第40話 水音の幸せ(前)
「折角だ、水音。少し話をしよう」
火凛と水美が風呂に入ると、父さんから急にそう言われた。
「なんだ、父さん。藪から棒に」
先程までとは違い、真面目な口調をしている父さんを不可解に思う。それと同時に自分が何かしてきたかと記憶を探ってみたが、思い当たる節は無かった。
怒られるような事はしていないはずだ……多分。
「俺とお前、父と子の会話だ。母さんも、水美も、もちろん火凛ちゃんにだって知られない。お前の本心で答えてくれ」
一度深呼吸し、父さんの前に座り直す。
「いいよ、父さん。何でも聞いてくれ」
父さんは静かに俺の目を見た。そして言われた言葉は――
◆◆◆
「わあ! 火凛ちゃんの体、すっごい綺麗……」
「ふふ。ありがと。水美ちゃんの体も綺麗だよ」
少し赤くなっている水美ちゃんの体を上から下まで見る。
スポーツをやっているからか、かなり引き締まった体をしている。かと言って、ムキムキなどでは無い。筋肉は程よく付いている。
「ね。水美ちゃん。ちょっと腕と脚触ってみてもいい?」
「うん! 良いよ!」
許可を貰ってから腕を触る。
……うん。やっぱり触り心地も良い。ハリがあって、押せば跳ね返ってくる。だけど、硬い訳でも無い。柔軟もしっかりやっているのだろう。
脚も一緒だ。……ただ、一つ気になる事があった。
「……生えてないんだね」
「わっ! ちょっと、火凛ちゃん! 恥ずかしいよ……」
剃られている跡は無かった。中々聞かないけど、そういう体質なのだろうか。思えば、水音も体毛は薄かったはずだし。遺伝なのだろうか。
さすがにそこを指でなぞる訳にはいかないけど、水美ちゃんは恥ずかしそうに身を捩った。
「うぅ……気にしてるんだよ? 同年代で生えてないの、僕だけなんだから」
「ん……大丈夫だよ。水美ちゃんみたいに童顔で可愛い子だと寧ろアドになるから」
自信を持ってそう言える。水美ちゃんはこれをコンプレックスだと思ってるみたいだけど、そんな事ない。
「そう……かな? 兄さんも生えてないの好きかな?」
……この子大丈夫かな? 実は水音がそっちも好きだと言ったらどうするのだろうか。
まあ、身近な異性が兄である水音くらいしか居ないと考えれば妥当なのかもしれないけど。
「ん。大丈夫、きっと好きだよ」
「そっか! ……ねえ、火凛ちゃん。ちょっとお願いがあるんだけどさ」
水美ちゃんは更に顔を赤くしながら言い淀んだ。微笑みながら言葉の続きを待つ。
「……あのさ。お、おっぱい……触らせて欲しいんだ」
思わずくすりと笑ってしまった。
体育の時間、同級生にそう頼まれた事はある。けど、あまり喋った事も無い人相手には触られたくないからいつも断っていた。
……だけど、水美ちゃんなら。
「良いよ。気が済むまで触ってみて」
「い、良いの?」
「ん。水美ちゃんの頼みならね」
水美ちゃんはごくりと唾を飲み込んだ。そして、恐る恐る手を伸ばしてくる。
ふにゅり、と胸に手が触れた。
「わ……すごい。柔らかい」
最初は優しく触れるだけだった。しかし、次第にその手の力はどんどん強くなっていく。
「簡単に指が沈む……でも、弾力も凄くて……何これ、僕のと全然違う」
むにゅむにゅと指が巧みに動かされる。思わず漏れそうになった声を噛み堪えた。
……さすが水音の妹。自然と私の弱い場所を責めてきている。
「ん。水美ちゃんには水美ちゃんの良さがある……よ。ちょっと触っていい?」
「……ど、どうぞ」
許可を貰ってから水美ちゃんのおっぱいを触る。
水美ちゃんのおっぱいは年相応の可愛らしいものだ。しかし、すべすべしているし、つつけばふにふにと柔らかい触感も当然ある。
……ただ、私と一番違うのはここ。先っぽだ。
「ぁ……ちょっ……と、火凛ちゃん」
私のは少し人のより大きめだ。水音にたくさんいじめてもらってるからというのもあるけど……
「先っぽ……そんなくりくりしちゃ……ッッ」
やっぱり水音は小さい方が好きなのだろうか。……いや、でもそれぐらいで水音は私の事を嫌いにならない――
「だめ、火凛ちゃん。それ以上されたらおかしくなっちゃう」
思わず私はハッとなって、その手を引いた。
「ご、ごめん! 水美ちゃん! 私、夢中になってて!」
水美ちゃんの頬は紅潮し、目はぼうっとしていた。
「う、ううん……だ、大丈夫だよ。ちょっと驚いただけだから」
「……ごめんなさい。本当に」
水美ちゃんは頭をぶんぶんと振った。
「本当に大丈夫だよ。ちょっと僕……その、くすぐりとかに弱かったからさ」
水美ちゃんはそう言ってくれたが、やり過ぎてしまった感は否めない。
「……お詫びって事にもならないと思うけど。もう一回、私のおっぱい好きなだけ触っていいよ」
「え!? ……良いの?」
「……ん。あ、でも遅くなりそうだからお風呂入りながらね。その時にバストマッサージのやり方も教えるから」
まだお湯すら出していない。このまま脱衣所に居たら水音達にも不審に思われるだろう。
嬉しそうな水美ちゃんがさきに風呂場へと入り、私もそれに続いたのだった。
◆◆◆
「水音。お前、火凛ちゃんと結婚したいと思っているか?」
何を言っているのか、一瞬理解出来なかった。
「……何を言ってるんだ? 父さん」
「答えはYESかNOか。その二択で頼む。経済的な事情とかは何も考えなくていい。直感で答えてくれ」
その問いに口を開き、答えようとした。
「俺は……」
しかし、声は絞り出そうとしても出てこなかった。
間抜けに、パクパクと開いては閉じるを繰り返しただけだ。
そんな中、ただ一つの言葉が脳裏に過ぎった。
ありえない
「そうか。意地悪な質問をして悪かった。だが、どうしても聞いておきたかったんだ」
父さんの言葉にハッと我に返る。
「ち、違う。違うんだ、父さん」
「落ち着け、水音」
肩に手を置かれる。半ばパニックになりかけていた頭の温度が急激に冷えていった。
「こんな質問をしたのには訳があったんだ。聞いてくれ」
一度目を閉じ、深呼吸をする。父さんは俺を見届けてから言った。
「水音。お前の火凛ちゃんを見る目がおかしかったんだ」
「……どういう事だ?」
普段からなるべく火凛とは目を見て話すようにしている。それのどこが――
「俺が、そしてお母さんがお前達を見るような。そんな目をしていたんだ」
心の臓がギュッと縮むような、そんな錯覚を覚えた。
「気のせいだと思いたかった。だが、今聞いてみて分かった。水音、お前は『火凛ちゃんが好き』というよりも、『火凛ちゃんに幸せになって欲しい』という気持ちの方が強いんだ」
力がふっと抜け落ちる。どうにか腕を持ち上げ、沈んだ頭を支えた。
「お、おい! 水音、大丈夫か!?」
「……続けてくれ」
父さんは俺に寄り添いながら、少し渋った様子を見せた。
しかし、父さんは口を開いた。
「……言っておくが、昔からそうだった訳じゃ無いぞ。……確か、水音が火凛ちゃんと大喧嘩したとかで、その後仲直りをした後ぐらいから。……今までは気のせいだと思っていたが、今日はそれが顕著になっている。……何かあったのか?」
「……俺が、そんな目を?」
しかし、思い当たる節はあった。
……最初に思ったのは、あのテニス部の人が火凛に告白した時。
もし、俺が火凛の事を本当に好きならば……必死に引き止めたはずだ。なりふり構わず、俺の事を見てくれと。
なのに、俺はそれをするどころか自分から身を引こうとした。
その選択の方が、火凛が幸せになると本気で考えていたから。
次に、昨日来栖達が来た時の事だ。
『これからも火凛の事をよろしく頼む』
あの時の俺は、決して火凛の幸せが崩れないようにそう言った。
……だが、これは親が言うような事だ。ただの幼馴染が言うべき事では無い。
……そして、俺は、火凛が俺に『依存』していると思い込んでいた。自分が火凛に相応しくない男だと決めつけていた。
だが、違う。それは俺が火凛と交際しない言い訳にしか過ぎなかったんだ。
本当に火凛が好きで堪らないのなら、とっくに好きだと告げている。それが出来ないのは……臆病だからでは無い。
火凛が幸せに暮らせる方法をずっと探していたから。顔が良くて、要領が良くて、全てを受け止められるような。そんな男が居れば、火凛が幸せになると思っていたから。
そんなの、まるで親じゃ無いか。
「……と……水音」
父さんが俺を呼ぶ声にハッとする。
「……水音。自分の名前の由来を覚えているか?」
急に、父さんがそんな事を言ってきた。半ば放心状態へと成り下がってしまっている俺だが、それぐらいはすぐに言える。
「……俺が生まれた日。その日は雨が降っていた。憂鬱な、気分が沈むような天気。だが、その水音みずおとは父さんと母さんの不安や焦りを打ち消してくれた。だから、産まれた子は皆を癒せるような存在になって欲しい。そんな思いから、そう名付けられた」
幼い頃、父さんに聞いた事だ。
「ああ。そうだ、その通りだ。その後、水音になんて言ったかも覚えているか?」
その後……は、
「確か、人の幸せを願える大人に…………なって、欲しい」
ゾワリと鳥肌が立った。
「……ああ。そうだ。覚えてくれていたんだな」
父さんは、俺を抱きしめてくれた。
「幼い頃に教えられた事はいつまでも覚えてしまうものだったんだ。ごめんな、水音」
脳が警鐘を鳴らす。
どういう事なんだ?
火凛を幸せにしたい。その思いが強いのは理解した。
だが、それは父さんの教えに従ってたからだったのか?
何故、俺はこの事に気づかなかったんだ? どうして忘れていた?
俺は……本当に火凛の幸せを願えていたのか?
ダメだ。これ以上考えるな。
しかし、思考は止まるどころかどんどん加速していく。
俺は……いったいなんなんだ?
「水音?」「兄さん?」
その時、後ろから二人の声がした。
振り向けない。今振り向いたら二人を心配させてしまう。
「二人とも、あと少しだけ時間をくれないか? 後で連絡するから、水美の部屋に戻っていて欲しい」
「……ん、分かった」
「えっと……うん、分かったよ」
二人が部屋へと向かう足音が聞こえた。
「……行ったか。水音。今更になるが、言わせて欲しい」
父さんの声を聞こうと全神経を集中させた。
そうでもしないと、自分が何なのか分からなくなってしまいそうだったから。
「水音はもう、人の幸せを願える『大人』になっている。だから、これからは自分の幸せを願える『大人』になって欲しい」
俺の……幸せ?
「欲を出しなさい。あれが欲しいとか、これが欲しいとか。水音は今までわがままを言ってこなかったからな。多少度が過ぎても良い。……あまりに度が過ぎた時は俺が止めるから。だから、自分のやりたい事をやりなさい。……最悪、子供が出来たとしても貯金はあるし、育児も手伝うから」
父さんはそんな事まで言い始めた。
「……幼い頃と違って、今から変えようと思っても、少しずつしか変わる事は出来ないと思う。だから、これが俺からの最後の宿題になるはずだ」
「俺は……」
父さんの手が離れる。
顔を上げる。すると、父さんが今どんな表情をしているのかやっと見えた。
酷く、罪悪感を募らせた表情だ。
「……少し、散歩に行ってくる」
俺は立ち上がり、玄関へと向かった。
「ああ。気をつけてな」
振り向く事は出来なかった。
◆◆◆
歩いていると、色んな人の姿が見えた。
子供と手を繋いで買い物バッグを持っている母親。
数人で楽しそうに話しながら歩いている高校生。
仲睦まじそうに歩いている老夫婦。
道行く人は皆、幸せそうな顔をしていた。
今、俺はどんな表情をしているのだろうか。
俺の幸せとは……何なのだろうか。
「……ここは」
気がつくと、とある場所へと来ていた。
そこは、昔よく火凛と二人で遊んでいた公園だ。
「懐かしいな」
ふと、公園の中へと入ってみた。まだ夕方のはずだが、もう遊んでいる子供は居ない。
「砂場でおままごとしたり、シーソーで遊んだり……確か、あの鉄棒で火凛にいい所を見せようと逆上がりをしたんだったな。失敗したが」
懐かしい記憶が色々と蘇って来た。
「滑り台で、火凛が高いから怖いと言って降りられなくなったんだよな。父さんや火凛の父さんが受け止めるからと言ってもいやいやと首を振って……俺がどうにか滑る方から登って、手を握って一緒に滑ったんだったな」
そうして公園の中を見て回る。
「……あれは」
そして、一つの遊具に目が止まった。
「ブランコ、か」
幼少期の事など、ほとんどの人が忘れているだろう。
だが、俺はこの遊具の事を鮮明に覚えていた。
『火凛ちゃん、何して遊ぶ?』
『ん! あれで遊びたい!』
初めて火凛と遊んだ遊具だ。
子供用のブランコの隣にあった、俺でも座れそうな少し大きめのブランコへと腰掛ける。
「あの頃の俺は……幸せだったんだろうな」
ギシ、とブランコが軋みながらも動いた。
ここで少し考えようかと思っていた時だ。公園の前を集団で歩いている高校生達が見えた。
「……あれだけ幅を取れば通行人からも車からも迷惑だって言うのにな」
その時、一人の男子高校生がこちらを向いた。
「あれ? 水音じゃね?」
遠いはずなのに、その声は鮮明に聞こえた。
『あ? なにこれ。きったねーハンカチ。木谷、ハサミ持ってね?』
『おう、あるぜ』
俺の大切な物を壊したあの男。
その男達が俺の元へと向かってきていた。
「よーっす、水音。久しぶりじゃん」
馴れ馴れしくその男は話しかけてきた。
大井一真 。俺と同じ中学に通っていた男子だ。
「……ああ」
「愛想悪っ! なんだよ俺達の仲じゃん」
「誰これ? 大井っちの知り合い?」
「ああ、こいつはな。幼馴染のかわいーい彼女に逃げられた可哀想な男だよ」
そう言って、大井は下品に笑った。それを聞いて他の男達もニヤニヤし始める
「あ? それって大井っちが前言ってた子? ほら、卒アル見せてくれたじゃん」
「そうそう。その子の幼馴染なんだよ、こいつ」
話の脈絡からして火凛の事だろう。卒業写真とはいえ、火凛の姿を見せた事には不快感がある。しかし、今は黙っておいた。
「え? じゃあさ。水音君? だっけ。その子呼んでくんね?」
「お? いいじゃんいいじゃん。呼んでくれよ」
怒りが込み上げてくるが、すんでで堪える。
「……逃げられた、っていうのは聞いてなかったのか?」
変に反応する訳にはいかない。火凛に迷惑を掛ける事になってしまうから。
「ぎゃははは! そりゃそうだわな!」
男達は下品に笑った。さっさとどこかへ行ってくれないかと思っていたが、また話しかけてきた。
「あ、じゃあさ。その子の家教えてくれよ。幼馴染だから家ぐらい分かんだろ?」
「それは……確か、引っ越したと聞いたから今の家は知らない」
そう返すも、大井は首を傾げた。
「あれ? でも、確か火凛ちゃんって水音と同じ高校じゃなかったっけ?」
「あ? そうなん? じゃあ俺らに嘘ついてたって訳?」
……男達の雰囲気が変わった。まずい。非常にまずい。
「ほらもう、困るよ水音君? スマホ出しなよ」
「いや、それは……」
男達が俺の体に手をかけようとした時だった。
「くるぁああああ! 俺の親友に何してくれとんじゃわれえええええええ!」
懐かしい声が聞こえた。
後編は20時に投稿します




