第八十七話「謝るもんか!」
やった!やってやったぞ!
俺が悪くない形でルートヴィヒにガツンと言ってやった!これでルートヴィヒの俺への好感度はかなり下がったはずだ。そしてヘレーネとの昼食まで実現させた!このままヘレーネにルートヴィヒを押し付けることが出来れば完璧だ!
さっきのやり取りでルートヴィヒは俺を口うるさい奴だと思ったに違いない。俺の言っていることの方が正しいからあの場で俺に報復することは出来なかった。今後俺を疎ましく思って遠ざけてくれるはずだ。
ヘレーネが思ったよりもルートヴィヒと親しくなさそうだったのは俺の予想外のことだった。許婚候補筆頭とかいうからもっと親しいのかと思ったけどどうやらそうでもないようだ。もしかして顔も覚えていなくて顔と名前が一致していなかったんじゃないかとすら思える。
まぁ俺だってルートヴィヒと会った回数なんて数えるほどしかない。許婚だといってもその程度なんだから実際に本人同士が会う回数なんてそんなものだろう。
肝心なのは本人同士の気持ちや会った回数ではなく家同士の関係だ。バイエン家は血の繋がらない公爵家の中ではプロイス王国で一番の家格を誇っている。現時点で王家に次ぐのは王家の分家筋であり現時点で当主が宰相もしているクレーフ公爵家だ。その後ろには血縁関係にある公爵家が順番に並んでいる。
それらを除けば血縁以外で一番上なのがバイエン公爵家であり、ルートヴィヒと結婚させて一番有力であるバイエン家と縁戚を結ぶメリットは多い。今無理にカーザース家を取り込まなくても何の問題もないけど今代でバイエン家を取り込んでおくことにはメリットがある。
南に接するオース公国とは近年様々な問題が表面化しているそうだ。理由は簡単で今プロイス王国は西の隣国フラシア王国との関係が小康状態だからだ。
人類の共通の敵として北西の魔族の国とは敵対関係にある。それはどの国も全て同じであり魔族に対しては全ての国が協力し合って対抗するということになっている。しかし少なくとも俺が生まれて以来魔族との武力衝突は発生していない。直近の衝突でも三十年近く前の話らしい。
人類共通の敵である魔族の国との争いがないということは人間同士の結束が緩むことを意味する。共通の敵がいる間は共闘関係にある国同士でも共通の敵がいなくなればお互いに攻撃し合うのは世の常だ。
そんなわけで最後の魔族との衝突が終わって以来プロイス王国とフラシア王国は小さな紛争を幾度となく繰り返してきた。俺が産まれた後でもフラシア王国との国境紛争は度々起きていたそうだ。俺は詳しくは知らなかったけどカーザース辺境伯領だけではなく西の国境全般に渡って国境紛争が起こっている。いや、起こっていたというべきか。
今でもまだフラシア王国と和解したわけでもなければ紛争が終結したわけでもない。だけどどれほど攻め込んできても一向に落とせないプロイス王国の国境線に手を焼いているフラシア王国はここの所宥和政策に傾いている。
戦争が終わってから三十年近く経つとはいってもプロイス王国から見て北西には魔族の国は健在であり、さらにその北西方向を守るのは救国の英雄、武神アルベルト辺境伯だ。フラシア王国の侵攻も幾度となく跳ね除けた父アルベルトがいる限りプロイス王国の国境は突破出来ないと思っているらしい。
そこで暫くの間はプロイス王国との宥和政策をとり、こちらが油断して国境警備が緩くなるのを待っているのだろう。あるいは父アルベルトが他界すれば国境警備の柱を失い侵攻が楽になるとでも思っているのかもしれない。
個人の感覚で見れば父が死ぬまで待つなどと随分気の長い話だと思うかもしれないけど、国策としては百年の大計も珍しいことじゃない。むしろ五十年百年先を見据えて運営出来ない国は早晩潰れるだろう。そんなわけで西のフラシア王国との緊張もここ最近は緩んできている。
そこで出てくるのがオース公国との関係だ。元々プロイス王国とオース公国は協力関係にあった。人類共通の敵である魔族の国に対してもそうだけど、フラシア王国に対しても共通の敵として対処してきた歴史がある。だけどそのフラシア王国との緊張が緩んでいる昨今、プロイス王国とオース公国の関係は悪化している。
これまでの外敵に対する共闘関係の間は多少のことにはお互いに眼を瞑って我慢していたことも、外敵がいなくなったことでお互いの粗が目立つようになってきた。
プロイス王国とオース公国でも南の国境線でお互いに領有を主張している場所もあり地域紛争の火種が燻っている。今までは魔族の国、その次はフラシア王国と外敵と戦うために棚上げしていたそれらの問題が近年噴出しているというわけだ。
そのオース公国とのパイプも太く長年南東の国境を守ってきたバイエン公爵家を今のうちに王家側に取り込んでおくことは重要な意味がある。もし万が一にもバイエン公爵家がオース公国側に寝返り反旗を翻せば大変なことになりかねない。
何の障害もなく国境線を越えたオース公国がバイエン公爵家と共に突然攻め込んでくればいきなり国の中央を突かれる可能性もある。そうなれば一気にプロイス王国が崩壊する可能性すらあるだろう。それを思えば今のうちにバイエン公爵家と婚姻関係を結んでプロイス王国側に取り込み国境線を強化しておくことは重要だ。
カーザース家のある北西方向は現在小康状態であり魔族の国もフラシア王国も大人しい。いつまでも平穏とは限らないけど喫緊の課題ではないだろう。それよりもオース公国との関係の方が差し迫っている。
ヴィルヘルムもディートリヒもそのことは重々承知しているはずだ。だからこそ表向きは俺をダミーの婚約者にしておきながら裏でバイエン公爵家のヘレーネとルートヴィヒの結婚を進めているんだろう。
「フローラ様、随分ご機嫌がよろしいのですね?」
「え?ええ、ルートヴィヒ殿下に昼食に誘われてしまったけれどうまくヘレーネ様に押し付けることが出来ましたからね」
一年生の食堂でお弁当を食べているとカタリーナが声をかけてきたからついポロッと本当のことを言ってしまった。まぁどうせ誰も俺達の近くにはいない。鼻つまみ者の俺の傍に寄ってくる者はいないから話を聞かれる心配もないだろう。
「えっ!そのようなことをしてよろしかったのですか?」
「え?どうして駄目なのですか?」
俺とカタリーナはお互いに小首を傾げる。可愛い。カタリーナがそんな仕草をすると可愛くてギュッと抱き締めたくなる。だけどさすがにここでそんなことをするわけにもいかないので我慢しよう。
「ルートヴィヒ殿下はフローラ様の許婚ですよね?それにバイエン公爵家のヘレーネ様といえばフローラ様を押し退けてルートヴィヒ殿下の許婚に納まろうとしていると聞いていますよ?」
「ええ、そうですね。だからこそ良いではありませんか。是非ルートヴィヒ殿下にはヘレーネ様と結婚していただきたいわ」
「え?」
「……え?」
再び俺とカタリーナはお互いに小首を傾げる。それの何が問題だというのか。むしろ是非そうして欲しい。俺は表向き一生独身で良い。男と結婚させられて子供を産まさせられるなんて考えただけでもゾッとする。俺は可愛い女の子に囲まれて一生キャッキャウフフしながら過ごしたい。
「あっ、そろそろ午後の授業に向かわなければなりませんね。それではまたねカタリーナ」
「あっ!……はい。いってらっしゃいませ」
まだ何か言いたそうにしていたカタリーナを残して教室へと戻る。いつまでものんびりしていられない。まだ授業は簡単な所をしているけどそのうち難しくなるはずだ。油断していたらあっという間に成績最下位なんてことになりかねないので頑張らなければ……。
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午後の授業も終わった。あとは帰るだけだ。ただ帰ろうと思ってもはいそうですかとすぐに帰れないのが困ったものだ。窓の外を見てみればずらっと並んだ馬車に辟易する。
馬車は来た順番に並んでいるのでどこの家の馬車がいつ来るというのは決まっていない。ただ何の取り決めもなく自由に帰り用の馬車が並ぶと早くから順番取りでずらっと馬車が並んでしまうのでそれについて規制がある。
帰りの馬車は授業が終わる三十分前からしか並んではいけない。これは周辺の渋滞を引き起こしてしまわないための学園側の配慮だ。もしこの規制がなければ一番に並ぶために一時間前に来る馬車が現れ、二時間前に並ぶ馬車が現れ、仕舞いには朝に主人を降ろした馬車がそのまま帰りの順番に並んで待つなんてことに発展する、というか昔そういうことがあったようだ。
それ以来順番取りに馬車が並んで良いのは終業の三十分前以降と決まった。だからどの家もギリギリ三十分前に馬車が並べるように迎えにやってくるというわけだ。
終業後の帰宅ラッシュはとんでもない混雑であり正直俺は並びたくない。最初の数日は状況がわからなかったから普通に並んでいたけど今はヘルムートに言ってゆっくり迎えに来るように変更している。
急いで帰りたい生徒は終業と同時に外へ並びに行くけど俺はあの列に並ぶのは御免だ。ラッシュが終わって人が減ってからゆっくり出口に向かって待つくらいで丁度良い。俺と同じようにゆっくり帰る選択をしている者も割といるから帰宅ラッシュが終わるまで教室で適当に時間を潰そう。
そう思っていたのに昼に引き続き思わぬ邪魔が入った。やってきたのは昼と同じ馬鹿二人だ。
「フローラ!」
「……ルートヴィヒ殿下、私の昼の言葉を覚えておいでですか?」
お前が来たら周りが騒ぎになって迷惑だから来るなっつっただろうが!お前の脳みそは昼のことも忘れているのか!
「放課後で人は減っているだろう?人が減った時間も動くなと言われては僕達はどこにも行けなくなってしまうよ」
はははっ、と爽やかに笑っているこの馬鹿を殴り飛ばしたい。お前がどこでどうしようが混雑や混乱を巻き起こそうが知ったことじゃない。俺が言いたいのは俺の平穏な生活をお前が来ることによって乱されるから俺の周りに来るなということだ。
遠まわしに言っても理解出来ないならいっそはっきり言ってやろうかとすら思える。だけど短気は駄目だ。これだけ人がいる前でそんなことを言えば最悪不敬罪とか国家反逆罪とかで処刑されかねない。ルートヴィヒが許すと言っても周りがそれをさせないだろう。公共の場で言ってしまったら取り返しはつかない。
「それよりルートヴィヒ殿下、早く用件を済ませようぜ」
「あぁ、そうだったな」
ルトガーがルートヴィヒの脇腹を肘で突く。一体何の用があるというのか。もうさっさと用件を済ませてもらった方が俺のためにもなる。黙って聞くから早く終わらせてくれ。
「昼間はありがとう。僕はあやうく道を踏み外すところだった。いくら許婚とはいえ僕にあそこまで忠言することは大変なことだっただろう。フローラの心遣いに感謝する」
は?何を言っているんだ?いまいち言ってることの意味がわからない。これだから貴族の言い回しは面倒臭いんだ。
いくら許婚とはいえ?公衆の面前で僕によくもあそこまでひどいことを言ってくれたな。恥をかかされたから覚えていろよ!という意味か?
そうだろうな。大勢の生徒がいる前で俺にあそこまで言われたんだ。第三王子ともあろうものがいくら許婚とはいえ年下の小娘に公衆の面前であれだけ言われたのだから相当恥をかかされたと思うだろう。
これはますます俺とルートヴィヒの婚約破棄が捗るな。少なくともルートヴィヒは俺のことが嫌いになってきたはずだ。しかも少なくとも俺は何も悪いことはしていない。ルートヴィヒの機嫌を損ねることはしただろうけど言ったことは正論のはずだ。だからこそこうして遠まわしな言い方で俺に注文をつけにきたのだろう。
そしてきっとヘレーネとの昼食で三人で色々と話をしたはずだ。そこでヘレーネに興味を持ってくれたのなら万々歳。俺にとっては良いことずくめだ。
「それでこの後一緒に僕の部屋でお茶でもどうだろうか?昼のことについても謝罪したいんだ」
「今日はこれから父と用事がありますのでご容赦ください」
誰が行くか。お前の部屋に行ったら昼のことをネチネチ言われるんだろう?謝罪って俺に謝罪させようっていうことか。本当は別に用なんてないけどこのまま向こうの土俵に上げられてしまったら逃げられなくなって土下座までさせられかねない。流石に俺が悪いわけでもないのに謝るなんて御免だ。
わざとルートヴィヒを怒らせるようなことはしたけど俺は自分の言ったことが間違いだったとは思わない。例え王族相手だろうと自分が間違っていないのに謝る気はない。
「そうか……。それでは明日はどうだろうか?明日なら休日だから……」
「申し訳ありません。明日は視察に出かけなければなりませんので……」
折角明日は学園が始まって最初の休日だというのにどうしてルートヴィヒと会わなければならないというのか。明日はルイーザとデート……、じゃないけど町を案内してもらう約束だ。それに視察というのも嘘じゃない。カンザ商会の王都支店へお忍びで出向くことになっている。抜き打ちの視察だから明日は絶対に外せない。
「そうか……。無理を言ったようだ。それでは今度暇な日を教えてほしい」
「わかりました。後日ご連絡させていただきます」
流石にそれは断れない。俺の予定を聞いているのに一生予定が空かないなんてことはないだろう。少なくともルートヴィヒの怒りが収まるまで待ってかなり先に予定を空けておくか。たまには応じなければ毎度毎度断るわけにもいくまい。
「ああ、それでは待っている。行こうルトガー」
「はい……。チッ、おい田舎娘!ルートヴィヒ殿下は心が広いお方だからあれで済んでいるけどお前の態度は目に余るぞ。気をつけておけよ」
「はい。ご忠告痛み入ります」
うるせぇ。お前に言われる筋合いはねぇ!俺はさっさと婚約破棄したいんだ。それにルートヴィヒだって俺のことを嫌っているんだからそちらが早く婚約破棄してくれれば済む話だろう。お前達にはいつまでもダミーの肉壁にされている俺の気持ちなんてわからないだろう。
「僕のことを思って心を鬼にしてきちんと忠言してくれるなんてフローラは何て僕思いで良い子なのだろう。きっと僕と結婚したら内助の功で影となり日向となり助けてくれるに違いない」
「ルートヴィヒ殿下……、やっぱりルートヴィヒ殿下にはあの田舎娘は似合いませんよ。俺が貰ってやりますからルートヴィヒ殿下は他の女でも探された方が良いんじゃないですか?」
「駄目だぞ!たとえルトガーであろうともフローラのことについては譲れない!」
遠ざかるルートヴィヒとルトガーが何か会話しているけど小さな声だから俺からは聞き取れない。恐らく碌な事じゃないだろう。どうやって俺を貶めようかとか謝罪させようかとかその手のことじゃあるまいか。
嫌な想像が駆け巡った頭を軽く振ってから俺も帰り支度を進めたのだった。




