第七十五話「洗礼!」
落ち着いた感じの美少女だなぁ……。バイエン家と言えば確か南方の公爵家だっけ……。
オース公国と国境を接する広大な地域を治める公爵家でプロイス王国の中でも相当に発言力が高い家だったはずだ。
俺だって主要な家くらいは覚えている。もちろん無数にある陪臣まで含めた全ての家を覚えているわけじゃない。そんなのは紋章官の仕事であって大貴族の主君がわざわざ木っ端貴族の家名と紋章まで覚えていられるほど暇じゃない。
これは決して暗記に自信がないとか言い訳だとかそういうことじゃないぞ。人の時間は有限であり主君にはしなければならないことがたくさんある。一生関わりも持たないかもしれないどうでも良い相手の家名と紋章をわざわざ覚えている暇があれば他にしなければならないことは山ほどある。
だからカーザース家のことを知らない貴族はほとんどいないだろうけど、カーン家のことを知っている貴族はほとんどいないだろう。よほど何らかの関わりを持っていたか、事件でも起こしたか、注目に値する何かがあったか、そういったことがなければ普通は騎士爵家のことなんていちいち知らないのが普通だ。
「あぁ~、ヘレーネ様素敵ねぇ……」
「さすがはルートヴィヒ殿下の婚約者最有力と言われるだけのお方ねぇ」
ん?ルートヴィヒの婚約者?そうなの?
「あら?貴女知らないの?ルートヴィヒ殿下の婚約者はもう決まっておられるそうよ」
「貴女こそ知らないの?婚約者ということになっているカーザース辺境伯家の方は婚約が決まってからも王都にも住まず、ルートヴィヒ殿下とお会いになったことも数回もあるかどうからしいわよ。ルートヴィヒ殿下も本心ではなくて婚約者不在だと言い寄ってくる者が多いから、そういう人避けのために形だけ許婚になったそうよ」
ほ~ん……。そうだったのか。なるほどね。
まぁ確かにそう言われたらそうだ。もし本気で俺とルートヴィヒの婚約が正式決定していたのならば俺は王都に移されてルートヴィヒの近くで生活させられていてもおかしくはない。これまで数回会ったことがある程度でしかないというのは本当のことだ。
「そもそもルートヴィヒ殿下が辺境の田舎者なんかと結婚なさるはずないでしょう?婚約者もいないとなると言い寄ってくる家が増えるからそのために形だけ婚約したに決まってるじゃない」
「そして本命のヘレーネ様とこっそり逢瀬を重ねているというわけね」
「カーザース辺境伯家の娘は悲惨ねぇ……。自分がそんな扱いだとも知らずにルートヴィヒ殿下の婚約者だと思って図に乗っているらしいじゃないの」
え!?そうだっけ?俺って図に乗ってたのか。知らなかった……。
「しっ!カーザース辺境伯家の娘がどこにいるかわからないんだから滅多なことは言わない方が良いわよ。田舎者だけど、いえ、田舎者らしく辺境伯家なんて武力に物を言わせる野蛮人なんだから何をされるかわからないわよ」
そうだね。こんなに人がいる所ではあまり他人の悪口は言わない方が良い。特にその相手の顔も知らないのならなおさらだ。なにせ目の前で聞いているかもしれないからね。
それとカタリーナ、物凄い形相で彼女達を睨むのはやめようか。俺は彼女達を責めるつもりなんてない。むしろ素晴らしい情報を教えてくれたと感謝したいくらいだ。
ヘレーネとルートヴィヒがね。それは良いことを聞いた。確かに言われてみればおかしな点もたくさんあった。俺が許婚になってからルートヴィヒと会ったのは数回だ。言われてみれば普通なら婚約が決まった時点で俺は王都に移住させられてルートヴィヒと一緒にさせられていてもおかしくなかった。
それなのにそんなこともなければこれまで両家でも二人の間にも何もない。日本式に考えれば結納とかもなかったし、両家による今後についての話し合いもなかった。それはよくよく考えてみればおかしなことだ。
カーザース辺境伯家ほどの家と繋がりを持つというのならば普通は両家の今後について話し合いが持たれるはずだろう。お互いの協力体制や今後の利益配分など話し合わなければならないことは山ほどある。そういった実務的なことは何も決められず、ただふわふわした婚約だの許婚だのということだけが決められて放置されていた。それは即ちそれらはダミーだったからだというのは説得力がある。
俺は周囲の言い寄ってくる者を避けるためのダミーの婚約者だったのだとすれば納得だ。カーザース家と話し合う必要もない。なにせ本気で結婚させる気などないのだから。
なるほど~……。これは思ったよりも簡単に婚約破棄出来るかもしれない。むしろ俺が何もしなくとも時期が来れば自ずと向こうから婚約破棄してくれるのではないだろうか。
ただしその場合に俺が悪いことにされたら堪らない。あくまで俺には原因はなく婚約破棄したという事実は確保しておかなければまずい。王様やルートヴィヒは外聞を気にして俺に責任があるようにもっていく可能性はある。そこだけはどうにかしなくては……。
「昨年に引き続き今年も特別においでくださいましたヴィルヘルム国王陛下よりお言葉を賜りたいと思います。皆様拍手でお迎えくださいませ」
俺が考え事をしている間にヘレーネの挨拶は終わっていたらしい。そして出て来たのは王様だ。何故こんな所に王様が?とは言うまい。
昨年に続いてというけど昨年はルートヴィヒが入学した年であり入学式にやってきても不思議はない。そして今年はルートヴィヒの花嫁候補であるヘレーネがいるからやってきた。何もおかしくはない話だ。
「本日は私的な用件で参った故、そう硬くなることはない。今年の新入生は余にとってもルートヴィヒにとっても、そしてプロイス王国の将来にとってもとても重要な者が入学してきた。そのために余も顔を出したのだ」
そう言いながらヴィルヘルム国王は俺の近くの方を向いた。
「えっ!私っ!?」
「ば~か。あんたのわけないでしょ……」
「そうよ。ヘレーネ様に決まっているでしょう?」
先ほど重要な情報を教えてくれた三人組が何か愉快なことを話している。この三人本当に面白いなぁ。漫才トリオとかやったらウケ……、るほど世の中甘くはないな。実際にプロの漫才師になればきっと観客から金返せと言われることになるだろう。面白くはあるけどプロ漫才師としてはやっていけない。
そしてそんな三人の視線を追えば、先ほど新入生代表の挨拶をしたヘレーネ・フォン・バイエンの姿があった。王様の視線もその辺りを向いている気がする。やっぱりルートヴィヒの花嫁の本命候補はこの子か。ならば俺は相応に振る舞って下手に表に出ずいつでもフェードアウト出来る準備をしておくべきだな。
ヘレーネもうっすら微笑んで王様に応えているような感じだ。やっぱり裏ではそういう取り決めがあるのだろう。貴族って怖い。俺はもう貴族なんて信じられない。田舎の小領主である俺は領地に帰って大人しく開拓していたい……。
そんなことを考えているといつの間にか王様の挨拶も終わっていた。後半半分くらいは聞いてなかったけどまぁいいだろう。どうせ別に重要なことは言ってないと思うし……。
入学式も終わりゾロゾロと新入生達が大講堂から出て行く。その波に従って出て行こうと思ったんだけど呼び止められて振り返ると面倒そうな人が勢揃いしていた。
「フローラ!こっちだ!」
「……ルートヴィヒ殿下、そのような大声で呼ばないでください……」
俺を呼びつけたのはルートヴィヒだった。呼ばれた以上は無視するわけにはいかない。何よりルートヴィヒの周りには先ほど挨拶をしたヴィルヘルム国王にディートリヒ公爵、ルトガー、俺の両親にヴィクトーリアと俺の苦手な面々が勢揃いしている。
苦手というと少し語弊があるか。俺が普段お世話になっていたりして頭が上がらないというか無視出来ない相手というか。決して嫌なわけでもなければ苦手なわけでもないけど、頭が上がらなくて重要な人達が多い。
まぁ王様とかルートヴィヒとかルトガーとかには何の義理も恩もないけどね……。ディートリヒ公爵はギリギリ恩があるくらいだろうか。色々と根回しとか協力とかしてもらったことがある。
両親とヴィクトーリアには恩も義理もあるから蔑ろには出来ない。これから恩を返していくために色々と俺の方がしていかなければならないだろう。
「ようやく……、今年から毎日一緒に居られるな!」
「そのようなお話をされるために呼ばれたのですか?新入生はこれから各教室へ向かわなければならないのですが?」
そんなどうでも良い話のために呼びつけるなよ……。だいたいそれはルートヴィヒの愛しい相手であるヘレーネに言え。ダミーの婚約者である俺に言ってどうする。それともこれも周囲に対するポーズか?
いや、そうか。これだけ人目がある場所で俺を呼びつけて話をしていれば嫌でも目立つ。俺をダミーの壁役として最大限利用するためにあえてこの場で呼び出して目立たせたのか。やるな、ルートヴィヒ。
「まぁそう言ってやるな。ルートヴィヒはこの日を楽しみにしていたのだ」
王様ぁ、それは俺は関係ないでしょう?ヘレーネと学園でイチャイチャ出来ると思ってのことでしょうが?
「ふんっ!おい!田舎娘!ルートヴィヒ殿下には他にもっと相応しい相手がいるんだ!身の程を弁えておけよ!」
あぁ、そうか。ルトガーはもっと前からルートヴィヒとヘレーネのことを知っていたのか。だから俺に前々からこんなことを言っていたんだな。今となってはその理由がよくわかった。心配しなくても俺だってルートヴィヒと結婚する気なんてサラサラない。俺が悪者にされない程度に立ち回らせてもらうさ。
「あら?ルトガー殿下?フローラちゃんがルートヴィヒ殿下には相応しくないと?あらあら?私の聞き間違いかしら?」
「ルトガー!口を慎め!うちの愚息が申し訳ないマリア殿」
お母様……、殺気を漲らせてルトガーを威圧するのはやめましょうか……。ディートリヒ公爵ですら怯えてるじゃないか……。母の本性を知っている者からすれば恐ろしいことこの上ない。
「国王陛下や殿下とあんなに親しく……」
「あれはどこのご令嬢だ……?」
まずいな……。周囲がヒソヒソと話をし始めた。こんな面々と気軽に話していたら目立ちすぎる。
「それでは私は教室へ向かわなければなりませんのでこれで失礼いたします。御機嫌よう」
やや早口で挨拶すると俺は急いでその場から逃げ出した。もう絶対噂になってるよこれ……。
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教室には付き人は入れないので俺一人で入る。クラス分けは家格で決められており俺が所属する一組は今年の最上位の家ばかりが集められている。当然ヘレーネは一組の一番上、筆頭であってカーザース辺境伯家は一組でも精々真ん中やや後ろくらいというところだ。
今年は公爵家が二家、あとは侯爵家が大半だけど一組には辺境伯家が二家ある。二組は残りの侯爵家、三組、四組は伯爵家のようだ。
こうして見ると辺境伯家は侯爵家と比べてもかなり上位に位置づけられていることが窺える。カーザース辺境伯家だけじゃなくて他の辺境伯家も一組だから大半の侯爵家よりは上ということだろう。
もちろん辺境伯家よりも上の侯爵家もあるわけで一概には言えないけど歴代国王が辺境伯家を重視してきたことは間違いない。
ちなみに偉そうに言ってるけど顔や名前を知っているわけじゃない。名簿と席順が貼り出されていてそれを見ただけのことだ。序列順に名簿が貼り出されておりその番号が自分の席の番号になっている。二十五人中十四番が俺。もう一人の辺境伯家は二十二番だ。
各クラス最大二十五人までで四クラス百人しか入学出来ないらしい。それも毎年必ず百人埋まるわけではなく入学に満たない家格の者ばかりの年ならば定員割れも普通だという。三組、四組は伯爵家、それ以上は一組、二組に割り振られる。
俺が自分の席に着いて待っていると何やら視線を感じる、というかザワザワと噂されている気がしてならない。やっぱりさっきルートヴィヒ達と話をしていたから俺がカーザース家の娘だとして注目されているのだろうか。
「貴女がカーザース辺境伯家の娘?身の程を弁えなさいよ!」
「何調子に乗ってるの?本気で貴女如きがルートヴィヒ殿下に相手にしてもらえると思っているのかしら?」
おおっ!?何か知らないけど女の子達に囲まれてしまったぞ?顔と名前は一致しないけどさっき席に着いていた感じからすると恐らく俺より上位の侯爵家の者達だと思う。まさかこれがいじめか?
この学園は男女がクラスで別れていないから同じ教室内に男子生徒もいるけど皆知らん顔をしているな。この女子達より上位の貴族家も我関せずを貫き通すつもりのようだ。
「やめなさい貴女達。何をしているの!」
「ヘレーネ様……」
「いくわよ……」
一人の女子生徒が俺の前に立つとばつが悪そうに俺を囲んでいた女子達は逃げて行った。流石は序列一位の方は違う。
「大丈夫だった?」
「はい。何もされておりませんのでご心配には及びません。助けていただきありがとうございますヘレーネ様」
俺の前に割って入って助けてくれたヘレーネにお礼を言っておく。辺境伯領内では最上位であるカーザース家もプロイス王国全体で見れば上位ではあっても最高位ではない。これからの三年間が思いやられる。
「いいのよ。気にしないで。何かあれば遠慮なく相談してちょうだいね」
「ありがとうございます」
そしてこの美少女だ。嫌味がないというか自然に振る舞っているのになんとも優雅なことよ。俺のようななんちゃってご令嬢と違って本物のお姫様とはこういうものかと思い知らされる。カタリーナも最初に俺ではなくヘレーネを見ていればもっと違った感想を抱いたに違いない。
こうして俺の学園生活は幕を開けたのだった。




