67:閃姫の願い
「う、うぅん⋯⋯ここは⋯⋯ッ!?」
深い微睡の中から意識を取り戻したネメアの視界には、両手足を触手に絡め取られたクロは、外の様子を映し出すディスプレイを目の前にして、玉のような雫を額に浮かべていた。
ネメアが混濁する意識のまま、ぼうっとクロの下乳を眺め、「良い形だ⋯⋯」などと惚けていると、クロはその様子に気がついたのか、眉を顰めて額にぴきりと青筋が。
「⋯⋯えっち」
「いやいやいや! これは不可抗力だろう!? それに、このメイメツは元々二人乗れるようには出来ていないんだよ手狭になるのも仕方のない事で⋯⋯コホン」
それよりも、とわざとらしく咳払いをしたネメアは己の血に染まった真っ赤な指を見つめて溢す。
「ボクはどれくらい気を失っていたのかな?」
「んー⋯⋯十分くらいかな? 今は魔力の糸であの魔石を縛って暴発を止めてるところだよ」
「そうか。それなら話は早い。魔力の供給を止めてキミは直ぐにでもここから離脱するべきだ。後はボクがこの無限喰らい。ヒトの居ない場所に連れて行くから⋯⋯」
───瞬間。ネメアの視界はぐらりと揺れて暖かな感触に包まれる。
「バカ! バカネメア!」
「バカだなんてそんな、言っておくけれど、ボクはアストラーダでは“賢姫”なんて呼ばれて⋯⋯「そういう事じゃない!」じゃあこれ以上に良い策はあるのかい?」
「無いよ! 無いけど⋯⋯私はネメアに犠牲になってほしくなんてない! それに、ネメアだってもう瘴気を取り込みすぎてボロボロでしょ!? 途中で力尽きたら街中で大爆発じゃない!」
クロの涙ながらの抗議に、ハッと目を見開いたネメアは、申し訳なさそうに目を伏せると、ふるふると首を横に振った。
「はは、ボクの事をそこまで想ってくれるなんて、嬉しい限りじゃないか。キミがボクを想っているよりもずっと、ボクはキミに⋯⋯いや、この場に居る全員に、死んで欲しくないだけなんだよ。それに、この状況は全てボクが招いた物だ⋯⋯だから」
ネメアを抱く手に力が強まる。
「ざけんにゃ!⋯⋯⋯⋯分かった。ネメアにもう説得は意味が無いんだね。それなら、ネメア勝手に作ってる罪悪感ごと、遥か彼方の⋯⋯だれも知らない場所に吹き飛ばしちゃる!」
いつになく感情が昂っているクロの様子と、軽くなった身体を見たネメアは、小さく息をつく。
「ヒトには自己犠牲を否定しておいて、結局無茶をしているのはキミ自身じゃないか。まったく⋯⋯ボクの中の瘴気、取り込んだだろう?」
「まぁね! でも大丈夫。この前より魔力の量が増えてる気がするんだ」
「あれだけ魔力を圧縮して使っているうえに、エルンの魔力も関係しているんだろうね⋯⋯」
「魔石が砕けちゃうのは怖いよ⋯⋯でもさ、砕けたらまたネメアが直してくれるんでしょ?」
ぺろりと舌を出してウィンクを決めるクロに、ネメアは肩を竦めつつも、その口元には弧が浮かんでいた。
「ははっ。それじゃあボクがずっとキミの側に居ないといけないじゃないか」
「うん。だから⋯⋯これからも私の側に居てよ! 私にはネメアが必要なの!」
「はは、気持ちは嬉しい限りだけど、ボクにその資格なんて⋯⋯」
「いらない! 私がネメアに隣にいて欲しいの! だから⋯⋯こんな事で命なんて賭けないでよ!」
喉が掠れて声にすらならない叫びは、ネメアの心を強く揺さぶる。
「けど! 気持ちだけじゃ、目の前の無限喰らいはどうにもならないんだよ⋯⋯ッ!」
「だから⋯⋯⋯⋯だからここに私達がいるんじゃない! どうにもならない事をどうにかするために⋯⋯どうにかしながらここまで来たんでしょう! そんな仲間も置き去りにして、悲劇のヒロインぶるのもいい加減にして!」
クロの怒りを滲ませる怒号に呼応するように、メイメツに彫り刻まれた無数の魔法文字が一層輝きを強める。
「よし。そろそろ“溜まった”か。ネメアが早まった判断をしなくて良かった」
スゥ⋯⋯と大きく息を吸い込んだクロは、目の前で臨界状態を迎え、ドクドクと鼓動を奏でる魔石を
「⋯⋯見てて。ネメアは一人なんかじゃないんだってところ⋯⋯それと、ネメアは誰かを傷つけてばかりじゃなかったんだってところを!」
気合いと共に放たれた一撃は、魔石を僅かに削る。
「私達は、一人なんかじゃない!誰かを支えて支えられてどうにか踏ん張ってきた! 私たちは今までも⋯⋯そう。ネメアの事だって、絶対に諦めないんだからぁぁぁぁぁぁ!」
打ち出された杭は仄かな青白い光を散らしながら即座に元の位置へと戻り、魔力の爆発を繰り返して次々と杭の連撃が叩き込まれると、魔石は僅かにヒビが入る。
同時に、ネメアの目の前には無限喰らいの外で戦うエルフ達と、空を舞う“姫園”の面々の姿が映し出される。
「一つ一つは小さくても⋯⋯幾つも幾つも重なれば、奇跡ですら起こせるんだ!」
エルンに漂う行き場の無くした魔力を取り込み、これまで以上に大きな魔力爆発を起こしたメイメツは、その左腕を犠牲にしながら、無限喰らいの魔石を穿ち貫く。
「そ、そんな事をしたらボクが取り込ませた魔法が!」
「皆のくれたこの力があれば大丈夫! 今の私は、何にだって負ける気がしない!」
穴が空いてもなお鼓動を続けている魔石は、強烈な青白い光に包まれる。
「ま、まさかこの光は⋯⋯転移!? けれど、キミの魔法の範囲は⋯⋯」
座標の指定が脳への負荷となり、鼻血を吹き出しながらも、クロはギリリと歯を食いしばり、その魔石を引き剥がす。
「どこまでだって、運んでみせる! 吹き飛べぇぇぇええええええ!」
その日。獣人の国ガルドニアと、エルフの国アルファリアとを隔てていた瘴気の壁、通称“瘴壁”と呼ばれているソレは、火柱をあげて消え去ったのだった。