表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

20/20

おまけ2 川西震電ものがたり

紫電改や烈風の話をするなら、やっぱり震電の話も必要でしょう。


試作機の分際で数多の架空戦記に出演するだけでなく、量産機を差し置いて1/700から1/20まで様々なスケールキットが発売されているという優遇ぶり。


最近でも怪獣架空戦記と名高いマイゴジに出演し、大刀洗平和記念館に展示されるほどの人気っぷりですね。


というわけで、この世界ではその震電がどうなったのかを少しだけ、ほんの少しだけお話しします。

■震電の開発


 空技廠の鶴野正敬技術大尉は、ずっと前から革新的な性能をもつ戦闘機として、先尾翼で推進式の機体を研究していた。


 彼はその開発構想を航空本部や軍令部に度々訴えたが、なかなか研究を認めてもらえない。その理由は、おり悪く川西航空機がそれなりに性能の良い『紫電』を開発してしまったためだった。


 実際、紫電であればF6FやF4Uだけでなく、今後現れるであろう敵の新型機にも当面は対抗可能と見られていたため、当時の日本海軍にはニーズが無かったのである。


 それでも挫けず訴え続けた鶴野大尉の熱意が届き、ようやく十八試局地戦闘機として開発が認められる運びとなった。


 しかしその後、川西が今度は『紫電改』という化け物を開発したことから、危うく鶴野大尉の計画はお蔵入りになりかける。なぜやつら(川西)は自分の邪魔ばかりするのか。鶴野大尉は心の底から川西航空機を呪った。


 幸い米国が開発中のB-29やB-32といった新型爆撃機の情報も流れてきていたことから鶴野大尉の計画はなんとか中止を免れた。


 ただし既に化け物のような紫電改が存在していたので、その性能目標は引き上げられている。鶴野大尉は挫けずにグライダーで空力特性を十分に確認した上で、本格的な戦闘機の開発に移った。


 敵である紫電改を超える性能を出すため(彼の中では、いつのまにか敵が米国から川西航空機になっている)、当然ながらエンジンは巨大な土星が選ばれた。




 だが皮肉な事に機体の設計と製造は、(鶴野大尉の)敵である川西航空機が選定されてしまった。紫電改の開発も終えて土星エンジンにも慣れているという事が理由であった。


 お上の命令は絶対である。鶴野大尉は不満を抱きながらも仕方なく川西航空機に出向した。


 そこで彼は、敵ながら優秀と信じていた川西航空機の技術者達の、堕落しきった真の姿を目の当たりにすることとなる。


 人間、こんなこと知らなければ良かったと思う事が往々にしてあるものだが、今回の件もまさにそれだった。


「エンジンを後ろに?なら紫電改の胴体を逆にすればいいんじゃね?」(鼻ほじ)


 いや、違う違う、そうじゃない。


 鶴野大尉の心の叫びも虚しく、川西の技術者は紫電改のエンジン架から前の部分をそのまま流用してしまった。


 当然ながらプロペラは紫電改と同様に二重反転のまま、排気管も男らしく剥き出しのままで外に突き出している。


 紫電改と違うのは排気管の向きが逆なのと、脱出時にプロペラ軸を爆発ボルトで脱落させることが可能になっている事くらいだった。


 その手抜きっぷりは、プロペラの捩りを逆にするのが面倒なので土星エンジンの方を逆回転にするくらい徹底されている。ついでに言えば、操縦席周辺も紫電改そのままだった。


「は、発動機をそんな後ろにおくと重心位置が……延長軸をつけた方が良いのでは……」


 一応は専門家である鶴野大尉は、重量物であるエンジンを主翼上の重心近くにおいて延長軸でプロペラを回そうと提案した。だがやっぱり川西の技術者に無視された。


「延長軸なんてめんどくさくね?」(鼻ほじ)


 というわけで土星エンジンは主翼後端にそのまま設置された。


 まあこれで余計な振動問題も回避できたし、重量変化のある燃料タンクを重心に置けたので、川西の意見も一応は理にかなっていた


 しかし機尾に重い土星エンジンを置いたおかげで、重心が大きく後ろにずれてしまっている。このバランスをとるため機首が異常に長くなる結果となった。


 しかも胴体を土星エンジンの直径にあわせて設計したため機体の全長は12メートルを超え、日本最大の戦闘機となってしまった。


 とりあえずこれで紫電改を超えるという鶴野大尉の願いは達成されたのかもしれない(全長だけは)。




■震電の武装


 震電の長大な機首には30ミリ機銃が4門搭載されている。


 当初は十七試局地戦闘機と同じ30ミリ2門、20ミリ2門の予定だったが、2種類の機銃架を設計するのが面倒な川西の技術者は勝手に30ミリ4門にしてしまった。


「だって場所空いてるし。重心バランスも取れるから丁度よいっしょ?」(鼻ほじ)


 態度は悪いが、悔しいことに理にかなってるのが腹が立つ。太く長い機首のおかげで機銃と前脚格納庫が干渉することも無かった。


 鶴野大尉はその機銃を機首上面に設置しようと提案したが、これもまた川西に否定された。


「なんつーか、発射炎と煙で前が見えなくなるんじゃね?」(鼻ほじ)


 態度は非常に悪いが、言っている事は意外にまともである。こうして機銃は機首下面に設置される事になった。これは後に弾薬の補充や整備性の向上にも貢献することとなる。


 だが鶴野大尉にはもう一つ懸念があった。今回は30ミリ機銃が後方のプロペラ圏内に設置される。排莢された薬莢がプロペラを破損させることを恐れたのだ。


 このため鶴野大尉は薬莢を機外に排出せず発射後も機内に回収することを提案した。だがこれもやっぱり川西に否定された。


「マ?薬莢回収すんの?無しよりの無しっしょ」(鼻ほじ)


 相変わらずの態度だが一応は理由もある。機首が長くなったためプロペラがその分遠くなり薬莢が当たる恐れが低くなった上に、プロペラも鋼製のため薬莢が当たっても(多分)ダイジョブという判断である。


 また、実は鶴野大尉も川西の技術者も気づいていなかった事だが、機首を延長し機銃を下に配置した事はもう一つ大きな効果を生んでいた。


 機銃の発射ガスによるエンジンストールの回避である。


 30ミリ機銃4門を斉射した場合、当然ながら大量の不燃性ガスが放出される。これがエンジンの吸気口に入るとエンジンが停止する恐れが有った。事実、他国の機体でもそのような事例が報告されている。


 だが機銃を機体下面に配したことでその危険性はなくなっていた。土星エンジンの吸気口は機体上面の操縦席後方にあるのに対し、発射ガスは基本的に機体下面に沿って流れていくためである。




 ちなみに爆装する場合は、速度や高度を犠牲にすれば500キロ爆弾を2発、または800キロ爆弾1発を胴体下に搭載可能であった。


 高高度迎撃を目的とした十七試局地戦闘機の要求仕様は60キロ爆弾2発となっている。本来なら震電も同じ要求仕様のはずだったが……


「紫電改がいけるから、こっちもいけんじゃね?」


 というノリだけで搭載可能となっている。30ミリ機銃4門もあることから、震電は迎撃機のはずなのに無駄に対地攻撃力が異常に高い機体となってしまった。




■制式化と量産


 とにかくこうして機体の開発は順調に進み、1944年(昭和十九年)末には無事に『J7K1 震電』として制式化され、1945年(昭和二十年)8月より量産が開始された


 しかし残念なことに、量産開始直後に日本は連合国と停戦となったため、震電の生産はわずか10機で終了してしまった。当然ながら実戦参加どころか部隊配備もされていない。


 一説には高速試験中の試作機が九州に飛来した米軍機と交戦し、垂直降下時に音速を突破し直後に空中分解したとの噂もあるが、公式な記録は何もなく与太話の域を出ていない。


 だが当時、「どーん」という衝撃音を聞いたという証言が多数残されているのは事実らしい。




 戦後になるとレシプロ機としては使い勝手の良い紫電改が多く使われ、新型機はジェット機の開発が優先されたため震電の生産が再開される事は無かった。


 ジェット化の案も有るには有ったが立ち消えとなっている。川西が土星エンジンを機尾に置いた事が仇となり、全長の長い軸流式ジェットエンジンのレイアウトが難しくなったことが理由だった。


 現在では量産機の1機が兵庫にある新明和工業(旧川西航空機)のミュージアムに、もう1機が靖國神社の遊就館に展示されており、その流麗な姿を見ることが出来る。




■ソ連での活躍


 このように生まれ故郷の日本では、その高性能にもかかわらず活躍の場が無かった震電であったが、意外なことにソ連で活躍の場を得ることとなる。


 ソ連の仲介でなんとか停戦にこぎ着けた日本は、その恩に報いるため領土の割譲のほかに多くの兵器をソ連に譲渡している。その中に土星エンジンとともに制式化されたばかりの震電も含まれていた。


 当時ソ連はドイツから入手した技術を元にジェット戦闘機の開発を始めていたが、震電はレシプロにもかかわらずそのどれよりも高性能だった。


 このためスターリンはB-29の時と同様にコピー生産を命じた(実際は日ソ関係を考慮して、きちんとライセンス契約を結んでいる)。


 震電の生産はミコヤン・グレヴィッチ設計局に命じられ、1946年に『Mig-8 ウートカ(鴨)』として制式化された。


 ちなみに実は『Mig-8 ウートカ』という開発コードと名前は、本来は先に開発中だった先尾翼機のものであった。だが哀れなことにそちらは『無かった事』にされてしまったという。


 アジア人が開発した高性能な先尾翼機の完成形が目の前にあるのに、今更しょぼい機体などソ連の面子にかけて表に出す訳には絶対いかなかったらしい。


  こうして日本では戦後すぐに現役を退いた震電であったが、ソ連においてはMig-8として意外と長く使われることとなる。Mig-8はその高速と強力な機銃そして大きな爆弾搭載量でもって主に戦闘爆撃機として使われた。

挿絵(By みてみん)



 そして後に、トチ狂ったイギリス労働党がソ連にロールスロイス・ニーン遠心式ジェットエンジンを渡してしまったことで、ソ連はこれをコピーしたVK-1ジェットエンジンを搭載した機体を開発する。


 この太く短い遠心式ジェットエンジンは、同じく太い土星エンジンを搭載する震電のジェット化にうってつけだった。


 ジェット化された機体はMig-8bisと名付けられた。速度こそMig-15に劣るものの大きな爆弾搭載量と航続距離をもつため、引き続き戦闘爆撃機として使われることとなる。


 この機体は1950年(昭和二五年)に勃発した満州紛争で実戦にも参加している。


 米国の支援する中華民国が北満州との国境付近で紛争を起こした際に、Mig-8bisは本来の対地攻撃で活躍しただけでなく、当時最新だったF-86戦闘機を撃墜した例すらあるという。




 さらに後年、Mig-8bisの機首のスペースを利用して、いち早くソ連でレーダーを搭載した戦闘機も開発されている。


 試験機の性格が強かったため少数しか生産されなかったものの、Mig-8Pと名付けられたこの機体はMig-17Pが就役するまでソ連唯一の全天候型戦闘機として運用されたという。




 こうした事から世界では『震電はソ連の戦闘機』というイメージが非常に強くなってしまった。だから日本を訪れた外国人が日本で震電をみて驚くことも多いという。


 ちなみに欧米では、Mig-8という若い開発コードや停戦前後の日ソの動きから、日本はソ連と戦前からズブズブの関係で、両国は米英独伊をずっと欺いていたという噂が信じられている。


 そして震電の開発者である鶴野大尉は完全に『赤』認定されてしまっていた。確かに何度かソ連に招かれた事はあるが、当然ながらそんな属性は全くない。本人にとっては誠に不本意なことであろう。

以上で、『戦神の星・武神の翼 ~ もしも日本に2000馬力エンジンが最初からあったなら』は完結となります。


最後までお付き合い頂き本当にありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
落とし所がもう最高でしたwww
[良い点] 完結おめでとうございます! 今作では川西さんに、時には手を抜くことも大切さなのだと学ばせて頂きました(笑) [一言] 凄い…!この回だけで五回も鼻ほじってる!(違う) そのまま鼻血出せば…
[良い点] なまじバランスの整った機体になってるので鶴野大尉も頭と胃が痛いところw これを堕落と見るか、無駄を切り捨てた英断と見るか。 スペック通りだとB29どころかB36すら相手に出来るから。 (…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ