第二十一話「バレた!」
農場の北の森からのっそりと姿を現したのは紛うことなきモンスターだった。基本的な体は大型の熊とそう変わらない。だけど致命的に違う部分が多数ある。
まずは熊では絶対にありえない凶悪な顔だ。地球の熊も襲われたら危険な猛獣ではあるけど映像で顔だけを見れば可愛い顔をしているようにも見える。だけど目の前に現れたこいつはそんな可愛さの欠片もない。大きく裂けた口からはダラダラと涎を垂らし狂ったような目でこちらを見ている。
何より地球の熊と違うのは頭から角のようなものが生えている点だ。角というのか何かの枝のようなものが不規則に何本も頭の上に突き出している。手にも長い爪のようなものが生えていて一見すると熊のようだけど明らかに異質だと一目でわかる。
こいつのことは知っている。家の書斎にあった本に載っていたモンスターや家庭教師達に習ったモンスターの中にこいつと同じ特徴のモンスターが居た。こいつは『狂い角熊』というモンスターだ。
狂い角熊はカーザース辺境伯領の北の森において生態系の頂点の一角である強力なモンスターだと聞いている。滅多に出ないらしいけど北の森で最も厄介な相手とさえ言われているんだっけ……。
その力は大人十人がかりでも敵わないほど強く、それでいてかなりの敏捷性を持ち合わせている。人間の脚力じゃ逃げ切るのは難しく木や障害物に登ったり隠れたりしても同じように木に登ったり障害物をどかせたりする知能もあってエンカウントすれば逃げられないとすら言われていたはずだ。
さらに問題なのがこの狂い角熊の名前の通りこのモンスターは一度ターゲットと決めた相手は必ず殺すまで狂ったように執拗に狙い続けるという性質を持っている。痛みを感じることもないのかどれほど攻撃しようとも怯むことなくターゲットをいつまでも追い続ける狂った熊に狙われるなんてたまったもんじゃない。
ただこいつは滅多にお目にかかれないモンスターだったはずだ。こんな人の気配が多い場所にそう簡単に出てくるなんて聞いたことがない。
「フっ、フロト……」
農場で畑を耕していたルイーザが俺の腕をそっと掴んでくる。その顔は不安で泣き出しそうになっていた。だけどここで泣き声を上げたり急に走って逃げようとしたりしたら駄目だ。下手に刺激すると狂い角熊も余計興奮してこちらをターゲットにしかねない。今は刺激せずにそ~っとこの場を離れて巡回に向こうへ行った兵士達を呼んでこなければ……。
「ルイーザ……、ルイーザは子供達を連れてゆっくりこの場から離れるんだ。声も出さずに慌てず走らず静かに、いいね?」
「……え?フロトは?」
俺の腕をギュッと握りながら背中を丸めたルイーザが下から不安そうな顔で覗きこんでくる。俺は出来るだけ明るく笑いながら答える。
「俺はあのモンスターの監視だ。誰かが殿で見張ってないといけないだろ?」
ルイーザは教育を受ける機会がなかっただけで決して馬鹿じゃない。ここで下手に騒ぐのは悪手だと理解しているし俺の言っていることもわかっているだろう。何か言いたそうに口を開きかけたけどグッと堪えてゆっくり頷いた。
「……わかった。アタシたちが居たらフロトの邪魔になるんだね?アタシたちは大人を、さっき向こうへ行った兵士達を呼んでくる。それでいいんだね?」
やっぱり、さすがはルイーザだ。俺の望んだことをしっかり理解してくれている。
「あぁ、頼むよ。それまではあのモンスターを俺が見張っているから」
「うん……。フロト……、無理しないでね……」
それだけ言うとルイーザはそ~っと俺から離れて子供達の方へと向かう。子供達はまだ狂い角熊に気付いていない子が多くそれほど騒ぎになっていない。一部気付いていそうな子もいるけどこのままならそっと脱出出来そうだ。
子供達はルイーザに任せて俺は北の森の方を睨む。森の切れ目、こちらの農場になっている草原側とを隔てるように小川が流れているけど水量も深さもほとんどない本当に小さな川だ。土手も堀代わりになるほど高くない。あの小川を利用して地の利を取るというのは無理だろう。そもそも狂い角熊なら一瞬で小川を越えて土手を登ってしまうはずだ。
狂い角熊も森の切れ間からこちらの様子を窺っているだけで今の所森から出てくる様子はない。こちらから下手に刺激しなければこのまま森に帰る可能性もある。そんな期待が一瞬よぎった。
「うわぁ~~ん!モンスターがいるよぉ~~~っ!!!」
「――ッ!」
突然の悲鳴が聞こえて後ろを振り返る。ルイーザに誘導されて集まってこの場から離れようとしていた子供達の中で一人女の子が泣き出した。泣き出した子は五歳のリタという女の子だ。ルイーザと一緒によく遊んでいる子でこの中ではかなり小さい方に含まれる。小さな女の子があんな怪物に気付いたら泣き出してもやむを得ないかもしれない。
リタの声に反応して子供達は一斉に森を見た。そしてそこにいる巨大なモンスターに気付いて口々に騒ぎ出して逃げ出し始めた。俺も慌てて森に視線を戻す。
「グアァァァァァーーーーーッ!」
「まずいっ!」
子供達の声と急に走り出した反応を見た狂い角熊は興奮して雄叫びをあげながら森から飛び出してきていた。子供達の足で町に戻るまでよりも明らかに狂い角熊の速度の方が速い。
「いかせるか!」
「グァッ!グァッ!」
子供達の方へ向かって駆け出していた狂い角熊の前に俺が飛び出すと俺の前で立ち止まった熊は立ち上がって俺を威嚇していた。いきなり襲い掛かってこないだけまだマシなんだろうか?
チラリと後ろを見てみればルイーザが必死に子供達をまとめて町へと向かっていた。狂い角熊は俺を敵と定めたのか子供達の方へはいかずに俺と向かい合ったままだ。このままなら子供達は逃げられるかもしれない。
「さぁこい!」
「グアアァァッ!」
剣を抜いて構える俺に長い爪の角熊の手が迫ってくる。父の剣でさえ受け止められない俺が大人十人分よりも力が強いと言われている角熊の力をまともに受けられるはずはない。正面から受けずに剣を滑らせるように角熊の爪を受けて流す。ギャリギャリと嫌な音を立てて俺の剣の腹を滑った角熊の手は地面に突き刺さった。
いける!
まともに受けなければ受け流すことは出来る。日頃の訓練と同じ要領で角熊の一撃も流せると確認出来た。これなら時間を稼ぐくらいは出来るはずだ。
角熊が手を振り俺が剣で受け流す。ただひたすら無心になって剣で受け流していないと恐怖で気が変になりそうだ。角熊の方も俺に攻撃が当たらず次第にイライラしてきているのがはっきりわかる。
ただし所詮獣は獣だ。怒りに任せて大振りの力任せの一撃ばかりになって俺としてはかわすのが楽になったくらいに感じる。これならまだまだ粘れそうだ。そんな油断が俺の中にあったんだろう……。
「フローラ!無事か?!」
「え……?ルートヴィヒ殿下?」
一年振りくらいになるだろうか……。南西のカーザース辺境伯家の屋敷の方から護衛数名を連れた美形の男の子がこちらに走ってきているのが目に映った。こんなモンスターが跋扈している世界だ。こんな世界を王族がホイホイと出歩けない。それなのに僅か一年振りほどで再び俺の前にルートヴィヒ第三王子が現れた。
いくら許婚のもとへであろうともこんな世界じゃホイホイ出かけてなんていけない。普通ならもう結婚するか俺が王都の学園に行くまで会えなくとも不思議じゃないはずの相手がそこにいる。それに護衛を数名連れてきてくれた。普通の兵士と違って王族の護衛ともなれば相当腕が立つんじゃないだろうか。これならもしかして角熊も追い払えるんじゃ……。
「あっ……」
「グオオォッ!」
「フローラ!」
一瞬気が逸れた俺は棒立ちになっていた。角熊の手が振り上げられて薙ぎ払われる。ひどくゆっくりに見えるその手に何の反応も出来ない。これはいつもの訓練とは違う。訓練なら父やエーリヒやドミニクは俺が死なないように手加減してくれている。だけど角熊は俺を本気で殺そうとしている相手だ。一撃でも食らえば子供なんてボロ雑巾のようになるだろう。
いつもの訓練ならまだ反応出来るくらいの時間がある。それなのに本当の死が目の前に迫ってきた時俺は身が竦んで動けなかった。ただ呆然と剣を構えたまま角熊の爪が俺に振り払われるのを眺めていることしか出来ない。
「ぐっ!あぁっ!!!」
構えていた剣に角熊の爪が正面から当たり一瞬フワリと浮遊感を覚える。一瞬でボキンと折れた剣を越えて迫った爪が俺の腕を捉えた。メキメキと骨が軋む嫌な音がやけにはっきり聞こえる。空中で急激に加速させられた俺は俺から見て左方向に吹っ飛ばされていった。
「ガハッ!ゲホッ!あ゛あ゛ぁ゛……」
受身も取れずに地面に叩きつけられた俺は一瞬呼吸が止まる。無理やり空気を吸い込み呼吸を再開するとミシミシと右腕を中心に背骨からも首からも上半身中から痛みがやってきた。痛みでまともに立ち上がれない。視界も定まらず目に涙が浮かんで周囲がよく見えない。何より周囲を気にしている余裕なんてなくてただただ痛みにのた打ち回る。
「フローラ!お前達!フローラを守れ!」
「え……?」
「それは……」
痛みでのた打ち回っている俺に向かって大きな気配が近づいてきていた。姿を確認する余裕もないけど何か凄い圧迫感が迫ってきているのは何となくわかる。寝転がっていたら殺されるだけだと恐怖と痛みに震える足を無理やり動かして転がって距離を取る。
剣をへし折られてそのまま右腕側に薙ぎ払いを受けたんだろう。右腕を中心に肩、背中、背骨、首と痛みで動かすのも辛い。だけど幸いというべきかいつもの訓練のお陰か一撃を食らいそうになった時に無意識に自分で逆側に飛んで角熊の一撃を軽減していたようだ。
角熊は完全に俺をターゲットにしているようで他の者には一切目もくれない。ルートヴィヒが護衛の騎士達に命令しているけど護衛達は積極的に動こうとはしていなかった。それはそうだろう。護衛達が守るべき対象はルートヴィヒ第三王子であって俺じゃない。俺を守ろうとしてルートヴィヒに何かあれば大問題どころの騒ぎではないだろう。
「フローラお嬢様!」
そんな護衛達の間からドミニクが抜けて駆け寄ってきた。どうやらドミニクは屋敷の方へ応援を呼びに行ってくれていたようだ。角熊に気付いたのなら俺を守るためにここに残るのがドミニクの仕事だろう。だけど一人で角熊と戦っても俺を守れないと判断したドミニクはすぐさま応援を呼びに行ったのだと思われる。
その判断が正しかったのか間違っていたのかはわからない。ドミニクが一人でここにやってきても二人とも殺されて終わりだったかもしれない。だから応援を連れてきてくれた今の方がマシである可能性はある。少なくとも俺はドミニクを責めるつもりはない。
ルートヴィヒが何故ここにいるのかは知らないけどルートヴィヒの護衛の他にもまだ後からカーザース辺境伯家の応援が来るはずだ。確かに俺は大怪我を負ったかもしれないけど助かる見込みで言えば今の方が高いように思える。ドミニクの判断は正しかったんじゃないかと俺は思う。
ただ……、ルートヴィヒは俺の方に駆けつけようとしてくれているけど護衛達はあまりこちらに近づいてこない。そんなに離れていてはルートヴィヒの護衛すらままならないだろう。まさかとは思うけど角熊に恐れをなして守るべきルートヴィヒすら守れず足が竦んでいるんじゃないだろうな……。
「ルー……ヴィ……殿…下、来ては……いけま……せん」
まだ肺がうまく働かないのか大きな声が出せない。背中をしこたま打ちつけた時に呼吸が止まっている時のようにうまく呼吸が出来ない。無理やりなんとか我慢して吸い込んでいるけど体がビクビクと変な反射を繰り返している。
「馬鹿を言うな!許婚を、フローラを置いてなどいけるか!この怪物め!僕が相手だ!」
ドミニクと並んで俺の前に立ったルートヴィヒは震えながら剣を構える。このままじゃまずい。この一年でどれだけ腕が上がったかは知らないけどボンボンの王子の手に負える相手じゃない。そもそも足が震えている。体が竦んでいる時は普段通りの実力など出せない。それは今さっき俺自身で体感したことだ。
後ろを振り返ると護衛達は遠巻きに見ているだけでルートヴィヒを守る意思すらないように思える。こんな護衛じゃいざ戦いになっても役に立たないだろう。ここで第三王子を死なせでもしたらカーザース辺境伯家にまで迷惑がかかる。何よりまだ逃げ切れていないルイーザ達もいる。ここで俺達がやられたら大きな被害が出てしまうだろう。
「グルオオォォーーーーッ!!!」
立ち上がった角熊は両手を広げて威嚇するかのようなポーズを取ったあと左の腕を振り払ってきた。槍を構えるドミニクと剣を構えるルートヴィヒは角熊の咆哮で竦んだのか棒立ちになっている。これじゃ俺の時の二の舞だ。
「……火……よ……。焼き尽くせっ!!!」
剣も折られまともに立ち上がれない俺は上半身を起こした姿勢のまま咄嗟に魔法を使った。もう他に俺に出来ることはない。体も動かせないし武器もない俺じゃ魔法で牽制するくらいしか出来ないだろう。詠唱は必要ないから『火よ』と言う必要すらないけどポツリとその言葉が漏れた。
ゴゥッ!!!
と角熊が立っていた場所に巨大な火柱が上がる。一瞬で立ち昇った火が消えるとそこには地面がガラス状に融けたような跡だけが残っていた。他には何一つ残っていない。
朦朧として頭を上げていられない俺が下を向くと兜がずり落ちて兜の中に巻いて入れて隠していた髪が零れ落ちた。
「フローラ!今のはフローラがやったのか?……おい?フローラ?大丈夫か?」
「大……丈夫……です。ルートヴィヒ……殿下」
呆然としたままこちらを振り返ったルートヴィヒは俺に駆け寄って支えてくれた。座ったような姿勢だけど上半身も起こしていられない俺は支えてもらわないとひっくり返りそうだ。
「フロ……ト?……フロトは女の子だったの?……それに殿下って?フローラって?……もしかして!カーザース家のフローラ様?フロトが?どうして?どういうことよ!アタシたちを騙していたの?」
「あっ……、ルイーザ?」
ルートヴィヒに上半身を支えてもらっていると後ろからここ九ヶ月以上も毎日聞いていた女の子の声が聞こえた。だけどいつも聞いていた少し甘えたような声とは違って怒りに震えているような声だった。そちらを振り返ると目に涙を一杯に溜めて頬を膨らませて怒っているルイーザの顔があった。
「それはそうよね……。冷静に考えたらちょっとはおかしいと思うべきだったよね!こんな綺麗な顔の男の子がいるわけないもんね!そうやってアタシたちを馬鹿にして面白かった?!下級貴族の振りをして貧民を見て楽しかった?!馬鹿にしないでよ!もうあんたの顔なんて見たくもない!」
それだけ捲くし立てるとルイーザは町の方へと駆け出していた。俺には止めることも出来ない。あぁ……、やっぱり……。本当のことがバレちゃ駄目だと思っていた通りだった。それはそうだよな……。友達だと思っていた相手がそんな重大な嘘をついていたなんてわかったら怒るのも無理はない。これでもう俺の友達作りも終わりか……。
薄れゆく意識の中で俺の頬を一滴の涙がこぼれ落ちていたのだった。




