第四話 欧米視察
■1937年(昭和十二年)1月 横須賀沖 浅間丸
「晴れの船出にぃ横須賀沖でぇ~♪ A8cの音がするぅ~♪」
サンフランシスコに向かう浅間丸の甲板から横須賀港を眺めながら、深尾は呑気に都々逸を歌った。
ちょうど今頃、横須賀の海軍航空廠ではA8c(後の金星40型エンジン)が試験の真っ最中のはずである。その結果を知ることなく深尾は米国に向かう船の上に居た。
もちろん深尾の心中は都々逸のように気楽なものではない。気掛かりなのはA8cだけではない。先日開発着手を指示したA10(後の火星エンジン)も気になる。
本心ではこんな大事な時に日本を離れるのは気が進まなかった。だが彼がそういう羽目になったのは、ほとんど身から出た錆だった。
「しばらく海外でほとぼりを冷ましてきたまえ」
昨年末、深尾は所長の後藤直太に突然呼び出され、そう告げられた。
「やっぱり不味い状況ですか?」
深尾には理由を聞かずとも思い当たる節があった。
「不味いなんてもんじゃない。君は勝手にやり過ぎた。今の陸軍相手じゃ殺されても文句も言えんぞ」
「確かに、ちょっとばかり蔑ろにしすぎましたね……」
「ちょっとどころじゃないだろう……」
あまり反省が見えない深尾の様子に後藤は大きなため息をついた。
現在、エンジン開発において三菱と陸軍の仲は険悪となっている。特にその中心人物である深尾に対する風当たりが強い。
事の発端は社内呼称A7と呼ばれる陸軍向けのエンジンだった。同時期、三菱は海軍からも似たような仕様のエンジン開発を受けていた。こちらの社内呼称はA6である。
発動機部門に来たばかりの深尾は、その徹底した合理主義から二つの計画を一つにしてしまった。その結果A6とA7はほぼ同じエンジンとして完成した。
A6の方は震天として海軍に無事採用されたが、陸軍にとっては海軍の「ついでに」自分たちのエンジンを開発したように見えたのだろう。これで心証を害したのかA7はハ6として採用されはしたものの、結局量産される事はなかった。
とどめとなったのが今回のA8c(金星40型)だった。これは陸海軍の要求とは関係ない三菱の自主開発エンジンである。優秀なエンジンであるため三菱は陸海両軍に採用してもらう心づもりであった。だが陸軍には無視された。
なぜならA8は以前に海軍向けとして開発したA4(金星1/2型)と同じボアxストロークであり、さらに勝手に三菱が金星と名付けたため、ハ6と同様にまた陸軍向けを海軍向けの「ついで」に開発したと取られたのである。
更に深尾が打ち出した空冷エンジン集中の方針により、陸軍向け液冷エンジンB3/B4の開発も停滞しており、これも三菱が陸軍を無視していると見られた。
昨年末の二・二六事件のように昨今は軍部の力が日に日に増している時期である。このままでは本当に過激な連中に深尾が狙われる恐れがあった。
「渡航理由は新しい発動機工場建設のための調査ということにしておくよ」
後藤が、もうこれ以上面倒は起こしてくれるなという表情で言った。
「分かりました。確かにあの古い工場は一新する必要がありますから丁度良いです。ついでに技術調査と機械の買い付けもしてきましょう」
いくら志が高かろうと命あっての物種である。深尾は後藤の心遣いに素直に感謝すると、まるで逃げる様に慌ただしく日本を発ったのであった。
■1937年(昭和十二年)2月 ニューヨーク航空博覧会
サンフランシスコに着いた深尾が最初に向かったのはニューヨークだった。今ちょうどそこでは航空博覧会が開催されていた。最新の技術動向を調べたり商談をするには打って付けの機会である。
深尾は早速、三菱と関係の深いP&W社のテントを訪れた。そこで深尾はライセンス契約の時に世話になったウォードと再会した。
「やあミスター深尾、3年ぶりですね。元気そうでなによりです」
「ミスターウォードもお変わり無い様で安心しました」
「いやいや、こちらは相変わらず大変ですよ。だから今回も色々と契約してもらえると助かります」
二人はしっかり握手を交わす。現在、P&W社は製造部門をユナイテッド・エアクラフト社(UA社)として独立させ、そこで製造したエンジンを販売している。ウォードも今はUA社に移っていた。
まだこの時点では日米関係はそれほど険悪とはなっておらず、ライセンス契約と技術支援で交流の深いP&Wとの関係も良好なままだった。
だがP&Wをはじめ航空関係各社の業績は相変わらず悪く、P&W社も以前に深尾が訪問した時から3000人ほどの労働者を辞めさせていた。
旧交を深めた深尾は早速本来の目的をこなしていく。
P&W社はこの会場にR-1830ツインワスプエンジンを展示していた。3年前に深尾がR-1690/R-1860のライセンス契約を結んだ時にも既にあったエンジンである。だが当時最新であったこのエンジンは政府から輸出許可が下りていなかった。
◇P&W R-1830 ツインワスプエンジン
形式:複列14気筒 星型エンジン
ボアxストローク:139.7mmx139.7mm
排気量:29.98L
「興味がおありですか?今年ようやく政府から輸出許可が下りたんです。今ならお売りできますよ。もちろん前回みたいなライセンス契約でも構いません」
ツインワスプエンジンを興味深げに見ている深尾にウォードが早速売り込んでくる。
「そうですね。今日の所はとりあえず3台ほど購入しましょうか。ライセンス契約については現物を見て考えます」
「ありがとうございます。ライセンス契約の方もぜひ検討してください」
深尾は手早く購入契約を済ませると、ウォードに別の相談をもちかけた。
「ところでミスターウォード、あなたを見込んで折り入って相談があるのですが……」
「ほう。ミスター深尾の願いなら大体の事は相談にのれますよ」
「実は我が社では新しいエンジン工場の建設を計画しています。それで御社の工場を見学させてもらえないでしょうか?できればその設計会社も紹介して頂けると助かります」
「なるほど。時期はいつ頃をご希望で?」
「この後すぐに欧州に行きますので見学はその後……おそらく2ヵ月後くらいになるかと思います。それと新工場に据え付ける工作機械の購入もご助力願いたい」
「分かりました。見学と設計会社については社内で検討してみましょう。工作機械については我が社の本業ですから大丈夫です。お任せください」
この後、深尾はすぐに渡欧してイギリス・フランス・イタリア・ドイツを歴訪した。
だが残念ながら欧州での情報収集は思うようにいかなかった。特にドイツは非常に冷淡で、ダイムラー・BMWともに見学どころか面会すらままならない。
工作機械の購入も成果がなかった。
欧州には中島や愛知などのライバル会社に加え、陸海軍の人間も入り込み既に色々と買い付けを行っていた。深尾も三菱商事のバックアップを受けて動いたものの、有力な買い付け先はすでに粗方に押さえられてしまった後だった。
仕方なく深尾は最新の論文を収集をしながら、再渡米とP&W社再訪問の時を待ち望んだ。
深尾が欧米視察となった時期と理由は史実と変わっていません。しかし三菱とP&W社の関係がずっと深くなっているため、史実では上手くいかなかった工作機械の調達がP&W社の伝手で何とかなります。
A8c(金星40型)の制式化時期も変わりませんが、この世界ではキャブレターでなく筒内噴射式となっています。といっても効果は史実より出力5%増し、燃費5%良化といった所でしょうか。
これで筒内燃料噴射という新技術のアクだしと経験を大戦前に十分積むことができます。
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