第二百七十話「カールの冒険!」
フローラ達が船でキーンへ向かう少し前、王都のラインゲン侯爵家では慌しく準備が進められていた。
「あれは用意したかしら……」
「もしかしたら向こうで何か催しや式典に出席するかもしれん。正装は必要だろう」
「貴方はもう侯爵から退かれたではありませんか」
「あ……、そうか……」
出発の準備をしているカールとマリアンネはあーでもないこーでもないと荷物をひっくり返していた。普通ならば出かける際には使用人や家人達が全ての準備をしてくれる。これまではカールもマリアンネもほとんど家人達に任せっきりだった。
しかしラインゲン侯爵を隠居させられたカールにはもうほとんど家人がついていない。バイエン公爵派閥の事件が明るみになってから家人やメイドが激減した上に、交代した新当主である息子の補佐のために残っていた者達の多くも異動になった。結果カールやマリアンネの世話をしてくれる者が圧倒的に足りない状況になっている。
「しかし何かそれらしい服は必要だろう。かといってうちの状況で新しい服など用意出来ない。まだ隠居してからそれほど経っていないし侯爵の正装を持って行こう」
「……そうですね」
カールがまだ侯爵に未練がありそうだということはマリアンネにはわかっている。別に地位や名誉に固執しているわけではないだろう。また金銭的な理由でもない。ただカールは領地経営などが心配なのだ。まだそれほど本格的に実務に関わらせていなかった息子が突然跡を継いで果たしてうまくやっていけるのか。
それに問題は領地経営だけではない。派閥作りも周囲との縁故も出来ていない中で急に家を継いだのだ。バイエン派閥の多くの家は同じ状況だろう。親の庇護も周囲との縁故もない若造がいきなり魑魅魍魎が跋扈する宮廷に入ってうまくやっていけるだろうか。それが心配でならない。
しかも頼りのバイエン派閥の多くも同じ状況では頼るに頼れない。この機に乗じて他派閥は一気にバイエン派閥を押さえ込みに来るだろう。そのため少しでも足しになるようにと、残っている経験豊富な家人達は全て息子につけさせた。
結果カールとマリアンネは普段の生活でも困るくらいになっていたのだ。ましてや長期間の遠方への旅行となれば大仕事になってしまう。そんな時に熟練家人がいないのはとんでもなく大変なことだ。
「失礼します。ロイス子爵様がお見えです」
「わかった。いつもの部屋にお通ししてくれ」
「かしこまりました」
マリアンネと二人でわたわたと準備を進めていると、扉がノックされてロイス子爵が到着したことが告げられた。カーザース領への出発はまだ少し先だが今日は出発前の確認として訪ねて来る約束をしていたのだ。まだ纏まっていない荷物を放り出してカールとマリアンネは居間へと向かったのだった。
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もう幾度となく会っている上にすでに子供同士が婚約しているので、ロイス子爵は応接室ではなく居間に通されて話している。いつまでもお客さん扱いではなくこれからは親戚付き合いをしていかなければならない。
当初の目的は、本当にヘルムートとクリスタを婚約させても大丈夫か確認するためにヘルムートの家に行くという話だった。しかし最早カール達はヘルムートとクリスタの婚約に反対も不安もない。むしろ今のラインゲン家の状況から比べたらヘルムートの元へ嫁ぐ方がよほど良いだろう。
「いやぁ、すみません。本当ならもっと前に訪ねるべきでしたが……」
「いえいえ」
確かに何ヶ月単位で、いや、場合によっては年単位で時間がかかる遠方への旅行で、打ち合わせが出発の数日前などあり得ないと言えばあり得ない。前までのカールだったならば侯爵家であるラインゲン家を軽く見ているのかと激怒したことだろう。
しかし大まかな話し合いは既に終わっている。これは最終確認という意味でロイス子爵が訪ねてきているだけで、何ならこの最後の打ち合わせはなくとも出発自体は出来る。
「いやはや……、この歳になってまさか最前線を馬で駆けるとは思いもよりませんでしたよ」
「え?」
「ん?」
ロイス子爵の言葉にカールが首を傾げる。ロイス子爵も首を傾げる。
「ああ、つい先日まで私もポルスキー王国との戦争で最前線に駆り出されていたのですよ。このような老骨が今更最前線に立たされるなど夢にも思っておりませんでした」
「……え?」
「……ん?」
またしてもカールが首を傾げてロイス子爵も首を傾げる。どうも話がかみ合っていない。
「していたんですか?ポルスキー王国と?戦争?」
「ええ。ラインゲン侯爵家ならばもちろん御存知のことかと思いますが、一月半、二月前ほどから」
「…………」
カールは目が点になる。そんな話は一切聞いていない。隠居して裁判中の身であるカールに色々と情報に規制がかかっているのはわからなくはない。しかし何故ロイス子爵がそんな場に駆り出されるのかさっぱり意味がわからない。
ロイス子爵家はカーザース家の陪臣だ。ならば北西の守りの要であって、仮に東方のポルスキー王国と戦争があったとして何故ロイス子爵が駆り出されるのか。それがさっぱりわからない。
「実は王都の兵力が丁度空の時にポルスキー王国がケーニグスベルクを包囲してきたのです。そのため即座に対応出来る戦力としてカーザース家・カーン家にケーニグスベルク防衛の命令が下ったのです」
二人の行き違いというか、カールの情報のなさに気付いたヘルムートが会話に入って説明していく。これまでの経緯を掻い摘んで説明されたカールは目を剥く。
「これまでの間にもうポルスキー王国を降したと?」
「はい。もう講和条約も結ばれています」
「…………」
カールは絶句するしかない。カーザース・カーン連合軍というのは一体どんな化け物揃いだというのか。たった一月ほどで一国を降伏させるなど尋常ではない。ラインゲン侯爵として戦場に出たこともあるカールには戦場の厳しさはよくわかる。いくら奇襲したとしてもそう簡単にはいかないものだ。
それを成し遂げたカーザース・カーン連合軍というものが信じられない。そしてこのヘルムートとハインリヒ三世もカーザース軍として戦場に赴いていたというのだ。目の前の二人は普通の貴族のように見えるが、もしかしたら戦場では鬼神の如き働きをするのかもしれない。
カーザース家臣団とは一体どんな化け物揃いだというのか。そしてだからこそ長年の宿敵であるフラシア王国との国境も守れるのだろう。そんな所へ旅行に行って果たして無事に済むのかとブルリと震える。
「そういうわけでポルスキー王国戦で遅くなってしまいました。申し訳ありません」
「いっ、いやいや、そういう事情なら仕方ありますまい」
頭を下げるロイス子爵の頭を上げさせる。初っ端から圧倒されたカールはその後の打ち合わせでは小さくなっていたのだった。
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いよいよカーザース領へと向かうことになった一行はステッティンへと到着していた。ここまで乗ってきた馬車の乗り心地の良さにカールは驚いたものだ。マリアンネは馬車に揺られて気持ち悪くなったようだが、それは揺れが酷くてというよりは速度が速すぎてついていけなかったのだろうと思う。
普段カールが乗っている高級な馬車など比べ物にならないほど豪華な装飾が施された見慣れぬ馬車は、あり得ないほどの速度で走ってもほとんど揺れていなかった。あれほど乗り心地の良い馬車など乗ったこともない。
その馬車であっという間に到着したステッティンの町を眺めてカールは感嘆する。オース公国近くの内陸部に領地を持つラインゲン家はこれほど立派な港町とは縁がない。初めて見る大きな船や立派な港を見学しながらステッティン観光を堪能した。
そしてステッティンで一泊した翌日……、カールは信じられない物を見ることになった。
昨日見た港に並んでいた船でも大きくて立派なものだと思ったものだ。川を進む小型船くらいしか見たことがないカールには港に並ぶ船でも驚いた。それなのに……、今日見せられた、これから自分達が乗るという船の巨大さは何としたことか。これではまるで動く要塞ではないかとすら思える。
「フッ、フローラ殿……、まっ、まさかこれがカーザース家の船か?」
「この船はカーザース家ではなく私個人の所有です。シュバルツ、こちらはカール・フォン・ラインゲン様、ラインゲン侯爵家の前当主とそのご夫人のマリアンネ様です」
フローラへの問いかけに返ってきた言葉は……、意味がわからなかった。
カーザース家の所有ではなくフローラ個人の所有である。意味はわかる。わかるはずだ。しかしこのあり得ないほどの巨大船がフローラの個人所有?意味がわからない。意味がわかるはずなのに意味がわからない。頭が混乱しているカールは思考が纏まらなかった。
「はじめましてラインゲン様。私はあの船の船長のシュバルツと申します」
「あっ……、ああ、よろしく……」
船長を紹介されるが頭が働かなくなっているカールはおざなりな対応をしてしまった。しかし冷静に考えてこれほどの巨大船を操る船長だ。普通ならばそんな雑な扱いをして良い相手ではないだろう。万が一にも不興を買えばこの巨大船とそれに乗る乗組員全員が敵になるかもしれない。
普段の冷静なカールならばそんな失態はしなかっただろう。しかしあまりの衝撃にカールはそこまで頭が回っていなかったのだった。
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海に出てからも驚きでしかない。これほど巨大な船でありながら何と船足の速いことか。川で見る小船よりもよほど速く揺れも少なく快適だ。昨日は馬車に酔っていたマリアンネも今は大丈夫そうだった。
「貴方……」
「どうした?気分が悪くなったのか?」
マリアンネが不安そうに話かけてきたので妻を気遣いつつ予想を聞いてみる。昨日も酔っていたから今日も酔ったのかもしれない。そう思うのは自然な発想だろう。しかしマリアンネが発した言葉にカールは考えさせられることになった。
「いえ、気分は大丈夫です。それよりも……、気分は悪くなってしまいましたが昨日の馬車が凄い物だということはわかります。そしてこの船です。カーザース辺境伯家というのは……、私達が想像しているよりもとんでもないところなのではないでしょうか?」
「う~む……」
カールもマリアンネも辺境伯家と言えば領地の大きな伯爵家くらいにしか思っていなかった。実際これまで会ったことがある辺境伯家は、そう思われても仕方がないような家ばかりだったのだ。しかしカーザース辺境伯家はどうだ?
まだ付き合いが出来てからそれほど経ってはいない。お互いのことをそれほど良く知らないだろう。しかしすでにカールとマリアンネは何度、どれほど、驚かさせられたことだろうか。
配下の子爵家があれほどの仕立ての服を着れるほどの給金を与え、さらにその若い息子にまでそこらの下っ端貴族より遥かに高給を与えている。それだけでも驚くべきことだがそれだけではない。
ステッティンまで走った馬車は性能も装飾も普通ではなかった。王族が乗ってもおかしくないほどの豪華な馬車が何台と連なって走る様は、これまで長く宮仕えしていたカールをしても驚きでしかなかった。しかもその馬車の構造がまた独特で構造にも驚いたが乗ってみてさらに驚いた。あれほど揺れを感じない馬車など聞いたこともない。
そしてこの船旅だ。今乗っているガレオン船というこの巨大船……。こんなものを持っているだけでももちろん驚きでしかない。ラインゲン家が海や船に不慣れだから驚いているというわけではないのだ。ステッティンの労働者や水夫達でもこのガレオン船は立派で巨大だと言っていた。海の仕事をしている者達でもそう思っているのだ。
しかもこれが娘のフローラの個人所有ということは、もしかしたらカーザース家はこの規模の船を何隻も所有しているのかもしれない。これ一隻で一体いくらするのか想像もつかないというのに、それが何隻もあるとすれば一体どれほどの財力があるというのか。
さらに……、これからデル王国の港に行くというのだ。デル王国と言えばプロイス王国にとっては北方の脅威として認識されている。魔族の国をはじめとしたカーマール同盟とは過去に何度も戦争をしたことがある。そんな国に気安く出向くというのが信じられない。
プロイス王国の正式な使者でもそう簡単にはデル王国の本土には行けない。交渉や使節が向かう場所は決められており、実質デル王国の首都であるコベンハブンにいきなり行くなど外交使節でも難しいのだ。それを何となくで今から行きますというのが信じられない。
これまで数々の信じられないことが実際に現実として起こった。もしかしたらカーザース家は自分達が考えているような、田舎の領地が大きいだけの伯爵家ではないのかもしれない。その認識を改めないと大変なことになるかもしれない。そう考えたカールとマリアンネは決してカーザース家を侮るまいと心に誓ったのだった。




