第七十話「王都へ行く前に!」
何故カタリーナがこんな所に?今ではカーザーンの北門から真っ直ぐ街道沿いに進めばカーンブルクまですぐに到着する。街道の正面にあるカーン邸までやってくるのは簡単だろう。だけどそうじゃなくて……、俺のことを見限ったらしいカタリーナが何故今頃になって俺の前に現れる?
昔は頬がこけて目が落ち窪んでいた顔が、今ではほどよく女性らしくふっくらしている。長い睫にプルプルの唇、ヘルムートと同じ美形の顔はまるでアニメやゲームから出て来たかのような整った顔だ。
カサカサだった肌はツルツルスベスベになっており、パサパサだった髪も艶々でサラリと風に流れている。ボロボロだった爪も逆剥けもなくなっている。ただしあまりこちらに見せていないけど掌側は労働者のような手をしているのだろう。チラリと見える範囲では相当手を使っていることが窺えた。
今すぐ駆け寄って抱き締めたい。長年閉じ込めていた想いが溢れてくる。だけど駄目だ。それは許されないことだ。カタリーナは俺に嫌気が差して離れて行った。それなのに今更俺がそんな態度を取ればカタリーナを不快にさせてしまうだけだろう。ぐっと堪えて努めて冷静に声をかける。
「ヘルムート……、これはどういうことでしょうか?」
「はい。カタリーナはあの日よりずっとフローラお嬢様にお仕えするためだけに一生懸命努力してきました。まだ至らない所はあるかと思いますがフローラお嬢様が王都へ行かれてはお仕えする機会を失してしまいます。そこで今回フローラお嬢様が王都へ行かれる前に連れて参りました。」
…………ん?何?
俺が思ってたのと何か違う答えが返って来た。というかカタリーナが俺に仕えるために努力してきた?何で?よくわからない。カタリーナは俺が嫌になって離れたんだよな?
「フローラ様!私はこの時のために出来得る限りの努力をして参りました。未だ至らぬ身ではありますがあの日の約束通りフローラ様の前に戻って参りました。どうか私がフローラ様のメイドとしてお仕えすることをお許しください!」
あの日の約束通りに?……もしかして、もしかして全部俺の思い違いだった……?カタリーナは俺が嫌になったとか見限って離れたのではなかった?
そうだ……。そう言えばあの日、カタリーナがロイス家へ帰る日に玄関口で確かにそんなようなことを言っていた気がする。
俺はその時ショックを受けていたからあまりきちんと聞いていなかったし社交辞令的な挨拶だと思っていた。だけど確かにカタリーナはまた俺の前に戻ってくると言っていた。それはこういうことだったのか?
俺がカタリーナに望むのは同い年の女の子同士の友達としてや、一緒に暮らした姉妹のように親しい間柄を望んだ。だけどカタリーナは俺にそのような関係ではなく主従を望んだ?だからこんな行き違いのようなことになったのか?
そう言われれば色々と得心することもある。あの時のカタリーナの硬い表情は俺を拒絶した顔ではなく固い決意の表れだったのだろう。
俺はカタリーナと友達のように親しく、姉妹のように一緒に、キャッキャウフフしたい。そして出来ることなら百合百合したい。
俺の望んだ形とは違うかもしれない。カタリーナが俺に求めるのは仕えるべき主としての俺だ。それでもこうしてカタリーナがまた俺の傍に居てくれるというのならそれはそれで良いじゃないか。そしていつか百合百合したければ今度は俺がカタリーナを口説き落とせば良い。
俺はいつの間にか椅子から立ち上がって頭を下げているカタリーナの前に立っていた。
「顔を上げてくださいカタリーナ。おかえりなさい……。これからは、これからはずっと一緒に居てくださいね?」
カタリーナの顔を上げさせてそっと抱き締める。カタリーナは嫌がることなく俺の抱擁を受け入れてくれた。
「はいっ!必ずフローラ様のお役に立ってご覧にいれます!」
こうして俺は六年半ぶりほどでようやくカタリーナとの誤解が解け再会を果たしたのだった。
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いつもと同じ普通の朝なのに俺は今とても緊張している。そして俺の後ろに立っている者も俺の緊張がうつったかのように緊張しているのがわかる。
「そっ、それでは失礼いたします」
「そんなに緊張せず普通にすれば良いのですよ」
緊張でガチガチになっているカタリーナに俺はそう声をかけたけど俺だって緊張している。何故なら今から俺はカタリーナに着替えをさせてもらうからだ。
今までは俺の着替えはイザベラが担当していた。だけど今日からイザベラ監修のもとカタリーナが行なうことになっている。初めて俺の着替えを手伝うということで緊張しているカタリーナと、同い年の女の子にこれから裸を見られて肌を触られるのかと思うと緊張している俺の二人は傍から見ていたらきっと可笑しいだろう。
でも俺達は到って真面目だ。緊張するなという方が無理な話でありドキドキが止まらない。俺がおかしいわけじゃないぞ。十五歳ほどの時に同級生の女の子に自分の裸を見られて着替えをしてもらうと考えてみろ。誰だって緊張するだろう。
スルリスルリと、シルクの寝巻きが脱がされていく。シルクはスベスベの肌触りで気持ち良い。いずれ養蚕もしてみたいけど残念ながら現在はまだ出来ていないのでこれは輸入品だ。シルクの寝巻きを脱がせていくカタリーナの手が俺に触れるけどやっぱり硬くてガサガサだった。
ヘルムートに聞いた所、カタリーナはカーザース邸から実家に帰って以来勉強も家事も料理もありとあらゆることを修めるために頑張っていたらしい。この手がガサガサなのはそんなカタリーナの頑張りの証だ。その手に触れられて不快になど思うはずもない。
服を脱がされた俺の肢体が大きな姿見に映っている。カーン騎士爵領産の大きな板ガラスを利用した大鏡はかなりの高値で取引されている。でもうちは生産元だから気にすることなく使い放題だ。白磁も含めて原価としては本当はそこまで高くないからね。
俺の肌が顕わになるとカタリーナが『ほぅっ』と熱い息を吐いた。何だかのぼせたように顔が赤くなっている。うっとりしたような表情で鏡を見ているカタリーナの様子がおかしい。
「カタリーナ?大丈夫ですか?」
「えっ!?あっ!もっ、申し訳ありません!あまりの美しさに少し呆けておりました!」
慌てたカタリーナが頭を下げた。まぁその気持ちもわからなくはない。これだけの一品は中々お目にかかれないというかここにしかないだろう。
「そうでしょう?カーン騎士爵領の特産品なのですよ。可能な限り平らに均された一枚物の大鏡など他のどこに行っても手に入らないでしょう。装飾も凝っているでしょう?」
真っ直ぐ平らな板ガラスに綺麗に銀メッキしている大鏡は曇り一つない。高級感を出すために装飾も美しく凝ったものになっている。こんな鏡はこの世界でもカーン騎士爵領でしか生産されていない。カタリーナが見惚れるほどの美しい仕上がりに俺も満足している。
「はぁ……、フローラお嬢様は……」
後ろでイザベラが何か溜息を吐きながら首を振っている。一体どうしたというのか。その後は何とか落ち着いたらしいカタリーナに着替えさせてもらい朝食に向かったのだった。
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カーン邸に到着した俺は早速書類を処理する。カタリーナはイザベラに連れられて仕事を教えられている真っ最中だ。王都へついて来るのならば今のうちに仕事を覚えておく方が良い。
俺は書類を確認しながらここ最近のカーン騎士爵領の様子も思い浮かべて問題点を考える。長期間離れなければならなくなるから今のうちに出来るだけ問題を片付けておく方が良いだろう。
まずカーンブルクは今ではディエルベ川までの街道沿いにずらっと家や店が並んでいる。最早東の船着場まで全てひっくるめて一つの町と言える規模だ。最近ではカーザーンではなくカーンブルクにやってくる船客も増えており街道沿いの店も賑わっている。
また川沿いに北東にビニールハウスが並んでおり綿花栽培が盛んになっている。まだまだ輸出出来る量は少ないけど俺が下着や生理用品に困ることはない。
セルロースから作った分厚いセロハンのようなものでビニールハウスが実用化されている。現代地球の透明なビニールやセロハンと違って濁った色をしているし薄く出来ないから分厚くて扱い難いけど無いよりはマシだ。
ただ問題点もあってセルロースは非常に燃えやすい。何かの拍子に火が着けばあっという間に燃え広がってしまう。防火用に柵を設けたり川沿いにビニールハウスを設置して川の水から吸い上げる消火ポンプを設置したりと対策はしているけど、万が一の時は大火になる可能性も覚悟しなければならないだろう。
またビニールハウスで綿花栽培をしているとはいっても全てが成功するわけじゃない。各ビニールハウス毎に出来が悪かったり最悪の場合は全て枯れたりで収穫量は安定しない。ビニールハウスの効果が安定しないせいだろう。暑すぎたり寒すぎたりうまく温度調整出来ていないからそうなるのだと思う。
他にもディエルベ川沿いにガラス工場と鏡工場が建設されているのでそこからの収入はカーン家にとっても重要なものになっている。また同じエーレンの管轄でヘクセンナハトで生産されている白磁も多大な利益を生み出している。
プロイス王国中でヘクセン白磁と言えば今話題のブランドとなっており大金を叩いてでも買いたいという者が後を絶たない。プロイス王国どころかフラシア王国貴族までヘクセン白磁を購入しているそうで、戦争でヘクセンを奪い取ろうなどという過激なことを言っている者もいると専らの噂だ。
その備えもあって西に開拓中の村があるわけだけどもちろんそれだけじゃない。北西の魔族領域を避けて北西の海と北東の海の両方で貿易をおさえれば相当な利益が見込めるだろう。
またエーレンだけじゃなくてアインスとアンネリーゼもカーン家にとって多大な貢献をしてくれている。アインスの研究は具体的な商品にはなっていないけどセルロースの合成に成功したのはアインスのお陰だ。またセルロースが出来たからこそ不完全とはいえビニールハウスが出来るようになり綿花の量産にも拍車がかかった。
アンネリーゼは化粧品や健康食品的なものの開発で多大な貢献をしてくれている。紅花から染料の抽出に成功して赤い染料が手に入るようになったのは最近の成果だ。他にもハーブや薬草といったものの効能を確かめ商品化に成功したものもある。化粧品と健康関連のものはいつの時代も女性に売れる。
金儲けの話だけじゃなくてカーンブルクからキーンへの陸路、水路も盛んになっておりカーン領に商品を仕入れにやってくる商人達も増えている。クルーク商会は昔からのご贔屓なので多少優遇はしているけど実は俺も商会を立ち上げている。
カンザ商会と名付けられた俺の商会はカーン騎士爵領に留まらずプロイス王国中に販路を広げつつあり、その影響力は日増しに高まっている。まぁそりゃそうだろうな。カーン騎士爵領産の名品をカンザ商会に卸しているんだからカーン領産の物が売れれば売れるだけカンザ商会の影響力も高まるというものだ。まるでマッチポンプみたいですねぇ~。怖いですねぇ。悪い奴ですねぇ。
キーン港は開港間もないというのにすでにプロイス王国一の港として有名になりつつある。またキャラック船やキャラベル船を利用して遠方まで貿易に出ているので、今まで取引の難しかった相手や輸送の問題があった地域へも輸送や貿易に出向けるようになっている。それらの利益も計り知れないものでありカーン家の財政を潤してくれている。
甜菜糖や鶏卵といった初期の商品は流石にもう他に真似され始めておりカーン領産だけが一強というわけじゃない。今までカーン家の財政を支えてくれた主力商品ではあったけど他が追ってきているので固執する必要はないだろう。もちろんうちで生産している分はそのまま生産販売は続ける。ただ利益は以前の独占状態に比べればかなり落ちている。
甜菜糖の製造方法がどこからどうして漏れたのかはわからないけど乳製品はまだ追従してきている者はいない。初期費用がかかる割りに利益率が低いからなのか、まだ製造方法が漏れていないからなのか、その辺りはわからない。
あと型遅れのコグ船やハルク船の建造販売は行なっている。造船所も増やしているし職人の養成や仕事を切らさないために外部の建造依頼も請けているので一般でも出回っている旧型のコグ船やハルク船は売っている。
ただキャラック船やキャラベル船はまだうちの独占状態なので流出させるのは早い。完成させるまでの試行錯誤もあったのでイニシャルコストを回収出来るまではうちで独占しておきたい。
カーン領は人口に比べて兵士の数が多い。普通は兵士が多すぎては税収で賄えなくなり大変なことになる。カーン家は色々と収入があるお陰で兵士が多くても賄えているだけだ。
あと……、ミコトが齎してくれたお米と大豆の栽培にも成功している。あの後暫くして俺はミコトといつも会っていた場所に再び行くようになった。だけどあれからミコトは一度たりともあそこに現れることはなかった。俺があんな風にミコトを突き放し傷つけたのだから俺がミコトに何か言える立場にはない。ただ今もミコトは元気でやっているだろうかと思ってしまう。
それはともかくミコトが教えてくれた通りに稲作と大豆栽培を行なったのでお米と大豆がとれるようになった。米糠でおつけものも作れるようになったしお米からお酒も造っている。大豆からは醤油や味噌を作ろうと試行錯誤中だ。一応それっぽいものは出来ているけどまだ日本のものとは何か違う。何もなかった頃に比べればずっとマシになったけどまだまだ俺の求める物には程遠い。
王都に行く前に色々と片付けようと今日も俺は執務室で机にかじりついて書類と格闘していたのだった。




