第五十三話「海!」
リンガーブルク家の当主は空白のまま宙に浮いている。プロイス王国は女系の継承も認められているからアレクサンドラが継いでも制度上問題はない。だけどもしニコラウスが暗殺されたのだとして、犯人の目的がリンガーブルク家そのものや継承関係だったならばアレクサンドラが跡を継げばアレクサンドラまで危険が及ぶかもしれない。
王都にあるというガブリエラの実家に避難するということで二人はカーザーンから旅立って行った。最後に挨拶に来てくれたのはうれしいけど見送りも出来ずにアレクサンドラ達が去って行ったのは心残りだ。
ここで少し日本の皇位継承にも関係している『女系』と『女性』の違いについて説明しておこう。
日本の天皇家には『女性天皇』は存在したことがあるが『女系天皇』が存在したことはない。これを万世一系と言い一つの家系がずっと続いていることを表す。
戦後教育では意図的に男系・女系の概念を教えず近年の皇位継承問題では『女性・女系天皇』などとして一緒くたにして語ることで男系・女系の理解がない者を騙して賛成意見を集めるような手法が取られている。
日本にもかつては『女性天皇』は存在した。そして『女性天皇』には何の問題もない。今の皇室典範で女性天皇を認めていないだけで女性天皇の存在そのものは誰も否定しないだろう。最も有名な女性天皇と言えば推古天皇や、重祚(一度天皇の位を退いてから再び天皇に即位すること)をした皇極天皇・斉明天皇辺りだろうか。
これをもし現代日本に当てはめるならば愛子様が天皇になられればそれは『女性天皇』であってそこまでは特別問題にはならない。皇室典範の改正が必要なだけでこれを強硬に反対する人は少ないだろう。問題はその次だ。
仮に愛子様が天皇になろうがなるまいが、愛子様が天皇家の男以外と結婚してその子供が天皇になれば、それが例え男であろうと女であろうとそれは『女系天皇』となるのでこれは絶対に認めてはならない。男系・女系のこの違いがわからなければどういうことか意味がわからないだろう。
『男系氏族』とは父、父の父、父の父の父と辿っていく一族のことだ。仮に田中太郎さんという人がいたとしよう。田中太郎さんの父は田中だ。父の父も田中だ。父の父の父も田中だ。こうして父の父と辿っていくと全てその家系になる。
逆に母の母の母の……、と辿っていくのが『女系氏族』となる。日本の家は女系氏族ではないので仮に今母の母の……、と辿って行こうとしても名前も家もバラバラになるだろう。
この男系・女系は男尊女卑だとか時代錯誤だとか性差別だとかそういう批判にはあたらない。一族を分ける上で男系か女系しかなく男系での分別に合理性があったから世界中で同時多発的に男系氏族が形成された。だから全世界のほとんどで遥か昔から男系氏族として一族が成り立っている。
これがどうして必要なのかと言えば父の母の母の家とか言い出せば世界中ほぼ全ての人間がどこかしらで繋がることになる。自分の親が死んだ時にまったく見ず知らずの人がやってきて『百代前の兄弟が別々の家に別れた親戚だから俺にも遺産を分けろ』とか言ってきても誰も納得しないだろう。
またまったく縁も所縁もない人が突然家にやってきて『お宅の七代前の当主の兄弟の嫁の実家だからお前の家の墓にうちの家の者の骨を入れさせろ』とか言われて入れる者はいないだろう。
このように一族というのには地位や財産や権利が継承されている。それを守り誰にどこまで適用されるかが重要だ。今は家の当主だの家長だの本家だの分家だのというのは誰も意識しない。戦後そういう風にされたからだ。
またこの一族と似て非なるものが親戚というやつだ。男系・女系氏族というのが縦の繋がりだとすれば、親戚というのは縦も横も含めて身の回りの縁者というだけで血縁である必要すらない。
例えば祖父母が亡くなった時にわけのわからない会ったこともない親戚とやらがやってきた経験を持つ人もいるだろう。従兄妹の結婚相手の実家の誰々とか言われたらもう縁も所縁もない赤の他人だ。それでもその人は親戚足り得る。
家の当主は父の田中であり、先代は父の父の田中であり、先々代は父の父の父の田中だ。祖父と言えば母の父も含まれてしまうので正確ではない。
こうして父の父の父の……、と繋がっていくのが男系氏族であり天皇家は日本の国家元首となってから少なくとも千七百年以上もこうして父の父の父の父の父の…………、と明確にはっきりと確実に繋がってきた家系だ。
その中で父親の家系が天皇家である女性は『女性天皇』になったとしても『男系天皇』であり問題はない。逆に母親が天皇家であっても父親が天皇家でなければその子供が男であっても『男性天皇』で『女系天皇』となりそれはまったく別の家になってしまう。
昔は養子縁組や入り婿が喜ばれなかったのもこれだ。娘の婿として家に入っても、先ほどの例で言えば田中太郎さんが鈴木花子さんの鈴木家に入り婿で入っても生まれてくる子供は『男系氏族』上では田中家になる。名前だけ鈴木が残ってもそれは家系としてはすでに田中家に乗っ取られているのだ。
これは鈴木家のこれまでの家系、地位、財産、ありとあらゆるものが田中家に乗っ取り奪われることでありまったく別の家になってしまうことを意味する。だから養子縁組の跡継ぎも入り婿も喜ばれない。戦国時代に入り婿や養子が盛んだったのはまさに戦争をせずに相手を乗っ取るためだ。
愛子様が仮に田中太郎と結婚して産まれた子供が男の子であっても皇位を継ぐことは許されない。もしその子供が皇位を継げばそれはもう今の天皇家ではなく新たなる別の田中天皇家が誕生するということになる。万世一系が途絶える。女系天皇は容認出来ない。というのはこういうことだ。それを女性天皇と女系天皇を混同させて女性差別だの蔑視だのと世論を動かそうとしている勢力にのせられてはいけない。
翻ってヨーロッパでは女帝、女王がいるではないか。人権や男女平等が行き届いているヨーロッパに比べて日本は遅れている。というのも話が違う。
ヨーロッパの王朝で○○朝や××朝という名前がコロコロ入れ替わっているのを不思議に思ったことはないだろうか。あれは前王朝が滅んで次の王朝に取って代わられているのだ。
中国の易姓革命のように戦争をして前の王朝を倒して前皇帝一族を皆殺しにして次の王朝が建つというのはわかりやすい。日本人にも一目でわかるだろう。それに比べてヨーロッパの王朝は戦争もしていないのに○○朝がある時突然××朝にかわる。
実は現代地球では今まさに一つの王朝が終わりを迎えようとしている。イギリス王室は現在ウィンザー朝のエリザベス二世が女王をしている。もしこのエリザベス二世が崩御すればウィンザー朝は断絶して別の王朝が始まるのだ。
チャールズ皇太子がいるから家は断絶していないじゃないかと思うかもしれない。でもそれは大きな間違い。エリザベス二世の夫フィリップ王配はウィンザー朝の人間じゃない。だからチャールズ皇太子の男系はウィンザー朝ではなく、もしチャールズ皇太子やその子孫がイギリス王室を継げばフィリップ王配のマウントバッテン家が王家となりウィンザー朝は断絶する。
これの誤魔化しとしてマウントバッテン=ウィンザー朝としてウィンザー朝の名前を残そうということになっているだけで実際にはマウントバッテン朝に代わるだけだ。
ヨーロッパでは王家が断絶して王朝がかわっていることを理解していながらそれでも良いという風土があるだけで日本の『女系天皇』を認めることとは何ら関係がない。また数十年程度でコロコロ王朝が変わるヨーロッパと万世一系の日本では問題がまったく別次元だ。
プロイス王国では女系の継承が認められている。アレクサンドラがリンガーブルク家を継ぎ、その子供が継いでいくことは制度上認められている。だけどニコラウスを暗殺した者の思惑がわからない限り下手にアレクサンドラにリンガーブルク家を継がせるわけにはいかない。
「わぁ!見てください父上!海が見えますよ!」
そんなことを考えている間に俺達は山を登りきり海を見下ろしていた。父に休みを貰ってから一ヶ月、俺達は北の森を歩き回り調査しようやく山を越えて海が見える場所までやってきた。
カーザーンから見て北西を頂点とする山は東へ行くほど次第に標高が下がってくる連峰になっている。北の森を測量したり調査しながら歩き回り、越えるのに丁度良さそうな場所を見つけたので山を登って来た。山の上からは北に海が見えている。まだ距離はそこそこありそうだけど海が見えるだけでもテンションが上がってしまう。
俺の想像通り北東の川はどんどん東に曲がっていくそうで川を下るとかなり大回りしなければ海まで出ないらしい。いや、海へ出るのは川を下っていけば良いけどかなり東に行ってしまうから俺の領地の範囲内に港町を作ろうと思うと海へ出てから西へ戻らなければならないというべきか。
そこで陸路はどうかと思って実際に海まで行ってみることにした。折角父が休みをくれたので休みを使った旅行みたいなもんだ。まぁ仕事ばっかりしてるけど……。
で、だ。俺が森の調査に入ると言ったら父もついてきた。いいのかこれ?領主様が一ヶ月以上も領地を離れて……。しかも今は下の兄も王都へ行って学園に通っている。上の兄はもうすぐ卒業して帰ってくるだろうけど今はまだいない。誰も代役もなしで領主様がプラプラと遊んでいていいのだろうか。
王都へ行った時はもっと長い時間領地を離れていたじゃないかというのは話が別だ。王都なら居場所もわかっているし連絡も取れる。それに遊んでいたわけじゃなくて仕事をしていたわけで緊急の用事があれば王都のカーザース邸に連絡を寄越せば良い。
それに比べて今は連絡の取りようもないし森の調査とは言っても遊んでいるのとそう変わらない。しかも俺はカーン家として開拓するつもりだから仕事だけどここを開拓しないカーザース家のご当主様は別に仕事はないだろう。まぁいいけど……。
こうして父と出歩くのも良いものだ。深い森の中、数名を連れただけで父と寝食を共にするというのも色々と良い交流になった。
最近俺と父は何だか色々と交流が多い気がする。昔、俺がまだ幼かった頃は父との接点なんてほとんどなく、あっても事務的な感じがしたけど最近ではこうして色々と父との接点が増えた。……まぁ、今でも毎朝、毎晩鉄の棒でぶん殴られてはいるけど……。
ここについて来ているのはエーリヒにドミニクにヘルムート、そしてまさかのイザベラ……。あと数名の父の部下だという兵士や荷物持ち。イザベラはこんな所までついてきて大丈夫かと思ったけど山を登っても平気なようだ。姉のヴィクトーリアは少し歩くだけでも疲れていたけど妹のイザベラは体が資本と言わんばかりに元気一杯だな。
「この距離ならば今日中に海まで出られるか?ふむ……。今日は海の近くまで行ってキャンプにするか」
「はいっ!」
父の言葉に頷く。海~!海~!もうすぐ海だ~!いつまでもクヨクヨしていられない……。アレクサンドラのことは吹っ切らなきゃ、ね……。
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順調に海の近くまで出た俺達は今晩のキャンプ用にテントを張る。テントを張り終わったら早速……。
「海だぁ~!海ですよヘルムート!」
「フローラお嬢様、あまりはしゃぐとあぶないですよ」
お?ヘルムート君、それは俺の足腰が弱いから砂に足を取られて転ぶとでも言いたいのかね?それなら勝負するかね?
誰もいない砂浜を駆けて波打ち際まで行く。十一年近くぶりに見る海だ。海はどこへ行ってもやっぱり海なんだなと思う。
「山頂から見た感じでは誰かが生活していそうな場所は見当たりませんでしたね」
「そうですね。こちら側に誰かが住んでいるというのは聞いたことがありません」
波打ち際で足をつけて遊んでいるとヘルムートが追いついて来たので声をかけてみると予想通りの答えが返ってきた。海の上は船が通るだろうから村の一つでもあればとっくに発見されているだろう。それがないということはこの辺りには大勢住んでいる場所は存在しないということだ。
「獲れる海産物は普通の他の沿岸部と同じようなものですよね。どうしてこの辺りには人が住みつかなかったのでしょう?」
もっと東へ行けば、そう、北東の川が海へ流れ込む河口付近の場所には村があるらしい。だいたい人の生活圏というのは水場の回りに発達する。川沿いや海の回りだ。だから森で遭難したら川を見つけて下っていけばどこか人のいる場所に出る確率が高い。
「その……、ここよりもう少し先に行くと魔族の領域です。昔は魔族と海戦も行なわれて西の海はまさに最前線でした。そんな場所の近くに住む人はいなかったのでしょう」
あぁ……、俺はいまいちピンと来ていないけどそう言えば北西には魔族の国があるんだったか。昔から何度となく戦争を繰り返しているらしいからそんな場所の近くには住みたくないというわけだ。
「せっかくこんなに綺麗なのに……、もったいないですね」
「ええ、本当に……、綺麗です」
……ん?ヘルムートがじっとこちらを見ている。向こうに何か見えるのかな?……後ろを振り返っても特に何もない。ただ延々と広がる海が見えるだけだ。何かそんなに俺の方を見てそんなことを言われたら俺が綺麗だと言っているみたいじゃないか。普通の女の子だったら変な誤解をしてしまいかねないぞ。気をつけ給へ、ヘルムート君。それでなくても君の顔は女殺しなんだから。
「えいっ!」
「んっ……」
ヘルムートに海水をかけてやる。突然のことでモロに浴びたヘルムートはびしょびしょだ。
「あははっ!油断大敵ですよ」
「フローラお嬢様……、これは私も反撃しても良いということでしょうか?」
「おや?私と勝負するつもりですか?良いですよ?ほら!」
「負けませんよ」
ヘルムートももうすぐ十八になろうかという歳なのに子供だねぇ……。俺としては何だか男友達と遊んでいる時を思い出すようで懐かしい。こうして暫くヘルムート達と砂浜で遊んでいたのだった。




