第百九十五話「勘違い!」
ヘルムートとクリスティアーネの結婚のことについて相談に行ってからまだ一週間ほどしか経っていない。それなのに今日カーンブルクへと出向いてヘルムート達の新居を見に行くことになっている。
ハインリヒ三世は一緒に空き家を回ってヘルムート達の引越し先を選ぶための視察だと思っていた。しかしフローラの使いの言葉ではどうやらすでに決まっている家を見せられるだけらしい。
たった一週間程度で家が用意出来るはずがない。つまり今回見せられるヘルムート達の新居というのは新しく開拓したカーンブルクという町、いや、恐らく村、の入植者達が諦めて捨てていった馬小屋程度のものだろうと推測が立つ。そんな家に侯爵家のご令嬢であるクリスティアーネを住まわせるわけにはいかない。
幸い妻クレメンティーネの同行はあっさり認められた。妻もヘルムート達の新居の酷さを目の当たりにすれば当分の間はクリスティアーネをロイス邸に住まわせて同居することを許してくれるだろう。ハインリヒ三世はそう考えて迎えの馬車を待っていた。
今日のカーンブルクへの視察はカーン騎士爵家の馬車で向かうことになっている。なのでロイス子爵家まで迎えがくる手筈だ。
「あれがお迎えかしら?」
「む?」
見たこともない紋章をつけた高級な馬車がロイス邸の前で停車する。高級馬車の程度はカーザース家の馬車に匹敵するか、場合によっては超えているのではないかとすら思えるものだった。見たこともない紋章を堂々とつけていることからこれがカーン騎士爵家の家紋であり、カーン騎士爵家の馬車なのだろう。
ハインリヒ三世はこの馬車を見て若干の反発を覚えた。このような馬車は騎士爵程度に用意出来るようなものではない。つまりカーザース辺境伯家におねだりして買ってもらったものだろう。
身の丈に見合うように振る舞うことは悪いことではない。王や大貴族のような者がみすぼらしい格好をしているわけにはいかない。そういった立場の者が相応の格好をするのは贅沢ではなく義務ですらある。国や領地の顔でもある上の立場の者がみすぼらしい格好をするのはそれだけその国や領地を貶めることにも繋がるからだ。
しかしだからといって身の丈に合わない贅沢をしても良いという意味ではない。辺境伯ならば辺境伯なりの、子爵ならば子爵なりの、そして騎士爵ならば騎士爵なりの装いというものがある。カーザース辺境伯家の娘としては相応に振る舞ってもらわなければならないが騎士爵家のために分不相応な馬車を両親にねだるなど言語道断だ。
「御機嫌よう……。こちらは?」
二台の馬車のうちの一台からフローラが降りてくる。その傍にはカタリーナが控えていた。もう一台の馬車からは今日の主役であるヘルムートとクリスティアーネが降りてきていた。フローラはハインリヒ三世の隣に立つ人物に視線を向けて尋ねる。夫人が同行すると聞いているので予想は出来ているが礼儀としてお互いに名乗りあう。
「おはようございます。こちらは私の妻のクレメンティーネです」
「御機嫌ようフローラ様。クレメンティーネ・フォン・ロイスです。本日はよろしくお願いいたしますね」
お互いに挨拶も終わり二台に分乗してカーンブルクへと向かう。ハインリヒ三世とクレメンティーネはヘルムート達と同じ馬車に乗り込んだ。
「まぁ……。この馬車は揺れないわ」
「そう……だな……」
ロイス夫妻は乗り込んだ馬車の乗り心地に驚きを隠せない。座席はふわふわで座り心地が良く、馬車そのものも振動していないのかと思うほどに揺れない。もちろんフローラの感覚からすればこれでもとんでもなく揺れている乗り心地の悪いものだ。しかし従来の馬車にしか乗ったことがない者からすればこれはほとんど揺れていないと言えるほどに快適だった。
カーザーンの北門を出ると農場を越えてすぐに森が見えてくる。少し前まではただ森しかなかっただけの場所に立派な街道が出来ていた。ほんの数年で整備したとは思えないほどに良く出来た街道であり路面はカーザーンの街道とは比べ物にならないほどに均一に均されている。
確かにこれほどのものを作り上げるなど大したものだ。しかしその予算が一体どこから出ているというのか。そのことを考えるとハインリヒ三世は怒りを禁じえない。
騎士爵家が独自にこんな街道の整備費用を出せるはずがない。つまりこの街道はカーザース辺境伯領の領民達の血税で出来ている。こんな森の中の小さな村を開拓するために必要以上に立派なこんな街道を敷く。そのためにカーザース領の領民達の血税が無駄に使われたのだと思うとやるせない。
何十年何百年とかけて徐々に村が出来、人口が増え町となり、最初はただの畦道が必要に応じて次第に立派になっていくのなら良い。しかし用もないのに見栄だけのために見合わない街道を短時間で莫大な予算を投じて敷くなど愚の骨頂だ。それもその予算が両親におねだりして出してもらった他領の予算だというのならなおさら……。
「お義父様、お義母様!もうすぐ町が見えてきますよ!」
ハインリヒ三世がそんなことを考えているとクリスティアーネが声を弾ませて窓の外を指差した。そこでロイス夫妻が目にしたものは……。
「おっ……、おおっ!馬鹿な……!」
「まぁまぁ!とても素敵な町ねぇ……」
森を抜けた先に広がっていたのは広大な領域に広がる立派な町だった。確かに歴史の重みはない。戦火に巻き込まれたこともないために都市防衛という意味では未熟も未熟だろう。しかしそこに現れた町は先進的で最先端の物で溢れている。またこんな森の奥の小さな町とは思えないほどに人と活気に溢れていた。
ここの所カーザーン周辺が景気が良く活気に満ちているのはカーン騎士爵領開発でカーザース家が公費をつぎ込んでいるからだと思っていた。しかしそうではない。この町の活気はどうだ。こちらの活気のお陰でカーザーンにも活気が齎されているのだと少し見ただけでもすぐにわかる。長年堅実に領地経営をしてきたロイス子爵の目は節穴ではない。
「これが……、カーン領……、カーンブルク……」
呟くようにそう言葉を漏らしたハインリヒ三世は誰よりも馬車の窓に張り付いて外の景色を眺めていた。何もかもが信じられない。たった数年で何もなかったこの森にこれほどの町を作り上げるなどカーザース家が総力を上げても不可能だろう。それなのにカーザース家の総力どころかロイス子爵家をはじめとした家臣達のどこにも何の負担も要請されていない。
あり得ない。信じられない。そう呟きながらハインリヒ三世は目的地に到着するまで馬車の窓に張り付いていたのだった。
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町の一番北側までやってきた一行は馬車から降りる。そこに建っているのはカーザーンにあるカーザース邸を超えるかと思うほど巨大で立派な屋敷だった。造りが立派で高級なだけではなく外から見ても変わった最新設備の数々が取り付けられていることがわかる。
「これがフローラ様のお屋敷ですか……?」
呆然とその建物を見詰めるハインリヒ三世はやっとの思いでそう問いかけた。しかし返ってきた答えは予想外のものだった。
「あっ、こちらでは私のことはフロト・フォン・カーン騎士爵でお願いしますね。これはヘルムートのための新居です。私の屋敷はあちらですよ」
にっこり微笑みながらそう指差した方向、北側にある建物は最早貴族の屋敷と呼んで良いものではない。それはもう王族の邸宅だ。
ロイス子爵も長年貴族として様々なことを行なってきた経験がある。当然王都に行き王城に登城したことだってある。王城はあくまで城であり戦の時の最後の砦でもあるし、外交などで訪ねて来た外国の王族や大使や外交官を威圧する場でもある。威厳に満ち荘厳でありながら国力を示すために豪華で立派に出来ている。
それに比べて王族が住むための『家』にあたるものはそこまで威圧感を放つ必要はない。王城内にある後宮は城と同じ造りではあるが外にある邸宅や別荘はただの豪華な屋敷だ。このカーン騎士爵邸というのはその王族の邸宅と同等かそれ以上にしか見えない。何度かしかそういったものを見たことがないハインリヒ三世にはどちらが優れるか判断がつかないほどにはどちらも立派だった。
「まぁ!それではフロト様、領主様のお屋敷の目の前の右側にヘルムートの屋敷を与えてくださるということですか?」
フロトの言葉にクレメンティーネは感激したかのような声をあげた。その意味をようやく悟ってハインリヒ三世も目を剥いてフロトを見る。
「はい。そういうことです」
フロトはあっさりそれを肯定した。その意味を理解してハインリヒ三世は驚き、クレメンティーネはまるで少女のようにきゃーきゃーと素直に喜んでいた。
日本には左上右下という言葉がある。別の言い方をすれば左上位とも言う。ヨーロッパなどでは右上位であり中国は王朝によって左上位、右上位が入れ替わることが多々あった。日本に左上位の概念が入ってきた時は飛鳥時代で当時の中国の王朝は皇帝が北に南を向いて座り、日の昇る東側、つまり皇帝から向かって左が日の出の方角となり尊いということだったという。
以来日本では左上位が連綿と受け継がれ、前述通り中国では王朝によって右や左が入れ替わり、ヨーロッパでは右上位が主流だった。やがてヨーロッパが世界中を植民地にしヨーロッパ式を全て世界標準としたために現代では国際的には右上位がマナーとなっている。日本では国内的には左上位、国際マナー的には右上位の両方が使われている。
プロイス王国では右上位であり、町の北の端から南に向かって建っている領主、フロトの屋敷の右側、西側に建っている屋敷を今回ヘルムートに下賜するという。主家の目の前の右に建つ屋敷を与えられるということは一の家臣であるということを意味する。これだけの領地を持ち、これだけの屋敷を気軽に与える領主の一の家臣であると内外に示すということに他ならない。
「外から見ているだけではわからないでしょう。中もご覧ください」
フロトに連れられて屋敷の中へと入ってまずエントランスホールで驚く。非常に広いエントランスホールに非常に細かい凝った装飾が施されていた。
「綺麗!ねぇフロト、あれは何?」
「あれはシャンデリアというものです」
エントランスホールの上に吊るされている巨大な燭台のようなものがキラキラと輝いていた。透明なガラスを多用し光が拡散して輝くように作られているその『シャンデリア』というものはいつまで見ていても飽きないと思えるほどに素晴らしいものだった。まるで宙に浮かぶ巨大な宝石のようだ。
「素敵ねぇ……。うちにも欲しいわぁ……」
クレメンティーネがうっとりそう言うのを聞いてハインリヒ三世はとんでもないと身震いした。あのような物は一体いくらかかるか想像もつかない。ロイス子爵家で買えるようなものではないことだけは間違いなかった。
その後で回っていった部屋はどれもすでに住めるだけの準備が完璧に終わっていた。内装はもちろん家具も食器も全てが揃っている。あとは食材と家人達さえ連れてくれば今日からでも住めると思えるほどだ。
「あら?このお皿はもしかして……」
「ヘクセン白磁です」
「ヘッ、ヘクセン白磁!?クレメンティーネ!置いておきなさい!」
それを聞いてハインリヒ三世はお皿を触るクレメンティーネの手を無理やり離させた。もしヘクセン白磁を割ってしまったりしたら大変な弁償をしなければならない。ロイス子爵家で払おうと思ったら何年も分割で許してもらわなければならないような代物だ。
「もしかしてここにある食器は全てヘクセン白磁ですか?」
「はい。ヘルムートとクリスタの新婚生活のために贈らせていただきます」
「あっ……」
あり得ない……。ハインリヒ三世はそう言う言葉すら途切れて言えなかった。蛇口というのを捻ると水が出てくる。用を足してレバーというものを捻ると綺麗に流れる。お風呂があり水も簡単に溜められてお湯も簡単に沸かせる。細かい装飾の施された壁面に絵まで描かれている。こんなものは王宮でしか見たことがない。
手押しポンプ、上下水、お風呂、水洗便所、何もかも聞いたことがないものばかりだ。その上この屋敷も超高級な家具も、ヘクセン白磁や透明なガラスコップのような食器も、あちこちにある巨大な鏡も、シャンデリアのような装飾品も何もかも全てつけてヘルムートにくれるという。もうハインリヒ三世の頭はパンク寸前だった。
「カーン騎士爵家はこれほどヘルムートによくしてくださっているのにお給金は四十万ポーロなのかしら?」
ふと疑問に思ったクレメンティーネはポロリとそう漏らした。年収一千二百万円でも決して安くはない。安くはないがこれだけの家をポンと出すカーン家にしては不自然なほどに低いことは間違いない。
「あぁ……、そうでしたね。検討した結果来月からはカーン家から二十五万ポーロ、商会から二十五万ポーロに昇給することにします」
「お待ちくださいフロト様。前から申し上げているはずです。四百八十万ポーロでも十分なのに年六百万ポーロもいただくわけにはまいりません」
「…………年?」
半分呆けているハインリヒ三世も聞き逃さなかった。年六百万ポーロということは月五十万ポーロということであり、今フロトが言ったことから察するに月四十万ポーロだったのを月五十万ポーロに昇給するということらしい。
「ロイス卿にも言われたではありませんか。ヘルムートほどの人材で、それもクリスタと結婚して生活しなければならないのです。本来であればこの程度ではまったく足りないくらいですよ。そうですよね?ロイス卿?」
フロトに話を振られてハインリヒ三世はビクリと肩を震わせて正気に戻った。自分はとんでもない勘違いをしていた。月と年では十二倍、一桁額が違うことになる。
「あわわ……」
どうして良いかわからなくなったハインリヒ三世はただあうあうするだけで答えられない。それを見たクレメンティーネが口を開いた。
「よかったじゃないのヘルムート。主君が貴方をそれだけ評価して昇給してくださると言われているのよ。断る方が失礼だわ」
「……わかりました」
母にそう言われてヘルムートも渋々了承する。これで話はまとまった。
「それにしても本当に素敵なお家ねぇ……。私も住みたいわぁ」
「そうですね!家督を譲られた際にはお義父様とお義母様もここで一緒に暮らしましょう?」
「いいわねぇ。クリスタと一緒にここで暮らしたいわ」
こんな家に住んでいたら気を使いすぎて寿命が縮まるわ!と思ったが口には出せないハインリヒ三世なのだった。