第86話 成長
穏やかな朝だった。
「兄さん、起きて。朝だよ。遅刻しちゃうよー」
幼い頃の記憶は無いが、揺りかごに揺すられるように。ゆっくりと瞼が開かれる。
滲んだ視界でも分かる。一人の美少女が映っていた。
「……ぅあ、水美、か?」
「そうだよ。兄さんと姉さんの水美だよ」
ぼやけた視界をクリアにするため、瞼を何度か擦る。すると、水美の顔がハッキリと映った。
「おはよう、兄さん」
「ああ。おはよう、水美」
水美がにへりと笑い、両手を広げてきたのでハグをする。
「えへへ……ぎゅー!」
水美が何度か強く抱きしめ……そして、離れる。
「それじゃ、行こっか! 兄さん!」
水美はぴょんとベッドから飛び降り、手を差し伸べてきたのだった。
◆◆◆
ピンポン、と軽快なチャイムの音が鳴る。俺は最後に荷物の点検をし、扉を開いた。
「おはよ、水音」
そこには火凛が立っていて……やけに懐かしい光景に思えた。
ああ、そうだ。中学の頃はこうして毎朝迎えに来て貰ってたんだったか。
……最近は家に帰った時も俺が火凛の家へ向かってから学校へと向かっていたし。
思考はここでストップさせ、火凛を見る。
「おはよう、火凛」
手を伸ばせば、火凛が頭を差し出してきた。髪が崩れないよう優しく頭を撫で……
その柔らかな頬を触ってみた。火凛は嬉しそうに目を閉じ、俺の手へ顔を預けてきた。
柔らかな頬を撫ぜ、手を滑らせて顎をくすぐる。
「んっ」
少しくすぐったそうに。しかし、嬉しそうに火凛は頬を赤らめた。
そのままもう片方の手で耳を――
「見送りに来ようと思ったんだけど、朝からお熱いね。二人とも」
母さんに声をかけられ、その手を下ろした。顎をくすぐっていた手も止めると、火凛は背筋を正す。
「おはようございます」
「おはよう、火凛ちゃん」
火凛は母さんへ挨拶をし……首を傾げた。
「そういえば、水美は?」
「朝練があるって俺を起こしてすぐに行ったぞ。火凛によろしく伝えておいてくれとも言われた」
少し寂しそうにしていたのだが、朝練をサボりすぎるのは良くないから、との事だ。
「そっか。じゃあまた今度だね」
火凛もまた少し寂しそうにしている。その手を握れば、きゅっと握り返される。
「あんた達、またイチャイチャして……ま、仲が悪いよりは良いんだけどさ」
母さんにそう言われて苦笑いをする。
「そうそう。後さ、火凛のお父さんがしばらく忙しいから向こうですぐには連絡は取れないって聞いた?」
「……俺は初耳だが」
「あ、そういえばさっきお父さんに言われました」
どうやら火凛は言われたらしい。母さんが頷き、口を開く。
「もう慣れてはいるはずだけど、何かあったら頼りなさいよ。水音も火凛ちゃんも、私の……私達の家族なんだからね」
火凛は……母さんの言葉に微笑んだ。とても嬉しそうに。
「はい♪」
◆◆◆
その後、奏音と合流して登校していた……のだが。
「はわ……朝から仲良しさんです……」
「ねえ、いつまで隠れてるの?」
ストーカーされている。輝夜達に。火凛達も気づいているようだが、何も言ってこない。というか俺が振り返ろうとすれば、火凛が横から抱きついてきて止められた。
「優しさは時に成長を止めるよ。たまには見守ってあげないと……ね?」
とは奏音の言葉だ。その言葉に俺は納得し……考えた。
俺は今まで、どれくらい火凛の成長を止めてきたのだろうか、と。
思わず自省していると、奏音が笑った。
「今までの火凛には水音が必要だったし、これからもそう。必要な優しさだよ」
「だが……」
「その分私が厳しくしてるから。釣り合いは取れてるんだよ」
奏音がそう言えば、火凛は笑った。
「厳しさ、って言っても全然そんなこと無かったけどね……全部、私を思っての事だって分かったから。……それと、水音のためでもあったもんね?」
「俺の……?」
その言葉を疑問に思っていると奏音が苦笑いをした。
「……あの時はまだ水音に会う前っしょ? それに、あれは活を入れるためっていうかなんというか……」
奏音は珍しく言葉を濁す。……まあ、火凛達から話を聞き出す訳にもいかないだろう。
と、その時だ。
「あ、あの!」
後ろから声をかけられた。火凛と奏音が微笑み合い……振り向いた。
「ず、ずっとおいかけててごめんなさい! え、えっと……」
輝夜の言葉をじっと待つ。怖がらせないよう微笑みながら。
「わ、私、ずっと水音さんと、火凛ちゃんと、奏音ちゃんとも学校に行きたいって思ってて……その!」
輝夜がじっと俺を、火凛を……そして奏音を見た。
「だから! き、今日から一緒に学校に行ってもいいですか!」
奏音と火凛が俺を見た。俺に答えて欲しいのだろう。
だから、俺は一歩前へ進んだ。
「ああ、もちろんだ」
輝夜の表情が変わっていく。……喜色満面の笑みとでも表現すれば良いのだろうか。
輝夜は嬉しさのあまり隣に居た来栖へ抱きついた。
「ふふ。よく頑張ったよ、輝夜」
来栖が抱きついてきた輝夜の頭を撫でた。そして、そのまま来栖は俺達を見た。
「ごめんね。声かけようって思ってたんだけどさ。タイミング逃してて」
「その辺のストーカーならともかく、輝夜なら全然大丈夫よ」
奏音がニカッと笑い、火凛が柔らかく微笑む。
「ふふ。でも嬉しいな。輝夜ちゃんとも学校行けるなんて」
「……! 私も火凛ちゃんと学校行くの楽しみです!」
また朝から賑やかになりそうだ。中学の頃とは比べ物にならないぐらい。
だが、俺はそれを楽しみに思ってしまっていた。
◆◆◆
「それではスキットの本番を始めます。……と言いたい所ですが。五分だけ練習時間をあげます」
英語の授業が始まり、先生がそう告げた。安堵する声ともっと時間が欲しいとねだる生徒に分かれるのだが、当然先生は時間を変えることなどしない。
「あと、順番は挙手制でも良いかしら? 先生、皆が積極的に手を挙げてくれるのを待ってるわね」
……今日だけでは終わらなさそうだな。これ、
「あ、でも先生最初にやって欲しいペアが居るのよね。皆も気になってるんじゃない?」
先生が俺を見た。嫌な予感が冷や汗となって背筋を伝う。
「獅童さん、竜童さん。やって貰えますか?」
名指しで呼ばれる。……拒否出来る空気では無い。火凛を見ると、くすりと笑われた。
「……ええ、良いですよ」
「はい、大丈夫ですよ」
俺と火凛の言葉を聞いて、先生は微笑んだ。
「That's great! それじゃあ皆さん、練習にはいってください!」
先生がそう言うと、皆席を立ち始めた。
「ふふ。トップバッターになっちゃったね。私達」
「ああ。……先生の期待が重い」
期待通りに出来るかどうか分からない。それほど英語が得意と言う訳では無いし……
「水音なら大丈夫だよ。ほら、最終確認しとこ?」
「そう、だな。そうしよう」
うじうじ言っても仕方ない。俺は火凛に言われて大人しく教科書に目を通すのだった。
◆◆◆
発音を間違えず、突っかかる事もなくスキットは無事終えようとしていた。
「Thank you for telling me.」
「you're welcome.」
これで終わりだ。後は前を向いて「Thank you for listening」と言うだけ。
「Wait」
しかし、火凛が止めた。
「……What happened?」
すんなりとそう返せたのは偉いと思う。中学の頃の先生のお陰だ。
火凛は俺の返しにニコリと微笑み……口を開いた。
「Are you free this weekend?」
……急なアドリブだ。だが、そう難しい質問では無い。
……俺自身の答え、という事だよな?
「……Yes. I'm free this weekend」
「Would you like to go on a date this weekend?」
……デート? ……日にちでは無いよな。
今週末にデートに行こうと誘われている?
思わず喉が詰まった。言葉を間違えないよう慎重に返す。
「Sure.」
「……I’m so happy! I'll meet you at 10 o'clock at the station in the neighboring town.」
火凛は嬉しそうにそう言った。
隣町で十時に待ち合わせ、か。
「……OK.」
そう返すと火凛は嬉しそうに微笑んだ。
「I'm looking forward to it.」
ええと……forwardってどういう意味だったか。いや、これ自体が熟語みたいなものだったりするのか?
火凛が俺の目を見てきた。……ああ、そういう意味だったのか。
「Me too. see you tomorrow」
「See you.」
火凛と視線を交わし、前を向く。
「Thank you for listening.」
……さて、俺はちゃんと上手く返せていたのだろうか。というかかなり好き勝手な事をしたが先生が怒ったりしないのだろうか。
ふと怖くなって先生を見ると……ぷるぷると震えていた。
そして、立ち上がり、拍手をした。
「Excellent!! 素晴らしいです! 先生が失っていた青春を具現化したような……とてもキラキラしたものでした! 満点どころか300点ぐらいあげたいぐらいです!」
おお……良いのか。いや、別に会話を組み込むなと言われた訳でも無いし良いのか。
生徒は……というか大体の生徒は自分の事で精一杯で会話を聞いていなかったらしい。一部の男子と女子がザワつき……奏音がニヤニヤと笑っていた。
輝夜がきょとんとしていたが、来栖に耳打ちされてあわあわと興奮しだした。
……あと、響がそれはもうウザったらしい顔で見ていたが放っておこう。
そうして無事、俺と火凛の出番は終わった。
その後、奏音達の出番があったがパートナーの人含め発音も良く暗唱する事が出来ていた。
そして、その次に輝夜と来栖のペアが続く……
キュッと、握られていた手に力が込められた。
「……大丈夫だろう。来栖も付いてるんだからな」
「……ん、そうだね」
……待て。どうして俺達は手を繋いでいるんだ。というかいつから繋がれていた?
後ろから凄い視線を感じる。……ただ、不快なものでは無さそうだ。というか真後ろの女子ぐらいにしか気づかれてないらしい。
……なら良いか。どうせ朝も手を繋いで登校して来たんだ。
そして、輝夜達のスキットが始まるが……
心配は杞憂だったようだ。輝夜は時折目を瞑って思い出す動作を見せながらも丁寧な発音で言っていく。来栖も輝夜が聞き取りやすいようにゆっくり、ハッキリと。しかし発音良く言っている。
「て、Thank you for listening」
輝夜がそう言い切ると、教室からは拍手が起きる。
「よく頑張ったわね、平間さん。とても丁寧な発音でしたよ」
「……! ありがとうございます!」
「来栖さんも。とても聞き取りやすい発音で耳心地が良かったです」
「ありがとうございます」
輝夜と来栖がお互いを見て……そして、俺達を見て微笑んだ。
そうして、無事に英語の発表は終わったのだった。




