第四百八十九話「ヘルマン・フォン・ロッペ侯爵!」
ロッペ領のデトモルドを出発した俺達はロッペ侯爵達が展開、待機している領境へ向けて急いでいた。基本的に南北方向に流れているヴェルゼル川だけど、このロッペ侯爵領やヴァルテック侯爵領の飛び地、ブラウスヴェイグ=ルーネブルグ公領の境目辺りで東西方向に曲がっている。
S字のように曲がっているヴェルゼル川の西岸にあるのがロッペ領とヴァルテック領であり、川の東岸になるとブラウスヴェイグ=ルーネブルグ領となる。
千の兵を引き連れたフラシア軍を発見したロッペ侯爵達は東西に曲がったヴェルゼル川の南側、領境で待機して引き続き情報収集をしているらしい。俺達はまずはそのロッペ侯爵達と合流しようとデトモルドから北北東くらいの方向へと急ぐ。
「こんなことなら……、もっと兵を連れてくるのでしたね……」
少数の兵しか連れて来なかったことが悔やまれる。まさか千もの大軍が、こんなプロイス王国の奥地まで入り込んでいるとは思いもしなかった。まぁ奥地というほどではないんだけど、手前の敵を無視して通り過ぎて相手の領内まで入り込めば、普通に考えたら補給が出来なくなる。まさか補給を省みずこんな奥地まで入ってくるとは……、相手の指揮官はよほどの馬鹿と見える。
もちろんこの時代の軍隊からすれば補給なんて食料と矢くらいなのだろう。それ以外は即座に必要というものはないのかもしれない。そして食料も矢も現地調達が可能だ。鉄砲の弾と違って矢に規格などありはしない。長弓と短弓で同じ矢は使えないという程度の差はあっても、似たような長さがあればどの弓にも流用可能だ。
それにしたって……、普通補給も退路も確保せずに、しかも手前にいる領主を無視してその奥を先に攻撃するか?それでこちらのフラシア・プロイス国境側にいる貴族達に連絡が入って退路を塞がれてしまったら、自分達が袋のネズミになるとは思わないんだろうか?
まぁ……、この時代の通信網は非常に脆弱だ。しかも他の領主同士というのはあまり連携しない。他国では王の下に協力し合っているのかもしれないけど、プロイス王国貴族達は領邦として大きな権限があり、自分達のことをプロイス王国という領主の集まりの組織に所属している小国くらいに思っている。
当然領主達は自分達がそれぞれ一国並の権利意識を持っているし、近隣の領主とは仲が悪いことも多い。何しろ昔から領地争いとかがあるわけだからな。近所の者同士の方が仲が悪くても何も不思議じゃない。もちろん近隣同士で非常に仲が良い場合もあるけど、両極端が多いという感じだろうか。
昔っから争っている仲が致命的に悪い者同士か、お互いに助け合っていて非常に仲が良いか。そんな極端な例が多い。そして多少仲が良くてもお互いに情報を流し合ったり、侵入者に対して協力して対処したりはあまりしない。
敵の指揮官は今までこういう作戦である程度成果を挙げてきたんだろう。そしてそれが成功するのもわかる。もしロッペ侯爵達がちゃんと巡回と警戒をしてくれていなければ、敵がブラウスヴェイグ=ルーネブルグ領まで侵入していることなど気付くこともなかっただろう。そしてブラウスヴェイグ=ルーネブルグからの情報や協力要請もなかったに違いない。
貴族達は自分達がやられたという情報を流すことや、周囲に助けを求めるということを嫌う。もちろん寄子が寄親を頼るのは普通のことだ。だけどブラウスヴェイグ=ルーネブルグ公爵ほどの者が、敵に簡単にやられた上に対処出来ないからと周辺の自分より格下の貴族家に協力を仰ぐなんて恥だと思って黙っている可能性が高い。
「フローラ様、そろそろお召し替えを」
「ああ……、そうでしたね……」
急いでいるというのに着替えなければならない。デトモルドではジーモン達とフローラとして会う予定だった。だからフローラで良かったけど、ここから先は戦闘になるだろう。フローラのまま出て行っては俺が何も出来なくなってしまう。
「鎧に着替えている暇はありません。体型が誤魔化せれば良いのです。ブカブカの服に外套を纏えば体型は誤魔化せるでしょう」
「それでは少々不恰好になってしまいますが……」
カタリーナが難色を示しているけど構っている暇はない。フラシア軍が通過してからの時間を考えれば一分一秒を争う事態だ。そもそもいつもの大きめの鎧で体型を隠しているのも大概不恰好だと思う。今更の話だろう。
とにかくすぐに着替えるために、邪魔になるスカートやドレスは脱いで体のラインが出ないブカブカの服に着替えた。そして馬を飛ばして走っていると東西に流れているヴェルゼル川の南側で屯している集団を発見した。
「私はプロイス王国貴族、フロト・フォン・カーン侯爵だ。こちらはヘルマン・フォン・ロッペ侯爵の陣で間違いないか?」
まぁロッペ侯爵の軍だとはわかっているけど、こういう礼儀や作法を無視してはいけない。特に相手は他所の貴族家だ。それに対して俺が先に無礼に振る舞うのはよくない。
「久しいなカーン卿」
「これはロッペ卿」
俺の声を聞いてすぐにジーモンの父、ヘルマン・フォン・ロッペ侯爵が現れた。普通なら兵が連絡に走ってから俺が通される形になるだろうに、今は緊急事態だからかヘルマンがそのまま出て来た。こちらとしては余計な手間が省けるから助かる。あまり格式張ったことばかり重視する相手では無駄な時間がかかるだけだからな。
「早速話し合おう。こちらへ参られよ」
「はい」
歩き出したヘルマンに続いて陣に入って行く。まぁ簡易的なもので本格的な宿営地や陣地とは違う。すぐに引き払えるように、ちょっとした天幕が少しと、あとは石を組んで火を囲んでるという程度だろうか。
「まずは……、このような場所で迎えることを謝罪したい。それで早速で申し訳ないが本題に入らせていただいても良いかな?」
「はい。謝罪を受け入れました。それでは早速本題に入りましょう」
ここで謝罪を受けるだの必要ないだのと言い合っていても時間の無駄だ。俺は気にしていないし、ヘルマンも本当はそんなに気にしていないだろう。これはあくまで貴族的やり取りの一種だ。そして俺達は初顔合わせではない。
王都で色々と催しがあった際に、俺はこのヘルマン・フォン・ロッペ侯爵と顔を合わせたことがある。元々ロッペ侯爵は国境に近い領地を空けて王都に出向くことは滅多にない人物らしい。基本的に全貴族が出席しなければならないような催しや式典でも名代を送るばかりで本人が来るということは滅多になかった。
そもそも現在はジーモンが学園に通うために王都に滞在していることが多いし、ジーモンは次男であり長男の兄がいるのでその兄が名代で王都に来ることも多かったようだ。
そんなロッペ侯爵だけど、俺がカーン派閥、……もう父が認めたからカーン・カーザース派閥と言う必要はもうないだろう、にラインゲン、ヴァルテックと共に入ってもらう話になった時に、王都の式典にかこつけて来てもらい会ったことがある。もちろんその席でヴァルテック侯爵や元ラインゲン侯爵カールも一緒だった。
手紙でのやり取りや、ジーモンやエンマを通してのやり取りは前々からあったけど、その会談によりカーン派閥の結成と彼らの参加が正式に決まったというわけだ。それからほとんど会ったことはないけど、ヘルマンはカーン家に良い印象を持ってくれているのか、かなり協力的に何でも手を貸してくれるようになった。
「現在フラシア軍の動きは息子が追っている。敵はブラウスヴェイグ=ルーネブルグ公領に入ったのは間違いない。わかっている時点での敵の動きはこう……、ハノーヴァーの北へ向けて移動中だ」
「なるほど」
もともとこの世界では精密な地図など存在しない。あっても他人にホイホイ見せることもない。地図は最高の軍事機密であり、それを敵や他人に見せることなどあり得ないというわけだ。
でもヘルマンはかなり詳細な地図を拡げて、そこに敵の動きやこちらの配置を細かく教えてくれた。この地図もカーン家とロッペ家の協力の証の一つであり、カーン家から派遣された測量士達が測量して地図にしたものだ。領地を調べて地図を作らせてくれと言って了承してくれる相手などまずいない。その点からもロッペ家がカーン家を信頼してくれているのがわかる。
もちろんこの地図はカーン家だけが得るものではなく、ロッペ家にも渡されており彼らにとっても詳細な地図が手に入るのはメリットがある。でも普通の貴族なら他人による領内の調査や測量なんて断るだろう。
「やはりハノーヴァーを北側から急襲、そのまま南に抜けてハーメレンも襲撃、一晩を明かすつもりですか……」
「そうだろうな。日暮れ前を利用すればハノーヴァーからの追撃部隊も出て来るまい。そうなれば逃げるのも容易い。そして自分達の補給とねぐら確保のためにハーメレンを襲う」
これまでわかっている敵の動きから流れの予想は同じだった。ヘルマン達も伊達に国境付近の貴族を長年務めているわけではない。ロッペ家やヴァルテック家もカーザース家に劣らず戦上手のようだ。
「私はヴェルゼル川を渡ってハノーヴァーへ向かいましょう」
「それならば我が軍も同行しよう。カーン卿の兵は百数十ほどであろう?千の敵を討つにしては少ない。それにブラウスヴェイグ=ルーネブルグ公爵は兵など出してくれぬぞ。かの御仁はそういう御仁だ」
ヘルマンは辟易した顔でそう言った。領地が近いからよく関わりがあるんだろう。しかも自分の領都やその近隣の都市が襲われたというのに兵も出さないとヘルマンは言い切った。大体どういう手合いなのか、会う前からわかろうというものだ。
俺はブラウスヴェイグ=ルーネブルグ公爵と親しくない。ほとんど会ったこともないし、会ったと言っても式典などで遠目に見たとか、簡単な挨拶を交わしたとか、そんな程度の話だ。じっくり付き合ったことがないからどんな人物かはわからない。
父やヘルマンは領地が近い公爵家ということで色々と付き合いがあったからわかるんだろう。普通なら自分の領都が襲われたら、俺達が向かったとしても『自分達のことだから援軍は無用だ!自分達でケリをつける!』と言うくらいだろう。でもブラウスヴェイグ=ルーネブルグ公爵はまったく真逆の人物らしい。
「元々ブラウスヴェイグ=ルーネブルグ軍をあてにはしておりません。練度が低く連携も取れない友軍などいても足手まといでしょう」
「ふむ……。百数十で千を叩こうと思っていたのか……。やはりカーン卿は恐ろしい御仁だ。この詳細な地図も、平時であろうとも絶やすことのない巡回と警戒の方法も、全てが画期的だった。そのお陰で今回の対応が間に合っている。これまで常識とされていた戦法、手法の数々がまるで児戯のようだ」
嫌味や皮肉ではなく、ヘルマンは本気でそう思っていると俺に伝えてきた。そう言ってくれるのはありがたいけど、この時代の人間が簡単にそれを受け入れて認められることの方が凄い。ほとんどの人物はこの有用性や効果も理解出来ず、実際に試すこともなく頭から否定するだろう。それが出来るだけでもヘルマンはこの時代にしては突出した傑物だと言える。
「ロッペ卿の判断や敵の動きの読みは適切です。どのような情報やどれほど優れた体制があろうともそれを扱う者が愚かでは意味がありません。僅かな間でそれらを見事に取り入れ活用している。恐ろしいのはロッペ卿の方でしょう」
「年寄りを持ち上げても何も出んぞ?しかし……、カーン卿にそう言われて悪い気はせん。……よし!それでは一気にヴェルゼル川を渡りハノーヴァーを目指すとしよう」
膝を叩いたヘルマンが立ち上がる。でもそれは大丈夫なんだろうか?ロッペ侯爵領がフラシア王国との前線に近いということは何ら変わらない。ここよりさらに西側にはすでにカーン・カーザース連合軍が布陣しているから、よほどのことがない限りは大丈夫だとは思うけど……。
「ご協力はありがたいですがロッペ侯爵領がフラシア王国から攻撃を受けてはより一大事となります。兵は残しておられた方が良いのでは?」
「ふむ……。フラシア軍を追跡している長男ベルンハルトは戻すことにしよう。それから申し訳ないが全軍は出せぬ。私自身と……、三百の兵が精々というところだ」
う~ん……。折角協力を申し出てくれているし、断れば相手の顔を潰すことになる。でも自由に動けなくなるのもな……。
「それに……、カーン卿はブラウスヴェイグ=ルーネブルグ公爵と渡りはつけられんだろう?私ならば顔が通っている。この緊急時には余計な手間が省けると思うがね」
それを言われると……。そうだな……。スムーズにブラウスヴェイグ=ルーネブルグ公爵と渡りをつけるためにも、ここはヘルマンに協力してもらうか。
「わかりました。それでは三百より少なくとも良いので騎兵だけでお願いします。ここからは時間との勝負です。機動力の高い者だけを選りすぐってください」
「心得た」
こうしてすぐに準備が整えられ俺達はヴェルゼル川を渡った。ヴェルゼル川東岸に入った俺達は一直線にハノーヴァーを目指す。フラシア軍は北へ迂回したようだけど俺達は迂回する必要はない。ここは最短最速でハノーヴァーを目指すべきだ。
「おおっ!なんてことだ……」
「あれは……」
夕焼けの空に、明らかに夕焼けとは違う理由で赤く染まった空と、その赤を覆い隠すように黒々と昇っている煙が見えていた。俺達は急いでそちらへと向かう。かなり近づいてきた頃、焼けた臭いやかなりの騒ぎになっている声や音が遠くから風に乗って聞こえてきていた。
「ここからは慎重に進みましょう。敵が戻ってきたと勘違いされて攻撃される恐れもある。旗を掲げろ!」
「はっ!」
襲撃があって間もなく、また謎の軍が現れたら再度の襲撃かと思って向こうも慌てるだろう。下手すれば問答無用で射掛けられる可能性もある。念のためにプロイス王国の旗を掲げ、慌てずゆっくりと近づく。
「そこの者ども止まれ!どこの者だ!」
森を抜けて城壁に近づくとすぐにそんな怒声を浴びせられた。明らかに殺気立っている。下手なことをすれば本当に友軍に射掛けられてしまうだろう。
「私は隣領の領主!ヘルマン・フォン・ロッペ侯爵だ!ブラウスヴェイグ=ルーネブルグ公爵にお取次ぎ願おう!」
「ロッペ?」
「何故今ロッペ侯爵が?」
他の者の耳に聞こえているかどうかはわからないけど、俺の耳にはコソコソと話しているハノーヴァーの兵の声が聞こえていた。彼らが困惑するのもわかる。
突然謎の勢力に奇襲を受けたかと思うと、特に予定もなければ先触れもなかった隣領の領主がやってきたとあっては誰でも驚くだろう。
「すぐに城へ使いを出す!しかしご覧の状況だ!入城の許可が下りるかどうかは返答しかねる!しばらくそこでお待ちいただこう!」
侯爵が直々に来ているというのにこの扱いは失礼だろう。下っ端の兵士如きがこのような対応を決めて良いものではない。でもまぁ……、向こうの言う通り今は状況が状況だ。安易に招き入れて、俺達が偽装した敵兵だったらまたハノーヴァーが被害を受けるかもしれない。警戒するのも当然だろう。
早くブラウスヴェイグ=ルーネブルグ公爵と会う必要がある。俺達が勝手にブラウスヴェイグ=ルーネブルグ公領内で軍事行動をするわけにはいかない。こうしている間にも恐らくハーメレンが襲われているだろうに……、他領の都市とはいえ襲われているのがわかっているのに何も出来ない。ジリジリと焦る気持ちだけが募ってきていた。




