第四十五話「騎士爵?」
頭からぶどうジュースをかけられたというのにその少女はニッコリ微笑んで口を開いた。
「お気遣いありがとうございます、アレクサンドラ様。ですが私はこちらへの招待状を頂いておりますのでこの会場で間違いございません」
落ち着いてそう言う少女にアレクサンドラは度肝を抜かれた。普通このくらいの歳の頃なら、いや、例え大人であろうともこんなことをされたら動揺してすぐには立ち直れないだろう。ましてや子供ともなれば怒るか泣き出すかするのが普通だ。
それなのにこの少女は怒るでもなく、慌てるでもなく、むしろその濡れている姿すら神々しいまでに何一つ気品を損ねていない。
「そんな嘘が通ると思ってるの!たかが騎士爵家如きにこのパーティーの招待状が届くはずはないでしょ!」
そこへアデーレが割って入って声を荒げた。アレクサンドラに叩かれた頬は少し赤くなっているが本気で叩いたわけでもないのでそれほど大したことはない。
アデーレの言うこともわかる。確かにこの会場には子爵家の上位以上しか呼ばれていないはずだ。騎士爵家の令嬢如きが呼ばれるはずはないというアデーレの言葉は正しい。他の取り巻き達も遠巻きに見ている者達も誰もがアデーレの意見に賛成している。
しかし……、とアレクサンドラは思う。本当にただの騎士爵家の令嬢ならばこれほど堂々としていられるだろうか?この場は明らかに格式が高いということはどんな鈍感な者でもすぐにわかるはずだ。そんな中にあってこれほど堂々としていられる騎士爵家の令嬢などというものが存在するとは思えない。
招待状に関してもそうだ。普通ならこれだけ言われればもしかして間違えているかもしれないと少しは考えたりしないだろうか。それなのにこの少女は一切自分のことを疑っていない。ただの馬鹿だと言えばそうかもしれないがこれだけの者達に囲まれてそう言い切れるだけの確信を持っているのではないだろうか。
「そんなことは後にしなさい!それよりもまずは控え室へ行って拭きましょう。着替えは私の予備のドレスを……」
そんなことを考えかけたアレクサンドラは慌てて頭を振って今しなければならないことを思い出す。今すべきことは少女のことを追及することではなくジュースをかけられたドレスをどうにかして、少女が会場を間違えているのならば急いでもう一つの会場へ行かせてあげることだ。
急いで控え室へ連れて行こうと手を引っ張ったがすぐに手を放されてしまった。アレクサンドラが振り返ると少女は最初と変わらない落ち着いた笑顔を浮かべていた。
「一人で大丈夫です。それでは一度控え室に下がらせていただきますね。御機嫌よう」
優雅に、煌びやかに、頭からジュースをかぶって濡れていることなど関係ないかの如く美しい所作で少女は頭を下げるとしっかりした足取りでホールを出て行った。アレクサンドラは呆けて見送ることしか出来なかったのだった。
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ようやく我に返ったアレクサンドラは取り巻き達をかわしてホールを出て行った少女を探して建物の中をうろつく。当然アレクサンドラは初めて来た建物なのだから案内された部屋以外はさっぱりわからない。闇雲に歩き回っていると人がほとんどいない場所までやってきてしまった。
この建物はカーザース辺境伯家の持ち物だ。もし下手に変な所に入り込んでしまってカーザース辺境伯家に不興を買えば最悪お家お取り潰しもあり得るかもしれない。
もちろんアルベルト辺境伯はそんなことで家臣の家をお取り潰しにするような者ではないが会ったこともない相手であり、する気があるかないかに関わらず出来るだけの力を持っている相手というのは恐ろしいものだ。アレクサンドラは不安になりながらも急いで少女を探そうと歩き回っていた。
「ちょっと貴女!いくら緊急時だったとはいえカーザース辺境伯様の施設で勝手に出歩いては駄目でしょう!」
「はぁ?そうですか?」
人気のない廊下の向こうの扉から少女が最初に連れていた老メイドと一緒に出てくるのが見えた。慌てて近寄ったアレクサンドラが注意しているのに少女は不思議そうな顔をして小首を傾げている。
可愛らしい
いやいや、違う。そうじゃない。
危うく少女の姿に誤魔化されそうになったアレクサンドラは頭を振って溜息を吐く。控え室で拭いているのかと思って行ったのに控え室には少女の姿はなかった。まさかと思って探してみればカーザース家の建物の中を勝手に出歩いているなどもしカーザース辺境伯様にでも見つかればどんなお叱りを受けるかわからない。
「『そうですか?』ではないでしょう!いいですか?そもそもこの建物は昔カーザース辺境伯家が第三次北伐戦争の時に……」
あまりに事態の重要性を理解していない少女にアレクサンドラは語り出した。
「聞いてますの?いいですか?その時我がリンガーブルク家は……」
「はぁ……」
折角説明しているというのに少女は気の無い返事しかしない。とにかく早くドレスを拭いてもう一つの会場へ向かわせなければ、と思い出してドレスを見て驚いた。
「って、あっ!貴女!よく見たらドレスの染みがなくなっていますわね。一体どうやって?」
「あ~……、え~っと……、メイド長のイザベラが染み抜きしてくれました」
イザベラというのは後ろに控えている老メイドのことだろう。まだ僅かな時間しか経っていないというのにジュースの染みもなく完璧に乾いている。
「あれは絶対染みになると思いましたのに……。一体どのような方法を使われたのかしら?」
「それは……」
物を大事にする、と言えば聞こえは良いが色々な物を新調するお金がないリンガーブルク家では染み抜きや、生地を傷めない洗い方などは重要な要素になっている。老メイドにその神技とも思える染み抜きの秘訣を教わればこれからもまだまだ着れるドレスが確保出来るかもしれない。
「こんな所で何をしている?」
「こっ、これはアルベルト様!私はアレクサンドラ・フォン・リンガーブルクと申します」
そしてそんなことをしている間にアレクサンドラが最も恐れていた事態が発生してしまった。よりにもよってアルベルト・フォン・カーザース辺境伯その人に勝手に入り込んでいる所を見つかってしまったのだ。慌てて挨拶したアレクサンドラは緊張でガチガチだった。
「今日は奥の部屋を使う予定は聞いていないが?カーン卿?」
「申し訳ありません。少し緊急事態がありまして……、個室を使いました。事後報告になったことはお詫びいたします。カーザース卿」
「ふむ……、そうか……。緊急事態ならばやむを得ないが何かあれば先に連絡をいただきたいものですな」
「申し訳ありません。以後気をつけます」
チラリとアルベルト辺境伯がアレクサンドラの方を見たのでアレクサンドラは心臓が飛び出すかと思うほど跳ね上がった。
「カーザース辺境伯様とこんなに気安く……?それにカーン卿?卿とは爵位を持つ方のことですわよね……?」
爵位を持つ貴族のことは卿とつけて呼ぶ。爵位を持たない貴族の子女に対して卿とは呼ばない。それはつまり……。
「私が近衛師団の騎士、フロト・フォン・カーンです。よろしくアレクサンドラ嬢」
フロト・フォン・カーンと名乗った少女は手を胸の前に当てて騎士の礼でアレクサンドラに挨拶した。それは貴族のご令嬢がする挨拶の仕方ではなく騎士がするものだ。
「……騎士。騎士爵のご令嬢ではなく貴女が騎士様?」
アレクサンドラはヨロヨロと足元がふらついた。リンガーブルク伯爵家とカーン騎士爵家では伯爵家の方が上だ。しかしそれは伯爵の位を持つ現当主と騎士爵の位を持つ現当主の比較であって、例え伯爵家の家族であろうとも爵位を持たない者が騎士爵とはいえ爵位を持つ者を軽んじて良いはずはない。この国の法でもきちんと定められており身分が保証されている。
そしてそのことがわかれば数々の疑問も解けてくる。カーザース家臣団全ての家を覚えているアレクサンドラがカーン騎士爵家など聞いたこともないわけ。アルベルト辺境伯と気安く言葉を交わしているわけ。
カーン家はカーザース家の家臣ではなく別の独立した貴族家だ。カーザース家の家臣団は全て知っているアレクサンドラでも王国中の貴族家を全て覚えているわけではない。だから知らない騎士爵家というのはそれで説明がつく。
そしてお互いに爵位を持つ貴族同士ならば階級の差があろうとも一応お互いに礼節を重んじて尊重し合わなければならない。もちろんそんなものは建前であって現実的には爵位の差が態度の差となって現れることもしばしばだがそれでも王国の法に則っていれば相応の振る舞いをしなければならない。
カーン騎士爵家が騎士爵なのにこのパーティーに呼ばれている理由。それは騎士爵家のご令嬢ではなく本人が騎士爵を持つ貴族でありアルベルト辺境伯のゲストとして呼ばれているからではないのか。
それなのに自分はカーン騎士爵に随分失礼な態度を取ってしまった。その後パーティーに戻ったアレクサンドラは気が動転して後のことをあまり覚えていなかったのだった。
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社交界デビューが終わってから暫く経つがアレクサンドラのもとに訪ねて来る者も、アレクサンドラが訪ねて行く相手もいなかった。これは非常にまずい。
デビューでお披露目が済んだ子供達はこの時期仲良くなった相手の家に訪ねたり訪ねられたりしてお互いの力関係を構築していく。パーティー会場ではあくまで第一印象のみであって実際にその家のことを知り上下関係が出来上がるのは今の時期なのだ。
それなのにアレクサンドラのもとには誰からの手紙も来なければ送った手紙に色良い返事が返ってくることもない。パーティー会場ではあれほどアレクサンドラを持ち上げていた取り巻き達も家に帰ってリンガーブルク家の現状を聞いて誰一人アレクサンドラと付き合おうという者はいなくなったのだろう。
いつものことだ。それはわかっている。家格だけは無駄に高いが今では中身が伴わなくなってしまった落ち目の伯爵家などの相手をしている暇などない。皆今のうちに少しでも良い立ち位置を確保しようと躍起になっているのだ。
それはわかっていたはずなのに……。少しだけ、今、少しだけ落ち込んだらまたいつもの自分に戻るから。アレクサンドラは自分にそう言い聞かせてベッドに顔を伏せる。
そうしていると思い浮かぶのは例えジュースを浴びせられようとも優雅に振る舞う一人の少女の姿だった。
その少女のことを思い出すといても立ってもいられなくなったアレクサンドラはすぐさま筆を執ったのだった。
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数回の手紙のやり取りでアレクサンドラは確信した。フロトと名乗った少女は明らかに高い教養を持っている。アレクサンドラは誰にも負けないくらい高位貴族らしい手紙が書けると自負している。いや、していた。それなのにフロトから送られてくる返事は自分などよりも遥かに素晴らしく書かれていた。教養の低い騎士爵家のご令嬢などに書けるものではない。
その惚れ惚れするような美しい旋律の手紙を見ているだけでアレクサンドラはまるでその景色が目に浮かぶようで楽しい気持ちになってくる。そんな相手の家に訪ねていけるなどどれほど素晴らしいことだろうか。そう思ってやってきたのはカーザーンの北のはずれの森の前だった。
いつの間に開拓されたのかカーザーンの北に農場が出来ていることにも驚いたがさらに驚いたのは森の前に立つ老メイドだった。メイドが言うにはフロトの家はこの先にあるという。この先も何も森にしか見えない。まさか危険な森の中に入れとでも言うのだろうか。
……言われた。森へ入れと……。
そしてやってきたのは森の中にあるみすぼらしい掘っ立て小屋だった。森の外に馬車を停めてついてきた御者に帰るように促されたがここまで来たのだからとアレクサンドラはフロトの家を訪ねた。あまりにうるさい御者には森の外で待っているように伝えて一人で掘っ立て小屋に入る。
出迎えてくれたフロトを見て思う。やはりフロトはただの騎士爵ではない。着ている服が上等すぎる。それも急に用意したものではなく普段から着慣れていることが窺える。勧められたソファもリンガーブルク家伝来の品とは比べるべくもないが騎士爵家が用意出来るとは思えない程度には品質が高い。
テーブルも、机も、調度品も、どれもこんな森の中の掘っ立て小屋にある物とは思えないほどにはそれなりに値の張る物ばかりだ。そしてよくよく考えてみれば森の中の掘っ立て小屋だと思っていたが建物自体は新しいしボロボロの小屋ということはない。ただ作りや規模が掘っ立て小屋程度というだけで品質に関しては掘っ立て小屋とは物が違う。
曇った目で見れば森の奥の掘っ立て小屋に住む貧乏貴族のように見えるが、よくよく冷静に考えれば家も調度品も家具もどれも新しくボロボロとは程遠い。これだけ新しい物ということはフロトがここに住むようになってからそれほど経っているとは思えない。
何よりここには寝室はないだろう。小屋の大きさとこの部屋の大きさから考えて残っているスペースはあまりない。ここで寝泊りしているようには思えない。
わからない。謎だらけだ。何故このような場所に急遽新しく小屋を建てているのか。こんな小屋を用意するためにそれなりの品質の家具や調度品を用意するだけのお金はどこから出て来たのか。騎士爵家如きには真似出来ないことだ。
しかしそんなことはどうでも良い。そんなことよりもこうしてフロトと向かい合って座ってしゃべる話の何と楽しいことか。出されるおいしいお茶に、お茶請けだという見たこともない甘いお菓子。それらを口にしながらフロトと過ごす時間があまりに楽しすぎてアレクサンドラの帰りは予定よりも大幅に遅くなったのだった。




