第四百十一話「エミッヒ・フォン・ラインゲン!」
ラインゲン家現当主、エミッヒ・フォン・ラインゲン侯爵は目の前のテーブルを叩いた。
「何故私がカーザース領などへ行かねばならんのだ!」
「聞いてくださいお兄様。これはラインゲン家にとっても重要な……」
妹の言葉にイライラする。バイエン公爵派閥でも重きを置かれているラインゲン侯爵である自分が、何故敵対派閥とすら言えるカーザース辺境伯家の領地になど視察に行かなければならないのか。西の果ての田舎にいって何があるというのか。
確かに西の国境を支える重要な役割を担っていることはわかっている。必要以上に見下したり馬鹿にしたりするつもりはない。フラシア王国の侵攻を食い止めるために相応に高い戦力は保持しているだろう。しかしそれだけだ。
カーザース辺境伯家は中央政界との繋がりが薄い。また派閥にもほとんど有力貴族家がいない。そもそも本当は派閥すらないのだが、カーザース家一つでも一つの派閥と看做せるくらいの勢力はあるのでそれはどちらでも構わない。問題なのは貴族にとって重要な縦や横の繋がりがほとんどないことだ。
いくらカーザース家単独での軍事力がそれなりであろうとも、他の派閥が力を合わせればカーザース家とて太刀打ち出来ないだろう。一つの家が持てる力など知れたものであり、いかに味方を増やして敵を減らすかが戦略の重要な部分を占める。
バイエン公爵家とカーザース辺境伯家で比べてもバイエン公爵家の方が領地も広く豊かだというのに、さらにその派閥の家々まで協力すればカーザース辺境伯家など恐れるに足りない。
「お前はバイエン公爵領を訪れたことがないから知らんのだ!バイエン公爵領が一体どれほど発展しているか、お前こそバイエン公爵領を視察してこい!他の貴族に与するなど愚か者のすることだ!バイエン公爵領は王都にも引けを取らないぞ!」
幼少の頃からバイエン派閥の貴族の子息達と深い付き合いをし、あちこちの領地を見て回ったエミッヒは広い視野を持っている。下手をすればバイエン領は王都をも凌ぐのではないかとすら思っている。
妹は箱入り育ちで何もわかっていないのだ。確かにヘレーネお嬢様の勘気に触れて多少酷い目には遭ったかもしれないが、それもきっとクリスティアーネが悪いのだろう。事情が何であれ主家に尽くし、重用されることこそが仕える者の務めだ。
「そもそもお前はこの時期がどれほど大切な時期かわかっているのか!?今王都には国中の貴族が集まっている!ここで顔を売らないでいつ顔を売るというのだ!その大切な時期にカーザース領のような田舎に行って私にこの機会を無駄にせよというのか!」
再度テーブルを叩く。昔ならこれだけ言えば妹は大人しく引き下がった。しかし……。
「お兄様……、この機会しかないのです……。この機会を逃せばラインゲン侯爵家はその歴史に幕を閉じることになるでしょう。お兄様は私の結婚相手についてお考えがあるとおっしゃっておられましたね?もしカーザース領の視察に行ってくだされば、その後にお兄様のお考えが変わらないのであればお話をお伺いしましょう」
「ぬ……?」
エミッヒは考える。確かにこの機会にあちこちのパーティーや茶会に参加して顔を売り、繋がりを作ることは重要だろう。しかしそんな繋がりなど何の保障にもならない。昨日握手した相手が今日剣を持ってくるかもしれない。それが貴族社会だ。ただの顔見知りなどという程度ではいつ敵になるかもわからない。
もちろんだからと言ってそういう付き合いがまったく無駄だとは言わない。むしろほとんどの貴族達はそれこそが貴族の仕事だと思っている。誰でも最初は他人であり、顔を合わせ、挨拶を交わし、やがて親しくなっていくものだ。顔を繋げ、話をすることは決して無駄ではない。だがそれだけではまだ弱い。
貴族がもっとはっきりと協力し合うためには……、手を携えるためには……、血の繋がりが必要だ。
お互いが相手を裏切らないという保障。お互いの利益を尊重し合い、協力してさらなる利益を得ようという関係を築くには、婚姻関係を結び、相手の利益が自分の利益に返ってくるようにするのが一番手っ取り早く確実だ。
百回人に会って顔を繋ぐよりも、一回婚姻を結んだ方が手っ取り早く確実……。その確実を何故か両親は反対していた。
エミッヒはラインゲン家にとって利益になり得る色々な家との繋がりを求めている。妹を嫁に出せばそれが簡単に手に入る。それなのに両親はエミッヒが選んだ妹の結婚相手を全て反対する。クリスティアーネの結婚相手はもう決まっていると言っている。
どこの馬の骨か知らないが、どうせ腑抜けた両親が見繕った相手など大した相手ではないだろう。そんな相手に義理立てして折角の機会をふいにするのは馬鹿らしい。その相手がどこの誰であるのか。文句があるのなら自分が相手をしてやろうと問い質しても両親も妹もはっきりと答えない。
今まではずっとそうして妹をエミッヒの望み通りに嫁に出すことを妨害されてきたが……、カーザース領に視察に行くだけで嫁に出せる駒が一つ手に入るのなら安いものだ。
折角貴族が大勢王都に集まっている機会は逃すことになるが、妹を自由に嫁に出せる権利が手に入るのならそちらの方が利益が大きい。そう判断したエミッヒはニヤリと笑みを浮かべて妹、クリスティアーネに念を押した。
「私がその視察に行って……、それでも意見が変わらなければ、お前は私の言う通りに結婚するのだな?」
「はい。お兄様がご視察に出かけられた後でも私の嫁ぎ先を変えたいと思われるのでしたら……、その時はそのお話をお受けいたします」
今間違いなく妹から言質を取った。話を伺うなどという曖昧な表現ではなく、間違いなく結婚を受けると言った。いくら言質を取ったと言ってもこの場には兄妹二人っきり。所詮口約束などいくらでも覆せる。しかしこの妹はそんなことはしない。箱入りの世間知らずで頑固者、そして約束は違えない正直者だ。
「よかろう。ならばカーザース領へ行ってやろうではないか」
エミッヒはニヤリと笑い、クリスティアーネもまたホッと溜息を吐き出していたのだった。
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王都を発つとクリスティアーネに言われていた日、全ての準備を済ませたエミッヒはクリスティアーネと共に王都のカーザース邸へと訪れた。
「御機嫌ようエミッヒ・フォン・ラインゲン侯爵様。私はフローラ・シャルロッテ・フォン・カーザースと申します」
「ほう……」
クリスティアーネと親しそうに話していたカーザース家の娘はかなりの上玉だった。好色な貴族の家に嫁に出すと言えばどこも欲しがるだろう。これほどの娘がいるのならばカーザース家も相当有力な家と縁を結べるに違いない。
簡単な挨拶を済ませるとすぐにカーザース家の馬車に乗せられて移動が開始された。フローラとクリスタは事前にエミッヒをカーン・カーザース領へ連れて行くことは約束済みだった。クリスタはエミッヒをバイエン派閥から足抜けさせるために、現実というものを見せ付けて目を覚ましてもらおうと思っていた。
だからフローラに相談し、カーン・カーザース領の視察ということで連れて行き、ある程度のものを見せ付けてもらいたいと頼み込んでいたのだ。フローラもそれに応えてエミッヒをカーン領へ連れて行くことに合意した。機密や軍事関係は教えられないが、領内を案内するくらいならどうということはない。
元々国境が壁によって封鎖されているわけでもなく、他の領主やスパイが他領に入り込んで視察や偵察を行なうことは何も珍しいことではない。非合法な活動さえしなければそれを咎めたり拒否したりするものでもない。
「ふん……。変な馬車だな……。私には似合わない」
カーザース邸で乗り換えさせられた馬車は奇妙な形をしており、確かに高級であろう細工などは細かくされているが、そのあまりに奇抜な形がエミッヒには受け入れ難かった。伝統と格式を重んじるエミッヒにとっては、一般に高級とされている馬車こそが至高なのだ。しかし……。
「見てくださいお兄様。オデル川の船を追い越していますよ」
「あっ、ああ……」
エミッヒは信じられない気持ちだった。外を流れる景色はとんでもない速さだ。あっという間に辺りのものを追い越している。それなのに馬車がほとんど揺れていない。
もしラインゲン家の馬車でこれほどの速度を出して走ればあっという間に転倒していることだろう。そして仮に転倒していなくとも酷く揺れてまともに座っていられないはずだ。
それなのにこの馬車はどうだ。この速度で走っていながら転倒するどころか座っているお尻も痛くならないし、飲み物だって零さず飲める。それこどろか眠ることさえ出来ると思えるほどに揺れない。
「たっ、確かにこの馬車は優れているのかもしれん。だがそれだけだ。それならこの馬車を作っている所から当家も買えば済む話だ。カーザース家が優れているわけではない」
誰かに言い訳するかのように、エミッヒはブツブツとそんな言葉を繰り返していたのだった。
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あっという間に到着したステッティンで一泊し、翌朝すぐに船に乗ることになった。港に着いたエミッヒが見たものは……。
「こっ……、これが今の船だというのか……。こんなもの……」
ラインゲン家の領地は内陸であり小さな川船ならば見たことはあるが、海を渡る巨大船などほとんど見たことがない。一応あちこちに視察に行ったことがあるので多少の大型船も見たことはあるが、ここに並んでいる船はエミッヒが今まで見て来た船とは規模が違う。
「それでは乗船しましょう」
「ええ。さぁお兄様も」
「――っ!」
妹達は平然としているのにいつまでも自分だけ呆けているわけにもいかない。エミッヒも何でもないかのような顔をして船に乗り込んだ。乗り込んだ船は他の船に比べてまだ大きい港で最大のものだった。
「ようこそ当家の船へ、エミッヒ様。これほどの距離の航海は初めてとお聞きしております。是非ごゆっくりご堪能ください」
「なっ!?こっ、これがカーザース家所有の船だというのか?」
つい漏れてしまったエミッヒの言葉にフローラがにっこりと笑って答える。
「この船と、あちらに並ぶ船、あの辺りの船は全て当家所有の船です。今回はたまたまこの船が一番早く領地へ向かいますので、今回はこの船に乗ってまいりましょう」
「――っ!――っ!」
声にならない声が漏れる。フローラが示した船はどれもこの港に泊まっている大型船ばかりだ。他の船が小型船に見えるような、こんな馬鹿げた大型船を何隻も保有しているなど到底信じられない。
一瞬ハッタリかと思いかけて……、しかし思い直す。そんなすぐにバレるような馬鹿のような嘘をつく必要があるだろうか?普通に考えたらそんな馬鹿な話など誰も信じない。そんなことを言っても馬鹿だと思われて終わりだろう。
そもそも詳しいわけではないが多少は船も見たことがあるエミッヒが、このような大型船など見たことも聞いたこともないのだ。この大型船は一体誰が作り、どこから来たというのか。少なくとも内陸に勢力圏を構えるバイエン派閥ではこのような話は出てきていない。誰も知らないのだ。こんなものがあるということを……。
エミッヒは各地を視察して回り、多くのことを知り理解しているつもりだった。子供の頃からバイエン派閥の子弟達と交流し、たくさんの知識を得て、世情にも詳しいと思っていた。
だが本当にそうなのか?
バイエン派閥は本当に何でも知っていて把握しているのか?ならば何故この大型船の話が一切出てこない?普通ならこんなものを見た者がいればもっと大騒ぎになっているのではないか?
バイエン派閥を知ることは世界を知ることだと思っていた。バイエン派閥が世界の中心とまではいわないまでも、それに近い位置にいると思っていた。しかしそれは本当に正しいのか?エミッヒはその疑問の答えをまだ持ってはいなかった。
「うっ!おぇっ!」
「大丈夫ですか?お兄様……」
船が走り出すと……、あっという間に景色が流れていく。そして揺れる……。船に揺られることに慣れていないエミッヒは船酔いで大変な目に遭った。
「停めろ!私を降ろせ!」
「このような海のど真ん中で降りては死んでしまいます。それに小型船に乗り換えればもっと揺れが酷いそうですよ」
妹に背中を擦られながら、船の縁から海に向かってゲロゲロと胃の内容物を吐き出す。といってもとっくに出る物は出尽くして、今では嘔吐くばかりでまともな物は出てこない。そんな揺れとの戦いもあっという間に終わり……、見えてきたのは信じられないような光景だった。
「お兄様、港が見えてきましたよ。もう少しの辛抱です」
「…………ばかな」
船酔いだったことも忘れて、エミッヒはただその先の景色に呆然とする。あり得ないほどに広大な港。機能的に整備されている。そして整然と並ぶ巨大船の数々。ステッティンで見た船の数を圧倒的に上回る数の巨大船が係留されている。
陸戦においては兵の数が力だ。そして海戦においては船の数が力となる。これだけの船足を持つ巨大船が、あれだけたくさんあれば……、その海軍力は一体どれほどのものなのか……。
陸戦しかわからないエミッヒでもわかる。この港に並ぶ海軍力は一国に匹敵する。それもプロイス王国のような海軍に力を入れていない国との比較ではない。ホーラント王国のような大海軍国の海軍力と比較しても何ら引けを取らないものだろう。
これだけの海軍を揃えるのにどれほどの費用が必要になる?国家予算の何年分だ?そしてこれだけの船を建造するのにかかる時間と労力は?バイエン派閥にこれだけの船を揃えることが出来るか?
エミッヒは決して無能でも馬鹿でもない。その答えはわかり切っている。この港を作り上げ、これだけの船を揃えている相手……。それは化物だ。陸戦と海戦は違うとか、どれだけ海軍が優れていようとも陸軍がなければ占領は出来ないとか、そんな話ではない。
自由自在に沿岸部を移動し、これほどの巨大船で大量の兵員や物資を移動出来る。もし沿岸部でこのような相手と戦わなければならなくなった時、バイエン派閥など赤子の手を捻るように一方的に負けるだろう。
もちろんバイエン派閥の勢力圏は内陸奥深くだ。沿岸から奇襲されることはない。だが……、奇襲されて負けることがなくとも、海の上を自在に移動するこの相手に勝つことも出来ない。
エミッヒは自分がいかに狭い世界のことしか知らなかったのか、目の前の現実を突きつけられてようやく理解したのだった。




