第75話 嫉妬
「……よし、それじゃあやるか」
長く息を吸い、吐く。そして、パンと頬を張る。
二試合目。Aチームは水美が頑張ったお陰で点数は取られなかったが、点数を取ることも出来なかった。Bチームは……何度かお互いシュートはしたものの、全て外れた。
よって、このCチームの試合では失点は許されず……点を取らないといけない。点を取る分には問題ないだろう。……だが、点を取られるかどうかは俺次第だ。
「兄さん頑張れー! 姉さん頑張れー!」
声援を送ってくれる水美へ手を振り返す。火凛も同じように手を振り返していた。
火凛が俺を見てニコリと微笑んだ。……周りからの視線が強くなるが、今は気にしない。
ピーッ
試合が始まる事を告げるホイッスルの音が鳴った。
ボールはこちら側からスタート。学年が低い方からスタートする。ちなみに相手は二年生だ。
響が隣の男子へパスを出す。すると、その男子は一人でどんどん奥へと向かって行った。
「あまり一人で上がりすぎるな! フリーの選手にパスを出せ!」
「うるせー! おまえにばっかいい格好させねえわ!」
……あまり想像したくなかった事が現実になったな。
男子生徒の暴走。だが、想像していなかった訳では無い。
「フリーは五番のカバーに入れ!」
「おうよ!」
何故か四人にマークを付かれている響が返答するが、まあいい。多分響ならどうにでも出来るだろう。彼女も見ているんだし。
「……ふぅ」
これからどうするべきか考え、そして俺は頭を悩ませるのだった。
◆◆◆
「響! かっこいいですよ!」
大勢に囲まれていたはずの、兄さんの友達……苅谷さんがそこから抜け出した。
「……すごい」
さっきまでも活躍していたけど、今はそれとは比べ物にならないほど活躍をしている。
取られたボールを即座に奪い返し、そして前線へ上がっていく。
……だけど、シュートはしない。その事を不思議に思っていると、苅谷さんの彼女さん……久佐さんが丁寧に教えてくれた。
「響はですね。自分が本気を出せば圧勝してしまうと分かっているからああしてサポートに回るんです。皆がサッカーを楽しめるように……相手を出し抜いたり、シュートを決めたりとかですね」
「へぇ……そうなんですか」
そして、それと同時に面白そうな表情をした。
「……でも、不思議です。響は絶対に彼……獅童君の事を見ません。……気にかけないのです。中学時代ですらそんな事は無かったですのに」
その言葉を聞いて嬉しくなる。
「……つまり、苅谷さんはそれだけ兄さんの事を信じてるって事ですよね」
それは兄さんの実力が認められたも同然だ。あれだけ上手い人に認められたのだ。嬉しくなって当然だ。
「……水美ちゃんもとても凄かったです。それこそ、全国の方に行ってもそこそこ活躍出来るぐらいには」
「え、えへへ……ありがとうございます」
かなり凄い(らしい)チームのサッカー部のマネージャーに褒められ、思わず頬が緩む。
そんな僕に質問を投げかけてきた。
「……水美ちゃんから見て、獅童君ってどうなんですか? その、優れている所とか」
「……んー。瞬発力なら僕の方が上だと思います。一瞬の爆発力とかも。……でも、そうですね」
ただ一つ、兄さんが人には絶対に負けない部分がある。
「安心感、ですかね」
「……安心感、ですか?」
オウム返しに尋ねてくる久佐さんへ頷く。
「兄さんが一番凄いのは体力です」
「……ああ、そういえば。響がそんな事を言ってました」
久佐さんの言葉に頷き、言葉を続ける。
「でも、それだけじゃないんです。他の項目も全部トップレベルなんです。……そして、何より凄いのが集中力です。僕はここぞという時にしか集中出来ませんが……兄さんは違います」
そう言えば、久佐さんは興味津々と言った様子でこちらを見てきた。
「一時間……いえ、二時間以上連続で完全に集中を切らしません。そうなった兄さんはミスは絶対にしません。だから安心出来るんです」
これがどれほど凄いことなのか、分からないはずが無い。
人間と言う存在は必ず気が緩む瞬間が来る。それは、断続的に集中するから。
例えば、こっちが点数を決めた時。ボールがフィールドから無くなる瞬間はちょっとした休憩にもなる。……プロは分からないけど、高校生や中学生……特に、スポーツをやっていない人なんかは集中が途切れる事が普通だろう。
だけど、兄さんは違う。常に状況を見極め、どうするべきなのか考える。一人一人の表情を見極め、誰が疲れているのか。誰がやる気があるのか。常に変わり続ける情報を集め、答えを導き出す。
集中した兄さんならそれぐらいやるのだ。……サッカーではない別のスポーツでも、似たような事をしていた。
僕はそんな兄さんに憧れてバスケを始めたのだ。
「……本当にスポーツなどはやってこられてなかったんですか?」
「うーん……多分」
「多分?」
久佐さんの言葉に思わず僕は考え込む。
「集中力とか人をよく見るのは兄さんの昔からの特技だったんですけど……体力とか付き始めたのは本当に去年とか、一昨年とかなんですよね。……えっと、訳あって一緒に住んでない時期があったんですけど、その時ぐらいからなんです。……なにかあったとしてもちょっと聞きづらい事なので」
「へえ……一昨年とかですか」
久佐さんが目を細めて考え始めた時……場は動いた。
◆◆◆
来た。
ボールを持った選手がサイドから上がって来る。中央の選手がフリーだ。火凛は逆サイドの選手からそう遠くない位置にいるから、そこにパスは出さないだろう。輝夜は前線で待機しているし、来栖と奏音は中央に居る。戻って来てこそいるが、間に合わないだろう。
よく見ろ。相手の視線を。表情を。脚の動きを。
……上げてくるな。
俺はセンタリングを上げられた場所に居るフリーの選手を見る。ボレーで決めるつもりか……どこだ…………? どこへ打つ……?
視線は一瞬だけ右へやってる。だが、脚の向きや体の体勢から考えれば左だ……見ろ。体が反応出来るギリギリまで。
……やはり左はブラフか!
ボールが打ち出される直前で俺は右へ跳ぶ。ボールは予想通り俺の体の中心へと飛び込んできた。
かなり無理のある体勢で打たれたボールだ。威力はそこまで強くなく、簡単に受け止める事は出来た。
相手チームは完全に油断しきっている。今がチャンスだ……!
「火凛……! 前だ!」
「ん!」
火凛は俺の合図に頷き、転がって来たボールを思い切り蹴飛ばした。
ボールは来栖が綺麗に受け止めた。
「来栖はそのまま上がれ! 響は逆サイドを抜けろ!」
「了解!」
「おう!」
まさか女生徒が上がってくるとは……と言うと違うが、これまで試合で主張が強い女生徒は少なかった。そのせいか、相手チームは来栖相手にどう動こうか迷っている。
相手チームの女生徒が来栖へ向かうが、それぐらいは避けられるようになっている。オドオドしながら近づいてくる男子もだ。
そして、響は案の定……というか凄いな。ほとんどの男子にマークされているぞ。
だが、そこまで作戦のうちだ。試合時間が残り少ないからこそ相手は周りが見えなくなっている。
来栖は限界まで前へと上がり……
「行くよ……輝夜!」
「は、ひゃい1」
ノーマークの輝夜へとセンタリングを上げた。
「くくっ」
「なっ……」
響が笑い、その周りに居た男子は絶句した。まさか輝夜にボールが渡るとは思っていなかっただろう。
「い、行きます!」
輝夜は癖でそう言ってしまう。相手チームは完全に輝夜を舐めきっている。
輝夜は、落ちてきたボールをタイミング良く蹴り……キーパーの居ない場所へシュートを決めた。
「……やった! やりました!」
「やったね、輝夜!」
輝夜がぴょんぴょんと飛び跳ね、来栖に飛びついた。それを見て俺もホッとする。
「良いシュートだったぞ、輝夜!」
「……! ありがとうございます! 水音さん! ……苅谷さんも!」
輝夜が俺と響へぺこりと頭を下げた。……だが、試合時間はまだ残っている。輝夜は後で存分に労うとしてだ。
向こうのチームはまだ諦めていない。残り時間は三十秒。タイミングが噛み合ってしまえば十分取られかねないし、このボールが外へ出るまで続けるかもしれない。
状況を観察する。当たり前と言えば当たり前だが、皆もう勝ったかのような雰囲気を漂わせている。
ただ、やはりと言うべきだろうか。響も同じように警戒し、誰にマークへ付くか悩んでいるようだった。
そして、響は先程シュートを打ってきた男の居るポジションに重なるように付いた。火凛や奏音もこっそりゴール近くへ戻ってきてくれている。
「……油断はしない。大丈夫だ」
一度だけ瞬きをし、眼の状態を整える。こういった試合では瞬きの反応の遅れで失点する事もある。たかが遊びで、などとは言わない。輝夜だってあれだけ真剣にやっていたのだ。俺が真剣でなくてどうする。
試合再開のホイッスルが鳴る。俺は改めて見渡した。
響がマークへ付いている男は大丈夫だろう。残りは……
十番が厄介そうだな。……こう言ってはなんだが、少し怖い雰囲気がある。嫉妬やドス黒いどろどろした感情の篭った、そんな眼で睨まれる。なるべく火凛は近づけないようにしなければいけない。
火凛を一目見ると、頷かれた。……ちゃんと伝わったよな?
……確認する時間も惜しいな。ボールはパスを駆使されてどんどんこちら側へ運ばれている。
やはり、響の付いた男は満足に動けないらしい。
そんな中、ボールは十番へ渡った。十番の男は一気に駆け抜けてきた。
……付ける味方は居ない。火凛や奏音が近くにいるが、任せたくない。
俺は意を決して前へ踏み出す。相手が焦るように。
男は薄く笑った。ぞわりと悪寒が背筋を走る。
直感的に一歩後ろへ下がる。男は一つ舌打ちをし……
ボールの無い場所を抉るように蹴った。それと同時に視界が砂一面に染まる。
「しまっ……」
ギリギリで目を閉じた。どうにか直撃は免れたが、瞼に痛みが生じる。小石も混ざっていたのだろう。汗にべっとりと張り付いた砂のせいもあり、目を開ける事は出来ない。
「……水音!」
火凛が俺を呼ぶ声が聞こえる。……くそ、どうなっているんだ?
下手に瞼を擦れば大惨事になる事は目に見えている。そんな中、嫌な予感が消えない。
ひゅん、と風を切る音が聞こえる。そんな中、俺は腕を引かれた。
それと同時に、パァンと強くボールが弾かれる音が聞こえた。
「困った時こそ私の出番、ってね」
「そう……ね?」
「そうだよん。今火凛が来るからちょい待っててね」
奏音の声と共にピピッとホイッスルの音が聞こえた。
「水音、大丈夫!?」
「ああ……悪い、火凛。水場まで頼めるか?」
「ん、すぐ連れてく。ちゃんと目瞑っててね」
声と温もりで火凛だと分かった。……と思った次の瞬間、体が浮遊感に包まれた。
「ちょ、火凛!?」
「これの方が早い」
感覚でなんとなく分かった。……お姫様抱っこだ。見えないが、周りから強い視線を感じた。
「……兄さん! お母さんが綺麗なお水持ってたからこれで洗って!」
「……ああ、水美か。助かる」
手に冷たいペットボトルが握らされた。そのまま手洗い場まで運ばれる。
「……ん。下ろすよ。水音」
「ああ。助かる」
砂の少し柔らかい感触ではなく、石の硬い感触が伝わってきた。
水美から受け取ったペットボトルで少しずつ額から瞼まで洗い落とす。
「……どうなってたんだ? 状況がよく掴めていないが」
「…………ん。あの男が水音に砂をかけたあと、ボールを水音の顔に向かって蹴ろうとしてた。そこを奏音が……受け止めて、水音を助けてくれた」
「ちょっと待て! 奏音は大丈夫なのか!?」
「……ん。ちょっと脚が赤くなってたけど、多分大丈夫」
……また奏音に助けられた、か。
「その後、あの男は審判に連れられて……今お父さんと水音のお父さんがすっごい怒ってる」
「……軽く予想はしていたが……大丈夫そうなのか?」
「……………………二人とも今まで見た事ないぐらい怒ってて相手は涙目になってる。水音と奏音にあんな事をしたんだから当たり前だけど」
火凛の冷たい声に思わず苦笑する。
「……でも、火凛に怪我がなくて良かった」
「その言い方はずるい。水音に怪我が無ければもっと良かった」
「悪かったよ」
砂を落としながら火凛へ謝罪する。
「……ちなみに血は出てなさそうだよな?」
「ん。それは大丈夫」
「なら良かった」
砂を落とし切り、瞼を開く。
少しぼやけた視界を何度か瞬かせると、段々視界はクリアになっていった。
そこには心配そうにこちらを見ている火凛の姿があった。
「……本当に心配したんだからね」
「すまなかっ…………いや、ありがとうな。心配してくれて。あと、ここまで運んでくれて。重かったろ」
「ん。乗っかられたりするからその分力は付いた」
火凛が力こぶを作ろうとすると、うっすらと筋肉の筋が張った。……綺麗だ。
「……っと、そうだ。奏音達にもお礼を言わないと……あと、試合は結局どうなったんだ?」
「ん。あっちの反則って事でこっちの勝ち。あとあの男は特別指導っぽい……停学になれば良かったんだけど」
「……そうか」
もう生徒はグラウンドから散り散りになっていた。遠くから輝夜達が駆けてくるのが見えた。
「だ、大丈夫ですか!? 水音さん」
「大丈夫?獅童君」
「兄さん!」
「ああ。血も出ていないし、視力も大丈夫だ」
そう言えば、水美が飛び込んできた。
「……すっごい心配したんだからね!」
「ああ。ありがとうな。水美も助かった」
「ん!」
水美が頭を差し出してきたのでわしゃわしゃと撫でる。
「……奏音は大丈夫そうか?」
「ちょっと赤くなってたけど大丈夫そうだったよ。『精々ボールが強く当たったたけだから〜』って笑ってた」
「そうか。お礼を言いに行かないとな」
そう思って行こうとしたが……ソワソワとしている輝夜を見て大切な事を思い出した。
「輝夜もよく決めたな。かっこよかったぞ」
「はい♪ ありがとうございます♪ 水音さん達のお陰です!」
「俺達は手伝いをしただけだ。一番頑張ったのは輝夜だよ」
そう言えば、輝夜は本当に嬉しそうな表情をした。
「本当に……本当にありがとうございます!」
「ああ。……上手く行けば次も、な?」
「はい!」
……輝夜が嬉しそうで何より、だな。
「来栖もかっこよかったぞ、ボールを受け取ってから前へ上がるまで」
「獅童君と苅谷君が頑張って教えてくれたからだよ。ありがとね」
来栖もニコリと微笑みながらそう言ってくれた。……輝夜の事についてのお礼もありそうだな。
「火凛も、良いパスだったぞ」
「ん。こっそり練習してたから行けた」
火凛の頭も撫でると、嬉しそうに目を細められる。
「……それで、今奏音はどこに居るんだ?」
「あ、観客席の方で獅童君のお母さん達と休んでるよ」
「ありがとう。ちょっと行ってくる。火凛達は少し待っててくれ」
「ん。分かった」
「行ってらっしゃい、兄さん!」
来栖へお礼を言って、俺は一人で観客席へと向かうのだった。




