第76話 奏音の不安
「……あ、水音。だいじょーぶだった?」
シートの上に奏音が足を伸ばしてくつろいでいた。聞いていたとはいえ、大きな怪我は無さそうで良かった。
……だが、母さん達が居ない。
「とりあえず水で洗い流した。今のところは視界に影響も無いが……母さん達は?」
「そっかそっか。良かった。水音のお母さんは水音のお父さんと火凛のお父さん回収に行ってるよ。輝夜のお母さんはお手洗い。……でもほんとに大丈夫かい? 眼科とか行かなくて」
……なるほどな。母さんが父さんのストッパーになってるか。
俺は未だ心配そうにしてくる奏音へ微笑んだ。
眼は人体の中でも特に繊細な器官だ。細かい傷を放っておけば大事になる。
……それは分かっているが、今日はあと二試合ある。火凛達を残していくのが不安なのも確かだ。
「軽視するつもりは無いが……あと少しだし残るつもりだ。後でちゃんと眼科にも行く。……それと、ありがとうな。助けてくれて。ある程度火凛から話は聞いた」
「や、良いの良いの。……私の責任でもあるし」
「……ん?」
奏音の言葉に首を傾げる。……奏音は俺の顔を、眼を見て拳をぎゅっと握った。
「……私が火凛に『チャンス』って言っちゃったから。まだ時期尚早だったかなって」
……ああ。気にしてたのか。
「確かに、あの男が嫌がらせをしてきたのはそれもあったかも知れない。だが、ああいう輩はいつ言ったとしても反応するもんだ。奏音が気にする必要は無い。というか、何回も言うがいいタイミングだったぞ」
今更周りの嫉妬など一々気にしない。……いや、それは嘘だが。しかし、前より気にしなくなったのは事実だ。
いつか、こんな事も起こるだろうと予想していたしな。
「でも……」
「奏音のせい、だなんて俺も火凛も思っていない。責任なんて感じなくても良い……とは言っても難しいか」
奏音は優しいだけでなく責任感も強い。だからこれほど思い悩んでいるのだろう。
俺としてもあまり奏音にそんな思いはさせたくなかった。
「……ああ、そうだ。それじゃあ今度、奏音の叔父がやっているカフェに連れて行ってくれないか? いきなり話をしに行くよりその方が良いかと思ってな。雰囲気も知っておきたいし」
「……そんなんで良いの?」
「そんなん、と言われても火凛と二人で行くのと奏音が一緒とは全然違うぞ。……人気のようだし、上手いこと出来ないかなとの打算もある」
テレビに紹介されるほど人気なお店なのだ。入るのも相当時間が掛かるだろう。いや、別に掛けても良いのだが。
「……うん。分かった。忙しい時間は厳しいかもしれないけど……あんまり人いない時間に予約ぐらいなら出来るかも」
「ああ、その辺は任せる」
問題はそこではなく、奏音の気分を変えさせる事である。
「だが、一つだけ譲れない事がある」
そう口にすると、奏音は怪訝そうな顔をした。
「その時の食事ぐらいは俺に出させてくれ」
「えっ!? や、でもそれは……」
「俺だって奏音に感謝しているんだ。今日の事もそうだし、今までの事も。これぐらいはやらせてくれ。でないと俺が困る」
「……分かった」
渋々頷く奏音へ笑いかける。
「よし、これでとりあえず今日の事はお互い感謝を示せたと言う事で良いな?」
俺の言葉に奏音は頷き……そして、ため息を吐いた。
「うん……はぁ。もう、水音って本当に……ほんっっっとうに良い人だよね」
奏音からそんな言葉を向けられたので笑っておいた。
「……そんじゃ、これも私が話しておかないといけないかな」
奏音はじっと俺を見た。俺もまっすぐ奏音を見返す。
「もう試合には出ない方が良いよ、水音」
――やはりそうなるよな。
「また危険な目に遭うかもしれないからか?」
「うん。そう。水音が危険な目に遭ったら火凛も、私も、輝夜と春だって悲しむ。もちろん水美ちゃんなんかもね。というか、水美ちゃんが一番ショックを受けるか」
奏音の言いたい事は分かる。俺だって痛いのは嫌だし、不快な視線を向けられたり言葉を浴びせられれば傷つく。それで友人や家族に心配を掛ける事などもしたくは無い。
だが、俺だって引けない。
「俺が居なくなれば、火凛達が不快な目に遭うかもしれない」
今は俺が男子から注目を浴びている。……嫉妬、という悪いものではあるが。
もし俺が居なくなれば……その視線がどうなるのかは想像に難くない。
どさくさに紛れて体に触ろうとする可能性だってある。……特に、火凛と輝夜はとても怖い思いをするだろう。奏音や来栖の事も心配だし、水美も……さすがにそんな事をする輩は居ないと思いたいが、いざとなれば相手を抹殺せねばならない。
「……でも」
「俺ももう危ない橋は渡らないから大丈夫だ。俺の嫌な予感はよく当たるからな。ボールが来れば止めればいいし、砂が飛んでくるなら今度は腕でガード出来る。直接蹴ろうとしてくれば避ける」
反射神経には自信があるし、何か企んでいる輩は目を見れば分かる。
これでも人の気持ちを汲み取るのは得意なのだから。
「水音を生贄にしてるみたいで嫌だな」
「火凛や輝夜の男性不信が加速するよりは良いだろう。万が一傷を負ったとしても、基本的には治る。さすがにここでリンチを仕掛けてくるはずが無いからな」
先生達が遠巻きにではあるが見ているのだ。あからさまな事をすればバレる。
「さっきのみたいに目潰しをしようとしてきたら?」
「父さん達に全力で叱られているのを見たはずだ。……いくら理性の弱い輩でも躊躇うと思う」
俺は父さん達に本気で叱られた事は無い……はずだ。幼い頃の事までは覚えていないが。
ただ、昔……水美が小学生の頃、一度水美に悪質ないじめをする女子がいた。その時は父さんと母さんが相手の家まで赴き……親諸共説教をしてきたらしい。
『水音。人に迷惑を掛けるのはまだ良い。俺やお母さんに掛ける分には大歓迎だ。しかし、悪意は人にぶつけるな。嫉妬で人を傷つけるのが一番やってはいけない事だ。……まあ、水音には可愛い妹も幼馴染も居るから大丈夫だろうが』
と、帰ってきてから俺に言ってきたのを覚えている。
次の日から水美がいじめられる事も無くなったし、誠意の籠った謝罪までされていた。
その女子はかなりの問題児だったらしいが……次の日からは真面目に授業を受けるようになったようだ。水美が一周まわって父さんと母さんに畏怖の視線を向けていた事まで覚えている。
思わず思考の海に浸っていた。奏音に失礼だろう。
「悪い、少し考え事をしていた。とにかく、俺はまだ帰らないぞ」
「……分かった。でも、また水音が危険な目に遭いそうになったら真っ先に私か火凛が向かうからね」
「ああ。そうならないよう努力する」
奏音の脚を一目見れば、脛の上の部分が少し赤くなっていた。
「……もう一回言っておく。ありがとうな」
「はい、どーいたしまして」
もう一度お礼を言えば、奏音はニカッと笑ったのだった。
◆◆◆
「奏音、もう大丈夫なの?」
「だいじょぶだいじょぶ。捻った訳じゃないし」
「良かったです」
「二人とも大丈夫そうなら良かった」
水美達と待っていると、水音と奏音がやって来た。輝夜ちゃんと来栖ちゃんがホッとした顔をする。
……水音がちらちらと奏音がちゃんと歩けてるのか、痛がってないか確認していた。こういう人を気にかける所が好き。
奏音はいつも通りケロッとしている。水音を見ると、微笑まれた。
「本当に大丈夫らしいぞ」
「ん、水音が言うなら」
「ちょ、私どれだけ信用ないのさ」
ムスッとする奏音を見て笑う。
「奏音は人に隠すのが上手だからね」
「む……反論出来ない」
奏音は溜め込むタイプだ。本人も自覚しているけど、治してと言われて治せるものでも無い。性格ごとねじ曲げるような事だからだろう。
……ただ、水音と会ってから奏音も少しずつ変わってる気がする。良い事だ。
じゃない。私も奏音にお礼を言わないと。
「ん。奏音、ありがとね。水音を助けてくれて」
「良いっての。水音も私の大切な友達だし、火凛を悲しませる訳にはいかないからね」
奏音の言葉に微笑む。
「私じゃ間に合わなかったもん。奏音が居なかったら、水音がもっと怪我してたから」
「なら次からはもっと水音の傍居とこう。ほら、周りに見せつけてやれば良いじゃん」
ニヤニヤしながら奏音は言った。一瞬だけそれを想像したが……首を振った。
「……水音が即座に動けなくなるからダメかな」
「や、本気で言ってた訳じゃ……ん? どれぐらい近づく気だったの? もしかして腕でも絡めるつもりだった?」
奏音の言葉に首を傾げてみる。
「あ、『それぐらい普通じゃないの?』って顔してる」
「む……冗談。さすがに良識はある。精々肩を寄せるぐらいだもん」
「や、それ十分イチャイチャしてるから」
奏音の言葉を聞き流しながら水音の隣に着く。すると、反対側に水美が着いた。
「……僕も言い逃してたけど、兄さんを助けてくれてありがとう。奏音ちゃん、姉さん」
「ふふ。水美も綺麗なお水ありがとうね」
「水美ちゃんもすっごい心配してたもんね」
水音が水美ちゃんの頭を撫でた。
「水美もありがとうな」
「えへへ」
嬉しそうに笑う水美を見るとほっこりした気分になる。
「……それじゃ、次の試合の準備するか、水美」
「うん! 僕、次も頑張ってくるね!」
決勝戦は総当り戦だ。三試合あり、うち二試合に出る事になる。どれだけ点数を取れるかで競うみたい。
私達のクラスは一試合目と三試合目に出る事になった。他の二クラスは両方三年生だ。
……でも、負けない気がする。水美と水音が居るから。
一応、次の試合からは水音の傍に居ておこうかな。




