第二百七十六話「母たつ」
カーンブルクに戻ってきてから数日、もう学園が休みになってから一週間以上が経過している。いや、まだ一週間と言うべきか。今までならまだ移動中か、ようやく到着した頃だっただろう。それがすでに到着して何日も仕事が出来ているんだからガレオン船様様だ。
ここの所はカーンブルクの屋敷に滞在して溜まっている書類仕事の片付けを中心にしてきた。だけどそろそろ違うことにも時間を割こうと思う。
書類仕事はどこでも出来る。確かに俺の決裁や裁可がなければ進まないものも多くある。だから俺が書類を溜めずに処理していかないと各部署も動かない。でも前述通り書類仕事はどこでも出来る。
カーンブルクでしようが、王都でしようが、ケーニグスベルクでしようが、全て結果は同じだ。どこでやっても変わらない。それに比べて視察や現場指揮はその場に行かないと出来ないことだ。折角カーン騎士爵領に帰ってきているのなら、ここでしか出来ない仕事を優先的に消化していく方が良い。
そうは言うけどやっぱり処理しなければならない書類が溜まってたから、ここ数日はずっとカーンブルクの屋敷で缶詰だったわけだ。でもその甲斐あって急いで処理しなければならない物は全て終わった。もちろん毎日増えるけど、それはその日で対応出来るものだ。山積みで溜まるということはない。
シャルロッテンブルクへの応援や必要資材の輸送……。カーン騎士団国の統治機構の設置に、人員派遣に、物資輸送……。シャルロッテンブルクは住民達の選別も始めている。すぐに良い人材が見つかるなんて都合の良いことはない。長い時間をかけて少しずつ集めていくより他にないだろう。
カーン騎士団国はすでに多くの住民がいる。今更スパイかもしれないから出て行けとか言えないだろう。こちらの統治機構の設定や、人や物の管理、情報の統制は中々難しい。これまでのような何もない所から作るのとは勝手が違う。
その代わり利点もたくさんある。最初からある程度は生活基盤も出来ているし、膨大な数の労働力がすでにある。問題は統治機構と……、防衛戦力だな……。敵との国境を接する最前線だというのに防衛戦力を置かないという選択肢はあり得ない。
とはいえ今はカーザース家臣団が駐留してくれているけど、カーン騎士団国には実質的に戦力が何もない。こちらからの持ち出しで進駐しているだけだ。
一応あてがないわけじゃない。この世界では戦争の捕虜というのはそのまま実質的に奴隷ということになる。奴隷とは呼ばれていないし、何か奴隷としての縛りがあるわけじゃない。ただ実質的には人的補償というか……、捕虜はそのまま戦勝国が連れて行って労働などに使って良いということになっている。
だからポルスキー王国戦で捕まえた捕虜達はうちの奴隷的労働力というか、ポルスキー王国の敗戦に伴う賠償の一部に含まれているというか……。
ジャンジカは結構使えると思う。捕虜にした七百人とジャンジカが俺の兵になればかなり楽になる。ゼロから兵士を鍛えるよりもある程度出来る者を吸収する方が手っ取り早い。ただ問題なのはその七百人やジャンジカが俺に従うのかどうかだ。
国は敗れ、人的補償として差し出された身だ。表向きはすぐには逆らわないだろう。でもうちの兵として取り込んで下手に他の者達と関わらせて、反乱の扇動でもされたらと思うとそう簡単に受け入れることは出来ない。
大丈夫そうな奴の選別とか、観察とか調査はさせているけど、それだって絶対に確実というわけじゃない。表面だけうまく取り繕う者もいるだろう。最終的にはどうにか、全員とは言わないまでもそれなりの人数をカーン騎士団国に取り込みたいけど、実際それが出来るまでまだ暫くかかるだろう。
海軍も、いや、うちは海軍なんて持ってないな。カーン家商船団も船の増産は順調だけど乗組員や水兵の確保が間に合っていない。ケーニグスベルク以来随分懐かれたシュテファンとその手下達は、身元確認もそれなりに済んで訓練を開始している。それでも俺が目指す海軍、じゃなくてカーン家商船団の規模には程遠い。
他の自由都市から応援に来てくれて、そのままうちに入りたいと志願している者なんかも順次調査が行なわれているけど、それでも人数は足りない。これも元ポルスキー王国の住民から人を集める必要があるだろう。
やっぱり数は力だな……。人口が足りなければ何も出来ない。でもだからと言って無闇にわけのわからない者を受け入れるのもまずい。これだけうちが有名になってくれば、当然これまで以上にスパイを送り込んでくる者が増えているだろう。
うちは秘密も多い。下手に外に出せないようなものもたくさんある。町の自警団くらいなら多少怪しい奴でも出世さえさせなければ大した問題はないだろうし、どうやっても多少は入り込まれるだろうけど……。
あ~……、やることが減らない……。考えることが多すぎる。でもまずはカーン騎士爵領をどうにかしよう。こちらは今回を逃せばまた四ヶ月は帰ってこれない。この二ヶ月の間に出来るだけ進めておくべきだ。それにここが本拠地みたいなものだからな。ここが疎かになっていては他のことも出来なくなる。
「失礼いたします。フロト様、お届け物です」
「ありがとうイザベラ……。そこに置いておいてください……」
お届け物って言ってもほとんどは他の地域から送られてくる書類だ。つまり仕事……。そんな物を持ってこられてもうれしいわけがない。書類仕事だったら急ぎやそれほどでもない物を分類したりしてくれている。俺が全部確認してから優先順位をつける必要はないからそれは助かっているけど……。
「そういえばイザベラはこちらに戻ってから休みがありませんでしたね。折角故郷に帰っているのだから里帰りでもしてきますか?」
俺の周りの者は皆優秀だからついつい頼ってしまう。イザベラなんてただのベテランメイドどころじゃなく頼りになりすぎる。かなり無理を強いているだろうし、たまには休みもあげなければ……。
「年寄りはさっさと出て行けということでしょうか……」
イザベラが、よよよ、と泣き真似をする。まぁ実際にはまったく泣いていないけど……。まさかそんなことを言われるとは思っていなかったので驚いた。
「そんなことはありませんよ。イザベラにいなくなられては困ります。やめたい、出て行きたいと言っても止めるでしょう。ですが働き詰めはよくありません。イザベラを頼りにしているからこそ体調管理もきちんとして、休める時は休んで欲しいのです。それに私が見捨てられないために福利厚生もしっかりしておかないとね?」
「主人がこれほど働き詰めだというのに皆が休めるわけないではありませんか」
なるほど……。それはそうだ。上司が働いているのに部下が休むなんて仕事をサボってるみたいで休み難いよな。でも俺は手を止めるわけにはいかない。移動の数日でも書類があれほど山積みになる。毎日処理していかないと簡単に許容量を超えてしまうだろう。
「う~ん……。あっ!それではこうしましょう!そろそろ私は視察にも出ます。視察なんて銘打っても遊びのようなものです。私が視察に出ている間は家人達も、役人達も、皆交代で休ませてあげてください。これならいいでしょう?」
まぁ視察は視察で仕事だけどこうでも言わないと皆休まないだろう。他の地域の者達にまで俺の休みに合わせて休めなんて徹底出来ないけど、カーン騎士爵領にいる間はこちらの者達にそうさせるくらいは出来るだろう。
「その制度を作り、交代の順番を決めるだけでも相当な労力がかかるかと思われますが」
「うぐっ!」
痛い所を突かれた。そんな制度を考えて皆のシフトを組むだけでも相当な労力だ。そんな労力をかけるくらいならその分働いた方が良いというイザベラの言葉もわからなくはない。
でもこの制度は今の一過性のものにするつもりはない。これから皆にも定期的に休みを取ってもらおうと思っている。そのための制度の雛型と実証実験だと思えばいい。それならこれも無駄にはならない。
「これからうちで働く者には定期的に休みを与えたいと思っています。その制度の雛型と実証実験なので良いのです。これがうまくいけば他の領地にも広めます」
まぁ思いつきと言えば思いつきなんだけど、前々から休みは必要だろうと思っていた。今でも休もうと思えば休みは取れるけど定期的に決まった休みというのは確保出来ていなかった。今それに着手したのは思いつきでも、そういう制度を作る必要があると思っていたのは本当だ。
「かしこまりました。それではそちらの指示も出しておきます」
「はい。お願いしますね」
カーン家や領地の法や制度を考える部署にイザベラが連絡してくれるだろう。そちらから俺に内容を確認しにきたり、具体的な立案に着手してくれるはずだ。この休みの間に実施出来るかどうかはともかくそのうち動き出すだろう。
あれ?そういえば元々は働きすぎなイザベラに休みをあげようと思ったはずなのに、結局イザベラに仕事を任せただけだったな。まぁいいか……。本人も休めと言っても休まないタイプだし……。制度が出来たら嫌でも休むだろう。
それより予定では明日から視察に行くことになっている。それまでにイザベラが持って来た新しい仕事の処理でも進めておこう。そう思って確認してみれば……、届いた物の中に手紙が含まれていた。他の書類よりも一番上に置いてある。それを取ってみる。
「父上から……?」
手紙の差出人は父だった。もしかしたら急ぎの用である可能性も……、まぁあまりないか。急ぎなら手紙じゃなくて伝令で来るだろう。普通の手紙で送ってきているということはそれほど急ぎでもない可能性が高い。
とはいえあの父が大した用もないのにわざわざこんなことをするとは思えない。伝令を使うほど緊急でもないけどそれなりに重要な用、という所だろうか。
俺が考えていてもわからないのだから中身を見れば良い。早速封を切って目を通す。
「…………これは」
さっと手紙に目を通した俺は立ち上がった。それと同時に執務室の扉が開かれる。入って来たのは母だ。
「フローラちゃん、お母様はお父様の所へ行ってくるわ」
「あぁ……、お母様にも同じ手紙が届いたのですか?」
手紙を持った母が執務室に飛び込んできた。どうやら同じような内容のものを俺と母に送っていたようだ。こちらの手紙にも母を寄越して欲しいと書かれていた。
「旧ポルスキー王国、カーン騎士団国の国境警備についてですね?」
「そうよぉ。フローラちゃんにも来たのね?」
俺が母に尋ねると母も手紙をヒラヒラさせながらそう言った。念のためにお互いの手紙を交換して内容を確認する。それぞれ俺と母に向けた言葉は違うことが書いてあるけど、母を寄越して欲しいという要請については同じことが書いてあった。
どうやら北方、ウィンダウ周辺がきな臭いらしい。ウィンダウは現時点でのカーン騎士団国の最北端に位置する。海を挟んだ逆側の半島やその間にある島、また湾になっているリーガー辺りはこの前の講和条約によってモスコーフ公国が支配することになった。
今まではプロイス王国とモスコーフ公国はそれほどはっきり国境を接していなかった。飛び地として残されていた自由都市はモスコーフ公国に囲まれたりしていたけど、広い範囲でお互いの国境が接するということはなかったわけだ。間にポルスキー王国があったからな。
でも前回の講和条約で三国がそれぞれポルスキー王国の領土を分割したために、プロイス王国とモスコーフ公国の国境が接することになった。まだ前回の条約が結ばれてから間もなく、お互いに条約で確定された国境や勢力圏を認め合うということなっている。
そのはずだけど少々北方地域でモスコーフ公国の挑発があるようだ。まだ全面衝突には到っていないけど、罷り間違えばそういう事態にも発展しかねない。
そこで父は北方の防衛に母の派遣を要請している。そもそも領土や国境線に比べて兵が少なすぎるのが現状だ。数は急に増やせない以上は質でどうにかするしかない。父の構想では陸は母に任せ、俺にはウィンダウ近海に派遣する船団や派遣回数を増やして欲しいと書かれていた。
「折角帰って来た所だけれど、お母様はお父様の所へ行ってくるわね」
「そうですね……」
反対は出来ない。むしろ本来なら俺が頭を下げて頼まなければならない立場だ。カーン騎士団国と言いながら俺は父と母に頼りきっている。カーザース家臣団がいなければ国境警備もままならない。
「マリア・フォン・カーザース様、よろしくお願いいたします」
俺は目の前の将軍に頭を下げた。これは母と娘としてじゃない。国の代表と応援を派遣してくれている領主軍の将軍との……。
「もう!フローラちゃん!そんな堅いこといいっこなしよ。お母様とフローラちゃんの間でそんな遠慮は無用よ」
「いえ……、ですがこれは……」
「だから堅いのはなしよ!」
「ぅ……」
まだ言おうとしている俺の頭を母は抱き締めた。大きくて柔らかな胸に包まれる。トクントクンと母の鼓動が聞こえて気が落ち着いてくる。
「いい?本当ならフローラちゃんはもっと甘えてなくちゃいけない歳なのよ。それなのにこれだけ頑張ってるだけでも無理しすぎなんだから、ちょっとはお母様やお父様も頼ってちょうだい?」
言われるまでもなく頼りっぱなしだ。でも……、そんなことを言う必要はない。ただ母の望むように母に甘えて頼れば良い。俺は両親に頼らざるを得ず、母はそうして欲しいと望んでいる。ならば俺が言うべきことは遠慮や堅い言葉じゃない。
「お願いしますお母様。力を貸してください」
「はい。お願いされました」
とても綺麗な笑顔で、母はそう言って頷いてくれた。




