第89話 火凛のトラウマ(水音視点)
やまない雨はない、との言葉がある。辛い事も耐え忍んでいればいつかは晴れがやってくると。……この言葉は様々なツッコミ方をされている。そもそもその雨今が辛いんだとか、いつ晴れるのか分からない事が分からない、など。
だが、俺はこう思った。
晴れた所でまたいつ雨が降ってくるのか分からないだろう、と。
そして……雨は、雨の恐ろしさを忘れた頃に降り始めてくる。雷を伴い、風を強めながら。
「本当に久しぶりじゃない? 水音君。元気してた?」
長い艶やかな黒髪に、優しげな瞳。……その端正な顔立ちからはとある人物が想起される。
火凛の面影がある。
……火凛を産んだ人なのだから当たり前と言われれば当たり前なのだが。
「…………ええ、お久しぶりです。瑠璃さん」
どうにか声を絞り出すと、瑠璃さんはニコリと笑った。
見覚えのあるような、しかし確実に何かが違う笑みに思わず拳を握る。
「火凛は居るかしら? ちょっと用事があって来て欲しいんだけど」
「…………どんな用事ですか?」
火凛を裏切った癖に何をのうのうと顔を出しているんだ、と言いそうになったがギリギリで留まる。
瑠璃さんはニコリと笑みを崩さないまま続けた。
「水音君には関係ない事でしょ? 早く火凛を呼んでくれないかしら?」
ガラッとその雰囲気が変わった。目は鋭く細められ、イライラしているようにパタパタと足で地面を叩きながら。
昔はこんな顔をする人じゃなかったはずだ。いつも笑顔で火凛を抱きしめ、美味しいご飯を作り、今日起きた事を火凛へ聞く。
そんな、理想の家族を体現していたのに。
「……すみませんが、俺ももう火凛の家族みたいなものですから」
瑠璃さんの言葉にそう返すと、面白くなさそうな顔をした。
「あら? 私はあの子の母親ですけど?」
「今はもう違いますよね。親権は火凛のお父さん……拓斗さんが持っているはずです。戸籍上は他人、と言うのなら俺と同じでは?」
ダメだ。自分で言っていて思うが冷静では無い。怒りが前面に出てしまっている。
俺は外へ出て、扉を閉めた。中をこれ以上見せないように。火凛が不意に出会ったりしないように。
「生意気な子ね……昔はそんな子じゃ無かったんだけど」
「変わった、と言うのなら瑠璃さんもですね」
言葉の応酬。らしくないと自分で思いながらも言葉は止められない。
「そもそも、本当に火凛に何の用なんですか。……その男まで連れて」
ニヤニヤとしながら俺をじっと見てくる男……たしか、桐島と言ったか。こんな男、敬称を付ける価値もない。
「いやいや、なに? 俺達さ、ちょーっと火凛ちゃんに用事があるんだよね。三十分で良いから貸してくんね?」
その言葉は俺の心へ確かなストレスを与えた。手のひらが痛くなるほど強く握りしめる。
「……ますます火凛を行かせたく無くなりましたね」
「あ? なに、高校生風情がイキッちゃってさ」
「ほらもうカズ君。そう怒らないのって」
瑠璃さんが猫なで声を出しながら桐島を諌めようとした。
ゾワリと鳥肌が立った。もちろん悪い意味で。
こんな姿絶対に火凛には見せられない。見せたくない。
「……用件が言えないなら帰ってください。拓斗さんに言いますよ」
親権はこちらにあるから不利なはずだ。この忠告で帰ってくれれば良いが……と、そう思っていたのだが。
瑠璃さんは嫌な笑い方をした。火凛が絶対にしないような悪どい笑みを。
「あの人今出張でしょ? しかも九州に」
「……デマを掴まされてますよ」
「ふふ。残念、これはカマかけじゃなくてちゃんと知ってた事なの。あの人のスマホにはGPSを仕掛けてたから」
「なっ……」
想像していなかった瑠璃さんの発言に思わず驚く。
「カズ君が言った通りにGPS入れておいたままで良かったぁ。ねー? カズ君」
「おうよ。オレの言う通りにすりゃ楽になるって言ったっしょ?」
二人の言葉に一抹の疑問を覚えた。
「……入れておいた?」
そう言葉が漏れれば、瑠璃さんはニンマリとした笑顔をうかべた。
「ええ! あの人ったら、火凛が生まれてから仕事人間になっちゃって。てっきり浮気でもしてるんじゃないかって疑ったのよ」
握った拳に更に力が入る。毎日爪を切っておいて良かった。そうで無ければ血が出ていただろう。
火凛のお父さんが浮気? する訳ないだろ。火凛が悲しむような事を彼がするはずがない。あれだけ火凛の事を大切に思っているんだぞ。
そもそも、裏切ったのはあんただろうが。
そんな俺の胸中を知ってか知らずか、桐島は瑠璃さんの腰を抱いた。
「まったく……ひでぇ話だよな? こんなにイイ女をほっとくなんてな?」
「えぇ、もう……カズ君ったら」
イライラが頂点まで溜まり、頭痛すら覚える。ため息を吐きそうになったが抑えて続ける。
この感情は霧散させたくなかったから。
「……とにかく、俺は二人に火凛を会わせる気は無いです。帰ってください。そして二度とここへ来ないでください」
二人へ向かってそう言うと……瑠璃さんが焦った様子を見せ始めた。
「ま、まあまあ。三十分。本当に三十分だけで良いのよ?」
その慌て方を少し疑問に思いながら……俺は首を振った。
「断ります。お帰りください」
そう言えば、桐島が一つ舌打ちをして一歩前へ出てきた。
そして、前触れもなくいきなり拳を突き上げてきた。
「ッ……」
どうにかそれを避ける。警戒していて良かった。
……だが、背中が扉にぶつかった。
「これ避けんのか……よ!」
そのまま桐島は追撃をしてくる。
――だめだ、避けられない。横に跳べば避けられるが、そうすれば扉を開けられてしまうかもしれない。
ならば――受け止めるまでだ。
パァン、と拳が手のひらにぶつかる音がする。手のひらがビリビリと痺れる。
……喧嘩慣れしてる、とかそのレベルを越してるな。この男について詳しく知っている訳では無いが……ボクシングでもしていたのか?
まあいい。一度掴めればこちらのものだ。
「チッ……離せっ! ゴリラ野郎!」
「離す訳無いだろ」
俺の握力は学年でもトップだ。……確か、三桁近くあったはずだ。細かい数字は覚えていないが。
「チッ」
桐島は躊躇うこと無く蹴ろうとしてきた。が、軸足がぶれていて力が入っていない。
俺はその脚も掴むと……男はバランスを崩した。頭をぶつけないように俺はうつ伏せに引き倒す。
……運悪く殺してしまうのはな。正直後頭部を思い切り打ち付けてやりたいが、捕まる訳にはいかない。
「このまま警察に引き渡してやろうか」
「カズ君ッ!」
わざとらしく俺は言う。瑠璃さんが悲鳴じみた声を上げた。
「今すぐ目の前から消えるのなら離してやるが」
「……チッ……ああ、わあったよ。降参です、降参。はー、つまんな」
先程までの態度と一転して脱力する桐島を見て、俺は警戒しながらも少しずつ拘束を解く。
桐島が立ち上がると……それに瑠璃さんが抱きついた。
「カズ君、大丈夫? 怪我は無い?」
「こんなんで動けなくなるほど衰えちゃいねえって……それじゃ、今は一旦帰るぞ、瑠璃」
桐島が俺の顔を嫌味ったらしく見ながら瑠璃さんの頭を撫でた。
すると、瑠璃さんは非常に見覚えのある顔をした。今日も……昨日もよく見た顔だ。
目がとろんとして、頬は赤く上気している。明らかに『発情』している顔だ。
……こんな所が火凛が母親に似たとは思いたくないな。というか、これは火凛にも火凛のお父さんにも絶対見せられない。
なんだろう。酷く気分が悪かった。
「さっさと帰ってください」
「チッ……生意気なクソガキめ」
桐島は俺を睨みつけながら瑠璃さんと共に去っていく。
とりあえず一安心だとほっと一息ついた時だ、
桐島が最後にこちらを見て口を開いた。
「ぜっってぇに逃がさねえからな!」
大声で、そう言った。
「……まずい!」
俺は振り返り、扉を開いた。
「……どこだ、上か?」
パッと見て火凛は見つからない。上へ上がろうかと思ったその時だ。
「……ひぐっ」
泣き声が耳を貫いた。俺はもう一度キッチンを見た。
キッチンの隅で隠れるように、火凛が蹲って震えていたのだった。
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