第八十三話「カタリーナがおかしい!」
日が落ち始めて次第に暗くなっていく中、俺とクラウディアはいつまでも抱き締めあう。クラウディアは少し汗臭いけど嫌な気はしない。日本と違って現代地球でも他国の人やこの世界の人は元々あまりお風呂にも入らないし、騎士として訓練に明け暮れているクラウディアが汗をかいているのは当たり前のことだろう。
それに美少女の汗の臭いというのも良いものだ。別に俺は臭いフェチじゃないはずだけどこう……、何かいけないもののようでその背徳感というかが堪らない。
別に俺が変態なわけじゃないんだからね!俺達は日本で言えば女子高生くらいの年齢なわけで、スポーツに打ち込む女子高生の汗の臭いをくさいとか気持ち悪いと思う者はそんなにいないだろう。もちろん汗臭いのは仕方が無いけどだからって気持ち悪いとか思わないはずだ。一生懸命何かに打ち込んでいる姿は美しい。
「うおっほん!フローラ様!そろそろフリーデン様をお送りした方がよろしいのではないでしょうか?」
「ひぅっ!カッ、カタリーナ?いつからそこに?」
いつまでも抱き合っていた俺達にカタリーナが声をかけてきた。ここは俺の私室の中だしカタリーナは部屋に一緒に入ってはいない。部屋の前までヘルムートとカタリーナは一緒についてきたけど室内に入ったのは俺とクラウディアだけのはずだ。
それなのにいつの間にかカタリーナは室内にいて……、というか俺達の目の前に居て『さっさと離れろ』と目で訴えかけてきている。
「ノックをして声をかけてから入室いたしましたが?」
え?そう?本当に?全然聞こえてなかった……。クラウディアと抱き合うのに夢中になりすぎていたのかな……。
「何だいこの娘は?自分の主の逢瀬を邪魔しようなんて随分教育がなってないじゃないか」
クラウディアさん?貴女さっきまでボロボロ泣いたりしてませんでしたかね?何で急にカタリーナに対してそんなに怖い態度なんですか?
それにいつの間にこれが俺とクラウディアの逢瀬になったのだろうか。前までの誤解を解くための話し合いではあったし、話の流れ上ついつい二人で抱き合う形になってしまったけど俺とクラウディアは別に恋人同士ではないはずだ。今の所はまだ?将来的にはそうなってもおかしくはないかもしれないけど……、なんてね!
「フローラ様の気まぐれで少しお手付きになったからといって図に乗りすぎないことです。身の程を弁えているのならば今後ともフローラ様の気まぐれでご寵愛を受けることもあるかもしれませんが、あまりに目に余るような行動をなさるようならば……」
怖い!怖いよカタリーナさん!?それに俺のお手付きとか寵愛とか何の話をしているんですか?俺はまだ清い体ですよ?クラウディアとも今日久しぶりに会って話をしただけで何もしてませんし!?
「どうしようっていうんだい?まさか僕を実力で排除出来るとでも思ってるのかい?これでも僕は近衛師団でも二人しかいない女性の団員だよ?君如きが僕をどうこう出来るとは思えないけどね」
クラウディアさんもそれ以上カタリーナを挑発しないでぇ!もうやめて!これ以上は俺の胃がもたない!
「ちょっ、ちょっとお待ちなさいお二人とも。一体何のお話をしているのかはわかりませんが一先ず落ち着きましょう。カタリーナもクラウディアも言い争いも挑発もやめて」
「申し訳ありません……」
「ごめんなさい……」
俺の言葉で二人は一旦謝ったけどそれは俺に対してだけだ。お互いにまだ視線で睨み合い火花を散らせている。
そういえばここまで露骨じゃなかったけどカタリーナはルイーザに対しても少々攻撃的だった気がする。一体どうしたというのだろうか。カタリーナはきちんと礼儀作法を身に付けた出来たメイドさんだったはずなのにルイーザやクラウディアには随分とひどい態度な気がする。
「はぁ……、どうやらフロトはわかってないようだね……」
「そうなのですよ……。そういう所も可愛い所ではあるのですが……、悩ましい限りです」
俺の顔を見ながらクラウディアとカタリーナが何故か溜息を吐いてお互いに首を振っていた。あっ、でも何かちょっと仲良くなったのかな?俺には何を言っているかわからないのに二人だけで分かり合えているようだし出来れば二人とも仲良くしてもらいたいものだ。
「それではお送りいたしますフリーデン様」
「あぁ、僕のことはクラウディアで良いよ。多分君の家の方が位が高いんだろう?」
確かにヘルムートとカタリーナのロイス家は伯爵家に近いほど上位の子爵家で、クラウディアのフリーデン家は騎士爵家だ。だけどクラウディアは俺の客人なんだから例え家人の方が位が高かろうとも主人の客を軽んじて良いはずはない。
「それでは私のことはカタリーナとお呼びください、クラウディア」
「うん。よろしくねカタリーナ……(よくよく見てみればカタリーナも中々……。フロトと三人で楽しむもの悪くないかも……)」
にこやかに握手を交わすカタリーナとクラウディア。何だか二人も打ち解けたようだ。それなのにおかしいな……。今一瞬何故か背筋がゾワリとした気がする。そしてカタリーナも何か引き攣った笑みを浮かべている。どうやらクラウディアは一筋縄ではいかないらしい。
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クラウディアとも誤解が解けて今日は素晴らしい日だった。まだアレクサンドラのことについて心残りはあるけどそれもいずれ情報があがってくるだろう。
クラウディアが帰ってから自室で考え事をしながら書類仕事を片付けているとカタリーナがやってきた。
「カタリーナ?どうしたのですか?」
「フローラ様……」
お?お?お?一体何事?
カタリーナが椅子に座っている俺の足元に跪いて俺の胸に抱き付いてきた。何これ?何だっけ?ご褒美?
「何かあったのですか?」
とりあえず俺は動揺していない風を装って努めて冷静にカタリーナの頭を撫でる。フワリと良い匂いがする。カーザース邸には仮設とはいえお風呂が完成しているから家人達も皆お風呂にはよく入っているはずだ。全員を管理しているわけじゃないから全ての入浴状況を知ってるわけじゃないけど……。
それからカーン領の製品の一つとして石鹸がある。石鹸自体は地球でもこちらでも古くからあるもので紀元前数千年には出来ていたらしい。
初期の頃の石鹸とは乱暴に言えば油と灰を熱して混ぜたもの、ということが出来る。石鹸の発祥は獣の肉を焼いている時に垂れた獣油と燃やしていた植物の灰が混ざって出来たという話だ。それがどれほど確かなのかは知らない。地球のテレビでそんな話を観たことがあるというだけのことだ。
俺のおぼろげな知識では煮詰めながら油にアルカリ性を混ぜると石鹸が出来るということは覚えていた。石鹸発祥のエピソードは燃やした植物の灰がアルカリ性で熱した獣油と混ざることで石鹸が出来たというわけだ。
さらに石鹸が固形になるか液状になるかは混ぜるアルカリによる。水酸化ナトリウム(苛性ソーダ)を混ぜると固形石鹸、水酸化カリウム(苛性カリ)を混ぜると液体石鹸になるはずだ。
その知識をもとにアインスに実験してもらい石鹸を完成させた。もともと地球でもこの世界でも昔の石鹸は液体石鹸が圧倒的に多かった。液体石鹸は獣油を使うので非常に臭かったそうだ。それがやがて一部の地域で作られていた固形石鹸の方が臭いも少なく人気となり広まることになる。
液体石鹸は獣油に普通の木の灰を使っていた。それに比べて固形石鹸はオリーブ油などに海藻灰を使うことで出来ていた。海藻灰から苛性ソーダを得ていたわけだ。
ただ人気になってくれば海藻灰からだけでは苛性ソーダが足りなくなる。工業化されて石鹸が大量生産されるためには苛性ソーダの精製方法が必要だ。そこで俺はアインスになんちゃって知識を授けて研究させて大量生産にこぎつけたというわけ。
もちろん大量生産とはいってもこの世界の現時点に比べての話であって現代どころか産業革命以降の近代工業化された地球とは比べるべくもない程度でしかない。ただ現時点の需要は十分に満たせるので俺としては何の問題もない。
そこからアンネリーゼに協力してもらって植物から抽出した匂いを石鹸につける研究をしてもらった。アンネリーゼには元々精油の研究をさせていたからそれが功を奏した形だ。
こうして出来上がったうちの石鹸は様々な香りが楽しめるし汚れもよく落ちる素晴らしい出来となった。カンザ商会やクルーク商会の人気商品の一つとなっており高位貴族でも予約待ちで中々買えない代物だそうだ。うちは製造元だから家人達ですら気軽に使ってるけどね。
クラウディアのように本人の匂いがそのままするのも悪くはない。だけどこうしてカタリーナのようにフローラルな良い匂いがするのも良い。やっぱり女の子はこうでなくちゃ。
「ひどいですフローラ様」
「え?え?」
俺は何か酷いことをしただろうか?全然身に覚えがない。知らないうちにカタリーナに対して酷いことをしてしまっていたのならば謝らなくては……。
「私とはあんな熱い抱擁をしてくれたこともないというのに……、クラウディアだけ特別ですか?私はいらない子ですか?」
はぁ?何だそれは?カタリーナがいらない子なわけがない。カタリーナがいなければ俺はまだ色々とウジウジ悩んだままだっただろう。カタリーナが帰って来てくれてから俺の周りは何だか良い方向に転がったことが多いはずだ。
それに確かカタリーナとも抱き合ったと思う。いや、抱き合ったよ。俺のメイドになりたいって頭を下げてくれた時に抱き締めたじゃないか。
「何を言っているのですか?カタリーナが帰って来てくれたお陰で私がどれほど救われたことか……。カタリーナがいらないなど思ったことは一度たりともありませんよ?」
「本当ですか?」
うっ……。俺の腰にしがみついたまま潤んだ瞳で俺を見上げてくるカタリーナが可愛い。泣きそうな顔をしている人に向かって言う台詞じゃないかもしれないけどなんていうかこう……、そうだ!庇護欲をそそる?そんな感じだ。
「当然ではないですか。出来ることならばお嫁になどいかずずっと私の傍に居て欲しいくらいですよ」
……あっ!しまった!余計なことを言ってしまった……。確かに俺の本心ではあるけどそれは言ってはいけないことだった。
カタリーナの人生はカタリーナが決める。俺がこう言ったためにカタリーナが結婚を諦めるようなことがあってはならない。俺としてはそこらの男にカタリーナをとられるようで面白くはないけどそれを俺が強制してはいけない。最早吐いた言葉はなくならないのだからつい滑ってしまった口が悔やまれる。
「本当ですか?フローラ様?私本気にしてしまいますよ?」
「うっ……?」
妖艶に……、先ほどまでの泣きそうな顔が嘘のように、十五歳ほどの少女とは思えないほどの妖艶な顔で俺を覗き込んでくる。
「カタリーナ……」
「フローラ様……」
石鹸のフローラルな香りのせいだろうか。カタリーナの後ろに花が見える。腰にしがみついていたカタリーナはいつの間にか俺と向き合うほど体を上げて二人の顔と体が徐々に近づく……。もしかしてこのまま……。
コンコンッ
「ひぅっ!」
「ちっ……」
二人の顔が触れる前に扉がノックされて俺は飛び跳ねてカタリーナから離れた。こちらに呼びかけてくる声を聞いてわかった。どうやらイザベラが来たらしい。入室を許可するとイザベラが部屋に入り入れ替わりでカタリーナは出て行った。
「……お邪魔でしたか?」
「えっ?!なっ、何のことですか?」
イザベラの言葉にドキリと心臓が跳ねる。もしかしてカタリーナと妙な雰囲気になっていたことを見られていたのだろうか。
「いえ……。調査を命じられていたリンガーブルク家について判明したことの報告に参りました」
「えっ!本当ですか?どのようなことですか?」
アレクサンドラのことについて何かわかったのだろうか。とても気になる。先ほどまでのクラウディアと和解出来たうれしい気持ちやカタリーナとの甘い一時なんて吹き飛んでしまった。アレクサンドラは一体どうしてしまったというのか。気持ちが逸る。
「王都に移住後のリンガーブルク家はナッサム公爵家の庇護下にあったそうです」
「ナッサム公爵家……?それは父や国王陛下のご意思ですか?」
何故だ?何故ナッサム公爵家に?
「それは……、申し訳ありません。詳しいことはわかりません。ただこの話は王都でも広く知れ渡っているようでリンガーブルク家の後見人として認知されているようです」
馬鹿な……。何故カーザース辺境伯家の家臣であるリンガーブルク家が……、ナッサム公爵家の庇護下に入るというのか。ナッサム公爵家は公爵と言いながらも現王家と血縁関係にはない。普通なら公爵とは王族が家臣となって賜る爵位だ。
だけどプロイス王国では必ずしもそうとは言い切れない。神聖ローマ帝国やドイツ帝国は連邦のような制度で各地に強い権力を持った領主が存在した。領主はそこに独自の国を持っているも同然であり公国などがたくさんあった。その公国の君主は中央に存在する王や皇帝の配下でありながら自領においては君主である公爵だったというわけだ。
ナッサム公爵家も同様でありナッサム公国の君主でありながらプロイス王国の家臣でもある。もちろん公国の君主であるとは言ってもプロイス王国に仕える貴族であることに変わりはないけど、何でわざわざナッサム公爵家にリンガーブルク家を預ける必要があった?
それにナッサム公爵家にはよくない噂が付き纏う……。南方のオース公国と通じているという噂が……。
「これは……、少しばかり父上や国王陛下にお伺いする必要がありそうですね……」
わざわざこんな話を広めているというのも腑に落ちない。まずは父に話を聞いてみよう。場合によってはヴィルヘルムにも聞く必要があるかもしれない。王様に話を聞きに行こうなんて簡単な話じゃないけどやるしかない。
アレクサンドラのために俺に何が出来るか。必死で頭を働かせながら次にどうするべきか考えを纏めたのだった。




