第四百四十三話「進軍停止!」
クリメア半島を出て東へ向かったオリヴァー隊を追いかけた俺達は、アゾブ海の端に近い場所でようやくオリヴァー隊に追いついた。アゾブ海とはブラック海の北東にある内海であり、クリメア半島などによって囲まれている部分のことをアゾブ海という。
大雑把に言えばこの辺りの海全てがブラック海だとも言えるかもしれないけど、どこは何とか湾だとか、どこは何とか海だとか、ちょっと位置が変わるだけで呼び名が変わったりするあれだ。その中でもアゾブ海はクリメア半島や周囲の大陸部分に囲まれているブラック海内のさらなる内海と言えるので、考えようによっては別の海や別の名称というのもおかしな話ではない。
クリメア半島の大陸側を東進したオリヴァー隊や俺達だったけど、俺が予想した通りに東側を監視していた部隊を殲滅することはできたけど、その奥にいると思った敵の本隊はついに捕捉することが出来なかった。
「バチュマンの話では、北にバスチーの部族、東にコチャンの部族、クリメア半島にバチュマンの部族が配置されました」
「ふむ……」
俺達はほとんどポーロヴェッツの言葉がわからない。ユーリーを介した通訳でバチュマンに聞いた話を整理していく。
ドニプロ川の向こう側だけど北ではイグナーツ達がドニプロ川西岸でポーロヴェッツの部族と戦闘になっている。それがどうやらバスチーの部族というらしい。
そしてオリヴァー隊が東に見つけて、不幸にも包囲殲滅してしまった敵はコチャンの部族というらしい。何故コチャンの部族が中々降伏せず多大な犠牲を払ってまで抵抗したのかはまだよくわからない。
俺達が戦ったクリメア半島に入り込んだのがバチュマンの部族だ。他の部族の動きから考えたらバチュマンの戦略眼や指揮能力は頭一つ抜けている気がする。
この三部族はコンチャークという実質的に現在ポーロヴェッツの十一部族を纏めている者に命令されて、それぞれの位置に配置され、俺達を足止めするべく戦ったらしい。そしてその配置や作戦はどう考えてもこの三部族が捨て石であることを表している。
そもそもドニプロ川西岸に布陣させるなんて退路がない袋小路に放り込んだようなものだ。背水の陣と言えば格好良いように聞こえるかもしれないけど、実際は愚策でしかない。自分達だけすぐに渡河出来て、相手を袋小路に閉じ込める術でもあるのならまだしも、ただ何の手もなく自ら袋小路に布陣するのは愚かなだけだ。
その点で言えばクリメア半島という区切られた狭い範囲に放り込まれたバチュマンもそうだし、東進してくるカーン軍の足止めとして配置されたコチャンもそうだろう。
「ここまで追ってきても敵の本隊が姿形もない。コンチャークという者はコチャンを捨て石にして時間を稼ぎ、早々に逃げ出していたのだろう」
「コンチャークならやりかねません。グザもバチュマンも同意します」
ユーリーの通訳でどうやら他の部族長であるグザもバチュマンもそう考えているようだということはわかった。他の部族は捨て石にして、自分達は戦うこともせず早々に逃げ出す。確かに冷酷で自分勝手な者にも思えるけど、大した策略家でもあるかもしれない。
敵は恐らく東の草原へ逃げ去れば俺達はそこまで深追いしてこないと思っているんだろう。そしてそれは間違いじゃない。
元々この辺りは遊牧民であるポーロヴェッツの支配領域だった。彼らは遊牧民だから家を畳んで持ち運び、家畜を連れてあちこちを移動しながら生活している。ほとんどは草原地帯で人口密度も低く、しかも一箇所に定住していないので、追われればいくらでも逃げればいい。
他の勢力がいる所まで入り込めば、そちらの先住と争いになる。でもこのクイップチャック草原は相当広い上に、他の勢力の所に行くまでにかなりの距離がある。まだまだ東へ逃げられる状態だ。対して俺達はあまり奥地まで侵攻出来ない。兵が少なく、補給の確保も難しい。各地に駐屯していけばすぐに攻撃部隊が足りなくなる。
実際すでにこちらは侵攻限界間近だろう。現在はクリメア半島を完全制圧するために俺が引き連れていた兵達が向こうに残っている。東に進んでいるのはほとんどオリヴァー隊と僅かな俺の手勢、それから降伏してきたポーロヴェッツの部族達くらいだ。
正確な測量をしていないからわからないけど、カーン家を除いたプロイス王国領と、現在カーン侯国が占領中の全領地を合わせたら同じくらいになっているのではないかと思われる。カーン侯国がプロイス王国と同程度くらいの広さがあると思えばどれくらい異常なのかわかるだろう。
ハルク海から旧ポルスキー王国を南東に抜けて、ブラック海沿岸をさらに東に進み続けている。重要拠点も少なく、人口密度も非常に低い。ただ領域だけは広大で、かといって防衛もせず放置するわけにもいかない。
こちらは要所だけでも防衛するためにどんどん駐屯兵を割いていかなければならないのに、敵は家と家畜を持って草原を逃げていくだけで良い。現時点でこれ以上追撃するのは難しい。兵力も足りず、これ以上は補給路も確保出来ない。
「これ以上はあまり深追い出来ない。それに私はそろそろ戻ることも考えなければならない時期だ。そこで現時点の領域の確保に暫く専念することとしたい。誰か意見のある者はいるか?」
合流したオリヴァー隊と今後について話し合う。ただ誰もが侵攻限界は感じていたようで、ここで敵の追撃を諦めるというのも大きな反対は起こらなかった。
そもそも敵、敵と言っているけど、俺達は当初ポーロヴェッツと交渉するために来たのであって、力ずくで征服してやろうとか、言うことを聞かないのなら皆殺しにしてやるとか、そんなつもりで来たわけじゃない。彼らが明確な国土や領土というものを持たないから、どこまでなら俺達が進出しても良いか話し合いたかっただけなのに……。
「フロト様がお戻りになることは事前にわかっていたことなので問題はありません。フロト様が不在の間に我々がこちらの件は片付けておきましょう」
「現在の支配地はカーン侯国の領地として正式に編入いたしましょう。我らに降ったポーロヴェッツの部族には最早反対はないそうです。逃げ出した部族とはまた後ほど関わらなければならないでしょうが、それらを追うにしろ準備が必要です」
「ふむ……。よし、地図を……」
一部俺達が測量を始めてある程度正確になっている地図と、地元民達への聞き取りなどによって描かれている不正確な地図を並べて皆で膝を突き合わせる。
「旧ポルスキーからの中継の重要拠点としてウマニを活用する。それからウマニから南下したユーリーの部族の領域にオデッソスという町を作る。オデッソスからブラック海沿いに東に進んだグザの部族の拠点にムイコライウを建設する」
地図にポンポンと石を置いていく。
「ムイコライウから北東に進んだ先、ドニプロ川が折れ曲がる地点にも町を作る。名前は……、そうだな。ドニプロペトロウシク……、とするか。ムイコライウとドニプロペトロウシクの中間地点に中継地点を作ろう。そこは……クリヴィリフだ」
ウマニからほぼ東に進んでくるとドニプロ川が曲がっている地点に辿り着く。そこをドニプロペトロウシクとして、ブラック海沿岸で近くであるムイコライウとの間にもう一つクリヴィリフという町を作ろう。
「クリメア半島の最重要拠点は半島のほぼ南に位置するヘルソネスス。そしてここ、アゾブ海のほぼ東の果てに近いこの場所にマピウポリという町を作る」
俺が今言った町が出来れば、そしてそれらを繋ぐ街道や水路・海路が出来れば流通は相当良くなるだろう。まずは足場を固めないことには、これ以上無計画に敵を追撃してもこちらが孤立してしまう。拠点、補給路の確保、後方の安全確保、それに住民の懐柔と確保が重要だ。
ムイコライウは造船の町としてボフ川やその支流を利用することでポルスキー側からの輸送に対応する。またムイコライウで建造された艦隊をヘルソネススに回し軍港とすることでブラック海沿岸を睨みつつ、北岸であるカーン侯国の防衛にあてる。
うん……。悪くない気がする。
問題としてはオデッソスより南西方向にはブルガルー帝国という国があり、ウマニの北側はルーシャ諸国がいる。そしてドニプロペトロウシクから南東のマピウポリのラインより東側はまだまだクイップチャック草原が広がり、ポーロヴェッツの残りの部族はそちらへ逃げ込んだまま関係改善の目処も立っていない。
ポーロヴェッツは十一部族と言われている。ユーリーの部族は最初から協力的だったとして、グザ、バスチー、コチャン、バチュマンとすでに五部族は降っている状態だ。残りが六部族でそれぞれの部族が同程度だとすれば戦力的にはそれほど脅威じゃないけど……。
「ここから東はどうなっている?」
「北側はこのまま草原が続きます。ブラック海の東にはカスピン海があり、ブラック海とカスピン海に挟まれた土地をカウカススといいます。カウカススには大きな山があり、南北で隔てられます」
「ふむ……」
ユーリーの話を聞きながら別の紙に適当に地図を描く。ブラック海とカスピン海の間は狭い上に山脈で塞がれていると……。コンチャーク達が逃げ込むにしては不利な場所だ。ならば残りのポーロヴェッツは北側の草原を東へ逃げたと考えるべきだろうか。
「やはりドニプロペトロウシクからマピウポリにかけての前線が限界か……。……よし。我々は戻るが、こちらに残る部隊は現在の占領地の統治を進めて街道と町の建設を急げ。残るポーロヴェッツへの対応はお前達に一任する」
「「「「「ははっ!」」」」」
「お任せください!」
王都に戻れば連絡はそう簡単にはいかなくなる。この時代の連絡網というのは非常に時間がかかるからだ。現場での判断が重要な時に、いちいち王都の俺にお伺いを立てていては臨機応変に対応出来ないだろう。
現場指揮官やこちらの統治を進める者達にそれなりの権限を与えてある程度は自由に任せる。俺がドニプロペトロウシク・マピウポリ間のラインを前線にしてそれ以上前進するなと言っても、もし敵がちょっかいをかけてくるのなら臨機応変に打って出る必要もあるだろう。
うちの部下は優秀だから、俺がいちいち余計なことを言うよりもある程度の権限を与えて任せておく方が良い。相手と交渉に出て行くかもしれないし、こっちにはユーリーやバチュマンもいるしな。ああ、そうだった。こちらについたポーロヴェッツの部族の方も色々と決めておかなければならない。
「ポーロヴェッツの部族はユーリーを長とし、その下にグザとバチュマンを置く。残りの部族はその下だ。下の者は必ず上の者に従うように。何か問題があれば最終的には長であるユーリーの部族に相談して決定しろ」
『私、ユーリーが大カーンに従ったポーロヴェッツの長を仰せつかった。その下にグザとバチュマンを置く。残りはその下だ。下の者は上の者に逆らうことは許さない。各自奮起し残るポーロヴェッツを大カーンの下に集めよ!』
『『『ははっ!』』』
ユーリーが何か言うとグザやバチュマン達が頭を下げた。たぶんこれで大丈夫だろう。カーン家の実力を見た者達はそう簡単に裏切るとは思えない。何しろ裏切ったら今度こそ皆殺しにされると思っていることだろう。
ユーリーを一番上に置いたのは最初からカーン家に協力的だったからだ。グザは単細胞っぽいけどその分わかりやすい。強い者には従うという感じだから扱いやすいだろう。そしてコチャンやバスチーの部族を差し置いてバチュマンを早くにうちに降ったグザと同列に置いたのは……、競争させるためだ。
優秀で従順ならば相応に遇する。バチュマンはその能力を俺に示した。だから重く用いる。忠誠心に関してはまだわからないけど、それは他のポーロヴェッツも全てそうだ。だからこそあえて差をつける。
もし他の部族がもっと出世したい、高待遇を受けたいと思えば、カーン家に尽くし、戦果や成果を挙げて貢献しなければならない。そしてそうすればカーン家は相応に遇する。それがわかれば皆頑張ってくれるだろう。何よりスタートラインが同じだったはずの他の部族がどんどん出世していたら、自分達も頑張らなければと努力するはずだ。
まぁ逆に完全に諦めて恨み言だけ言いながら自分達はまともに働かず、役にも立たない者達も出てくるかもしれない。でもそういう者はどうせどうやってもそうなる。ならば優秀な者に発破をかけて、お互いに出世を競わせる方が良いだろう。
「他の隊にも伝令を出す。部隊配置が終わり次第私は国へ戻るとしよう」
「次にフロト様がこられるまでに全てまとめておきます」
「うむ」
オリヴァーの言葉に大仰に頷いてから俺は天幕を出た。あとは優秀な部下達がどうにかしてくれるだろう。俺がいる間に進んだのはクイップチャック草原のブラック海北側部分の制圧だけだ。広大なクイップチャック草原を完全制圧しようと思ったらまだまだかかるだろう。
こちらにも仕事の書類は届いているけど本当に最低限のものしかきていない。ハルク海側に戻ったら相当仕事の山が出来ているだろうな……。それを思うとケーニグスベルクまで戻るのも気が進まない。




