54:特訓の始まり
翌日。クロが薄らと目を開け、金糸のような糸が視界の隅でチラチラと煌めくのを鬱陶しく感じ強く引っ張れば、自身の頭部に電撃のような激痛が走り目が覚めた。
「あぁそうか。昨日はあのまま寝たんだっけ」
覆い被さるように寝ていたイリスを剥がし、クロは上体を起こすと窓から見える朝焼けに目を剥いた。
「雲が焼けてるみたい⋯⋯」
街の空を覆う透明な結界によってより鮮明に映る雲の間から漏れ出すオレンジ色の光をしばらく眺めていると、クロの耳が名前を呼ぶ声にピクリと跳ね上がった。
「おーい、嬢ちゃん達! 迎えにきたぜ!」
窓の下を覗き込むと、真っ赤なバンダナをつけた男、エンと目が合った。
「まだ準備してねぇのか? 仕方ねえ。シャム爺と絡んでるから、すぐ来いよ!」
路地に響く快活な声の主は店の中に吸い込まれるように姿を消し、残されたクロはイリスの肩を叩く。
「ああ。またお腹出して寝てる⋯⋯ほらイリス。エンが迎えに来たよ。早く行かないと迷惑かけちゃう」
「ん。あと五分」
窓から漏れ出す暖かな朝日をものともせず、魔力を纏ってまで抵抗を見せるイリスに、クロは頭を抱えた後、彼女の上にまたがり、少しずつ顔を近づけ⋯⋯やがてその距離はゼロへ縮まった。
「ん。寝起きのキス。悪くない。毎日やる」
「ま、毎日は恥ずかしいからダメっ! たまになら⋯⋯」
と、クロが頬を朱色に染めながら告げようとしたそのとき、クロの背後から若干の寂しさのこもった声が響く。
「やぁ二人とも、おはよう。朝からアツアツだね。少し妬けてしまいそうだよ」
薄目を開けたネメアは日光の当たる窓際に立つと、肩にかかった髪をばさりと払う。
鮮やかな朝日に照らされて煌めく黄金のソレは、若干の緋色を宿していた。
「いだだだだっ! ごめんってイリス!」
白むほどに握り締められた手を労るクロを眺め、ネメアはクスリと笑う。
「おや。いけないね。伴侶がいる相手に心を許すほどボクは安い女じゃないよ。まあ。見惚れられるのは悪い気はしないけれどね」
ネメアは口元に添えた手を白衣のポケットに突っ込むと、桃色のハートを模ったチャームの括り付けられた輪っかを取り出し、クロの手首に巻きつける。
「え⋯⋯と、これは?」
手を空に翳し、まじまじと見つめた後首を傾げたクロに、ネメアは神妙な面持ちで頷く。
「うん。キミの察している通り。“どこでもお着替え君二号”さ。ステージのド真ん中でお着替えなんて唆るだろう? あぁ、ちゃんと裸の時には目が眩むほどの閃光が出るように設計されているから安心してくれていいよ。不安ならここで使ってみても構わない」
「えぇと、それじゃあ着替えるのも面倒だし⋯⋯」
ネメアに促されるがままクロは腕に魔力を通して少しすると、彼女の言葉通り陽光にも負けないほどの鮮烈な光が窓から溢れ出した。
「うーん。明確なイメージができていないみたいだね。今はそれでいいかもしれないけれど、行く行くはステージに上がるのなら恥ずかしがっている場合じゃないよ」
素朴な白で無地のワンピース姿のクロを眺め、辛めの評価を下したネメアはクロの背中を押して部屋の外へと押し出す。
「随分遅かったじゃねぇか。待ちくたびれて腹がタプタプだぜ⋯⋯」
階段の下ではテーブルに並べられた空のポットと、顔を真っ青にしたエンが机の上にぐったりと上体を伏せて座っていた。
「出かける準備には手間や時間がかかるものさ。さ、道案内はキミの役目だろう? せめて全うする努力は見せておくれよ」
「はいはい⋯⋯って! その喋り方、なんか聞いたことあると思ったらお、お前!」
バンダナを強く結び直し、顔を上げたエンはネメアを指差した。
「あ〜そうだね。戸籍上はボクの親族に当たる者が迷惑をかけているみたいだね。戻ってきたのはつい数日前だけれど」
「分かってるなら姉貴の暴走を⋯⋯」
言い切る前にネメアが深々と頭を下げ、エンはそれ以上言葉に詰まり、口を噤んだ。
「大体の話はシャム爺から聞いたよ。縁を切ったとはいえ、無関係を貫き通すには忍びないよ。ましてや、他種との戦争なんて、あの子の願いを踏み躙るようなマネは絶対に許容できないね」
珍しく強い語気で語るネメアに目を剥いたクロは、彼女の本気を悟り、エンの前に躍り出る。
「だから、それを阻止するために私たちが協力するんでしょ! なら、やるべきはどんな公演にするかじゃない! 私たちも頑張るけど、男の子の意見も取り入れた方がもっと⋯⋯」
言いかけて、はた、と気がついたクロの顔から血の気が引いて青褪める。
「い、今のは無しで!」
「お、おい! なんだあいつ? 突然啖呵切ったり青くなったり⋯⋯まあいいか。すまん。俺も言いすぎた。悪気はなかったんだ」
顔を両手で押さえながら店の外へ飛び出したクロと、それを追いかけたイリスを見送り、バンダナを深く被り直しネメアに深く頭を下げた。
「恨みや辛みの根源に近い肉親が目の前にいるんだ。感情的になるのも無理はないさ。それよりも、エルンカップまであと七日しかないんだ。あの子達が居ないとボクらの作戦も上手く行かなくなってしまうよ」
そう言い残したネメアは、出て行ったクロとイリスを追いかけて早足で店を去る。
「そうだな。今は前だけを向くんだ」
ポツリと溢した言葉はシャムが朗らかな笑みを浮かべて受け止めるだけに留まった。




