第四百九十二話「逃げ足!」
ハノーヴァーを襲撃し、ハーメレンの占領に成功したテュレンネは満足気に町を眺めていた。
「よし。町の西側へ行くぞ」
「「「はっ!」」」
ハーメレンの占領は完了しており、すでにあちこちで『お楽しみ』が始まっている。テュレンネも『お楽しみ』に興味がないわけではないが、それよりも自分に酔うことが大好きなテュレンネはハーメレンの西の端へと向かった。
ハーメレンはヴェルゼル川の東岸に位置し、町の中を抜ける主要街道が東西に走っている。西はロッペ侯爵領などからやってくる道であり、東へ進めば途中で北上してハノーヴァーへと続いている。ハーメレンはヴェルゼル川を盾にして西からの侵攻を防ぐために作られている町とも言える。
そのため町の防衛や監視はヴェルゼル川の西側、他領やフラシア王国方面への警戒ばかりに偏っており、北東側から攻め寄せてきたテュレンネ軍に対してまともに対応も出来なかった。
町の西の端、ヴェルゼル川の手前まで来てみれば、川を渡るための橋がかけられており、その東側、ハーメレン側だけ城壁や門が設置されていた。テュレンネはすでに占領が完了している門へと近づき門から監視している兵士に声をかけた。
「ご苦労。様子はどうだ?」
「はっ!異常ありません!」
ハノーヴァーへは先に奇襲を行なっているので、ハノーヴァーの兵がこちらに出て来れるようになるまでは暫く時間が稼げるだろう。しかしもし西岸のヴァルテック侯爵領やロッペ侯爵領に応援を求められていたら、この橋で敵を食い止めないと自分達が追い詰められてしまう。
ここは敵地のど真ん中であり、下手な立ち回りをすれば自分達があっという間に包囲殲滅されてしまう状況だ。そんな大胆な作戦だからこそこれほどの大戦果を挙げられたわけだが、当然それだけの危険も孕んでいる。一歩間違えれば自分達が全滅する危険な任務だ。
「ふむ……」
テュレンネも門からヴェルゼル川に架かる橋を眺め……、急にブルリとしたかと思うと動きを止めた。
「――ッ!?」
「テュレンネ大元帥閣下?」
「どうかされましたか?」
急にブルリと震えて止まったテュレンネを兵士達が不思議そうに見詰める。
「…………いや、何でもない。私は少し向こう側の様子を見てこよう」
「は……?あっ!きっ、危険では?それならば我々がっ!」
テュレンネの言った言葉の意味がわからず、ポカンとしていた者がようやくその意味を理解して慌てて止めた。テュレンネは自分がヴェルゼル川の西岸に出向いて確認してくると言ったのだ。何故いきなりそんなことを言い出したのかはわからないが、フラシア軍の大元帥をそんなところへ行かせるわけにはいかない。
「なぁに、そう遠くへ行くつもりはない。それにお前達も『お楽しみ』がしたいだろう?こんな時にこんな場所を見張っているだけなんて酷というものだ。ここは私と手の者で見張るからお前達も楽しんでくると良い」
「ですが……」
「なぁ……?」
兵士達は困ったような、笑顔のような顔でお互いの顔を見合わせた。確かに『お楽しみ』には行きたいが、大元帥に監視任務を任せて自分達が『お楽しみ』に行って良いものか悩んだ。しかしその後二、三言テュレンネに説得された兵士達は門からの監視をテュレンネ達に任せて『お楽しみ』へと向かったのだった。
「よろしかったのですか?テュレンネ大元帥閣下」
「ああ……。私はこれから少し西岸を見てくる。お前達はこの門と城壁を守れ」
「はっ!ですが大元帥閣下をお一人で行かせるわけにはまいりません。護衛をお連れください」
「わかった」
これ以上はお互いに譲れない。お互いに了承してテュレンネは二人の護衛を連れて橋を渡り西岸へと入った。
「大元帥閣下、これ以上進まれては危険です。あまりハーメレンから離れないように……、大元帥閣下?」
「…………」
ゆったりと馬を歩かせながら西岸側を進んでいたテュレンネは……、ハーメレンから見えない森へと入ると徐々に馬の足を早くしていた。護衛の二人が必死で止めようとするがテュレンネは何も言わずにさらに馬の足を急がせる。
「お待ちください大元帥閣下!」
「黙れ!お前達も急げ!早くハーメレンから離れるんだ!」
「……は?」
護衛の二人はテュレンネの言っていることが理解出来ない。何故急いでハーメレンから離れなければならないのか。
作戦は完璧だった。後方基地であるハノーヴァーに大損害を与え、敵の動きを封じた上でハーメレンを一時的とはいえ占拠。余力のあるはずのヴァルテック、ロッペ両侯爵達はまだ襲撃に気付いていないはずであり、そして仮に気付いてもヴェルゼル川を盾に戦えば多少数の不利があっても十分に戦える。
元々ハーメレンは西からやってくる者を食い止めるために出来ており、ヴェルゼル川西岸からの攻撃には堅牢に出来ている。自分達の奇襲が成功したのは敵が警戒もしていない北東方向から奇襲したお陰だ。
今の状況ならこれから数週間ほどはハーメレンに篭ることが出来るだろう。まだ危機的状況どころか、ここまではフラシア軍の圧倒的勝利であり、これからさらに戦果を挙げられることは間違いない。それなのに何故テュレンネがハーメレンから逃げるようにこのようなことをしているのか理解不能だった。そしてそれはテュレンネも同じだ。
テュレンネが何故今突然ハーメレンから逃げ出しているのか。それを論理的に説明してみろと言われても何も説明しようがない。論理的に考えれば護衛の二人が考えているのと同じ結論に行き着く。ハーメレン西の門だけきちんと守り、ハノーヴァー方面の敵とある程度戦えばこれから数週間は戦えるだろう。そのはずだ。
しかしテュレンネは逃げ出した。理由も理屈もない。あえて説明するならばそれは勘。テュレンネが今まで戦場で生き残り、多大な戦果を挙げてこれたのは全てこの勘によるものだ。
どんな論理的思考よりも、ほぼ確実と思われる予想よりも、何よりもテュレンネが頼りにしているのは自身の勘だ。成功間違いなしと言われている作戦でもこの勘がまずそうだと言えばそれに従ってきた。危険だと周囲に言われても勘が大丈夫だと言えば実行してきた。そうしてテュレンネは数々の功績を挙げてきたのだ。
テュレンネは何よりもこの勘を信じている。そしてその勘が告げている。あのままハーメレンにいては死ぬ。確実に、絶対に、何があろうと、回避不能の最悪の死が訪れる。
今までここまで強く死の予感を感じ取ったことなどない。今でも心臓がバクバクと脈打ち、それなのに血の気が引いて青褪めている。あそこに居てはいけない。あそこに居れば必ず死ぬ。だからテュレンネは全ての兵を見捨てて、自分一人だけが早々にハーメレンを脱出したのだ。
行きがかり上、護衛二名も一緒に逃げることになったがそんなことはどうでも良い。いや、むしろ多少なりとも護衛がいるのならその方が良いだろう。テュレンネは護衛二人を連れてひたすらハーメレンから離れようと急いだ。
西へ、フラシア王国側へと逃げたい。心情としてはそうだ。しかし真っ直ぐ西へ向かうのも得策ではない。真っ直ぐ西へ向かえばヴァルテック、ロッペ領を抜けなければならず、それでは危険が増す。それにハーメレンで感じたほどではないが悪い予感がする。だからそちらへ向かうのはあり得ない。
テュレンネはヴァルテック、ロッペ領を南に大きく迂回して、道なき道を進み、森を突っ切り、時にモンスターに襲われながらも護衛二人に戦わせて、フラシア軍の一大拠点ともなっているドルティムンドまで無事に退却することが出来た。
ドルティムンドはハノーヴァーからハーメレン、デトモルド、ドルティムンドと南西方向に連なっており、ホーラント王国南のレイン川とその支流ルウルー川付近、ルウルー地方でも重要な大都市となっている。
かつてプロイス王国からフラシア王国に割譲された地域の中で、ホーラント王国の南東や南側に接するウェストファレン地方、そのルウルー川付近、ルウルー地方は大都市が多く、撤退中だったコンッデ公もこの辺りに退却してきているはずだ。
テュレンネがハーメレンを脱出してからもう何日も経っている。もうハーメレンにいた千の兵は生きてはいまい。テュレンネの勘が外れることはない。あそこに居た者は皆死んでいる。
「くそっ!何故だ!何故このようなことに……」
ようやくドルティムンドまで戻ってきたテュレンネは一気に不満が爆発した。今までは逃げることに必死で考えている暇などなかったが、ドルティムンドに到着して安全になったと思った瞬間様々なことが頭をよぎった。
まず……、ハーメレンの部隊は確実に全滅しただろう。どんな手段を用いたのかは知らないが、ハノーヴァーの部隊にやられたとは思いにくい。いきなり千の部隊を壊滅させるような兵をハノーヴァーが用意出来るとは思えない。それが出来るとすれば何週間も先のはずだ。
また西側からロッペ・ヴァルテック軍が動いてきたとしても、ヴェルゼル川と城壁と橋のお陰でかなり持ち堪えることが出来る。そんな簡単に落とされるはずがない。見届けずに逃げてきたから何があったかはわからないが、普通に考えたらあの状況でいきなりハーメレンを占拠している千の部隊が全滅することなどあり得ない。
あり得ないはずなのに……、それが起こった。間違いなく……。見届けていないがテュレンネは間違いなくそうなったと確信している。
自分達の作戦は完璧だった。コンッデ公が退却しながら敵を引き付け、その裏をかいてテュレンネが敵の後方へと浸透して損害を与える。作戦は全てうまくいっていた。実際に奇襲と占拠まで成功している。それなのに何故……。
「そもそもこの作戦を知っていた者など極僅かのはず……、なのに何故……、まさかっ!?」
連れて行った兵ですら直前まで作戦は伝えなかった。この作戦を事前に知っていた者がいるとすればそれは……。
「そうか……。そういうことか……。私の奇襲だけ成功させ、そのまま私が死ねば……、その功績が誰の物になるのか……。それを考えればすぐにわかることだったな……」
そうだ。今までテュレンネの作戦を全て知ることが出来た人物と言えば一人しかいない。そしてこの戦争でテュレンネが挙げた功績も、途中でテュレンネが死ねば全て得られる人物がいるではないか。
「しかし詰めが甘かったな。私はこうして戻ってきたぞ!だが……、まだだ。罪を問い追及するのはまだ早い……。恐らく私が戻ることは奴にとっても想定外のはず……。死んだと思った私が戻ってきたと知ればどんな顔をするかな?そして……、奴の策に私は気付いた。だが私が気付いたことに奴はまだ気付いていないはずだ。今度は私がそれを利用させてもらおう」
ニヤリと……、テュレンネは醜悪な笑みを浮かべる。ブツブツと言っている大元帥が何を言っているのか聞き取れていないが、ここまで一緒にやってきた護衛二人は薄ら寒いものを感じていた。
テュレンネは確かに優秀な指揮官なのかもしれない。自分達がたった三人で、敵の領地奥深くから、森を抜けて、モンスターと戦い、無事に戻ってこれたのはテュレンネのお陰だ。しかし……、この指揮官は何か不気味だ。護衛二人はこの数日の間にそれを思い知った。
「テュレンネ大元帥、兵も連れずに戻ったと聞いたがどうされたのだ?」
「あ~ぁ、これはこれはコンッデ公、なぁに、少しばかり予想外のことがありましてね、くくっ!」
テュレンネが戻ったと聞いて迎えに出て来たコンッデ公に、テュレンネは両手を広げてヘラヘラしながら答えた。
「予想外のこと?それも早く聞きたいがこちらも重要な報告がある。しかしまずは体の汚れを落として食事でもされてはいかがかな?」
コンッデ公はあまりに酷い姿のテュレンネに気を利かせてそう言った。テュレンネは傷こそないが薄汚れてボロボロの格好をしている。それにやややつれている風であり、あまり良い食事も摂れていなかったことが窺える。コンッデ公は本当にただ単純にテュレンネを心配してそう言っただけだった。
「いえ、何やら緊急の話もある様子。先に話し合いましょう。少々臭うかもしれませんがそこは辛抱していただきたい。何しろ休む暇もなく命懸けで森の中を駆け抜けてきたばかりですのでね」
テュレンネはそう言ってまた肩を竦めた。そして聞こえない小さな声でブツブツと呟いた。それは誰にも聞き取れなかったが『折角生きて戻ったのに毒を食わされてはかなわないからな』と言ったように聞こえた。




