22.笑ってくれたら
音の魔女、コクシネル。
最後に会ったのは何十年も前のことだし、二度と会うこともないと思っていたので、すっかり記憶から消し去っていた……。
真正面から対峙する。背の高いコクシネルは、わたしを見下ろしてきた。
「どうして、ですって? あんたの連れがどんな顔をしているのか見に来たの」
連れ? それは、リアのことを指している?
ぐっ。拳を握りしめて、さっきとは真逆の構えを取る。
コクシネルも常識は持ち合わせているはずなので、まさかここで争い事には発展しないだろうけれど。
油断は禁物。
理由は単純。
彼女は、人間社会に干渉するタイプの魔女だからである。
わたしの緊張を嗤うかのように、コクシネルはわたしに近づき――耳元へ唇を寄せた。
ざわり、全身が総毛立つ。
「昔のよしみで特別に教えてあげる。マグノリアという青年を手に入れる――それが今のアタシに与えられた任務」
「コクシネル!!」
ぶわっ、と身の内でなにかが沸騰したように熱くなった。
今、何て言った?
コクシネルも、その後ろにいる誰かも。
リアを狙っている、だって?
「いやねぇ。そんな怖い顔しなくたっていいじゃない」
気づけば、芝生広場に座っていた人々は全員眠りに落ちていた。
コクシネルの音の魔法の効果だ。今この場で目覚めているのは、わたしたちだけ。
空は青く、湖は澄みわたっている。それが静寂さに輪をかけているようだ。
だけど。
わたしもまた術中に陥っているということ。ここで流されたら相手の思うつぼだ。
深呼吸をして、感情を整えるため、意識を内へと集中させる。
……ふぅ。落ち着いてきた。
そんな簡単に挑発に乗ってたまるものか。
そして、コクシネルもわたしが冷静さを取り戻すのを待っていたようだった。
「安心してちょうだい。任務は与えられたけれど、受けるかどうかは決めていないから。まずはあんたがどんな反応をするか知りたかったし」
「……それで、どうでしたか? 悪趣味な姉弟子さまのお気に召していただけましたか?」
「えぇ、とっても。あんたが怒りの感情を表に出すなんて珍しくって、ぞくぞくしちゃったわ」
灰色の瞳が妖しい光を放った、次の瞬間。
ふわっ。
「待ちなさいっ! まだ聞きたいことがっ!」
わたしの叫びも虚しく、コクシネルの姿は消えて、人々はゆっくりと眠りから目覚めていた……。
・
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じゅう~。
黒い鉄板の上。
中央に鎮座する分厚いステーキ肉は表面がこんがりと焼かれていて、もわもわと食べ頃をにおいで知らせてくる。
その周囲で、油がぱちぱちと弾けていた。
ここは湖のほとりにある食堂のひとつ。
肉料理が有名だとスリジエに教えられて、晩ご飯を食べに来たのだ。
「こんなお肉、初めて……! 噛めば噛むほど幸せな気持ちになる……!」
右手にナイフ、左手にフォーク。
村を出てから初めて尽くしのミュゲは、わたしの隣で今日も感極まっている。
「どうしたの、ジャン。元気ないね」
向かいに座るリアが軽く立ち上がり、赤ワインをグラスに注いでくれた。
「えっ、そ、そうかな」
「昼間は仲間外れにされてさびしいんでしょう」
そう断言するミュゲの飲み物は、オレンジジュースだ。
「まぁ、そうだね。うん」
ただ、曖昧にごまかそうとしても納得しないのがリアである。
「肉より魚の方がよかった?」
「いや、最近魚続きだったし、肉も食べたかったよ」
「それなら、後でゆっくりと聞かせてもらおうかな。元気のない理由を」
だから、なぜ、瞳の奥が笑っていないのだ。
「えぇと? お手柔らかにお願いしますね?」
「そうだね。夜ははじまったばかりだし」
「??」
そして自分で答えておきながら、なぜわたしが下手に出なければならないんだ? まぁいい。
とりあえずリアは満足したようで、ぱんっと両手を叩いた。
「今がいちばんの食べ頃だから、まずは食事を堪能しようか」
ステーキの焼き加減は、ミディアムレアでお願いした。
すっと入るナイフ。中心のほんのごくわずかな部分が朱く、潤んでいる。
ひと口食べると、肉の質感ととろける脂。
脂が、ほんのり甘い。そして一切、くどくない。もたれるという言葉を知らない脂だ。
「んん~っ! 肉!!」
「語彙力のない感想だけど美味しいことはよーく伝わってきたよ」
「おいひい! おいひい!」
「ミュゲは最近ジャンに似てきたね?」
「それは一体どういう意味」
……リアが笑って、楽しそうにしている。
それだけでほっとする。
コクシネルと繋がっているのは、秘密結社フォイユではないだろう。
そもそも、わたしが魔女なのだ。
敢えて他の魔女と手を組むとは考えにくい。
ということは、他にも、リアを狙っている存在があるということ……。
とりあえずコクシネルのことはリアには黙っておこう。
赤ワインを口に含む。
肉とは違う重たさが口に広がり、すっと喉を通っていった。赤ワインと分厚い肉というのは、最高の組み合わせだ。
「付け合わせのいんげんもポテトも、ステーキソースの味が染み込んでいていいね」
「パンも! パンもふわふわ!」
「パンをちぎって、ソースにつけて食べても美味しいよ」
「はわわわ」
あぁ、リアとミュゲのやりとりがなんとも微笑ましい……。
「ワイン足りてる?」
「どうしよう。リアが飲むのを止めさせてこない」
「とりあえず思ってることが口から漏れているのには気づいてる?」
自分でも注いでいたけれど、リアが注いでくれてボトルが空になる。
ちょうど通りがかった店員さんを呼び止めて、新しいものを注文してくれた。
うーん。これは、確実にわたしが落ち込んでると判定しているな……。