62:賢姫の献身
「はあッ!」
メイメツの拳は夢幻喰らいを、そしてクロの拳は魔王教徒の男の顔面をそれぞれ的確に捉え、その衝撃力を持って遥か彼方へと吹き飛ばした。
「硬っっっったーい!」
腫れ上がった拳にフーフーと息を吹きかけて目に浮かんだ涙を拭い取ったクロは未だに瘴気を立ち昇らせる二人の男を睨めつける。
「イリス!」
「ん!」
大空高くへと跳び上がったイリスの元へ、クロは多量の魔力を足に纏って大きく跳び、空中で彼女と手を合わせると、ぐるぐると回転する。
「硬いなら⋯⋯」
「もっと硬ければいい!」
膨大な遠心力と、イリスの身体能力を加えられたクロの身体は、まるで投げ槍の如き速さで射出され、しなやかな脚は氷の膜に覆われながら男のみぞおちを的確に突く。
「冷たぁい⋯⋯けど、痛いよりマシ!」
そして、上空ではメイメツが転移を使い、遙か遠くに飛んだ夢幻喰らいの頭に鋭い蹴撃で追撃し、その巨体を荒野のど真ん中へと押し出す。
「よし、今のうちにッ!」
「ヨホホ!やられっぱなしは性に合わないんですよねぇ!」
弾き飛ばされた先で呼吸を整えたのか、いつもの奇妙な笑い声を上げながら瓦礫を弾き飛ばして現れた道化師は腫れ上がった唇を懸命に動かしていた。
「回復が早いね⋯⋯これも瘴気の力なら、次に目を開けた時にはレミの歌を目一杯聴かせてやる!」
クロは魔力の糸で瓦礫を持ち上げると、先程と同じ要領で遠心力を加えて投げつける。
「戦場で⋯⋯そんなヒラヒラパンツ見せびらかせてんじゃねぇぞこのド痴女がぁぁぁ!」
一喝で岩と魔力が全て消し飛び、慌てたクロは緊急着地をしてスカートの裾を押さえる。
「ち、痴女じゃないし! そんなところ見るな!」
「チィッ⋯⋯見せてきたのはテメェだろうがドアホウ!」
今度は己の番だ、と言わんばかりに両手を広げたマリスの腕から、幾つかの赤黒い球が放出される。
「また封玉! けど、そんなのまた掴んじゃえば⋯⋯なぁッ!? 」
「ヨホホ! 同じ手は引っかかりませんよぉ!」
クロの足元の影が形を変え、触手となって彼女に襲いかかる。
「出てくる場所が分かれば、どうってことない!」
迫り来る夥しい量の触手を避けつつ、短距離転移を繰り返すことによって引き起こされる残光と共に舞うクロの姿は、まさしく“明滅閃姫”であった。
「よし、これで全部⋯⋯」
「ヨホホ! 無駄な努力こそ、絶望への第一歩なのですよぉ!」
彼の言葉の途中で、その不審な動きに気がついたイリスは、氷柱を発射する、が、今一歩足らず封玉は内に秘めた瘴気を全て吐き出した後に射抜かれた。
膨大な量の瘴気が立ち込めた後には、赤黒い光沢を放つ巨大な機体⋯⋯虚瘴機兵が佇んでいた。
「ヨホホ! このままコイツらを蹴散らしてもオモシロいですがぁ⋯⋯ワタクシの描く絶望をお見せできないのは癪に触りますねぇ⋯⋯」
おや?と声を上げた彼が見たのは空に跳び上がり真丸な赤い月を背景にした八本足のシルエットだった。
「ヨホホホホッ! そうだ、そうでしたねぇ! ワタクシの存在理由はただ一つ。より多くの絶望をかき集め、魔王様の復活を早めることぉ!」
もはやクロとイリス、そしてネメアやセレスにすら興味を失った様子のマリスは、腕を掲げると、空中の夢幻喰らいは糸を吐き出してエルンの外壁にくっつけて立体機動をはじめる。
「まさか⋯⋯瘴気で無理矢理操っているのかい? 随分と無茶をするッ! クロ君!」
「分かってる! ネメアも力を貸して!」
「ん。わたしも手伝う」
ネメアの左手、イリスの右手を取ったクロは直後に青白い光に包まれて姿を消す。
「こっちだ!」
声が響いた場所にマリスが目を向けるとそこには、足に氷を纏ったクロが超重力を受けて高速で落下していた。
「影は⋯⋯間に合わねぇかコンチクショー!」
「歯ァ食い縛れぇぇぇ!」
緊急回避も間に合わず、二メートルを超える巨大な腕を盾代わりに翳した虚瘴機兵だったが、クロの蹴りは強固な装甲を容易く打ち破り胸部の装甲すらも抉り取った。
「ヨ、ヨホホ。あんな鉄クズを使わなくても十分バケモノですねぇ⋯⋯なら、偽善者ぶったアナタ方にはこの方法の方がよく効きますよねぇッ!」
丸見えの操縦席には、ネメアを更に一回り小さくしたような、人形のような少女がぐったりとマリスに身を預けるように捕らえられ、首元には漆黒の刃が突きつけられていた。
「ルルア! まさかキミ、そんな小悪党みたいなマネはしないよね?」
ネメアの煽りはマリスには逆効果のようで、ルルアに突きつけた刃の先からツゥ、と赤い筋が滴り落ちる。
「あぁそうだよ! テメェら俺に攻撃したらコイツも道連れだ!分かったらさっさと離れろバケモノどもが!」
唇を噛み締めつつギリ、と拳を握ったクロは数歩下がりつつ魔力を練る。
「おいそこの黒髪ィ! こっちは魔力の動きが見えてんだよ! 消せ!」
チッ、というクロの舌打ちと共に彼女の体内にあった魔力は霧散した。
「⋯⋯ひとつ。交渉しないかい?」
「ヨホホ。いいでしょう。苦し紛れの交渉とやらを聞いて差し上げるのはひとえに魔王様の御慈悲。存分に感謝なさい」
「助かるよ。それじゃあ、ルルアの代わりにボクが人質になる、というのはどうかな?」
「ネメア!」
シッ!という声と共にネメアが手で制すと、彼女の白衣の袖がだらりと下がる。
「アナタには散々痛めつけられましたからねぇ⋯⋯しかし、ワタクシが優位に立っている今、そんな条件を飲むとでも?」
「キミはルルアを“鍵”として使いたいんだろう? それなら、あの“端末”を作ったボクの方が使い方は分かるはずだよ」
ふぅん?と顎に手を当てて思案するマリスに、ネメアは更に畳み掛けるように口を開く。
「それに、今まで旅してきた仲間であるこの子達を踏み躙り、蹂躙する姿はキミの目指す絶望そのものじゃないかい?」
「ほぅ? ほうほうほう! ヨホホ! なるほど素晴らしい。いいでしょう!この娘はくれてやりますよ!」
突如としてネメアの足に幾つかの黒い手が絡みつき、その体を蝕むように登っていく。
「なんて言うとでも⋯⋯ッ!?」
魔法を行使するために意識を向けたほんの数瞬を見計らい、ルルアの身体はマリスの腕を抜けて勢いよくクロ達の方へと飛んでいく。
「さぁ、それじゃあ行こうじゃないか。こんな後も先も無いような愚かな街は徹底的に破壊するべきだよ」
虚瘴機兵の腕に抱かれ、首元に刃のように鋭い爪を突きつけられながらも、
「やってくれますねぇ。ま、いいでしょう。それでは皆様、ごきげんよう!」
ヨホホ、という不快な残響が鳴り渡り、黒い影と共に消える瞬間までネメアがクロに手を伸ばしていることに気付き、その袖の中を見ると、澄み渡った色の封玉が無数に並んでいるのが見えた。
「ネ、ネメア!」
彼女は何も答えずパチンと片目だけを瞬くと、深い闇へと消えていくのだった。