グレートランド共和国の大統領
「政治家について徹底的に探究してみる必要が私ときみとの両名にある、と私は考えるのだ」(プラトン『政治家』、258B)
世界の独立国の数はいくつあるだろうか。
誰もが思い浮かべる国がある一方で、国際政治の専門家でも見落とす国がある。
太平洋に浮かぶグレートランド共和国などは、職業外交官でさえ知らない国の一つだろう。
グレートランド共和国の歴史の教科書には、「国のはじまり」という項目に、「わが国は、18世紀にフランス人探検家ラ・ペルーズ伯が太平洋横断中に発見したことに由来する」と書かれているらしい。
その後、イギリスが太平洋地域に本格的に進出したのに伴い植民地となり、第二次世界大戦後には大統領制を敷く民主国家として独立を果たしたのだという。
日本の外務省公式ウェブサイト情報によれば、長らくイギリス連邦の一員であったものが、20世紀末には連邦から離脱し、現在は人口約100万人、グレートランド島といくつかの小島からなる国としてつつましい日々を送っているとのことだ。
1950年の独立に際して大統領となったのは、植民地時代のグレートランドで行政長官を務めていたリチャード・カッシングだった。
45歳で大統領となったカッシングは、1997年に現職のままこの世を去った。当時、世界の元首として最高齢の92歳であったカッシングの死は一部の外電で取り上げられたものの、名前さえ聞いたことのない人が大半であったグレートランド共和国の話題に注目する者はほとんどいなかった。
カッシングの死後に行われた1998年の大統領選挙で当選したのは、息子のエドワード・カッシングだった。
奇しくも父と同じ45歳で大統領となったエドワードは、当選後に行われた記者会見で「父と同じように生涯現役を貫き、国家と国民の繁栄に尽くしたい」と意欲を示した。
そのカッシングが最初に行ったのが、イギリス連邦からの離脱であり、第二の政策が「グレートランド第一主義」だった。
イギリスの流刑地として出発し、18世紀末から移民による開墾が始まったグレートランド島はいくばくかの鉱物資源があるとはいえ、経済の中心は農業だった。
そして、1980年代末から外国からの安価な農作物がもたらされると、農家は打撃を受け、経済の基盤が揺らいだ。
「偉大なる行政官」とも「大カッシング」とも呼ばれたリチャードはイギリス植民地省に勤務していた頃にジョン・メイナード・ケインズの教えを受けたことを自慢げに話すような、経済通をもって自任する人物だった。
それだけに、カッシングは国際貿易の促進こそがグレートランド共和国が生き残る唯一の道と考え、外資の導入に積極的だった。
「最後までイギリス式のアクセントが抜けなかった」と言われた父親に対して、息子は「生まれながらのグレートランド共和国民」だった。
エドワードがどれほど共和国の一員であることを誇りに思っていたかは、彼の留学時代の逸話が物語っている。
息子が共和国唯一の大学である国立グレートランド大学を卒業すると、リチャードは、エドワードを自分の母校でもあるオクスフォード大学に留学させた。
しかし、「少なくとも2年、長ければ4、5年はイギリスで学び、十分な教養と人脈を手にする」という父親の願いは裏切られることになる。エドワードはイギリスに出発した半年後に帰国したのだ。
「あそこには学ぶものは何もない」というエドワードの言葉を巡り、親子の間で極めて人間的な意見の対立があった。
この時は、エドワードの兄で当時与党グレートランド保守党の党首を務めていたジョージのとりなしで事なきを得た。それでも、これ以降、リチャードは側近たちにエドワードのグレートランドびいきへの懸念を示すようになった。
それでも、エドワードは次第に態度を軟化させ、1994年にジョージが外遊先で急逝した後はリチャードも二人の息子のうち残された一人に実質的な後継者として行政経験を積ませるべく、内務長官や商務長官を歴任させている。
このように見ればグレートランドにおける権力の移譲は実に円滑に行われたかのように思われるだろう。
実際、リチャードも晩年にはエドワードのことを「視野の狭さは変わらないが、政治家としてのしたたかさを見せてきた」と評している。
だが、リチャードを含め、共和国の国民の誰もがエドワードの真の姿を見誤っていた。
エドワードは表面的には父が進める経済政策に賛同しながら、心中では受け入れがたいものだと思っていたし、誰とも知らぬ外国人が共和国の富を搾取するかのような現状に激しい敵意を持っていた。
それではどうすればよいか。エドワードにとって、自分が権力の頂点に立つためには兄のジョージが邪魔な存在だった。
洗練された物腰と巧みな演説によって、ジョージは国民的な人気を博していた。しかも、ジョージはリチャードと同様に「イギリス風」の教養を持つ、自由主義経済の信奉者でもあった。
このようなジョージが権力を継承すれば、共和国は再び外国の植民地となりかねない。
そうなる事態を避けるためにも自分が国民を指導しなければならないと考えたエドワードは、まず兄を、次いで父親を排除したのだ。
1997年11月7日、グレートランド国立病院に設けられた大統領専用治療室でリチャードと面会したエドワードは、目の前の人工呼吸器の管を見つめていた。
病床にあるとはいえ、依然として青い瞳に力を宿していたリチャードの耳元で、エドワードはささやいた。
「父さん、大丈夫。あとは僕がグレートランドを偉大な国にするから」
こうして、リチャードの瞳から生の炎が奪われたのだった。