第二百七十二話「ヘルムートの家!」
あり得ないほど豪華な屋敷に恐る恐る入る。
「おかえりなさいませフロト様。ようこそいらっしゃいましたラインゲン様」
「――ッ!」
ズラリと並ぶ家人やメイド達に圧倒される。その質は非常に高く、バイエン公爵家の家人達をも遥かに凌駕している。王都のバイエン家のパーティーで居た者達とはまた別だ。それがこれほどたくさんいる。
腕の良い家人はそれだけ給金も高い。そもそもそんな者を見つけて連れて来るだけでも難しい。それが一体何人これほどの者達を雇っているというのか。公爵家や王家よりも質も人数も圧倒していると言わざるを得ない。
「ラインゲン様はお疲れです。少し休める所にご案内して差し上げて」
「かしこまりました。ラインゲン様、お部屋へご案内いたします。こちらへ」
「あっ、ああ……」
カールとマリアンネは部屋へと案内されていく。その途中の廊下に飾られている物に目が止まる。
「少し良いかな?」
「はい」
案内役を呼び止めて廊下に飾られている花瓶を指差す。
「これは随分良い物のようだが……」
「そちらは我が領の特産の一つであるヘクセン白磁の花瓶でございます」
やはり……、と思う。美しく艶のある白い磁器。そしてそこには鮮やかな色彩の絵が描かれている。この花瓶一つで王都に家が買えるだろう。貴族に売りつければいくら出してでも買いたいという者がたくさんいるはずだ。そんな花瓶が普通に置かれている。
特別展示するために置かれているわけではない。廊下に花を挿して普通に置かれているのだ。しかもそれが一つではない。廊下のあちこちに置かれている。
「これもそうかな?」
カールは慎重に大きな花瓶か壷のようなものを指差す。その大きさはとても大きく小柄な大人ほどの大きさがある。またその磁器はただの器ではなく花や人形が模られていた。まるで本物の花が花瓶に巻きつき、そこに天使達が腰掛けて休んでいるかのようだ。
「そちらはヘクセン白磁の窯元より当家の主に贈られた品でございます」
「綺麗ね……」
マリアンネはうっとりした表情でそれを見詰める。しかし……、カールは別の感想を抱いた。確かに綺麗だ。見たこともない立派な品だろう。しかし……、そんな物をこんな場所に置いていて良いのか?と思わざるを得ない。これほどの物を売りに出せば一体いくらの値がつくことか……。いや、値などつけられないのではないかとすら思える。
「そうか……。ありがとう。足を止めて悪かったな」
「いえ、とんでもございません。他に何かありましたら遠慮なくお申し付けください」
再び歩き出したメイドについていく。飾られている絵画、磁器、そのどれもがカール達の目を楽しませてくれる。そのような物は見飽きたと思っていたカールですら度肝を抜かれるような一品ばかりだ。そしてこれが本邸ではなく別邸だというのだから驚きだろう。別邸でこれならば本邸は一体どれほどなのか。
案内された部屋でソファに腰掛ける。ソファもまた柔らかくフカフカだ。それでいて体に負担がかからないように出来ている。座り心地が良くこのままここで眠ってしまいたくなる。
「まぁ!なんて大きな姿見かしら……」
「あまりあちこちを触って壊さないようにな……」
妻があちこちを見ているのをヒヤヒヤしながら眺める。万が一にも壊してしまったらどうしようかと気が気ではない。大きな一枚物の姿見。客室にも飾られている絵画や陶磁器、水差しやガラスのコップですら気安く使うのが憚られるような出来の一品ばかりだ。万が一にも割ってしまったら今のカールでは、いや、ラインゲン侯爵家では到底弁償出来ない。
「お父様、お加減はいかがですか?」
「ああ、もう大分良くなった」
暫くしてからクリスタが部屋へ訪ねて来た。部屋があまりに豪華すぎて落ち着かない。しかし二日酔いや船酔いなので特に何もしなくとも時間が経てば自然と治ってくる。
「あら?お水も飲まれていないのですか?さぁ、どうぞ」
「あっ、ああ……」
クリスタは躊躇うことなくヒョイッとガラスのコップを取り、水を注いでカールに渡した。そんな気安く使って良いものかと思いながらも渡されたので口をつける。
「おや……?これは……」
「爽やかで飲みやすいでしょう?少し柑橘の果汁が入っているそうですよ」
渡された水はほんのりと柑橘類の爽やかさがあった。今のカールにはとても飲みやすい。
「それではこのお屋敷のご案内をいたします」
「「え?」」
クリスタの言葉にカール達は声を揃えて首を傾げた。
「このお屋敷には色々と慣れないといけないことがあるんですよ。私はもう慣れておりますのでお父様とお母様をご案内して説明いたします」
得意そうに胸を反らせてそう言うクリスタに連れ出され、カールとマリアンネはこの屋敷をうろつくことになったのだった。
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クリスタに部屋から連れ出され……、カールとマリアンネはぐったりしていた。歩くのが疲れたのではない。驚きすぎて疲れたのだ。
蛇口というものを捻ると出てくる水。水洗トイレと呼ばれる便所。広い風呂になみなみと張られたお湯。他にもたくさん……。
確かにクリスタの言う通りだった。この屋敷で生活しようと思ったら様々な知識を得て慣れていなければならない。もしクリスタに案内されずに過ごしていたら大変な粗相をしてしまうところだった。
「もう驚くのにも疲れた……」
「そうですね……」
カールとマリアンネはお互いに顔を見合わせる。しかしクリスタは許してはくれずもっと驚くことを言い放った。
「この領で生活するには慣れておかなければなりませんよ。宿でも、それどころか民家でも似たような生活をしていますから。知って慣れておかなければ恥をかいてしまいますよ」
「…………は?」
宿や……、民家でも似たような生活をしている?意味がわからない。
「どっ、どういう意味だ?まさか……、そこらの民家にもあの水洗トイレとやらや広い風呂があるというのか?」
「広いお風呂がある家は少ないと思います。でもたまにはあるみたいですよ。あと蛇口や水洗トイレはあります。なので慣れておかないとこの領では用を足すことも出来ないです」
「…………は?」
意味がわからない。理解出来ない。民家に風呂がないのは当たり前だ。それがたまにはあるというだけでも意味がわからない。この捻るだけで水が出てくる蛇口も、レバーを引くだけで流れる水洗トイレも、こんなものがそこらの民家に標準で設置されている?意味がわからない。他に言い様がない。意味がわからないのだ。
「この蛇口や水洗トイレの仕組みは、手押しポンプで建物の上にある貯水槽に水を汲み上げて貯めておくというものだそうです。ですので家人のいる貴族の家ならば家人達が汲み上げて補充してくれますが、普通の民家では家の者が自分で汲み上げなければなりません」
仕組みを聞いているわけではないのだが……、と思いながら、それでもとんでもないものだと理解出来た。人力で自分で補充しなければならないとかそういう問題ではないのだ。この圧倒的に便利で先進的すぎる設備が、この町、いや、この領内全てに普及しているとすれば……、それが一体どれほどとんでもないことかクリスタは理解していない。
ラインゲン侯爵領に同じ設備を普及させようと思ったら、一体どれほどの時間と予算がかかることだろうか。先進的な設備を開発したということも確かに凄いがそこではないのだ。重要なのはその先進的すぎる設備を領内に徹底的に普及させていることが異常なのだ。
「もう驚くのも疲れた……」
「そうですね……」
この後カールとマリアンネは広いお風呂を堪能し、豪華な食事を振る舞われ、今まで味わったこともないフカフカのベッドで天上の寝心地を味わったのだった。
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「それでは今日はカーンブルクへ向かいましょうか」
「カーンブルク?確かカーザース領の領都はカーザーンだったと記憶しているが……?」
翌日はすっかり体調も良くなったカールはヘルムートの家へと向かうことになった。このキーンという町の観光もしてみたい気はするがそれはまた後日で良い。カールとマリアンネはまだ当分こちらでやっかいになるのだ。だから急いで観光しなくとも時間はいくらでもある。それよりもまずはヘルムートの家へ向かうのが先だろう。
「え?ええ……、そうですね。カーザース領の領都はカーザーンです。ロイス子爵家の屋敷もカーザーンにあります。ですがヘルムートの家はカーンブルクにありますので、一先ずカーンブルクへ向かおうかと思いますが……、先にロイス子爵家に向かう方が良いですか?」
「ああ、そうなのか……。いや、それならばそのカーンブルク?とやらへ向かおう。我々はあくまでヘルムート君の家を訪ねてきたのだ。まずはヘルムート君の家に行きたい」
カールがそう言ったことで行き先は決まった。フローラとしても陸路で行くのならキーンからカーンブルクへ行ってから、カーザーンなり他の南の地域へ向かう方が移動がしやすい。一度カーンブルクを通り過ぎてカーザーンに行ってから、再びカーンブルクへ戻るのは二度手間になる。
出発した馬車はゆっくりと大きな山脈を越えて、森の中を進み続けた。やがて到着したのは森の中に突然現れる整然と整備された巨大な町だった。
「こっ……、これがカーンブルク?」
「まるで森の中に浮かぶ町ね……。とても幻想的だわ」
カール達はその町に圧倒された。確かに人口や建物の多さでは他の大都市には敵わない。しかしこの町は森と融合したかのような不思議な佇まいをしている。そしてこちらもキーンに負けず活気に満ち溢れている。他の領の町の、どこか荒んだような、そんな様子は微塵も感じられない。
とても清潔で、先進的な、そして活気のある街。人々は皆笑顔で忙しなく行き交っている。
クリスタの言っていたことがわかった。確かにこの領で生活しようと思ったらこの領での常識を知らなければならない。でなければ他の領と同じようにしていては恥をかいてしまう。事前にきちんと教えてくれた良く出来た娘に感謝しなければならない。
「こちらがカーンブルクにある私の本邸です。そしてそちらがヘルムートの屋敷になります」
「………………え?」
到着したカーンブルクで見せられたのは……、キーンの宮殿よりもさらに立派な、いや、立派すぎる大宮殿に、その大宮殿の右手に位置する大豪邸だった。
正面の大宮殿がもうカールの常識では理解出来ない領域に入っているのは良い。いや、良くはないがそれはもう諦めるとしよう。しかし……、その右手側にある大豪邸、それはラインゲン侯爵家の屋敷どころではない。バイエン公爵家の屋敷よりも、もしかしたら王族の住む王宮や宮殿にも匹敵しかねない大豪邸だ。
「これが……、ヘルムート君の家……かね?」
「はい。結婚の祝いに住む場所が必要であろうとフローラ様より賜りました」
うちより立派じゃないか!と叫びそうになるのを必死で堪えた。子爵家の息子ではなかったのか?ヘルムートはどこかの公爵だったのだろうか?少なくともそれくらいの屋敷だ。
「フローラ、今日はお父様とお母様はうちにご招待するわ」
「そうですね。今日は家族水入らずでゆっくり休まれるのが良いでしょう。私はこちらの屋敷に居りますので何かあればいつでもお訪ねください」
クリスタの言葉にフローラは頷く。
「あっ、ああ……。そうですね……」
カールはもうどうしていいかわからない。フローラとの距離感をどうすれば良いというのか。謙って頭を下げた方が良いのか?年上の元侯爵として振る舞えば良いのか?少なくともこんなとんでもない相手に偉そうに振る舞えと言われても無理だ。むしろカールの方が萎縮してしまっている。
「さぁさ!お父様もお母様もこんな所で立ち止まっていないでヘルムート様と私の家を見てください!」
クリスタに手を引かれて無理やり歩き出す。もう何が何やらわからない。これは夢なのだろうか。もしかしたら自分達は船が沈没してもう死んでいるのではないか。そんなことすら考えてしまう。
「お義父様とお義母様も!もちろん今日はうちで過ごされるのですよね?」
「そうねぇ。今から家に帰るより私達もここでお世話になりましょう?ね?」
「あ~……、そうだな……」
ロイス子爵夫妻もここに泊まるらしい。夫人の方は随分とノリノリだがロイス子爵は少し疲れた顔をしていた。それはまるでカールと同じようだ。
二人はふと視線が合う。そしてお互いに分かり合った。『お互い苦労しますな』『まったくですな』……。視線だけでそんな会話を交わした二人は子供達や妻達の後に付いて目の前の大豪邸へと入って行ったのだった。




