題をクリアです。
ちなみに史実では、日本の量産エンジンでダイナミックダンパーを備えたのは中島の誉エンジンだけでした。三菱も自社で独自形式のダンパーを試行錯誤した様ですが結局実装されていません。P&W社もパック式では効果が小さくてR-2800の中後期型では別のタイプになっています。
これでまた一歩、大馬力エンジン達成のゴールに近づきましたが、まだ大きな課題が残っています。すべり軸受の問題です(地味……)。
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